徳永陽一郎
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1935年〈昭和10年〉1月14日生まれ[1][3]。長崎市で染料店の店員として働いていた[1]。職種は配達員であった[3]。1953年(昭和28年)10月7日、長崎市の自宅を出たのち失踪[3]。失踪当時18歳[1][3]。別の新しい勤務先の話があり、履歴書を書いている途中で突如いなくなった[1]。その履歴書に貼るための写真を店に受け取りに行こうとしていたが、その前に失踪した[3]。10月17日に北九州市門司区から姉あてに送られてきた手紙は書留郵便で、家族から借りていた現金1500円を返し、「いい仕事があった」「歩いてでも帰ってきます」と書かれていたが、それ以来消息がない[1][3]。
彼については、脱北者権革による1998年から99年にかけての目撃証言がある[3][4][5]。目撃情報は、権革が強制収容所の幹部をしていたときのもので、彼が強制収容所に入れられたのは、彼が酒に酔って「資本主義が良い」「自分は拉致されてきた」「日本に亡命する」と語ったのを、その場にいた友人に密告されたためであった[3][5]。書類には「1954年か1955年に朝鮮に来た日本人」と記されていた[3]。彼は、日本語をよく話していた[3]。身長は、172センチメートル、ないし180センチメートルぐらいあったかもしれない[3]。がっしりとした体格であった[3]。また、入所時の身体検査の時、右の肩に刃物などのようなもので付いた傷があったことを覚えているという[3][5]。それについては、日本側資料にも、右肩に子供の頃鎌で切った傷跡が残るとあり、目撃証言との一致をみている[1][4][注釈 1]。