エンリコ・ベルタッジア
From Wikipedia, the free encyclopedia
| エンリコ・ベルタッジア | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 国籍 |
|
| 出身地 | 同・ノアーレ |
| 生年月日 | 1964年9月19日(61歳) |
| F1での経歴 | |
| 活動時期 | 1989,1992 |
| 所属チーム |
'89 コローニ '92 アンドレア・モーダ |
| 出走回数 | 6 (0スタート) |
| タイトル | 0 |
| 優勝回数 | 0 |
| 表彰台(3位以内)回数 | 0 |
| 通算獲得ポイント | 0 |
| ポールポジション | 0 |
| ファステストラップ | 0 |
| 初戦 | ベルギーGP |
| 初勝利 | - |
| 最終勝利 | - |
| 最終戦 | 1989年オーストラリアGP |
エンリコ・ベルタッジア(Enrico Bertaggia、1964年9月19日 - )は、イタリアのレーシングドライバー。ヴェネト州ノアーレ出身。1987年イタリアF3チャンピオン、1988年マカオグランプリ覇者。
フランスのジャン・アレジ、イギリスのジョニー・ハーバートと並ぶ「花の1964年組」イタリアの新星として1987年にイタリアF3、1988年にマカオグランプリF3を制するなど、F1予備軍の筆頭としてレース関係者から注目を浴びた[1]。
1989年、F1第11戦ベルギーGPからリアルに移籍したピエール=アンリ・ラファネルの後任としてイタリアのコローニと契約し最終戦オーストラリアGPまでF1参戦を果たすも、参戦した6戦すべて予備予選不通過に終わった。なお、コローニのシート獲得は、当初エリック・ヴァン・デ・ポールがコローニと契約していたが、F3000で3位入賞経験があった彼にスーパーライセンスの発給許可が下りなかったため、前年のF3タイトル獲得によりスーパーライセンス受給資格があったベルタッジアに話が回って来たものだった[2]。
1990年に日本のフットワークと契約し、全日本F3000選手権にフル参戦した。当時の全日本F3000はエントリー台数も多く、予選用ハイグリップタイヤの存在など競争もハイレベルにあり、テスト走行を終えたベルタッジアは「クルマのバランスはとてもいいです。スロットルも踏めるだけ踏んで、精一杯攻めている」とF1コローニ時代にはない充実感だとコメントした[3]。第3戦西日本大会では3位表彰台を獲得した[4]。
翌1991年も同体制で全日本参戦2年目を戦っていたが、第5戦鈴鹿大会直前にフットワーク・フォーミュラのF3000参戦が休止されてしまい、日本でのレース活動終了となった。
1992年にコローニを買収したアンドレア・モーダと契約してF1復帰を狙ったが、国際自動車スポーツ連盟(FISA)への保証金が未払い[5]などお粗末なチーム体制だった為[6]、第2戦後にアレックス・カフィと共にチームを離脱し、1度も決勝を走ることもなくF1から姿を消すことになった。
その後はイギリスF2選手権、母国イタリアやドイツのツーリングカーレースに参戦[7]。1995年にはル・マン24時間レースに参戦し、クラス2位で完走を果たした[8]。