禿城山城の戦い
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文禄の役初期に行われた龍仁の戦いで勤王軍5万が壊滅した後、同戦に参戦した諸将のうち唯一大きな損害を受けなかった権慄は、梨峙の戦いで勝利したのち、1592年末頃に兵馬節度使宣居怡、召募使辺以中、助防将趙儆、義兵将任熙鎭・辺士貞、僧兵将処英らと兵1万を率いて北上した[1]。
1592年4月13日に朝鮮へ侵攻した日本軍は、当初、陸路と海路を併用して漢城を攻略することを目標としていた。すなわち、一軍は慶尚道から忠清道を経て漢陽へ進撃し、他の一軍は慶尚道から湖南地方を経て忠清道に進出し、海路によって軍需物資の補給を受けつつ漢陽へ向かう計画であった[2]。
しかし、日本軍の湖南進出は井邑津の戦い、梨峙の戦い、晋州城攻防戦などでたびたび阻止され、さらに海上では李舜臣率いる朝鮮水軍に連敗を喫したため、湖南および海路を経由して漢陽へ進出する当初の戦略は大きく頓挫した[2]。
とりわけ、兵力・軍糧・兵站基地として機能した湖南地方を朝鮮側が保持したことは、文禄の役初期の戦局を逆転させる決定的要因となった[2]。
権慄は龍仁の戦いの轍を踏むことを避けるため、拙速に野戦を挑まず、水原の禿城山城へ入って京畿道地域の主導権確保を図った[1]。
当時、漢陽には日本軍約6万が駐屯しており、漢陽駐屯軍総司令官であり第八軍を率いる宇喜多秀家は、戦況が不利となる中で朝鮮軍の北上を許せば、漢陽の後方連絡線および補給路の維持が困難になると判断した[3]。そこで兵2万を選抜し、水原から烏山・館川・龍仁方面へ通じる諸路を遮断して攻撃を開始した[4]。
戦闘経過
宇喜多秀家は当初禿城山城への強攻を試みたが、容易に突破できなかったため、方針を改めて城を包囲し、権慄を圧迫した[5]。
しかし朝鮮軍は少数の騎兵を遊撃隊として編成・運用し、随時夜襲を敢行して日本軍を攪乱した。さらに日本軍は城内へ通じる水路を遮断して禿城山城を孤立させようとしたが、朝鮮軍は堰を守る日本軍を夜襲してこれを撃退し、断水作戦を阻止した[6]。
その後、全羅道都事崔鉄堅が義兵を募って権慄救援に向かっているとの報が伝わると、日本軍は戦意を失い、包囲開始から5日で撤退した。これに対し権慄は騎兵による追撃隊を編成し、退却する日本軍に損害を与えた[3]。
この勝利により京畿道の一部が奪還され、さらに明の援軍到着と各地での義兵蜂起の中、1593年を迎えることとなった。