金国石

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生誕 1968年/1969年(56歳 - 57歳)
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
国籍 (2000年亡命)大韓民国の旗 大韓民国
職業 軍人(朝鮮人民軍 大尉
秘密警察(国家安全保衛部
キム・グクソク

金 国石
生誕 1968年/1969年(56歳 - 57歳)
朝鮮民主主義人民共和国の旗 朝鮮民主主義人民共和国
国籍 (2000年亡命)大韓民国の旗 大韓民国
職業 軍人(朝鮮人民軍 大尉
秘密警察(国家安全保衛部
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金 国石(キム・グクソク、朝鮮語:김국석、1968/69 - )は、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の元軍人(朝鮮人民軍偵察総局[1]2000年大韓民国(韓国)に亡命した脱北者である[1][2] 。「金国石」は仮名[1][2]2003年から2004年にかけて、日本メディアに対し、4人の北朝鮮における日本人拉致被害者について証言した[1][2]

1960年代後半生まれ。金国石(仮名)は、北朝鮮の軍人であれば知らない人がいないという、「英雄」称号を授与された将軍の子息として生まれた[1]1990年7月、朝鮮人民軍の偵察指揮官を育成する全寮制馬東熙大学平壌市寺洞区域)に入学し、1992年8月に卒業した[1]。卒業後、人民軍偵察局・地方偵察局の軍官として江原道に配属された[1]。後に将校として国家安全保衛部(現、国家保衛省)に転属した[1][3]

2000年東南アジアを経由して大韓民国に亡命した[1][2]

目撃証言

1978年8月12日鹿児島県日置郡吹上町(現、日置市)で起こったアベック失踪事件は、のちに北朝鮮の工作機関が市川修一増元るみ子を拉致した事件であることが判明した[4]

金国石は、馬東熙大学の学生時代に、日本語の教官として市川修一にひじょうによく似た人物を10回以上目撃していると証言した[1][4]。マスメディアに対しては、「(拉致被害者の市川修一に)間違いない」と述べている[2]。金国石によれば、おそらく彼は非常勤の学校教員で、馬東熙大学では日本語の日常会話や簡単な挨拶、文字(平仮名片仮名)、風習や地理、日本語の方言(関東弁と関西弁の違い)にいたるまで教えていた[1]。他の学校でも教えているようだった[1]朝鮮語がたどたどしく、発音もわるく、また、軍服ではなく民間人の服装をしていたので、彼が日本人であることは周知の事実であった[1]朝鮮労働党調査部職員らと一緒に小型バスや乗用車で通勤していた[1]。印象としてはたいへんおとなしく、スポーツを好むようにはみえず、何か悩んでいるふうにも見えた[1]。感情を表に出すことが少なく、何を考えているのかつかみづらかった[1]。また、授業終わりに学生たちが敬礼すると、丁寧に腰を曲げてお辞儀をするところが、いかにも日本人という気がしたという[1]。なぜ、日本人がここにいるのか、金国石は不思議に思ったが、招請することもあるだろうと考え、市川修一に限っては北朝鮮の社会主義に憧れを抱いて日本からやってきた可能性もあると思っていた[1]。2004年1月20日、金国石は鹿児島県で市川修一の家族と会ったが、修一の姉が教官によく似ていると感じたという[2]

増元るみ子を目撃したのは1991年秋の大学の運動会のことで、学級長だった金国石は教官のところにコーラを持って行ったとき、市川修一らしき教官が立ち上がって何度もお礼を言い、隣にいた夫人とみられる女性もゆっくりとした口調で「ありがとう」と言っていた[1][2]。この女性が増元るみ子と思われる[1][4]。白っぽい体操着を着ており、眼鏡は掛けていなかった[1]帽子も被っていなかったが、ヘアスタイルは日本で撮影した写真とほぼ同じだったという[1]

1968年12月1日北海道稚内市より失踪した斉藤裕によく似た教官を、学生時代に馬東熈大学で何度か目撃している[1][5]。ただし、その教官は4年制の方の日本語教官で、直接は教わっていないし、話をしたこともない[1]。この教官も、周囲からは日本人といわれていた[1]。身長は169センチメートルから172センチメートル程度で、がっちりとしており、インテリのようには見えなかった[1]。軍服をつねに着用していたことが印象的だったとのことである[1][注釈 1]

彼は、1977年10月に鳥取県米子市で失踪した松本京子についても目撃証言をしている[3]。それによれば、1994年から1997年の間、北朝鮮領内で日本海沿岸の清津連絡所咸鏡北道清津市)で「キョウコ」なる女性を4度目撃し、彼女の写真にとてもよく似ているという[1][2]。目撃した彼女は明朗な性格のように見え、よく笑いながら話していた[1]。彼女は、日本語を教えたり、日本からの資料を翻訳したり、日本のラジオテレビを傍聴したりして暮らしているようであった[1]。清津連絡所の中庭に日本から運ばれた中古車数十台があり、彼女がそのなかの日産・ブルーバードの座席に座って自動車についていろいろと説明していたことがあり、そのとき本人と会話も交わしている[1]。彼女はこのとき、トランクのなかにあったゲーム機のようなものを取り出して、清津連絡所の参謀長に「これを貰ってよいですか?」と聞いていた[1]。彼女は連絡所外に出ることはあまりなかったように見えたが、赤い服を着ていて、髪型もおしゃれで洗練されていたという[1]

拉致問題に関する所見

金国石は、2004年のインタビューのなかで、拉致問題に関しては、金正日委員長が北朝鮮の最高指導者であり、即効的にすべてを解決できる立場にあるとはいうものの、この問題への北朝鮮の対応に対する軍部の不満の大きいことは軽視できないとしている [7]。ことに、2002年9月17日日朝首脳会談で金正日が小泉純一郎首相に対面して、拉致問題や工作を認め、遺憾を表明して謝罪したことについて恥ずべきことだと軍部は考えており、それ以降の日本国内での反北朝鮮世論の高まりや日本国民の北朝鮮を見る眼が険しくなっていることは大問題で、彼らは北朝鮮が大変な失敗を犯したと感じている[7][注釈 2]。対外的なダメージが大きく、とりわけ朝鮮総連は壊滅的な被害を蒙ったと軍部は考えている[7]

なぜ、北朝鮮が拉致被害者のうち5人だけを帰したのかについては、日本の首相の政治的立場を考慮して日本政府が強力に求めている人たちだけの帰国で十分だと計算したはずであり、10人の安否不明者に対して再調査すると約束したのは日本側当事者を勇気づけたかもしれないが、「死亡した」と発表した人たちを国外に出すことは、北朝鮮としてはできかねるので、それ以外の第三者を帰すという話がでてくる可能性が高い[7]。具体的には、金正日政治軍事大学は対外工作員を育成する学校なので、大学で数年間日本語を教えていれば、多数の人に顔を知られ、学校のすべての流れや状況も把握できる[7]。日本から膨大な経済支援や金銭の見返りを得ることができたとしても、彼らを帰国させることは、それに劣らない大きな損失だと考えている可能性が高い[7]。拉致を担当した部署や機関、工作員らをこれまで称揚し、表彰してきたのに、今になって責任者を追及したり、処罰することは難しい[7]。時間が経過して「日本に戻しても大丈夫」との判断がつくまでの間は難しいのではないかとしている[7]

脚注

参考文献

関連項目

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