説出世部
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初期の歴史
説出世部は一説部や鶏胤部と起源を同じくすると『舎利弗問経』(Śāriputraparipṛcchā)および『異部宗輪論』(Samayabhedoparacanacakra)で主張されている[3]。初期の大衆部はマガダ国周辺で栄えたが、説出世部は北西部で栄えたことで知られる[3]。
ブッダの般涅槃から200年後に大衆部の多くの部派がラージャグリハの北へ移動し、大乗仏教の教説が形の上で三蔵に統合されるべきか否かを巡って分裂したと6世紀インドの僧侶真諦が書き記している[4]。この説明に基づけば、大衆部が三派に分裂したのはこういった大乗経典の権威を受け入れるうえでの相対的な態度・程度によるものということになる[5]。真諦によれば、説出世部は大乗経典を仏説として受け入れたという[6]。
著作
説出世部の思想は、現存する数少ない大衆部のサンスクリット文献『マハーヴァストゥ』から知られる。『マハーヴァストゥ』はブッダの伝記であり、本文中に説出世部によって書かれたことが記されている。また、本書は説出世部版の律の拡充した部分だったようである。『マハーヴァストゥ』のサンスクリット文はネパールの大乗仏教徒の図書館の中に保存されている[7]。
大乗経典の『無量寿経』は1世紀-2世紀のクシャーナ朝の時代にガンダーラに栄えた化地部の比丘たちによって編纂されたと信じている学者もいる[8][9]。しかし、『無量寿経』が編纂されるうえで多くを説出世部に負っている可能性も高く、この経典には説出世部の『マハーヴァストゥ』と共通する要素が多い[8]。この経典の最初期の翻訳には、プラークリットの一つで北西部で使われたガンダーリー語から翻訳された痕跡が残る[10]。
