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雅楽の楽所・楽人・楽家

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雅楽の楽所・楽人・楽家(ががくのがくしょ・がくにん・がっけ)では、日本の雅楽において、楽舞の管理・奏楽・伝習を担った機関、演奏者、世襲的家系について述べる。楽所(がくしょ、がくそ)は雅楽を奏し、また伝習する機関または場所、楽人(がくにん)は雅楽の演奏・伝習を担った人、楽家(がっけ)は楽人が世襲的に技芸を伝えた家系をいう[1]

伊勢神宮内宮での舞楽。

雅楽は、古代の雅楽寮、平安時代の内裏楽所、中世・近世の三方楽所江戸幕府に関わった紅葉山楽人、近代の雅楽局・宮内省雅楽課・宮内省式部職雅楽部、現代の宮内庁式部職楽部へと、制度と担い手を変化させながら継承された[2][3]。楽所・楽人・楽家は、それぞれ組織、演奏者、家系を指す概念であるが、雅楽史上は相互に結びついて楽舞の継承を支えた[1]

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楽所・楽人・楽家の概念
用語主な意味雅楽史上の役割
楽所雅楽を奏し、伝習する機関・場所宮廷儀礼・寺社儀礼・幕府儀礼などにおける奏楽拠点
楽人雅楽を演奏・伝習する人楽器・舞・歌を担当し、儀礼や楽会に参仕した演奏者
楽家楽人が技芸を世襲的に伝えた家系特定の楽器・舞・故実・譜を家ごとに継承した伝承家系
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概要

古代律令制下では、宮廷の音楽・舞を所管する官司として雅楽寮が設けられ、外来楽舞や国風歌舞が官司のもとで伝習された[4]

平安時代になると、雅楽は仏教儀礼や国家儀礼だけでなく、宮廷儀式、節会、行幸、御遊、貴族の教養と結びついた。雅楽寮の機能は次第に変化し、内裏楽所や衛府官人が宮廷儀礼における奏楽を担うようになった。楽人は特定の楽器や舞を担当し、その技芸を家系によって継承するようになり、やがて楽家と呼ばれる世襲的伝承家系が形成された[1][5]

中世には、宮廷社会の変容や戦乱によって京都の雅楽は衰退を経験したが、南都や天王寺の楽人集団、楽書、楽譜によって伝承は維持された。近世には、大内・南都・天王寺の三方楽所が朝廷儀式の奏楽を担う体制が整えられた[2][6]

江戸時代には、三方楽所の楽人が江戸幕府関係の法要・祭礼にも関わり、江戸に召し出された楽人は紅葉山楽人と称された。明治維新後、旧来の楽所・楽人・楽家は、近代国家の宮中儀礼制度の中で再編され、雅楽局、宮内省雅楽課、宮内省式部職雅楽部を経て、現代の宮内庁式部職楽部へとつながった[7][8][3]

語義

楽所

楽所は、雅楽を奏する場所、または雅楽の奏楽・伝習を担う機関をいう。狭義には、平安時代に内裏に置かれた楽所を指し、雅楽寮の機能を継承しながら、宮廷儀礼における実際の奏楽を担った機関として位置づけられる。『国史大辞典』は、楽所を令外官の一つで、令制の雅楽寮にかわって宮中の楽事を管掌したものと説明している[9]。また『日本大百科全書』は、楽所を宮廷の儀礼音楽をつかさどる機関とし、「がくそ」とも読むと説明している[10]

楽所の初期のあり方について、『世界大百科事典』は、名称が『正倉院文書』の天平宝字8年(764年)の文書などに見えるものの、当初は法会の際の楽人の詰所を指す語であったらしいと説明している[11]。その後、延喜4年(904年)を初見とする醍醐朝の楽所では、雅楽寮楽人と区別して楽所楽人が見えるため、すでに常設化していたことが知られるとされる[11]。ただし、醍醐天皇没後には一度廃されたらしく、村上天皇の天暦2年(948年)に再置され、内裏の桂芳坊が場所にあてられた[11][10]

楽所には、楽人を統轄する職員として別当、預などが置かれた。『国史大辞典』は、長官である楽所別当には雅楽に堪能な公卿が任ぜられ、さらに蔵人による六位別当や預も置かれていたと説明している[9]。『世界大百科事典』も、別当には蔵人頭が任命される四位別当と、五位・六位の蔵人が任ぜられる五位または六位別当があったと説明している[11]。また、楽所の人事は『楽所補任』に記録され、天永元年(1110年)から弘長2年(1262年)までの任免が知られる[9][11]

楽所は、単なる演奏場所ではなく、宮廷儀礼、節会、行幸、御遊などに必要な楽人が詰め、奏楽や舞楽の準備・伝習を行う拠点でもあった[5]。広義には、大内、南都、天王寺の三方の楽所や、江戸幕府に関わった紅葉山楽人の拠点など、雅楽を奏し伝習した楽人集団・組織を含めて「楽所」と呼ぶことがある[2][7]

楽人

楽人は、雅楽の演奏・舞・伝習を担った人をいう[1]。辞典類では、楽人は楽所に統轄された雅楽の演奏家と説明され、「がくじん」とも読むとされる[12][13]。楽人は、篳篥龍笛高麗笛琵琶和琴鞨鼓、太鼓、鉦鼓、三ノ鼓などの楽器、または左方舞・右方舞・国風歌舞などの舞や歌を担当し、宮廷儀礼、神事、仏教法会、節会、行幸、御遊などに参仕した[1]

律令制下では、楽人は雅楽寮に属する官人・楽生・楽師として制度化された。平安時代以後には、雅楽寮だけでなく、衛府官人や内裏楽所に属する楽人が宮廷儀礼の奏楽を担った。『国史大辞典』は、楽人には雅楽寮および左右近衛府の官人が任ぜられ、多く五位・六位であったと説明している[12]。また『日本大百科全書』は、専業の楽人が官位の低さや昇殿を許されないことから「地下の楽人」と呼ばれたと説明している[13]。さらに中世・近世には、大内、南都、天王寺の三方楽所に属する楽人、江戸幕府に召し出された紅葉山楽人など、複数の伝承集団が成立した[4][5][6][7]

楽人は、演奏者であると同時に、楽舞の伝習者でもあった。楽人が父子・家系によって技芸を継承するようになると、特定の家が特定の楽器・舞・曲目を担う家職的な伝承が発達し、これが楽家の成立につながった[1]

楽家

楽家は、雅楽の技芸を世襲的に伝えた楽人の家系をいう[1]。楽家は、担当楽器、舞、歌、曲目、奏法、故実などを家ごとに伝承し、宮廷儀礼や寺社儀礼における雅楽の継承を支えた。『日本大百科全書』は、楽人が代々特定の楽器および舞を専有し、その家系を楽家と呼んだと説明している[13]。代表的な楽家には、多氏狛氏豊原氏安倍氏大神氏などがある[1][14]

楽家は、単に演奏者の家系であるだけでなく、雅楽の知識を保存し、楽書や譜の伝承にも関わった。狛近真の『教訓抄』、豊原統秋の『体源抄』、安倍季尚の『楽家録』などは、楽家による伝承を背景として成立した重要な雅楽書である[14]

楽所、楽人、楽家は、それぞれ「機関・場所」「演奏者」「世襲的家系」を意味する別個の語である。しかし、雅楽史上では、楽所に属する楽人が技芸を家に伝え、その家系が楽家として固定化するという関係にあった[1]

古代の制度的前提

雅楽寮の設置

雅楽の奏楽・伝習を担う制度的機関として最初に重要なのが、律令制下の雅楽寮である。雅楽寮は、大宝元年(701年)の大宝律令により設けられた官司で、宮廷の音楽・舞を所管した。雅楽寮は治部省の管轄下に置かれ、和楽、唐楽、三韓楽、伎楽などの師・生を置いて、宮廷における楽舞の演奏と伝習を制度化した[15][4]

雅楽寮の成立は、古代日本における外来楽舞と在来歌舞の受容を国家制度の中に組み込むものであった。古代日本には、新羅楽百済楽高麗楽、唐楽、度羅楽、林邑楽など、多様な外来楽舞が伝えられた。また、日本古来の歌舞も、宮廷儀礼や神事に関わる楽舞として伝承された。雅楽寮は、こうした多様な楽舞を宮廷儀礼の中で演奏・伝習するための制度的基盤となった[4][15]

雅楽寮の組織と伝習

雅楽寮には、楽舞ごとに師と生が置かれ、演奏・舞・歌の技芸が伝習された。大宝律令段階では、日本古来の和楽、唐楽、三韓楽、伎楽などが同一の官司のもとで扱われていた[15]。これは、後世のように唐楽・高麗楽・国風歌舞・舞楽・管絃などが明確に分化する以前の段階において、多様な楽舞を宮廷の制度内で一括して所管するものであった[4]

雅楽寮の所管した楽舞には、外来の楽舞だけでなく、日本古来の歌舞も含まれていた。和楽は、神事や宮廷儀礼と関わる在来の歌舞を含み、のちの国風歌舞に連なるものと位置づけられる。一方、唐楽や三韓楽は、中国大陸・朝鮮半島などからもたらされた外来系楽舞であり、奈良時代から平安時代にかけて宮廷儀礼・仏教儀礼の中で演奏された[4][15]

雅楽寮は、宮廷の音楽行政を担っただけでなく、楽人養成の場でもあった。楽師・楽生は、特定の楽舞や楽器を習得し、国家儀礼に必要な奏楽を担った。こうした制度的な楽人養成は、後世の楽所・楽家による家職的伝承とは異なるが、雅楽の専門的担い手が制度的に育成された最初期の形態として位置づけられる[15]

大歌所と国風歌舞

古代・平安時代の宮廷においては、雅楽寮だけでなく、日本古来の歌謡・舞を扱う機関も置かれた。文化デジタルライブラリーは、平安時代初期に宮中に大歌所が置かれたことを説明している[1]。大歌所は、唐楽・高麗楽などの外来系楽舞を扱う雅楽寮とは別に、宮廷における日本古来の歌舞や歌謡の伝承に関わる機関として位置づけられる。

このことから、雅楽の制度的伝承を考えるうえでは、雅楽寮だけでなく、国風歌舞・歌謡系の伝承機関も視野に入る。宮廷では、唐楽・高麗楽などの大陸系楽舞とともに、御神楽東遊久米舞五節舞など、在来系の歌舞も儀礼や行事の中で伝えられた[1][16]

内教坊と女性舞人

古代・平安時代の宮廷においては、雅楽寮とは別に、女性による舞や歌に関わる機関として内教坊も置かれた[15]。内教坊は、女舞、踏歌五節舞などと関係する宮廷内の楽舞機関として位置づけられる[15]

雅楽寮から楽所への転換の前提

雅楽寮は律令制下の官司として楽舞を所管したが、平安時代が進むにつれて、宮廷儀礼における実際の奏楽は雅楽寮だけで完結しなくなった。雅楽寮の官人に加えて、近衛府をはじめとする衛府官人も、楽舞や歌舞に関わるようになった[1][5][17]。やがて、内裏に詰める楽人が奏楽を担い、内裏楽所が宮廷雅楽の拠点となっていく。

この転換は、律令制の官司としての雅楽寮から、宮廷儀礼の実務を担う楽所へと、雅楽の伝承制度が移行していく過程と見ることができる。後世の楽家や三方楽所は、このような宮廷内の楽所と楽人の活動を前提として成立した[5][1][17]

平安時代の楽所と楽人

京都御所一般公開で演奏される雅楽。

雅楽寮から内裏楽所へ

平安時代になると、雅楽は律令官司である雅楽寮の所管にとどまらず、宮廷儀礼、節会、行幸、御遊、神事、仏教法会など、宮廷生活のさまざまな場面に深く組み込まれていった。これに伴い、奏楽の実務を担う主体も、雅楽寮の官人だけでなく、衛府官人や内裏に詰める楽人へと広がった[5][17]

九世紀初頭には、宮廷人のあいだで雅楽愛好が広まっていた。鳥居本幸代は、嵯峨天皇の時代に衛府官人がめざましく活躍したことを踏まえ、すでにこの時期には宮廷人のあいだで雅楽愛好が広まっていたと説明している[5]

この流れの中で、天暦2年(948年)には内裏の中に楽所が常設された。鳥居本は、行幸や節会など特別の必要に応じて雅楽寮の楽人らが詰所としていた「楽所」が、この時期に内裏の常設機関として設置されるようになったと説明している[5]。これにより、宮廷の奏楽は、律令制下の雅楽寮だけでなく、内裏楽所を中心とする実務的な奏楽機関によっても担われるようになった[5][17]

衛府官人と奏楽

衛府官人は、平安宮廷の儀礼空間において、警護・儀仗とともに音楽的役割も担った。近衛府、左近衛府、右近衛府、左衛門府、右衛門府、兵衛府などの官人は、行幸・節会・神事・御遊に供奉し、宮廷儀礼の威儀を整える存在であった[5]。文化デジタルライブラリーも、近衛府の官人が楽舞や歌舞にも関わるようになったことを説明している[1]

楽所補任』には、中臣為行、登美重方、佐伯助行、尾張兼元、大神是光、狛行貞、狛行則、狛行光、狛則友、狛光近らの楽人名が見え、それぞれ左衛門府生、左近府生、右兵衛府生などの衛府系官職を帯びている[18]。これらの例から、内裏楽所の楽人には衛府系官職を帯びて宮廷儀礼の奏楽に関わる者がいたことがわかる[18]

衛府官人と雅楽の結びつきは、外来系の唐楽・高麗楽だけでなく、国風歌舞にも及んだ。宴席などの演奏を担当した衛府官人は、やがて雅楽寮楽人の職掌であった宮廷祭祀にも関与し、外来雅楽の演奏だけでなく、宮中で行われる御神楽の儀でも重要な役割を担った[5][1]。これは、平安時代の楽所楽人が、唐楽・高麗楽の演奏者であると同時に、宮廷神事・国風歌舞の担い手でもあったことをうかがわせる[5]

内裏楽所の機能

内裏楽所は、宮廷儀礼のために楽人が詰め、必要に応じて奏楽・舞楽を行う拠点であった。楽所は単なる楽人の控所ではなく、節会、行幸、御遊、神事、法会などにおける奏楽を準備し、実行する機関として機能した[5]。平安時代の宮廷において、雅楽は儀礼の威儀を整えるだけでなく、貴族社会の教養や遊宴とも結びついたため、内裏楽所は王朝文化を支える制度的基盤の一つとなった[5][17]

楽所の常設化は、楽人の活動のあり方にも影響を及ぼした。雅楽寮では楽師・楽生が官司の枠組みの中で楽舞を伝習したのに対し、内裏楽所では、宮廷儀礼の現場に即して、実際に奏楽に携わる楽人が集まり、楽舞を実践した[5]。こうした楽所楽人の活動は、やがて特定の家が技芸を保持する楽家の成立へとつながった[1]

宮廷儀礼・御遊・貴族教養

平安時代の雅楽は、国家儀礼や仏教法会だけでなく、宮廷貴族の教養や遊宴とも結びついた[5][17]管絃朗詠催馬楽、琵琶、箏、笛などは、貴族の文化的素養として重視され、宮廷社会における音楽文化の中で演奏された[5]

『日本大百科全書』は、宮廷の楽所では、専業の楽人と特定の貴族愛好家によって儀礼のための雅楽が教習され、楽人は篳篥・笛・笙・打楽器および舞を、貴族は琵琶・箏および歌を担当したと説明している[13]

このような宮廷音楽文化の広がりは、楽所楽人の活動範囲を拡大させた。楽人は、宮廷儀礼の専門的奏楽者であると同時に、宮廷人の楽器稽古や演奏会に関わる専門家でもあった[5]

楽所楽人から楽家へ

内裏楽所の成立と楽所楽人の活動は、楽家形成の前提となった。楽人は、宮廷儀礼に必要な楽器・舞・歌を専門的に担い、父子・家系によって技芸を伝えるようになった[1]。こうして、特定の家が特定の楽器や舞を担当する家職的な伝承が発達し、楽家が成立した[1]

楽家の成立により、雅楽は宮廷儀礼の演奏技術としてだけでなく、家ごとに蓄積される専門知識・故実・奏法の体系としても伝えられるようになった。狛氏、多氏、豊原氏、安倍氏、大神氏などの楽家は、後世の三方楽所や楽書の成立にも深く関わった[1][14]

楽家の成立と伝承

一子相伝と家職化

平安時代以後、楽所に属した楽人は、宮廷儀礼や寺社儀礼における奏楽・舞楽を担いながら、特定の楽器・舞・歌の技芸を父子・家系によって継承するようになった。このような世襲的な伝承の中から、雅楽を家職として担う楽家が形成された[1]

楽家の成立により、雅楽の伝承は、官司に所属する楽師・楽生による制度的伝習に加えて、特定の家が専門技芸、故実、奏法、譜、舞振りを保持する形でも展開した[1]。楽家は、宮廷の節会、行幸、御遊、神事、仏教法会などに参仕し、雅楽の実演を担うだけでなく、後進の教習、楽書・譜の伝承、楽器や装束に関する知識の保存にも関わった[1][14]

明治以前の三方楽所では、特定の家の子弟に対して雅楽が教習され、家ごとに担当分野が分かれていた。『日本大百科全書』は、天王寺方を例として、林家が笙、東儀家が篳篥を担当したように、家ごとの分担があり、一子相伝で伝えられたと説明している[16]。このような家職的伝承のもとで、楽家は単なる家名ではなく、特定の技芸・楽器・舞・故実を保持する伝承単位でもあった。

担当楽器・舞の分担

楽家は、それぞれ特定の楽器や舞を得意とし、家ごとに担当分野をもった[14][16]。たとえば、笙、篳篥、龍笛、高麗笛、和琴、琵琶、箏、打物、左方舞、右方舞、国風歌舞などは、個々の楽人が自由に担当したのではなく、一定の家筋・伝承系統と結びついて伝えられた[1][14][16]

また、雅楽の教習は、任意の楽器から自由に始めるものではなく、管楽器・絃楽器・打楽器の習得には一定の順序があった。『日本大百科全書』は、原則として篳篥・龍笛を習得した者が琵琶・箏を学び、管・絃の双方に通じた者が打楽器を学ぶと説明している[16]。この説明からは、楽人の養成が個別楽器の習得にとどまらず、合奏全体を見渡す段階的な教習体系を伴っていたことがうかがえる。

この担当分担は、雅楽の演奏組織を安定させる一方で、各家が特定の技芸を継承する基礎にもなった。楽家は、単に演奏の実務を担うだけでなく、曲目ごとの故実、装束、舞楽面、楽器の扱い、譜の読み方などを伝える役割をもった[14]

代表的な楽家

雅楽の伝承に関わった楽家には、多氏狛氏豊原氏安倍氏大神氏などがある。これらの家は、宮廷儀礼や寺社儀礼における奏楽・舞楽に関わり、家ごとに楽器、舞、曲目、故実、譜などを伝えた[1][14]

『国史大辞典』は、大内楽所において多氏が右舞人、狛氏が左舞人として勢力をもったこと、また豊原氏、阿倍氏、大神氏、藤原氏、尾張氏も朝廷の楽事を掌ったことを説明している[12]。狛氏は左方舞・唐楽系の伝承と関わる楽家として知られ、狛近真は『教訓抄』の著者とされる。豊原氏は笙の伝承と関係し、豊原統秋は雅楽全般を扱う『体源抄』を著した。安倍氏は篳篥の伝承と関わり、安倍季尚は元禄3年(1690年)に全50巻から成る『楽家録』を著した[19][14]。多氏や大神氏も、雅楽・舞楽の伝承に関わった楽家として知られる[1][20]

楽書と伝承

楽家による雅楽伝承は、口伝や実技だけでなく、楽書の編纂によっても支えられた。楽書は、楽曲、奏法、舞振り、楽器、調子、装束、舞楽面、儀礼次第、故実などを記録し、後世の雅楽理解の基礎資料となった[14]

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主な楽書
書名著者・編者時代主な内容
『教訓抄』狛近真鎌倉時代舞楽・楽曲・奏法・故実など
『体源抄』豊原統秋室町時代雅楽全般の知識・楽理・故実など
『楽家録』安倍季尚江戸時代楽曲・楽器・舞楽装束・舞楽面・故実など
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『体源抄』は、大内方で笙の楽家に出た豊原統秋が永正9年(1512年)に著した全21巻の雅楽書であり、雅楽全般について古書を引用しながら論じた文献である。『楽家録』は、大内方で篳篥を伝える楽家に生まれた安倍季尚が元禄3年(1690年)に著した全50巻の雅楽書で、楽曲・楽器・舞楽装束・舞楽面などを広く扱う[14]

楽書は、単なる理論書ではなく、楽家に伝えられた故実・系譜・奏演記録・故事来歴などを記録する性格ももっていた。『世界大百科事典』は、『教訓抄』『体源抄』『楽家録』を雅楽の代表的な楽書として挙げ、各家の伝承を記録した文献として位置づけている[17]

唱歌と口伝

雅楽の伝承では、楽器を手にして演奏する前に、まず旋律を声で唱える稽古が重視された。この教習用の歌を唱歌、または口唱歌という。文化デジタルライブラリーは、雅楽の習得では、楽器を持たずに、手で拍を取り、膝を叩きながら、擬音化した旋律を声に出して歌う練習から始まると説明している[21]

唱歌の稽古では、師匠がまず唱歌を歌い、弟子はそれを聞いて覚える。次に師匠と弟子がともに歌い、さらに弟子が一人で歌えるようになるまで反復する。唱歌は、楽曲の旋律だけでなく、拍の取り方、曲の流れ、息遣いを体得するための方法であり、暗譜にも役立つものとされる[21]

雅楽は、譜に書かれた音を読むだけで習得されるものではなく、師弟が対面して口伝によって伝える芸能として継承されてきた。楽譜は存在したが、それは広く一般に読譜して演奏するためのものというより、唱歌や口伝を保持する備忘録としての性格が強かった[16]。そのため、楽人の養成では、楽譜の読解だけでなく、師から直接受け継ぐ歌い方、間合い、息継ぎ、曲の運びが重視された。

楽家においては、その家に生まれた男子が幼少期から父などの家内の師に唱歌を教わり、家ごとの技芸を継承した[21]。このように、楽家の伝承は家名の継承だけでなく、幼少期からの実技訓練を伴っていた。明治以後、雅楽局が設けられると、伝承は家系だけに限られず、近代的な制度の中で師弟関係による教習として再編された[21][8]

中世の衰退と再興

宮廷社会の変容と楽人の離散

平安時代に宮廷儀礼・御遊・貴族教養の中で隆盛した雅楽は、中世に入ると、宮廷社会の変容と政治的権力の移動にともなって、その基盤を大きく揺るがされた[2][6]鎌倉時代以降、武家政権が成立し、政治・経済の中心が宮廷から武家へ移ると、朝廷儀式を支えていた楽所・楽人の活動条件も変化した[2]

とくに応仁の乱以後、京都の都市空間と宮廷社会は大きな打撃を受け、大内の雅楽伝承も衰退した[6][2]。楽人の離散、朝廷儀式の停滞、経済的基盤の弱体化は、内裏楽所を中心としてきた雅楽伝承に影響を及ぼした[6]

南都・天王寺における伝承維持

中世において雅楽伝承を支えた拠点が、南都と天王寺であった。南都では、興福寺をはじめとする大寺院の法会・祭礼と結びついて、舞楽・管絃の伝承が維持された。天王寺では、四天王寺の仏教儀礼と結びついた楽舞伝承が続き、天王寺楽人が独自の伝承を保持した[2][22][23]

南都楽所と天王寺楽所は、いずれも寺院儀礼と結びつきながら雅楽を伝承した点に特色がある[22][23]。宮廷儀礼を中心とする大内楽人とは異なり、南都・天王寺の楽人は、寺院法会、祭礼、舞楽奉納などの場において実践を重ねた。こうした寺院系楽人集団の存在は、戦乱後の大内雅楽を補ううえで役割を果たした[6][22][23]

大内楽人の再建

応仁・文明の乱後に衰退した京都の雅楽は、天王寺楽人・南都楽人の力を借りて再建された。文化デジタルライブラリーは、正親町天皇が天正14年(1586年)に四天王寺の楽人5人を京都に呼び寄せたこと、さらに後陽成天皇が奈良の楽人3人を京都に移住させたことを説明している[1]。鳥居本幸代も、応仁の乱により京の雅楽が衰退したことを憂慮した正親町天皇が天正年間に天王寺楽人5名をもって大内楽人を補強し、後陽成天皇も文禄年間に南都楽人3名を召し出したと説明している[6]

この再建により、大内、奈良方、大阪方の三方の楽人が、朝廷儀式に参仕する体制が整えられた。のちにこの三つの楽人集団は、大内・南都・天王寺の三方楽所として位置づけられることになった[2][1][6]

天正16年(1588年)の聚楽第行幸では、御遊、和歌会、舞御覧が行われ、「五常楽」「太平楽」「万歳楽」「延喜楽」「蘭陵王」「曽利」「還城楽」「抜頭」などが奏された。鳥居本は、この行幸における雅楽演奏が三方楽所合同で行われたと説明している[6]。この事例は、三方の楽人が大規模儀礼に共同で参仕した例の一つである。

近世の三方楽所

三方楽所の成立

三方楽所は、近世に朝廷儀式の雅楽奏楽を担った大内、南都、天王寺の三つの楽所をいう。大内楽所は京都の朝廷・公家社会、南都楽所は奈良の興福寺など南都寺院、天王寺楽所は大坂の四天王寺と結びつき、それぞれ異なる歴史的背景をもちながら、朝廷儀式における雅楽奏楽を共同で担った[2][1][6][24]

『国史大辞典』は、大内楽所・南都・四天王寺を三方楽所、または三所と呼んだと説明している[12]。また『日本大百科全書』は、京都宮廷、大坂四天王寺、奈良興福寺の楽人集団が、天正・文禄年間には三方楽人と称されたと説明している[13]

三方楽所は、大内・南都・天王寺という三つの楽所の総称であると同時に、近世の楽人集団を理解するうえで基本となる枠組みでもある。三方の楽人は、それぞれ異なる地域的・寺社的・宮廷的基盤をもちながら、朝廷儀式に参仕する楽人集団として組織された。山田淳平は、近世の楽人集団を、単なる演奏者の集合ではなく、家格、所属、儀礼参仕、寺社・朝廷との関係の中で成り立つ組織として分析している[24]

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主な楽所・楽人集団
名称拠点主な性格
内裏楽所京都・内裏平安時代以降、宮廷儀礼の奏楽を担った内裏の楽所
大内楽所京都朝廷・公家社会と結びついた楽所
南都楽所奈良興福寺など南都寺院と関係した楽所
天王寺楽所大坂・四天王寺四天王寺の法会・舞楽伝承と関係した楽所
紅葉山楽人江戸江戸幕府の儀礼に関わった三方楽所系の楽人集団
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大内楽所

大内楽所は、京都の朝廷・公家社会と結びついた楽所である。大内楽人は、内裏や朝廷儀式における奏楽を担い、平安以来の宮廷雅楽の伝統を継承した[6][24]。しかし、応仁の乱以後、京都の都市空間と宮廷社会は大きな打撃を受け、大内の雅楽伝承も衰退した[6]

近世初頭には、天王寺楽人・南都楽人が大内方の補強として召し出され、大内楽所は三方楽所の一角として再編された[6]。大内楽所は、朝廷儀式における位置を維持しつつ、南都・天王寺の楽人とともに奏楽にあたった[24]

南都楽所

南都楽所は、奈良を拠点とした楽所であり、主として興福寺など南都寺院の法会・祭礼と結びついて雅楽・舞楽を伝承した[22]。南都は古代以来、仏教儀礼と楽舞の関係が深い地域であり、南都楽人は寺院儀礼に参仕しながら、舞楽・管絃の技芸を維持した[22]

南都楽所は、興福寺など南都寺院の法会・祭礼と結びついた楽人集団である。『日本大百科全書』は、大社寺にも神事・法会のための楽人が置かれ、そのうち奈良興福寺と大坂四天王寺の集団が充実したと説明している[13]。また『国史大辞典』は、狛氏が奈良で春日大社に奉仕し、のちに久保・上・奥・辻の四家に分かれたと説明している[12]。山田淳平は、南都楽所を近世三方楽所の一角としてだけでなく、南都寺院社会における楽人組織としても検討している。南都楽人は、寺院儀礼における舞楽・管絃を担いながら、近世には朝廷儀式に参仕する三方楽所の一員としても位置づけられた[22]

天王寺楽所

天王寺楽所は、大坂の四天王寺を中心とした楽所である。四天王寺は、聖徳太子創建伝承をもち、古代以来、仏教儀礼と雅楽・舞楽の伝承に深く関わった寺院であった。天王寺楽人は、四天王寺の法会・舞楽奉納などを通じて、独自の雅楽伝承を保持した[23]

天王寺楽所は、四天王寺を基盤とした寺院系の楽所である。『国史大辞典』は、摂津四天王寺には秦姓の楽人があり、のちに東儀・薗・岡・林の四家に分かれたと説明している[12]。山田淳平は、天王寺楽所を近世三方楽所の成立過程を考えるうえで重要な楽人集団として扱い、その組織構造を分析している。天王寺楽人は、四天王寺の法会・舞楽伝承に関わるとともに、近世には三方楽所の一角として朝廷儀式にも参仕した[23]

三方楽所の楽人と楽家

三方楽所の体制において、楽人は単に楽所に所属する演奏者であるだけでなく、それぞれの家に技芸を伝える楽家の一員でもあった。大内、南都、天王寺には、それぞれ伝承を担う楽家があり、担当楽器や舞、曲目、故実を家ごとに伝えた[20]

近世の楽人集団では、楽人は単なる個人の演奏者ではなく、家格や所属楽所、担当する芸能、儀礼参仕のあり方によって位置づけられた。山田淳平は、近世楽人集団を家格と編制の面から分析し、三方楽所の楽人が家ごとの相伝と組織的な編成の双方によって成り立っていたことを論じている[20]

技量確認と伝承の仕組み

三方楽所では、楽所補任、楽所日記、各家の伝書などにみえる人事・参仕・稽古の記録を通じて、楽人の技量確認や伝承の仕組みをうかがうことができる[20][25]

寺社儀礼と楽人

近世の楽人集団は、朝廷儀式だけでなく、寺社の法会・祭礼にも深く関わった。南都楽所は興福寺など南都寺院、天王寺楽所は四天王寺の法会・舞楽伝承と結びつき、寺院社会の中で舞楽・管絃を担った[22][23]。山田淳平は、近世の寺院社会における楽人組織を検討し、南都楽所、一山寺院の舞楽法会、石清水八幡宮放生会、神社祭礼の復興などを、楽人集団の活動と結びつけて論じている[26]

朝廷儀式と幕府儀礼

近世の三方楽所は、朝廷儀式における奏楽を中心的に担った。朝廷の節会、即位関係儀礼、行幸、御遊、寺社関係行事などでは、三方の楽人が参仕し、管絃・舞楽・国風歌舞などを演奏した[6][24]

江戸時代初期には、三方楽所の形態が整えられた。鳥居本幸代によれば、慶長8年(1603年)の江戸幕府成立時には、『禁裏様楽人衆』に三方合わせて24名の楽人が記されていた。また、南都楽人は興福寺、天王寺楽人は四天王寺に保護されていたのに対し、大内楽人は公家支配下にあり、生活は困窮していたとされる[7]

三方楽所には江戸幕府からの奏楽依頼もあり、寛文5年(1665年)の徳川家康五十回忌法要に際して57名の楽人が江戸へ下向し、幕府から石高を与えられた[7]

紅葉山楽人

江戸下向と幕府儀礼

紅葉山楽人は、江戸幕府の儀礼に関わるため、三方楽所系の楽人から江戸へ召し出された楽人をいう。鳥居本幸代によれば、寛永19年(1642年)、徳川家光は南都楽所から久保光茂・上近康・井上秀久、大内楽人から山井景明・多忠朝、天王寺楽人から東儀兼長・東儀季治・薗広親を召し出した。彼らは江戸に留まり、徳川家康廟や日光東照宮の祭礼で奏楽することを命じられ、のちに紅葉山楽人と称された[7]

紅葉山楽人は、三方楽所から切り離された全く別個の集団ではなく、三方楽所系の楽人が江戸へ召し出されたことによって成立した。したがって、その技芸や伝承は、大内、南都、天王寺の三方楽所と連続していた。一方で、紅葉山楽人は、活動の場を江戸幕府の儀礼空間に置いた点で、朝廷儀式を中心とする三方楽所とは異なる性格をもった[7]

紅葉山楽人は、三方楽所系の楽人が江戸に召し出され、江戸幕府の儀礼空間で活動した楽人集団として位置づけられる。山田淳平は、紅葉山楽人を独立した検討対象として扱い、江戸幕府の儀礼空間における楽人集団のあり方を論じている[27]。『日本大百科全書』は、寛永19年(1642年)に徳川家光が京都から50名の楽人を召して江戸城内紅葉山の家康廟の霊祭にあたらせ、これを紅葉山楽人と呼んだと説明している[13]。また『国史大辞典』は、江戸時代には江戸城内紅葉山に楽所を設け、三所から約90人を出仕させていたと説明している[12]

幕末の楽人社会

宮中行事と堂上家の楽会

幕末の雅楽は、近世以来の三方楽所や紅葉山楽人の伝承を背景としつつ、朝廷儀式、堂上家の楽会、寺社儀礼、幕府関係儀礼など、複数の場で奏演されていた[28]。塚原康子によれば、宮中や堂上諸家で行われた稽古や楽会には、京都在住の地下楽人が師範役や合奏の助演者としてしばしば召された[28]

また、天王寺方楽人で京都在住の東儀文均が記した『楽所日記』には、堂上各家での楽会に参会する記事が頻出する[28]。このことから、地下楽人が宮中儀礼だけでなく、公家社会の楽器稽古や楽会にも関わり、師範・助演者として活動していたことがうかがえる[28]

楽所日記と楽人の日常

幕末の楽人社会を知るうえで重要な史料の一つが『楽所日記』である。『楽所日記』には、宮中行事への参仕、堂上家での稽古・楽会、楽人間の連絡、儀礼準備など、楽人の日常的活動が記録されている[28]

『楽所日記』に見える楽人の活動からは、楽所・楽人・楽家の三者の関係を具体的にうかがうことができる。楽所は楽人が所属し、連絡・参仕・儀礼準備を行う制度的枠組みであり、楽人は実際の奏演を担う専門職であった。そして、楽人の技芸は家ごとに伝えられ、楽家として固定化していた[28][1]

明治維新後の再編

雅楽局の設置

明治維新後、旧来の楽所・楽人・楽家は、近代国家の宮中儀礼制度の中で再編された。塚原康子は、明治3年(1870年)の雅楽局設置を近代雅楽の起点として位置づけている[8]

雅楽局の設置に際しては、旧三方楽所楽人だけでなく、旧紅葉山楽人や旧南都右方人も再編対象となった。塚原によれば、旧地住居とされた「伶員」として、旧三方楽人46名、旧紅葉山楽人5名、旧南都右方人6名を合わせた計57名が掲げられた[29]。文化デジタルライブラリーも、皇居の東京移転にともない、京都・南都・天王寺の三方楽所の楽人と江戸紅葉山の楽人が統一され、太政官の雅楽局に配属されたと説明している[3]

『世界大百科事典』は、この再編に際して、旧来の楽家に伝えられていた秘曲・秘伝の類が皇室へ奉還されたこと、また明治6年(1873年)には、従来は華族や楽人に限られていた雅楽教習が一般にも開放されたことを説明している[17]

明治期の雅楽再編は、旧来の楽人集団を廃止して全く新しい制度を作ったものではなく、三方楽所、紅葉山楽人、南都右方人など、近世までに形成された複数の伝承集団を近代的な官制の中に位置づけ直すものであった[8][29][17]。また、家職的・秘伝的な相伝を、近代国家の宮中儀礼制度と教習制度の中に再配置する過程でもあった。

旧三方楽所楽人の再配置

雅楽局の設置に際して、中心となったのは旧三方楽所の楽人であった。大内、南都、天王寺の楽人は、それぞれ異なる伝承基盤をもっていたが、明治維新後には東京へ移住し、近代の宮中儀礼を担う楽人として再配置された[29][3]

この再配置により、雅楽伝承は近世の楽所・楽家を基盤としつつ、近代国家の官制の中に組み込まれた。近世の三方楽所では、楽人は楽所に所属し、家ごとに技芸を伝え、朝廷儀式や寺社儀礼に参仕していた。明治以後は、これらの楽人が近代国家の官制の中に組み込まれ、宮中儀礼、国家儀礼、外交儀礼、近代的な式典に対応する演奏組織として再編された[8][30][17]

旧紅葉山楽人・旧南都右方人の扱い

ただし、紅葉山楽人と南都右方人は、旧三方楽所楽人と同一の制度的位置にあったわけではなかった。塚原康子は、紅葉山楽人について『楽所補任』では「在江戸」とされるのみで人名記載がないこと、また楽所領2000石の配分に与らず三方及第にも参加しない紅葉山楽人・南都右方人は、一定の楽人補任記録に含まれていないことを指摘している[25]

そのため、明治初年の雅楽再編は、旧三方楽所楽人をそのまま近代官制に移しただけではなく、紅葉山楽人や南都右方人を含む複数の伝承集団を、新しい制度の中で再配置する過程であった[29][25]

伶人・伶員・楽師

明治以後、雅楽を担う人々の名称や職制も変化した。近世までの「楽人」は、楽所や楽家に属する演奏・伝習者を指す語であったが、近代官制のもとでは、伶人、伶員、楽師などの職名が用いられるようになった[30]。『日本大百科全書』も、明治3年(1870年)に太政官に設けられた雅楽局では伶人、現在の宮内庁楽部では楽師という呼称が用いられると説明している[13]

塚原康子の整理によれば、明治3年11月7日に太政官内に雅楽局が仮設置され、同月28日には大伶人・中伶人・少伶人・伶員が置かれた。明治4年8月10日には雅楽局が廃されて式部寮雅楽課が置かれ、明治17年には式部寮が廃されて式部職となり、雅楽長・雅楽師長・雅楽師などの職名が用いられた[30]。『世界大百科事典』も、明治17年(1884年)に宮内省式部雅楽課となり、明治21年(1888年)に雅楽部となったことを、近代雅楽制度の変遷として整理している[17]

こうした職名の変化は、楽人の身分と役割が近代官制の中で再編されたことと関わっている。近世の楽人は、家職的な伝承、所属楽所、朝廷・寺社・幕府との関係によって位置づけられていた。一方、明治以後の伶人・楽師は、宮中儀礼を担う国家機関の構成員として位置づけられ、職制、給与、任用、教育の面でも近代的制度の中に組み込まれた[30][17]

宮内省式部職雅楽部への展開

雅楽局設置後、雅楽を担う官制は改編を重ね、宮内省の制度の中に組み込まれていった。雅楽は、宮中儀礼、祝祭日儀式、国家的式典、外国使節接遇などに関わる音楽として位置づけられ、宮内省式部職のもとで制度化された[30][3][17]

この過程で、雅楽は単に旧来の宮廷音楽を保存するだけでなく、明治国家が自らの儀礼体系を整えるための音楽として再構成された。明治期の雅楽制度は、旧来の楽人・楽家の技芸を基礎としつつ、近代的な官制の中で再編された[8][30][17]

明治撰定譜と曲目整理

明治期の雅楽再編では、組織や人員の再配置だけでなく、楽曲・譜の整理も重要であった。旧来の楽家には、多数の曲目、譜、舞、故実が伝えられていたが、近代の宮中儀礼で演奏するためには、曲目や譜の統一が求められた[31]

明治3年(1870年)に雅楽局が設置されると、三方楽所や紅葉山楽人など、異なる伝承をもつ楽人が同一機関に集められた。文化デジタルライブラリーは、雅楽局に異なる楽所の楽人が集まった結果、口伝の違いによる旋律、息継ぎ、曲目の相違があり、統一譜が必要になったと説明している[3]

この過程で編纂されたのが、一般に明治撰定譜または明治選定譜と呼ばれる譜である。『日本大百科全書』および文化デジタルライブラリーは、明治9年(1876年)と明治21年(1888年)の二度にわたり、神道系・大陸系・声楽曲を含む雅楽各分野の譜が整理されたと説明している[16][31]。『世界大百科事典』も、明治9年と明治21年に明治撰定譜が作られたことを、明治以後の雅楽再編の重要事項として整理している[17]

明治撰定譜は、旧来の楽家・楽所の相伝を前提としつつ、それらを近代的な宮中儀礼制度の中で共有・標準化するための基盤となった[3][17]

近現代への継承

宮内庁式部職楽部

現代の雅楽伝承を担う宮内庁式部職楽部

近代に再編された雅楽制度は、戦後、宮内庁式部職楽部へと継承された。文化デジタルライブラリーは、現在、国の重要無形文化財に指定されている雅楽を保持する公的機関を宮内庁式部職楽部、通称宮内庁楽部であると説明している[3]

同資料によれば、宮内庁式部職楽部の前身は、明治3年(1870年)、皇居の東京移転にともない、京都、南都、天王寺にいた三方楽所の楽人と、江戸紅葉山の楽人を統一し、宮中の太政官に設置された雅楽局に配属したことに始まる[3]。すなわち、現代の宮内庁楽部は、古代以来の雅楽寮、平安時代の内裏楽所、近世の三方楽所、江戸の紅葉山楽人、明治の雅楽局という複数の伝承系統を近代的な官制の中で統合した組織の後身である[3][17]

文化デジタルライブラリーは、戦後の昭和24年(1949年)に、雅楽を受け継ぐ機関として改めて宮内庁式部職楽部が設けられたこと、昭和30年(1955年)に宮内庁楽部の雅楽が国の重要無形文化財に指定され、楽部の楽師が重要無形文化財保持者に認定されたことを説明している[31]。『世界大百科事典』も、昭和24年(1949年)に宮内庁式部職楽部となり、昭和30年(1955年)に雅楽が重要無形文化財の総合指定を受けたことを説明している[17]

宮内庁式部職楽部では、雅楽の演奏だけでなく、後継者育成も行われている。文化デジタルライブラリーは、現在の宮内庁楽部に楽生制度があり、楽師となるための研修期間が7年であると説明している[21]。その教習では、唱歌、管楽器、絃楽器、打楽器、歌謡、左舞または右舞に加え、洋楽やピアノも学ぶとされる。[21]

民間雅楽団体・寺社雅楽との関係

奈良・萬葉植物園で行われた雅楽公演。

現代の雅楽は、宮内庁式部職楽部だけでなく、寺社、専門家、民間団体、大学・地域団体などによっても演奏・伝承されている。文化デジタルライブラリーは、雅楽の伝承を支えるのは公的機関に所属する楽人だけではなく、今日では一般の人々で雅楽を学ぶ者も少なくなく、専門家や民間団体が活動していると説明している[3]

近現代には、大学教育や民間団体による雅楽の伝承も広がった。文化デジタルライブラリーは、東京芸術大学が昭和37年(1962年)に雅楽を授業に取り入れ、平成6年(1994年)には音楽学部邦楽科に雅楽専攻が設置されたと説明している[3]。また、十二音会、東京楽所、伶楽舎などの民間雅楽団体が活動していることも紹介している[3]

この状況は、近世以前の楽所・楽家・楽人のあり方とは異なる。近世までの楽人は、朝廷、寺社、幕府などの特定の儀礼組織に属し、家職的に技芸を伝えた。一方、現代では、宮内庁楽部を中心とする公的伝承に加え、寺社雅楽、民間雅楽団体、復曲活動、現代作品の演奏、教育普及活動など、多様な場で雅楽が実践されている[3][31]

昭和41年(1966年)に設立された国立劇場では、開場当初から宮内庁楽部をはじめ各種雅楽団体の出演によって定期的に雅楽公演が行われてきた。文化デジタルライブラリーは、国立劇場が明治撰定譜に収録されなかった曲目の復曲や、現代作曲家による新作公演を行い、現代の雅楽の潮流に影響を与えていると説明している[31]

楽家・楽人概念の変化

近代以降、「楽人」や「楽家」という語の意味も変化した。近世以前の楽人は、楽所に属し、家ごとに技芸を伝える世襲的な演奏者であった。一方、明治以後は、雅楽局、宮内省雅楽課、宮内省式部職雅楽部、宮内庁式部職楽部などの制度のもとで、伶人、伶員、楽師などの職名が用いられるようになった[30][3][17]

ただし、明治撰定譜の編纂や宮内省における教習は、旧来の楽所・楽家・楽人の技芸を前提としていた。近代の雅楽制度は、旧来の家職的伝承を基礎としつつ、それを近代的な官制や譜体系の中に位置づけ直したものといえる[31][8][17]

現代では、「楽家」という語は、近世以前のような制度的世襲職能をそのまま意味するとは限らない。しかし、雅楽の伝承史において、楽家は特定の楽器・舞・楽書・故実を伝えた家系として位置づけられる。また「楽人」という語は、歴史的には楽所に属する奏楽者を指す語として用いられたが、近現代の雅楽伝承を説明する文脈でも用いられる[1][3]

このように、近代以後の雅楽伝承は、旧来の楽家・楽所の相伝を基礎としながら、宮内庁楽部の楽生制度、大学教育、民間団体の活動などにも広がっていった[21][3]

関連項目

脚注

参考文献

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