それから (1985年の映画)
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| それから | |
|---|---|
| And Then | |
| 監督 | 森田芳光 |
| 脚本 | 筒井ともみ |
| 原作 | 夏目漱石 |
| 製作 |
黒澤満 藤崎貞利 |
| 出演者 |
松田優作 藤谷美和子 小林薫 |
| 音楽 | 梅林茂 |
| 撮影 | 前田米造 |
| 編集 | 鈴木晄 |
| 制作会社 |
サンダンス・カンパニー(企画) セントラル・アーツ(製作協力) |
| 製作会社 | 東映 |
| 配給 | 東映(東映洋画[1][2]) |
| 公開 |
|
| 上映時間 | 130分 |
| 製作国 |
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| 言語 | 日本語 |
| 配給収入 | 3.5億円[3] |
『それから』は1985年11月9日公開の日本映画[4]。監督は森田芳光、主演は松田優作[4]。カラー、PANAVISION、130分[4]。東映製作、映倫番号:111792[4]。
『三四郎』から『門』へ続く夏目漱石恋愛三部作のひとつ『それから』初の映画化[5]。古典名作を、現代的感覚で世に問うた文芸映画[6]。東映洋画配給で全国公開された[1][2]。
1985年度の第59回キネマ旬報ベスト・テン日本映画監督賞・第10回報知映画賞監督賞・第9回日本アカデミー賞優秀作品賞、優秀監督賞、最優秀助演男優賞(小林薫)、最優秀撮影賞(前田米造)、最優秀照明賞(矢部一男)、最優秀録音賞(橋本文雄)を受賞[7]。
エンディングクレジット順。
スタッフ
製作
企画はサンダンス・カンパニーの古澤利夫(藤峰貞利)[9][10]。20世紀FOXの社員でありながら、1969年からの旧知だった角川春樹に請われ、FOXから名前を出さない等の条件の下に承諾を取り付け[11]、1976年の角川春樹事務所立ち上げ時から角川映画の全作品の製作宣伝配給興行部門で角川春樹の黒子役に徹していた[11][12]。1980年代になって角川春樹自身が監督業に進出、さらに配給業に乗り出したことを不安視し、1985年の『カムイの剣』の劇場編成を最後に角川春樹から了解を得て角川映画から手を引いた[9]。その後、東映社長の岡田茂から年に2本ペースの映画製作に誘われたことから、FOXから許可を取り、同社に籍を置いたまま「サンダンス・カンパニー」を設立した[9]。社名は古澤の一番好きな映画『明日に向って撃て!』の著名なロバート・レッドフォードの役名から[9]だった。こうした事情でここでも表に名前は出せず、企画・製作・プロデューサークレジットは「藤峰貞利」で統一した[9]。その設立を耳にした松田優作から誘いを受けており、さらに森田芳光からも協力を申し出られていたことから、二人と組んで本作を企画した[9]。その後、東映で『野蛮人のように』『紳士同盟』『悲しい色やねん』を企画[9]。以降は東宝と組むことが増え、『快盗ルビイ』『どっちにするの。』『香港パラダイス』『おいしい結婚』『毎日が夏休み』「学校の怪談シリーズ」『愛を乞うひと』『非・バランス』『OUT』『あの空をおぼえてる』などを企画した[9]。
東映は1977年の『人間の証明』以来、角川春樹事務所と長く蜜月関係にあり[13][14][15]、配給のほとんどを東映洋画が請け負っていた[15]、1985年に角川が自主配給の方針を打ち出したため[16]、提携を解消した[1]。洋画系劇場に掛ける作品が減ったことから、岡田茂東映社長が東映洋画に映画製作を指示し[15]、第一回の自主製作として本作が製作された[1][注 1]。
作品の選定
本作は夏目漱石原作であるが、ヒントになったのはデヴィッド・リーン監督の『逢びき』で、古澤と松田優作が映画の話をしてた時、優作が大好きなロバート・デ・ニーロが今、ニューヨークで『逢びき』のリメイク『恋におちて』を撮っているという話になり、「あんな映画をやってみたい」と優作が話したことが本作の企画に繋がった[18]。
古澤が「松田・森田の企画」として最初に構想していたのは『さよなら』というタイトルの核シェルターのセールスマンの話で、国会議事堂の下に政治家専用のシェルターがあるというプロットだった[10]。森田の妻・三沢和子がホンを書いたが、ニューヨークで書いたこともあり、古澤から「何10億円かかるんだ!」と蹴られた[10]。ほかにもたくさんの企画が挙がっていたという[10]。
森田監督は
松田優作と僕との企画で決まったわけ。二人で何かやらないか、それだったらお金を出しますよということがそもそもの始まり(松田優作はセントラル・アーツに所属する俳優)。それでニューヨークに行って、僕のオリジナルなんかも考えたんだけど、あんまり出来が良くなくて、何をやろうかと考えて。僕は『それから』というのは40代でやろうと思って温めておいて作品で、それを言ったら優作が『おっすごい、それをやろうと言って決まった
と述べている[5]。プロデューサー陣も賛同したことから製作が決定した[6]。
演出
森田監督は、
僕は日本映画のファンですから、監督の人生というか軌跡というか、そういうものを映画ファンとして見ると、監督の人生がピークになるのは、40代だと思うの。40代の一番油が乗りきってしかも感覚がまだ衰えていないかつ人間的にも円熟しているときに、一番バランスのいい状態で文芸作品が撮れるんじゃないかと。『それから』は夏目漱石がいい状態の時に書いてる小説だから負けちゃうと思ったのね。だからまさかこんなに早くやるとは思わなかったけども、大貧民で言えば切り札を先に出し過ぎちゃった気はするけど。しょうがないよね、いつ死ぬか分からないんだから。あと自分の脚本でやるということに限界が見えたのね。他人の脚本が初めてですけど、その方が僕の世界が広がると思ったから。案の錠すごく楽だったね。楽だったけど、また自分の脚本でやってみたいという気にもなった。自分の脚本を信頼していなかったわけよね。自分は脚本家として優秀だと思ってないから、要するに現場で直していかなきゃならない。そういうのはやっぱり徒労なんだよね。そんなことより監督としては、もっと芝居に集中したり、美術・照明・撮影に集中した方が、監督として力を発揮できるんだよね
などと話している[5]。
『週刊平凡』での三浦弘子(旧芸名:牧陽子、三浦友和の姉)との対談では
漱石の作品は全部読んでないです。『坊ちゃん』とか『吾輩は猫である』のようなポピュラーなものは実は読んでないです。僕はあまのじゃくなんでしょうね。誰でも読んでいるものは読みたくなかったんです。大学時代に『それから』『門』『虞美人草』は読みました。いま足りないもの、いま無いものがヒット商品になる時代でしょ。"現代人にはビタミンCが不足している"となると突如、ビタミンCが注目を浴び、みんながビタミンCの錠剤で補給したがるようになるわけです。いつも僕は言っているんですが、いま足りないものや、前はあったけどいま足りないものが新しいんじゃないかと思うんです。その信念で映画を撮っている僕がいま不足しているのは夏目漱石だ、と思ったのは間違いない。明治時代のゆったりとした流れ、優雅な動き、格調ある描写こそがいま新鮮、きっと若い人がなびいてくれるだろうと考えたんです
代助、三千代、平岡の三角関係を古い形の深い愛をとらえるとヤバイんですよ。これは新しい恋愛ゲームの手引きとして考えてくれればいい...その、愛にジリジリしたものまでもゲームととらえると実に現代風になる。単純に愛に飢えた男女が言葉遊びをやっていると考えれば、こんな現代風な恋愛ゲームはないんじゃないかと思えてくる。そこまで漱石が描こうとしてたかどうかは分かりませんが。僕は、この漱石ロマンの根底にある"純愛"も今だからこそ新しい愛の形だと思うんです。今は情報過多の時代ですから、頭デッカチになって、例え経験しなくてもセッ〇スに飽き飽きした状態になっていくような気がしますね。これからの若者たちはセッ〇スを超えた"純愛"を求める時代になると思いますよ」「お金儲けのための映画作りはしたくない。みんなに次を期待される僕には許されないことだからね。そのとき、そのときの時代と闘っていきます。監督は大きな称賛も受けるけど、大きな恥もかく。楽しんでやれるほどこの商売甘くないですよ。だけど、こんなムダのない商売もない。こうやって取材を受けてても、すべて映画作りの情報になる。寝て夢を見れば、それが幻想シーンに役立つしね。ふしだらなことをしても全部勉強になるんですから(笑)
などと述べた[8]。
『週刊宝石』の取材に対しては
などと述べ[19]、ビデオを始め、ニューメディア映像全盛の時代背景から、映画人口の減少など、映画産業の危機が叫ばれて久しかったが[19]、森田は
映画人は遅れている。俺は、言葉・行動・作品で映画界を刺激する"ユンケル黄帝液"でありたい
などと当時の流行りものに例えて、自ら"台風の目"宣言を行った[19]。
脚色・スタッフ
脚本(脚色)は松田からの推薦で筒井ともみが抜擢された[6]。筒井を始め、音楽・梅林茂、美術・今村力、録音・橋本文雄など、森田組を語る上で欠かせないスタッフとの出会いの1本となった[6]。この結集はセントラルアーツの黒澤満によるもの[10]。
DVDに収録されている当時の特報によると、当初は元ジャパンのスティーヴ・ジャンセンとリチャード・バルビエリが音楽を担当する予定であった。
キャスティング
森田監督は松田優作について、
彼は日本映画の範疇を越えていましたね。ロバート・デ・ニーロやジャック・ニコルソンが演じる役をやってもおかしくない。世界的な役者になってしまったんじゃないですか。今後、彼を使うには、どの監督もてこずると思いますよ
などと評した[8]。
三千代役の藤谷美和子は、森田が小説を読んだときからイメージしたキャスティングであり、それで藤谷をいかに綺麗に撮るか腐心した[5]。
撮影
登場人物のエモーショナルな感情を抑制したタッチで描いた[6]。森田は漱石の原作を大事にし、とりわけ台詞を現代風には置きかえず、そのまま使用している。森田は
僕は漱石をやりたかったんで、『それから』は換骨奪胎するような小説じゃない。あの言葉の調子が心理描写で、あの時代がまさしく人間の環境であるし、今に置きかえるのも無理だと思った。どうこの古い作品に取り組むかによって、それは当然新しいものが投射されるわけだから、それを期待しましたね。古いことに対し、忠実であればあるほど新しくなるという僕の仮説で恐かったけどね。古いものを忠実にやって果たして自分が出るのかと。それはチャレンジでした
などと述べている[5]。
森田は、その人の意識を容易に説明する回想シーンが好きでなく、意図的に避けてきたが、本作ではどうしても必要で取り入れた[5]。実験的にアルバムをめくるような回想シーンにするため、『ライブイン茅ヶ崎』で取り入れた、役者の動きを止め、カメラスピードを約3倍にして撮影する「スロウニュアンス」という技術を取り入れている[5]。
森田は、松田優作に「森田の目は怖すぎるから眼鏡を掛けてくれ」と言われて本作から大きなサングラスを掛けるようになった[5][20]。自身も目付きが悪いことは認識していたし、ベテラン俳優に演出をするとき恐いし、掛けてみるとNGが多い笠智衆とかにもNGを出しやすかったという[5]。日本映画の重鎮として敬愛する笠への何10回と重ねたNGは、今回の撮影で一番怖い対決だったという[6][8]。撮影途中に森田が急にデカいサングラスを掛け始めたため、スタッフも驚き、クランクアップの記念撮影では、スタッフ全員がデカいサングラスを掛けるシャレを行った[19]。森田は自主映画出身の旗手になった人だが、その後にっかつで鍛えられ、東映、東宝、最後は『武士の家計簿』で松竹と、邦画御三家の撮影所でも偉そうにしないことから、どこの撮影所に行ってもスタッフに慕われた[10]。
作品の評価
興行成績
全国東映洋画系劇場77館で公開され[1]、ローカルで伸びなかったが[1]、配収3.5億円[3]。国内外の多くの映画賞を受賞し、森田芳光監督の名前を一気に高めた[1]。岡田東映社長は
大方が大損すると見てたがまあ何だかんだで怪我せずに済んだ。興行的には危険極まりない映画の一つだが(二次使用を含めて)そこそこモトを取れる段階に持ち込んだわね
などと評している[15]。
批評家評
- 水野晴郎は
などと評した[21]。
北川れい子は「これはパロディか、はたまたシリアスドラマか、パロディにしては時代がかった画調に苦心が忍ばれるし、シリアスにしては人物たちの大げさな言動がしらじらしい。『坊ちゃん』以外にクソ面白くもない漱石に森田監督が惹かれたのは『の・ようなもの』同様、タイトルだけだったりして」などと[22]、手塚眞は「ワザと古式豊かなリズムを現代的な演出に挟み込むという離れ技をやっています。けれどヘンな映画です。中村嘉葎雄とイッセー尾形が小津」などと[22]、松田政男は「冒頭の『文部省特選』でドギモを抜かれ、国民文学に相応しい国民映画かと思ったら、やはりモリタ映画だったので安心した。しかし新興ブルジョアを描く手高は眼低なのでないか」などと評している[22]。
森田自身による作品評
と述べていた[23]。
受賞歴
- 第59回キネマ旬報ベスト・テン第1位、読者選出日本映画ベスト・テン第2位
- 第40回毎日映画コンクール
- 第10回報知映画賞
- 作品賞
- 監督賞(森田芳光)
- 第9回日本アカデミー賞[24]
- 最優秀助演男優賞(小林薫、『恋文』と合わせて)
- 最優秀撮影賞(前田米造、『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』と合わせて)
- 最優秀照明賞(矢部一男、『CHECKERS IN TAN TAN たぬき』と合わせて))
- 最優秀録音賞(橋本文雄、『刺青 IREZUMI』などと合わせて)