リカルド・リデル
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2005–09
2012
2004
2003
2002–04
2001, 2004
2001
1994–2000
1992
1990, 1992
1990
1990
1992–93
1989
1988–89
1991
1987–88
1987 スカンジナビアツーリングカー選手権
世界ツーリングカー選手権
TC2000アルゼンチン選手権
V8スーパーカー
ヨーロッパツーリングカー選手権
スウェーデンツーリングカー選手権
FIA GT選手権
イギリスツーリングカー選手権
全日本F3000選手権
イギリスF3000選手権
全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権
全日本F3選手権
国際F3000選手権
イギリス・フォーミュラ3選手権
スウェーデン・フォーミュラ3選手権
フォーミュラ3・ユーロシリーズ

リカルド・リデル(Rickard Rydell , 1967年9月22日 – )は、スウェーデン・ストックホルム出身の元レーシングドライバー。日本のレース雑誌やテレビ番組ではリカルド・ライデルと表記されることもある。
フォーミュラカー
1984年、1985年にスウェーデンカート選手権(100cc部門)でチャンピオンとなった。
F3においては、スウェーデンF3(1987年、1988年)、イギリスF3(1989年、1991年)、全日本F3(1990年、1992年、1993年)、と、実に7年もの長きに渡って各国のF3選手権に参戦した。この間、1989年のイギリスF3ではエディ・ジョーダン・レーシング、全日本F3ではいずれの年もトムスに所属。1992年の全日本F3第8戦SUGOでは、決勝レースでデレック・ヒギンズのマシンと絡み、反動でリデルのマシンが高速で横転。頭部を路面側に向けたままグラベルで大破する恐ろしいクラッシュに遭うが、幸いにも大きな負傷に至らずにマシンからの脱出に成功。次戦からも無事参戦を継続しランキング3位となった[1]。
マカオグランプリでは1989年に3位表彰台、1991年のレースではポールポジションを獲得、続く1992年には優勝を獲得する活躍を見せた[2]。
1989年のシーズン終盤にはキャメルEJR(エディ・ジョーダン・レーシング)より国際F3000選手権にスポット参戦した。これはF1ティレルのレギュラーシートを獲得しF3000を卒業したジャン・アレジの代役参戦だった。1992年の全日本F3000選手権では同年より2カー体制に拡充したセルモから、エース格であるエディ・アーバインのセカンドシートを得て参戦し、第2戦富士ではポイントを獲得。しかし、第4戦鈴鹿でリデルに代わってスポット参戦した小河等[3]が第1コーナーで発生した高速でのクラッシュにより事故死、マシンも全損となったため以後セルモはアーバインの1台体制に縮小し、F3000のシートを失う。翌1993年からは再びナビコネクションから全日本F3に参戦し、勝利こそ1勝だったものの、全レースで表彰台に上がる安定した成績を収めトムスのトム・クリステンセンとタイトル争いを繰り広げたが、シーズン終盤になって体調を崩してしまい、最終戦のシートを舘善泰に譲り、これがフォーミュラでの最後の年となった。
ツーリングカー
1994年に日本からヨーロッパへと戻り、イギリスツーリングカー選手権(BTCC)への参戦を開始した。
初年度はボルボが投入した車がレースに不向きなステーションワゴンタイプだったこともあり苦戦を強いられたが、翌年はセダンタイプが投入されたため、リデルは24レース中13レースでポールポジションを獲得するという、圧倒的な速さを見せつけた。しかし、リデルはスタートを苦手としており、せっかくのポールポジションをフイにすることもしばしば見られた。そのため、優勝はポールポジション獲得回数を大きく下回るわずか4回に留まり、また、終盤ボルボが不調に陥ったこともあり、最終的なランキングも3位に終わった。
BTCCでは、この後も1996年、1999年、2000年はいずれも3位で終えており、チャンピオン争いには絡むものの、最終的にそれを逃すというシーズンを多く送ったが、1998年には念願のタイトルを獲得している[4][5]。
2001年は、ヨーロッパツーリングカー選手権(ETCC)への参戦準備を始めたボルボのためツーリングカーから一時離れ、FIA GT選手権にプロドライブチームから参戦した。リデルはA1リンクとハラマのレースにおける優勝に貢献し、同チームはフェラーリ・550マラネロ勢の中ではトップとなるランキング5位を獲得した。
2002年以降はETCCに参戦し、2004年にチームをセアトに移し、2005年に同選手権が世界ツーリングカー選手権(WTCC)となり、以後2シーズンに渡って走った。2007年は同選手権におけるセアトの活動縮小に伴い一旦シートを失ったため、またしても一時ツーリングカーを離れ、アストンマーティンのワークスチームからル・マン24時間レースに参戦。総合5位、GT1クラス優勝という結果を残した。WTCCにもル・マン後に地元スウェーデンで開催されたレースでシボレーからスポット参戦し、第2レースを劇的な追い上げの末に優勝。その後、シーズン終盤にはBMWと僅差でタイトル争いを繰り広げていたセアトから請われてチームに復帰した(WTCCで1シーズンの間に複数のチームから参戦した初の例)。
2012年以降はフルタイムでの参戦ではなくスポット参戦となり、2016年に引退を表明した[6]。
引退後は、フォーミュラ1中継のアナライズ・コメンテイターなどを務めている[7]。