趙高
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始皇帝の寵臣
本節では主に『史記』における内容を元に記述するが、『趙正書』など他の資料では食い違う点も見られる(後述)。
趙高は趙の遠縁の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯した。このとき趙高は宮刑に処され、後に秦に宦官として仕えたという説が知られるが、これには疑問が呈されている(後述)。
実際に趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは、『史記』秦始皇本紀に記されていないが、李斯列伝には紀元前210年時点で「文筆の能力で秦の宮廷に入り、20余年間管事してきた」という本人の叙述があるため、遅くとも紀元前230年以前には秦に仕えていたものと推測できる。勤勉で法律に精通していることから、始皇帝に抜擢されて中車府令(皇帝の馬車の管理と運行を掌る官職)に任命された。また、始皇帝の末子の胡亥に密かに仕えて書法や法律を教えていたことがあり、胡亥からの寵愛を受けていた。
あるとき趙高は大罪を犯したため、始皇帝は蒙毅に命じて法に照らして裁かせた。蒙毅は法に従って趙高を死刑としたが、始皇帝は趙高が仕事に勤勉であるということで赦免し、元の官爵に復帰させた。このように始皇帝にその才能を寵愛されており、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。
皇帝の操り手
始皇帝の五度目の巡幸にも随行するが、始皇帝がその道中に病没すると、丞相の李斯を並外れた弁舌と巧みな心理操作で抱き込み、その遺言を書き換えて、長子の扶蘇を自決に追い込み、末子の胡亥を二世皇帝に即位させるというクーデターを決行した(沙丘の変)。
この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った台詞が「断而敢行鬼神避之(断じて行えば鬼神もこれを避く)」である。
そして郎中令(九卿の一。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込んで宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡ぶりは著しく、趙高より官位が上の李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった程であった。
胡亥と趙高の政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。さらに法律を都合の良いように改悪し、群臣や諸公子に罪科を作っては連座制を適用して一族ごと処刑した。処罰された者は数え切れないほどであり、彼らの財産は全て趙高が没収した。
これによって蒙恬・蒙毅の兄弟、秦の公子将閭や2人の弟たち、公子高を含む公子12人、公主10人など有力者や敵対者は悉く冤罪で処刑された。結果、悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することとなり、恐怖政治を敷いたことと合わせて趙高は大いに人民から恨みを買うことになった。
秦帝国の滅亡と趙高の最期
天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を腰斬で処刑させ、自分が後任の丞相(中丞相)となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将章邯が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。
その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、皇帝の胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。
趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 皇帝は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙っていた廷臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。このエピソードが「馬鹿」の由来の一説である故事成語『指鹿為馬・鹿を指して馬となす(道理に合わないことを、権力を背景に無理に言いくるめる)』である。
こうして反対者を粛清したのち、二世3年(紀元前207年)8月、趙高は謀反して胡亥を弑逆した(望夷宮の変)。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは全く相手にされていなかった。
同年9月、胡亥の後継として、人望の厚い子嬰[2] に玉璽を授けて秦王として即位させ、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとする。だが、趙高は彼を憎悪する子嬰と韓談らによって、子嬰の屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。
死後
趙高の死より、秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。
『史記』以外での記述
『史記』と同時期である北京大学所蔵の前漢代の竹簡資料の一つである『趙正書』によると、趙高が始皇帝の遺言を書き換えた沙丘の変に関しての記述はなく、始皇帝は自ら後継者を胡亥に選んだ上で死去したとされている。またその最期に関しての記述も史記とは異なっており、項羽に降った章邯によって殺されたと記述されている。
逸話
後秦の小説家・王嘉が撰した志怪小説集『拾遺記』に記される趙高にまつわる伝説的記述を解説する。『拾遺記』は史書『史記』とは異なり、趙高を「仙術を修めた異能の人物」「死後、青鳥となって昇天した存在」として描くことで、秦王朝滅亡の謎を神秘化した物語群である。
秦王子嬰が即位して百日目、趙高に暗殺されようとした夜、望夷宮で夢を見る。身長十丈(約24メートル)、髭と髪が真っ黒で、赤玉の履(赤玉舄)を履いた巨漢が「天の使者」を名乗り現れ、「同姓の者が汝を誅殺せんとしている」と警告した。『拾遺記』はこの巨人を始皇帝の霊魂と解釈する。始皇帝が崩御した地「沙丘」から来たと述べ、秦の滅亡を予言したとされる。子嬰は夢の警告から趙高を咸陽獄に投じるが、趙高は以下のように「不死の身体」を示す:井戸に吊るしても7日間溺死せず。大釜で煮ても7日間沸騰せず。獄吏は趙高の懐から「雀卵大の青い丸薬」(青丸)を発見。方士たちは「趙高の先祖は方士・韓終から丹法を学び、冬は氷上、夏は炉上でも寒暑を感じない術を得た」と説明した。趙高は最終的に剣で殺されるが、その死体を道路に放置すると、千家の民が涙を流して弔った。その直後、趙高の屍から青い雀(青鳥)が飛び立ち、雲の中へ消えたと伝えられる。青鳥は西王母の使者とされ、趙高の「仙術修練の証」と解釈されている。
秦王室(嬴姓趙氏)と趙高は共に「趙」氏を名乗るため、夢の警告は「同族の謀反」を示唆する。後世の解釈では、趙高を「趙国滅亡の怨念が化した存在」とする説(清・尤侗『艮斎雑説』)も生まれた。[3]