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ゴットフリート・ライプニッツ

ドイツの哲学者、数学者 (1646 - 1716) From Wikipedia, the free encyclopedia

ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(またはライブニッツ、独: Gottfried Wilhelm Leibniz[a]、1646年7月1日[b] - 1716年11月14日)は、ドイツの哲学者、数学者、博学者である。

概要 生誕, 死没 ...
ゴットフリート・ライプニッツ
Gottfried Leibniz
クリストフ・フランケ(英語版)画 1695年
生誕 (1646-07-01) 1646年7月1日
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ザクセン選帝侯領・ライプツィヒ
死没 (1716-11-14) 1716年11月14日(70歳没)
神聖ローマ帝国の旗 神聖ローマ帝国
ハノーファー選帝侯領・ハノーファー
博士課程
指導教員
エアハルト・ヴァイゲル(英語版)
研究領域・専攻分野
専攻分野 哲学(形而上学、認識論、存在論、自然哲学、科学哲学、神学、弁神論、倫理学、人間学)
数学、論理学、物理学、地質学、薬学、医学、生物学、機械学、工学、図書館学、言語学、歴史学、経済学、政治学、音楽理論、詩論、東洋学、中国学
時代 17世紀の哲学
18世紀の哲学
地域 西洋哲学
学派 大陸合理主義
多元的観念論(英語版)
基礎付け主義
概念論
最適説
間接実在論
真理の対応説
関係主義
概念
普遍学・機械学・工学・力学

結合法論(英語版)、人間思惟のアルファベット(英語版)、普遍記号法、推論計算機(英語版)

ライプニッツの歯車(英語版)、ライプニッツの計算機(英語版)、ライプニッツのギャップ(英語版)、統覚、活力(英語版)(運動エネルギーの保存則)、最小作用の原理、プロトガイア(英語版)、形而上学的ダイナミズム(英語版)、図形推論(英語版)
哲学・神学・形而上学
モナド、最善世界説、予定調和、不可識別者同一の原理、サルヴァ・ヴェリターテ(英語版)(真理値を保ったまま)、形式論理、充足理由律、連続律(英語版)、共可能性(英語版)、存在の問い、弁神論、形而上学、可能世界論、多元的観念論(英語版)、関係主義、義務論理
博士課程
指導学生
ヤコブ・ベルヌーイ
クリスティアン・ヴォルフ
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ルネ・デカルトやバールーフ・デ・スピノザなどとともに近世の大陸合理主義を代表する哲学者である。著作に『モナドロジー(英語版)』『形而上学叙説(英語版)』『人間知性新論(英語版)』『弁神論(英語版)』などがある。数学者としては、ニュートンとは独立して微積分法を発展させ[2]、優れたライプニッツの記法を考案した。また、二進法を初めて数学的に体系化した。ライプニッツはラテン語(≈40%)、フランス語(≈35%)、ドイツ語(≈25%)で著作を行った[3]。

概要

ライプニッツは数学、哲学、神学の領域のほかに、政治学、法学、歴史学、音楽学、医学、生物学、心理学等の研究に関する著作も行った。物理学、力学、機械学、工学、言語学、計算機科学、図書館学[4]では、重要な貢献をし、あるいはその後の時代の概念を先取りする内容の研究を行った[5]。

ライプニッツは哲学、数学、科学など幅広い分野で活躍した学者・思想家として知られているが、政治家であり、外交官でもあった。17世紀の様々な学問[注釈 1]を統一し、体系化しようとした。その功績は法典改革、モナド論、微積分法、微分記号、積分記号の考案、普遍記号法の創始、ベルリン科学アカデミーの創設等、多岐にわたる。

生涯

生い立ち

ライプニッツは1646年7月1日(旧暦:6月21日)に、神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領ライプツィヒに生まれ、6歳の時にライプツィヒ大学哲学教授を務めた父フリードリッヒ・ライプニッツ(英語版)を病気で失った[6]。ライプニッツの父はライプツィヒ大学の道徳哲学教授であり、哲学部長も務めていた。彼は父の死後間もなく7歳から蔵書を受け継ぎ、自由にそれらに触れることができた[7]。蔵書は主にラテン語であり、彼は12歳までにラテン語を習得した[7]。

1653年に入学したニコライ学院(ライプツィヒ)を卒業すると、1661年に14歳で父の母校であるライプツィヒ大学に進み、ヤーコプ・トマジウスらの指導のもと、数学や哲学を学んだ。1663年6月に同学に哲学の学士論文(テーマは個体化原理(英語版))を提出し、イエナ大学に移って4ヵ月にわたり数学や法学、史学を学ぶと、同10月にライプツィヒ大学に戻る。同学には翌1664年に哲学の修士論文を提出し受理された。

1666年初頭、19歳のライプニッツは最初の著書結合法論(英語版)(羅: De Arte Combinatoria)を執筆した。ライプツィヒ大学はライプニッツの法学博士号申請を却下した[8]。同年に修士としてニュルンベルク近郊のアルトドルフ大学(ドイツ語版)に移り、法学の博士論文を提出して同年11月に受理される[9]。ライプニッツはアルトドルフ大学での教職の提案を断った[10]。

マインツ選帝侯への仕官(1668–1673)

ライプニッツはニュルンベルク錬金術協会の秘書となり[11]、すぐにマインツ選帝侯(マインツ大司教)ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルン(ドイツ語版)に解任された主席大臣ヨハン・クリスティアン・フォン・ボイネブルク(ドイツ語版)に出会い、助手として雇われた[12]。間もなくボイネブルクは選帝侯と和解し、ライプニッツを彼に紹介した。ライプニッツは法律に関する論文を選帝侯に献呈した。選帝侯はライプニッツに選帝侯領の法典の改訂の手伝いを依頼した[12]。(1668年頃)このマインツ居住期に始めた文通(ライプニッツ書簡)はのちに著名になる[13]。

当時ドイツ諸邦は、フランス国王ルイ14世の影響力と三十年戦争のために分裂、荒廃していた。ライプニッツはルイ14世の関心をドイツから逸らすために、次のことを発案した。すなわち、ルイにエジプト遠征とオランダ領東インドの征服を持ちかけ、代わりにドイツやオランダからは手を引いてもらうという外交取引である。この発案は選帝侯の慎重な同意を得、1672年にフランス政府はライプニッツをパリに招いて協議を行った[14]。しかし同年の仏蘭戦争の勃発によってこの計画は頓挫した。

パリではオランダの物理学者・数学者クリスティアーン・ホイヘンスと出会い、数学と物理学に関する知見を深めた。フランスの哲学者ニコラ・ド・マルブランシュやアントワーヌ・アルノーとも出会い、デカルトやパスカルの著作を研究した[15]。エーレンフリート・ヴァルター・フォン・チルンハウスとは生涯にわたって文通を続けた。ライプニッツは関連任務でロンドンも訪れ、王立協会で自身の開発した計算機を披露した[16]。しかし、1673年2月にマインツ選帝侯が没し、任務終了となった。

ハノーファー選帝侯への仕官(1676–1716)

彼は71年から文通を続けていたブラウンシュヴァイク公兼カレンベルク侯ヨハン・フリードリヒから再びハノーファーでの顧問官の職を提示された(ライプニッツは1669年に一度これを断っている)。ライプニッツは、知的刺激に満ちたパリやハプスブルク家の宮廷で職を得る見込みがないとわかると、1676年には非常に不本意ながらこれを引き受けた[17]。パリからハノーファーに移る際にハーグに立ち寄り、微生物の発見者レーウェンフックや『エチカ』出版前の哲学者スピノザを訪問した[18]。

彼はヨハン・フリードリヒによって顧問官兼図書館長に任ぜられると、以後その死までライプニッツはハノーファー宮廷に仕えることとなる。領内のハルツ鉱山の改良を命じられて1678年から1685年まで7年を費やしたものの、大失敗に終わっている(鉱山操業に風車を用いる計画を推進したが、ほとんど役に立たず、エルンスト・アウグスト公爵(後のハノーファー選帝侯)によって中止された[19])。

鉱山の任務を解かれた同年、エルンスト・アウグストからヴェルフェン家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の家史編纂を命じられた。エルンストは、カール大帝の時代以前に遡るブラウンシュヴァイク家の歴史をライプニッツに執筆させることによって、ブラウンシュヴァイク家の権威を高めることを期待したが、彼の存命中に完成することはなかった。ライプニッツは関連する史料を探し求めて、1687年から1690年の間、南ドイツ、オーストリア、イタリアを広範囲に旅した。数十年が経過したが歴史書は完成せず、次の選帝侯(後のグレートブリテン国王ジョージ1世)はライプニッツの遅延に苛立ちを募らせた。史書の完成が遅れたのは、ライプニッツが他の多くの分野で膨大な著作・文通を行なっていたことも一因だが、解説付き系図程度の一般的な家史で満足せず、史料と綿密な調査に基づいた家史編纂に固執したことも大きな原因だった[20]。ライプニッツは1697年には『中国最新事情』を出版した。

ブラウンシュヴァイク家は、ライプニッツが廷臣としての職務とは無関係な知的探求への没頭を容認・黙認していた。すなわち、微積分の完成、数学・論理学・物理学・哲学の研究、そしてヨーロッパ中の学者たちとの膨大な量に及ぶ書簡通信である。

北ドイツでライプニッツを受け入れた数少ない人物の中には、ハノーファー選帝侯妃ゾフィー(1630年 - 1714年)、その娘でプロイセン王妃ゾフィー・シャルロッテ(1668年 - 1705年)、ライプニッツの指導を受けた、ゾフィー選帝侯妃の孫で後のグレートブリテン国王ジョージ2世の妃カロリーネ・フォン・アンスバッハがいた。彼らにとって、ライプニッツは文通相手であり、助言者であり、友人であり、高く評価していた[21]。

ライプニッツがブラウンシュヴァイク家に仕えていた時期に、家の名声は飛躍的に高まった。1692年、ブラウンシュヴァイク公は神聖ローマ帝国の世襲選帝侯となった。1701年、英国王位継承法によって、ウィリアム3世とその義理の妹で後継者であるアン女王の死後、選帝侯妃ゾフィーとその子孫を英国王室と定めた。

1714年にアン女王が崩御すると、ハノーファー選帝侯ゲオルグ・ルートヴィヒは1701年の王位継承法に基づき、グレートブリテン国王ジョージ1世となった。ウェールズ公妃カロリーネ・フォン・アンスバッハの嘆願にもかかわらず、ジョージ1世は、父エルンスト・アウグストが約30年前にライプニッツに依頼したブラウンシュヴァイク家の歴史の少なくとも1巻を完成させるまで、ロンドンに同行することを禁じた。ロンドンの英官界では、微積分先取権論争(英語版)で対立していたアイザック・ニュートンの影響力があった。

ライプニッツの親友であり擁護者であったゾフィーが1714年に亡くなった。1716年、ピョートル1世はバート・ピルモントに立ち寄り、ライプニッツに面会した[22]。

ベルリン・アカデミー

ベルリンに招かれた1700年からベルリン科学アカデミーの設立に尽力し、初代会長に就任した[23]。1710年にはアムステルダムの出版社から『弁神論』を匿名で発表した。1711年には神聖ローマ皇帝カール6世によって帝国宮中顧問官に任命された。1712年、ライプニッツはウィーンに2年間滞在し、ハプスブルク家の宮廷顧問に任命された。1714年には『単子論(モナドロジー)』の草稿を書きあげたが、公刊されるのは彼の死後の1720年のことであった。

死去

1716年、ハノーファーにて死去した。ノイシュテッター教会(英語版)に埋葬されている。ニュートンとの対立もあって、ライプニッツは当時非常に不遇な立場にあり、たまたまハノーファー近郊に滞在していたハノーファー選帝侯ゲオルグ・ルートヴィヒ(グレートブリテン国王ジョージ1世)をはじめ、彼の秘書以外の廷臣は誰も葬儀に参列しなかった。

哲学

「モナドロジー(単子論)」「予定調和説」を提唱した。その思想は、単なる哲学、形而上学の範囲にとどまらず、論理学、記号学、心理学、数学、自然科学などの極めて広い領域に広がる。また同時に、それらを個々の学問として研究するだけでなく、「普遍学」として体系づけることを構想していた。学の傾向としては、通常、デカルトにはじまる大陸合理論の流れのなかに位置づけられるが、ジョン・ロックの経験論にも深く学び、ロックのデカルト批判を受けて、精神と物質を二元的にとらえる存在論およびそれから生じる認識論とはまったく異なる、世界を、世界全体を表象するモナドの集まりとみる存在論から、合理論、経験論の対立を回収しようとしたといえる。

モナドロジーの立場に立つライプニッツからすれば、認識は主体と客体の間に生じる作用ではなく、したがって直観でも経験でもない。自己の思想をロックの思想と比較しながら明確にする試みとして、大著「人間知性新論」を執筆したが、脱稿直後にロックが亡くなった(1704年)ため公刊しなかった。これが公刊されるのはライプニッツの死後49年がたった1765年のことであった。ライプニッツの認識論には、無意識思想の先取りもみられる。また、フッサールやハイデガーなどを初めとする現象学の研究者から注目を集め様々に言及されている。

さらにライプニッツは、20世紀後半に至って、「必然的真理とは全ての可能世界において真となるような真理のことである」といった可能世界意味論に基づく様相理解の先駆者と見なされるようになった。このような考え方は、ルドルフ・カルナップの『意味と必然性』を嚆矢とし、その後アーヴィン・プランティンガやデイヴィッド・ルイスなどの影響もあり、ライプニッツの様相概念についての通説として定着した感があるほどである。

その他、最近では、最晩年(1714年)に著した『中国自然神学論』が注目を集め、比較思想の観点からも(洋の東西を問わず)研究が進められつつある。

同時代の哲学者との関係

ライプニッツは、同時代の著名な知識人とはほぼすべて交わったと考えてもよいくらい活動的であった。

  • 特筆されるのは、1676年にバールーフ・デ・スピノザを訪問したことである。そこでライプニッツは『エチカ』の草稿を提示された。だが、政治的問題もあり、またそれ以上に実体観念や世界観(特に「必然性」や「偶然性」といった様相をめぐる議論)の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。
  • デカルトやスピノザの他に、マルブランシュの影響を強く受けている。
  • ライプニッツが生涯に書簡を交し合った相手は1,000人を優に超えると言われている。王侯貴族から全くの平民にまで及んだ書簡相手の内でも特に重要と目されている人物としては、『形而上学叙説』をめぐって書簡を交わしたアントワーヌ・アルノー[注釈 2]、デカルト主義者の自然学者にしてピエール・ベールの友人としても知られるブルヒャー・デ・フォルダー、晩年の10年間にわたり130通に及ぶ書簡をやり取りしたイエズス会神父のバルトロマイウス・デ・ボス、最晩年の2年間、アイザック・ニュートンの自然学及び哲学との全面対決の場ともなったサミュエル・クラーク(英語版)(ニュートンの弟子であり友人でもあった。ライプニッツとクラークとの往復書簡(英語版))などが知られている。

著作

『力学要綱』と『弁神論』を除くと、その著作の大半は未完で、かつ死後相当の時間を経て刊行されたため、ライプニッツの学の全貌は17~18世紀に完全には理解されないまま、楽天主義的であるとの誤解を生んだ[注釈 3]。全集は2024年現在も完結していない。

モナド

複合体をつくる単純な実体で、ここでいう単純とは部分がないということである。モナドは自然における真のアトム(=不可分なるもの)であり、これが宇宙における真の存在者である。したがってモナドは単純実体ではあるが、同時にモナドは表象 perception と欲求 appetite とを有するが故に、モナドは自発的に世界全体を自己の内部に映し出し世界全体を認識するとともに、その内部に多様性と変化とを認めることが可能となる。そしてこの内的差異によって、あるモナドは他の全てのモナドから区別される。モナドには「窓はない」ので他のモナドから影響を蒙ることはないが、神が創造において設けておいた「予定調和」によって他のモナドと調和的な仕方で自己の表象を展開する、すなわち意志に応じて身体を動かすといった働きができるのである。要するに、モナドとは魂に類比的に捉えられる存在者なのである[24]。

法学

ライプニッツはアルトドルフ大学より法学博士号(Doctor juris)を授与されている。法学への関心は実務から自然法まで幅広いものであった。法学の後進性や乱雑さに不満を抱き、数学的な法学の改革を志向した。また、主権を研究し、ドイツやヨーロッパの連邦化を構想していた。

数学

ライプニッツが1697年に書いた書簡。2進法の記述が見える。

微積分法をアイザック・ニュートンとは独立に発見・発明し、それに対する優れた記号法すなわちライプニッツの記法を与えた。現在使われている微分や積分の記号はこれによるところが多い。

しかし、それと同等か、あるいはそれ以上に重要な業績は今日の論理学における形式言語に当たるものを初めて考案したことである。ライプニッツによれば、それを用いるとどんな推論も代数計算のように単純で機械的な作業に置き換えることができ、注意深く用いるなら誤った推論を原理的に起こり得なくできるという。ライプニッツは数名の優秀な人材が取り組めば、実現に5年もかからないと信じていたようだが、現実には実現に300年以上を要した。彼は記号に「取り憑かれた」人物で、論理学以外にも例えば幾何学について、記号を用いて機械的に証明をする構想を得ていた。これも実現は後世を待つこととなる。

上記の事柄に含まれるが、2進法の研究もライプニッツの功績である。イエズス会宣教師ジョアシャン・ブーヴェは、中国の古典『易経』に関心をもっていたライプニッツに六十四卦を配列した「先天図」を贈り(1703年)、ライプニッツはすでに編み出した2進法の計算術を、その図から見いだしている。

また独自の機械式計算機を考案しており、生前は独自に改良を重ねていた[25]。

ドイツ出身の悲哀

ライプニッツは三十年戦争の後遺症がまだ残るドイツという、後進国出身の悲哀を味わわなければならなかった。ライプツィヒ大学の哲学教授であった父には、幼いころから読書を教わり、14歳で父が務めた大学に進んで2年後に卒業するが、当時のドイツの大学はイギリスやフランスに比べて立ち遅れており、ライプニッツの理論を正当に理解・評価できる人は学内にあまりいなかった。

ライプニッツを尊敬したのは、外交顧問、図書館長として仕えたハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィー、その娘ゾフィー・シャルロッテ(プロイセンの王フリードリヒ1世妃)、選帝侯夫妻の孫ゲオルク・アウグスト[注釈 4]の妃のキャロライン[注釈 5]らであった。ライプニッツは、1700年にゾフィー王妃の招きでベルリンに赴き科学アカデミーの創設に参加して、初代総裁に就任している。しかし5年後に同王妃が肺炎で死去すると、ベルリンはライプニッツにとって居心地のよい場所ではなくなってしまった。

ハノーファーでは選帝侯妃ゾフィーも死去し、その1714年に息子の選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒはグレートブリテン国王ジョージ1世となって国王位を兼任する。キャロラインは選帝侯皇太子妃としてイギリスに移り住んだ。ライプニッツはジョージ1世に煙たがれており、イギリスに伴うことは許されずハノーファーに残されてしまう。政治的な支援者を失ったライプニッツに対して周囲は冷たく、晩年は侯家の家史編纂という仕事に熱も入らないまま、自分を理解してくれる外国の学者や友人とひろく文通をかわすだけの日々を過ごした。その文通相手は国内外あわせて千人を超えた[注釈 6]。

「これほど能力が高くて、これほど後世に影響を与えなかった人は珍しい」という評が残っている[要出典]。

著作

  • ライプニツ(著)『形而上学叙説』河野与一(訳)、岩波書店〈哲学古典叢書 3〉、1925年。
    • ライプニツ(著)『形而上学叙説』河野与一(訳)、岩波書店〈岩波文庫〉、1950年4月。ISBN 400-3361628。
  • ゴツトフリード・ウヰルヘルム・ライブニツツ(著)『ライブニツツ』松永材、小暮春雄(訳)、尚文堂〈哲学名著選集〉、1925年。
  • ライプニツツ(著)『単子論』河野与一(訳)、岩波書店〈哲学古典叢書 5〉、1928年。
    • 改版。ライプニツ(著)『単子論』河野与一(訳)、岩波書店〈岩波文庫〉、1951年9月。ISBN 400-336161X。
  • ライプニッツ(著)『モナドロジー 他二篇』谷川多佳子、岡部英男(訳)〈岩波文庫〉、2019年5月。ISBN 400-3361695。各・新訳版。
  • ライプニッツ(著)『形而上学叙説 他五篇』佐々木能章(訳)〈岩波文庫〉、2025年2月。ISBN 978-4003361634。
  • ライブニッツ(著)『モナッド論』2巻、松永材(訳)、春秋社〈世界大思想全集〉、1929年。
  • 『ライプニッツ論文集』園田義道(訳)、春秋社〈春秋社思想選書〉、1949年。
    • 改版。『ライプニッツ論文集』園田義道(訳)、春秋社〈大思想選書〉、1950年。
    • 改版。『ライプニッツ論文集』園田義道(訳)(改訂版)、日清堂書店、1976年。
  • ライプニッツ(著)『人間知性新論』米山優(訳)、みすず書房、1987年12月。ISBN 4-622-08732-4。新装版は2018年6月刊。
  • ライプニッツ(著)『モナドロジー 形而上学叙説』清水富雄、竹田篤司、飯塚勝久(訳)、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2005年1月。ISBN 4-12-160074-6。
  • 高田博行、渡辺学(編)『ライプニッツの国語論 ドイツ語改良への提言』法政大学出版局〈叢書・ウニベルシタス 843〉、2006年3月。ISBN 4-588-00843-9。
  • 『形而上学叙説 ライプニッツ=アルノー往復書簡』橋本由美子、秋保亘、大矢宗太朗(訳)、平凡社〈平凡社ライブラリー〉、2013年8月。ISBN 4-582-76794-X。
  • 『ライプニッツ著作集』工作舎。新装版は2018-2019年刊。
    1. 『論理学』1988年12月。ISBN 4-87502-149-6。改版は2019年11月刊、ISBN 978-4-87502-514-6。
    2. 『数学論・数学』1997年4月。ISBN 4-87502-277-8。改版は2019年7月刊、ISBN 978-4-87502-510-8。
    3. 『数学・自然学』1999年3月。ISBN 4-87502-306-5。改版は2019年5月刊、ISBN 978-4-87502-507-8。
    4. 『認識論『人間知性新論』』上、1993年8月。ISBN 4-87502-221-2。改版は2018年11月刊、ISBN 978-4-87502-498-9。
    5. 『認識論『人間知性新論』』下、1995年7月。ISBN 4-87502-253-0。改版は2018年11月刊、ISBN 978-4-87502-499-6。
    6. 『宗教哲学『弁神論』上、1990年1月。ISBN 4-87502-164-X。改版は2019年3月刊、ISBN 978-4-87502-505-4。
    7. 『宗教哲学『弁神論』下、1991年6月。ISBN 4-87502-180-1。改版は2019年3月刊、ISBN 978-4-87502-506-1。
    8. 『前期哲学』1990年12月。ISBN 4-87502-175-5。改版は2018年9月刊、ISBN 978-4-87502-496-5。
    9. 『後期哲学』1989年6月。ISBN 4-87502-154-2。改版は2019年9月刊、ISBN 978-4-87502-512-2。
    10. 『中国学・地質学・普遍学』1991年12月。ISBN 4-87502-193-3。改版は2019年1月刊、ISBN 978-4-87502-501-6。
  • 『第II期』全3巻、工作舎〈ライプニッツ著作集〉。
    1. 『哲学書簡』2015年5月。ISBN 978-4-87502-463-7。
    2. 『法学・神学・歴史学』2016年10月。ISBN 978-4-87502-477-4。
    3. 『技術・医学・社会システム』2018年6月。ISBN 978-4-87502-494-1。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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