レパダウン銅山
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| レパダウン銅山 | |
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| 所在地 | |
| 座標 | 北緯22度7分 東経95度7分 / 北緯22.117度 東経95.117度座標: 北緯22度7分 東経95度7分 / 北緯22.117度 東経95.117度 |
| プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
レパダウン銅山(レパダウンどうざん、ビルマ語: လက်ပံတောင်းတောင် ကြေးနီသတ္တုတွင်း、英語: Letpadaung Copper Mine)は、ミャンマーのザガイン地方域インマービン県サリンジー郡区に位置する大規模な露天掘り銅山である。モンユワ銅山プロジェクトを構成する4つの鉱床のうち最大規模で、全鉱床の75%を占めるとされる[1]。
同銅山は、国営企業、外国企業、ミャンマー国軍系企業が関与する共同事業として開発が進められてきた。2010年代以降は中国国有企業系の万宝鉱業(Wanbao Mining)が事業運営に関与しており、採掘された銅は中国、タイ、ベトナムなどへ輸出されている[2][3]。なお、2019年の時点で鉱山労働者は約3,500人で、その90%はミャンマー人だった[4]。
一方で、レパダウン銅山をめぐっては、土地収用、住民移転、抗議運動への治安部隊の対応、環境汚染の懸念などを背景に、国内外で人権・環境問題が指摘されている[5]。
モンユワ銅山プロジェクトは、サベーダウン(Sabetaung)鉱床、サベーダウン・サウス(Sabetaung South)鉱床、チージンダウン(Kyisintaung)鉱床、そしてレパダウン鉱床の四つの鉱床で構成されている[6]。その中でレパダウン銅山はモンユワの西約5キロメートルに位置し、標高は約162メートルである。鉱床は地下に広く分布しており、北西方向に約2.2キロメートル、東西方向に約1.4キロメートルの範囲に及ぶ[7]。鉱石に含まれる銅の割合は平均で約0.4%と比較的低いものの、鉱床規模が非常に大きいため、露天掘りによる大規模な採掘が可能であり、推定鉱石量はレパダウン鉱床単体で約16億トンに達するとされる[8]。
鉱山敷地内および周辺には複数の村落が点在しており、最も近い人口密集地はチンドウィン川西岸のニャウンビンジー(Nyaungbingyi)と東岸のモンユワであり、モンユワの人口は約50万人である。鉱山はミャンマー中央平野のチン丘陵東側、チンドウィン川西岸に位置し、標高はチンドウィン川岸の海抜75メートルからレパダウン丘陵の頂上330メートルまで変化する。この地域の気候は、乾燥した大陸性モンスーン気候で、植生は主に低木や草本からなり、耕作地も広がっている。冬は暖かく乾燥しているが、夏は非常に暑く雷雨が発生し、局地的な洪水が発生することもある[6]。
交通アクセスは比較的良好で、ヤンゴンからモンユワへの航空便が運航されており、マンダレーからは舗装道路を通って車で約3時間、チンドウィン川に架かる橋を渡ることで鉱山へ到達できる。また、エーヤワディー川沿いの町パコックからもチンドウィン川西岸の未舗装道路を経由してアクセス可能である。モンユワは鉄道でマンダレーやヤンゴンとも結ばれており、エーヤワディー川とチンドウィン川は銅や資材、重機の輸送に重要なルートとなっている[6]。
開発の歴史
モンユワ地域における銅鉱床の存在は古くから知られており、サベーダウン周辺の村落には古い鉱滓がいくつか残っている[9]。
1900年代初頭、ある英国企業がレパダウン地域で金と銅の鉱区を登録し、いくつかの小規模な横坑が掘削された。1930年代には、レパダウン鉱床内で、マラカイトなどを含む鉱石を採掘し、そこから金属銅を採取する試みが行われ、大規模採掘も開始されたが、失敗に終わりすぐに中止された[9]。
1950年代半ば、ビルマ地質局とユーゴスラビアの調査団が地域調査の一環としてこの地域を訪れ、更なる調査を勧告した。 1957年から1960年にかけて、ビルマ地質局は外国の請負業者を用いて、モンユワ銅鉱区の経済調査を実施した。この調査に続き、ビルマ地質局は追加の掘削を行った[9]。
1950年代半ばには、ビルマ地質局とユーゴスラビアの調査団が地域調査を実施し、さらなる調査の必要性を勧告した。1957年から1960年にかけては、ビルマ地質局が外国の請負業者を用いてモンユワ銅鉱区の経済調査を行い、追加の掘削も実施された。1972年から1976年、日本の海外技術協力事業団(OAT)は、サベーダウン鉱床およびチージンダウン鉱床の開発可能性を調べるための探査や小規模実験プラントの建設に資金を提供した。サベーダウンでは地下探査が行われ、多くの坑井が掘削され、日産50トンのパイロットプラントも建設・操業されたが、最終的に精錬所の建設計画は実現しなかった[9]。
1978年6月、ユーゴスラビアの第一鉱業公社とボル銅研究所(Bor Copper Research Institute)が、ユーゴスラビア政府から資金提供を一部得て、サベーダウン鉱床およびチージンダウン鉱床の開発計画や実行可能性調査を行った。同年、ビルマ国営企業である第一鉱山公社が、これらの計画に基づき、サベーダウン・チージンダウン銅山(S&K銅山)の採掘を開始した。ボル銅研究所は、サベーダウン、サベーダウン・サウス、チージンダウン産の鉱石を日産8,000トン処理するための選鉱施設[注釈 1]建設の基礎となる実行可能性調査および鉱山計画を作成した。1980年代半ばには、サベーダウング銅山からのみ原料鉱石が採掘され、チージンダウンでは限定的な剥土作業が行われていた[5][9]。
1996年4月、第一鉱山公社と、カナダの鉱山会社アイバンホーマインズ(現ターコイズヒルリソース社))の子会社であるアイバンホー・ミャンマー・ホールディングス社が50%ずつ出資する合弁会社、ミャンマー・アイバンホー銅社(Myanmar Ivanhoe Copper Company Limited)が設立され、同社がS&K銅山の開発と運営を担うことになった[5][9]。
同年9月には、MICCLは、日本の商社である丸紅英国有限会社および日商岩井ヨーロッパ有限会社と、S&K銅山建設のための9,000万ドルのプロジェクト融資枠に関する契約を締結し、丸紅・日商岩井は建設資金提供や銅の販売契約に関与した。1998年から1999年にかけて、このプロジェクト融資の一部は丸紅と千代田化工建設による7,500万ドルの一括設計・調達・建設契約に充当された[5][9]。
MICCLは溶媒抽出・電解採取工場(硫酸で銅鉱石を溶かし溶媒を使って銅分のみ抽出した後、電気を用いて銅地金を取り出す工場)を建設し、1998年末にはフル稼働態勢に入り、年間2万5,000トンの銅カソードの完全商業生産を達成した。鉱山の運営と生産はMICCLが担当し、日本企業は建設や融資、販売契約のパートナーとして関与した[5][9]。
2010年、ミャンマー政府はモンユワ銅山プロジェクトの枠組みを再編し、従来のカナダ系企業主導の体制を終了させたうえで、2011年にはミャンマー国軍系企業ミャンマー・エコノミック・ホールディングス・リミテッド(MEHL)と中国国有企業中国北方工業公司系の万宝鉱業との合弁会社を設立し、2011年から同社がレパダウン銅山の開発・操業を開始した[5]。
財政制度
| 地代 | 1フィート当たり500米ドル。鉱山の土地使用料として政府に支払われる。 |
| ロイヤルティ | 鉱石販売総額の4%が政府に支払われる。 |
| 費用回収 | 1トンあたり3,600米ドル。 |
| 生産配分 | 2013年以降、政府:51%、万宝鉱業:30%、MEHL:19%の配分 |
| 法人税 | 25%(商業運営開始から3年間は免除)。政府に支払われる。 |
| 商業税 | 8%。商品取引にかかる税金。 |
抗議運動
人権侵害と環境破壊
レパダウン銅山の開発および拡張に伴い、2011年から2014年にかけて、周辺地域では大規模な土地収用が実施された。しかし、この際、住民に対して十分な説明がなされず、補償額も生活再建策も不十分だったため、住民は不信感を強めた[11]。また、住宅地・農地だけではなく僧院などの宗教施設も収用の対象となったことにより、これが単なる経済問題ではなく、文化的・宗教的権利の侵害として受け止められた側面もあるとも指摘されている[12]。
また、モンユワ銅山プロジェクトでは、採掘に伴って発生する高濃度の酸や重金属による地下水および河川の汚染、水資源への影響、土壌汚染、大気汚染、騒音、悪臭など、さまざまな環境影響が従来より問題視されてきた。一方、関連企業はこのような環境破壊についてまったく措置を講ぜず、責任も取ってこなかった[5]。
このような状況を背景に、2012年9月頃から、鉱山周辺の村落では集会やデモ、鉱山施設周辺での座り込みなどの形で住民による抗議活動が始まった。抗議参加者は、土地の返還や補償の見直し、操業停止、環境調査の実施などを求め、農民に加えて僧侶も参加したことから、社会的関心は次第に高まった。折しも前年の2011年9月に、レパダウン銅山と同様に中国系企業主導で進められミッソンダム建設計画が、住民の抗議運動に遭ったテインセイン大統領の判断により一時凍結とされており、このことは、住民に抗議行動の正当性と実効性を意識させる契機の1つとなった[13]。
レパダウン調査委員会とアウンサンスーチー

2012年11月29日未明、レパダウン銅山周辺で行われていた住民および僧侶による抗議活動に対し、治安部隊が強制排除を実施した。この際、治安部隊は催涙弾や焼夷性物質を使用し、僧侶を含む多数の負傷者を出した。特に、使用された物質が白リン弾またはそれに類する化学物質であった可能性が指摘され、深刻な火傷を負った被害者が相次いだことから、国内外で強い批判が巻き起こった[5]。
この事件を受けて、政府はレパダウン銅山の操業停止命令を発令し、加えて、同年12月3日、当時野党にあった国民民主連盟(NLD)のリーダーだったアウンサンスーチーを委員会とする、レパダウン調査委員会を設立した[14]。
スーチーは調査のために現地を訪れたが、彼女の立場は、政府の暴力的措置を批判しつつも[15]、国家のイメージを損なわないために契約は遵守しなければならないというものだった[16]。そして、2013年3月12日に発表された報告書の内容は、補償の不十分性と不透明性は認めたものの、これらを改善することを条件に、銅山事業の継続を容認するものだった[14]。
2013年3月13日および14日、スーチーは報告書の内容を説明するため、再びレパダウン銅山周辺を訪れたが、現地では多数の住民に取り囲まれ、激しい抗議を受けた。この際、スーチーは住民に対し、「報告書に抗議したいのであれば、鉱山会社ではなく私の家でデモをすべきだ」「いかなる抗議活動も事前の許可を求める法律に従わなければならない」と述べ、法の支配を強調する立場を明らかにした。さらに彼女は、銅山事業の完全停止を求める声に対して、「もし完全に停止したら、現在の環境破壊を修復するための資金はどこから調達できるというのか」と問いかけ、また、「たとえレパダウン山が消え去ったとしても、私たちは皆さんのために良い、快適な環境を創り出すことができる」とも語ったが、これらの発言は、結果として住民の反発と怒りをさらに強め、「民主主義の守護神」というスーチーのイメージを損なうことになった[17][18][19]。
報告書発表後からクーデター前までの動向
報告書発表後も抗議運動は断続的に続いた[20]。2013年10月には、停止されていたレパダウン銅山の操業も再開した[21]。政府はデモや集会を扇動した活動家を指名手配し、逮捕拘束するなどして沈静化を図っていたが[22]、2014年12月22日、抗議運動に参加していた女性が警官に銃撃されて死亡するという事件が発生するにおよび、抗議運動は再び拡大した[23]。
2016年にはNLD政権が成立した後も、レパダウン銅山プロジェクトの操業停止や抜本的な見直しは行わず、抗議運動や抗議者の逮捕拘束も続いた[24][25]。2017年には、アムネスティ・インターナショナルが、政府に対してレパダウン銅山の操業停止を求める報告を発表した[26]。
2021年クーデター後の動向
2021年ミャンマークーデター後、国軍系企業MEHLと関係の深いレパダウン銅山は抵抗運動の標的となり、ミャンマー軍(国軍)の資金源になっているという批判に晒された[27]。また、銅山で働く労働者約2,000人のうち約300人がCDM(市民不服従)に参加して、職場を放棄し、一時操業停止を余儀なくされたと報じられた[28][29]。
一方、レパダウン銅山周辺でも国軍と抵抗勢力との間で小規模な衝突が断続的に発生しているとされる[30]。これに対応する形で、国軍は銅山敷地をフェンスで囲み、地雷を設置するなどして、銅山の厳重な警備に当たっているとの報告もある[31][32]。
さらに、2024年5月には、中国人労働者約80人がレパダウンを含む銅山現場に戻り、設備点検や操業再開に向けた準備を進めていると報じられたが、これに対して周辺地域では新たな抗議運動が発生した[33]。