隆尭
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| 隆尭 | |
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応安2年1月25日 - 宝徳元年12月12日 (1369年3月4日 - 1450年1月24日〈ユリウス暦〉) | |
| 号 | 〔房号〕浄厳房 |
| 生地 | 近江国栗太郡河辺(現在の滋賀県栗東市川辺) |
| 没地 | 近江国栗太郡金勝山(現在の滋賀県栗東市荒張) |
| 宗旨 | 天台宗、浄土宗 |
| 寺院 | 金勝山浄厳房、金勝山阿弥陀寺 |
| 師 | 定玄 |
隆尭(りゅうぎょう、応安2年1月25日(1369年3月4日) - 宝徳元年12月12日(1450年1月24日))は、室町時代の仏教僧。はじめ比叡山で天台教を学び、のち浄土教に帰依した。江州(現在の滋賀県)の拠点を中心に、広く一般の人々に念仏の教えを説き、近江浄土宗の発展に貢献した。房号は浄厳房。浄土宗一条流。金勝山阿弥陀寺の開山。
佐々木義成[注釈 1]の長男として、応安2年(1369年)近江国栗太郡河辺(現在の滋賀県栗東市川辺)[注釈 2]に生まれた[3][4][1]。
幼い時より京都の伯父より経書を学び、元服して隆頼と称したが[4][1]、永和3年(1377年)春に比叡山に登って出家し、天台教を学び法印大和尚の位まで進んだ後、名利を求め人と交わることを嫌って比叡山を出て、修行のため寺院霊場を巡った[5][6][1]。
応永11年(1404年)6月、石山寺に参籠して33か月目に、念仏中の白昼夢に高僧が現れ所願満足を約束され、目が覚めると謎の児僧より向阿上人が著した7巻からなる「三部仮名鈔」を渡された[1][4]。隆尭は、仮名書きで平易に書かれたこの書物に感銘を受け浄土教に帰依し、かつて向阿上人の居た浄華院に入門して、定玄僧正に師事した[1][7]。その後、同年冬に金勝山の峰の奥、金勝寺に浄厳坊という草庵を結んで、日に8万4千念仏を唱えて修行していたが、その教えを聞き供養したいという人々の希望が多く、女人禁制の山では女性が来られないので、応永20年(1413年)頃、金勝山の麓に近い東坂に草庵を造ることに決め、霊泉の湧き出た場所[注釈 3]を庵の場所と定め、天照仏[注釈 4]を本尊にして念仏道場を開いた[10][3]。
東坂に移ってからは、多くの浄土教系典籍を書写・編纂し、応永26年(1419年)6月には、向阿上人を記念して「三部仮名抄」を印刷出版し[11][12][注釈 5]、その後、黒谷上人法然の法語を集めた「黒谷上人御法語」や、法然はじめ諸師の念仏に関する法語を集めた「念仏安心大要抜書」(応永30年(1423年))、称名念仏が優れていることを説く「称名念仏奇特現証集」2巻(上巻:応永27年(1420年)、下巻:永享3年(1431年))、「十王讃嘆修善抄」2巻(永享5年(1433年))、「大原問答起御書」などを編集・集録し、金勝寺浄厳坊と東坂の草庵を拠点に一般の人々に念仏の教えを説いて、湖南を中心に浄土宗を広めた[14][8][15][13]。
宝徳元年12月12日(1450年1月24日)、金勝寺の草庵で入滅。享年81(満80歳)。遺骸を荼毘して遺骨を金勝山中腹の開山塔に収める[8]。
隆尭の後は、隆阿が跡を継ぎ、3代目の宋真になって、文明17年(1485年)に東坂の草庵を拡張して阿弥陀寺とした。阿弥陀寺は、その後天正6年(1578年)に織田信長の命で僧侶および寺宝を安土城下に創建した浄厳院に移動するまでは、近江浄土教の中心として栄えた。阿弥陀寺に代わって近江および伊賀の浄土宗寺院の本寺となった浄厳院であるが、浄厳房阿弥陀寺を元として、隆尭の遺徳を継ぐという意味で、隆尭を開山としていた[16][17]。