劉賈
From Wikipedia, the free encyclopedia
楚漢戦争
秦末の反乱において同族の劉邦に従い挙兵し、高祖元年(紀元前206年)の三秦平定の戦いでは劉賈は将軍として塞の地を守備した。その後、東進して楚漢戦争に加わった。
高祖4年(紀元前203年)、項羽が成皋を陥落させた後、劉邦は北へ逃れて修武に駐屯した。劉邦は鄭忠の献策を受け、劉賈と盧綰に歩兵2万、騎兵数百を与えて項羽を攻撃させた。劉賈と盧綰は白馬津を渡って楚の領内深くに侵攻し、昌邑で彭越と合流して燕城の西で楚軍を撃破、梁の地の10数城を陥落させた。さらに楚の物資集積所を焼き払い、項羽軍の補給基盤を破壊した。楚軍の反撃に対しては戦いを避けて堡塁に籠り、彭越と連携して防戦に徹した。
高祖5年(紀元前202年)、劉邦が項羽を追撃して固陵に至った時、劉賈に命じて寿春を包囲させた。劉賈は使者を送り、楚の大司馬・周殷を降伏させた。楚に背いて漢に与した周殷は劉賈を助けて九江を平定し、英布の軍を迎え入れた。これら諸軍は垓下に集結し、項羽を共同で攻撃した(垓下の戦い)。項羽の敗死後、劉邦は劉賈に九江の軍を率いさせ、盧綰と共に漢への帰順を拒否した臨江王共尉を攻撃させ、これを処刑した。
荊王に封じられる
高祖6年(紀元前201年)、楚王韓信が謀反の疑いで失脚した後、劉邦はその領土を南北に分割し、南部を荊国、北部を楚国と定めた。当時、劉邦の息子たちは幼く、特に優れた才能を持つ者もいなかったため、劉邦は同族の者を王に封じようと考え、群臣の進言を受けて戦功のある劉賈を荊王に封じ、淮河以東の52城を治めさせた。楚王には劉邦の異母弟の劉交が封じられた。この時をもって漢王朝では劉氏一族を諸侯王に封じる慣例が始まった。
最期
高祖11年(紀元前196年)7月、淮南王英布が反乱を起こし、東進して荊を攻撃した。劉賈は英布軍と交戦したが、敗死した[1]。翌年、劉賈には嗣子がなかったため、劉邦は英布討伐に参戦した甥の沛侯劉濞を呉王に封じ、荊の地を統治させた。