ミャンマーの独立運動
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| 名称 | 日時 | 場所 | 内容 |
|---|---|---|---|
| 不詳 | 1885-1886年 | バゴー地方域シュエジン | マヤンチャウン(Mayanchaung)という僧侶が800~1,000人の軍勢を率い、黄金の傘と孔雀旗を掲げ、ティーボー王の名の下、英植民地政府打倒を宣言。参加者のほとんどがシャン族だった。 |
| 不詳 | 1886年 | ヤンゴン地方域タンリン県、エーヤワディ地方域パテイン県、ヒンタダ県 | 身分不詳のンガポミャ(Nga Po Mya)率いる約100人の軍勢が、水上警備隊を襲撃し、囚人を逃して銃を奪った。彼らは攻撃時、旗を立て、銅鑼を打ち鳴らした。 |
| 不詳 | 1886年 | タンリン県、パテイン県 | 身分不詳のンガシュエボ(Nga Shwe Bo)率いる30人の軍勢が、ティーボー王の名の下、徴税役人を殺害。本格的に武装蜂起する前に鎮圧される。 |
| 不詳 | 1886年 | バゴー地方域ターヤーワディ県南部、パテイン県 | 元徴税役人のマウンニー(Maung Ni)が、自身がティーボー王と称して、50人ほどの反乱軍を集めた。 |
| 不詳 | 1886年 | パテイン県、ヒンタダ県 | ンガシュエボ(Nga Shwe Bo)の一味だった身分不詳のシュエランボ(Shwe Lan Bo)が、ビルマ軍の将軍と称し、旗、ゴングなどを持ち、村民にビルマ政庁攻撃を呼びかけた。 |
| 不詳 | 1886年 | ターヤーワディ県南部 | ボー・アウン(Bo Aung)という農民が、未来王(ミンラウン)と称し、黄金の傘を立て、村々から武器を集め、参加者を募った。その後、一部はカレン族の反乱軍に加わった。 |
| 不詳 | 1886年 | ターヤーワディ県北東部、バゴー地方域ピイ県 | ポンジー・ボという僧侶がティーボー王の名の下、400人の軍勢を率いて、鉄道・線路・電報の回線を破壊した。 |
| 不詳 | 1886-1887年 | ターヤーワディ県南部 | 身分不詳のランダ(Landa)が刺青をして参加者を集い、守備隊を攻撃。 |
| 不詳 | 1886年 | ヒンタダ県北部 | シュエカ(Shweka)という医師兼刺青師が、ティーボー王の将軍と称した。 |
| 不詳 | 1887年 | タンリン県 | ボー・タディン(Bo Tha Din)がビルマ王によって司令官に任命されたと称し、金の傘、孔雀旗、お守りのハンカチを使用。 |
| 不詳 | 1888年 | タニンダーリ地方域ダウェイ県 | シャン族の刺青師が、ミングン王子の使者と称する。多くの僧侶が参加した。 |
| 不詳 | 1888年 | ラカイン州シットウェ県 | ボー・ンガタ(Bo Nga Ta)という僧侶が、コンバウン朝のHmetkaya王子により、将軍に任命されたと称する。 |
| 不詳 | 1890年 | ラカイン州タンドウェー県 | セインゴン(Theingon)という僧侶が、150人の農民を率いて、タンドウェーの町の一部と裁判所を焼き討ち。 |
| 不詳 | 1891‐1892年 | シットウェ県 | 超能力者を自称するポーアウン(Paw Aung)が、アラカン・ミンラウンと称し、父親とともに反乱を計画。 |
| ウー・トゥーリヤの乱 | 1888年 | ターヤーワディ県 | ウー・トゥーリヤという僧侶が、ミングン王子の名の下、約200人の仲間とともに駅舎を襲撃、列車・線路を破壊した。その後、政庁軍の反撃に遭い、関係者の多くが逮捕されたが、ウー・トゥーリヤは逃亡に成功した[1]。 |
| マウンタンの乱 | 1910年 | ザガイン地方域サガイン県ミンムー | 当時20歳だった農業労働者マウンタンが煙草を吹かしながら農作業中、誤って煙草の火が衣服に燃え移り、肩から煙が出た。これはコンバウン朝の始祖アラウンパヤーに同じ逸話があり、マウンタンは「未来王」(ミンラウン)であるという噂が広まり、やがてマウンタン本人もそう思い込むようになった。マウンタンは丘の上で即位式を行い、内閣を任命。彼の下には650人ほどの人々が集まった。彼らは警察署を襲撃したが、政庁軍の反撃に遭い失敗。マウンタン以下6人は絞首刑に処せられた[2]。 |
| バンダカ・ヤテの乱 | 1927年 | ザガイン地方域下チンドウィン県(現モンユワー県) | 薬草療法師だったバンダカ・ヤテは、超能力者として名声を高め、パガン朝のチャンシッター王の生まれ変わりと称してティーボー王に反乱を企てたテーザ(Teza)の生まれ変わりと称した。そして、テーザが手掛けた未完成のパゴダの建設を始め、完成したら即位して英植民地政府に攻撃を仕掛けると宣言した。1926年9月、パゴダは完成。1927年2月から7月にかけて、バンダカは仲間とともに町長宅や警察署を襲撃した。しかし政庁軍の反撃に遭い、1928年9月、バンダカは当局に逮捕された[3]。 |
1826年、1852年、1885年の三度の英緬戦争に敗れ、ミャンマーは完全にイギリスの植民地となった。この際、滅亡したコンバウン朝の王立軍の将校が各地に散らばり、地元の世襲権力者と結託してゲリラ戦を展開。また強盗団や小規模な農民反乱も発生し、警察署、軍施設、役所などを攻撃したのでイギリスは大いに悩まされた[4]。またこれらの反乱は、1885年に植民地になった上ビルマではコンバウン朝復興運動の形を取ったのに対し、1852年の第二次英緬戦争により既に植民地となって33年経っていた下ビルマでは、王族の権威を借りていたとはいえ、小作・農業労働者による英植民地政府打倒運動という形を取ったという違いがあった[注釈 1][5]。
その背景には、以下の3つのことがあった。1つ目は、イギリスはミャンマーを、ビルマ族が住む平野部を「管区ビルマ」(英語: Ministerial Burma)と少数民族が多く住む山岳部を「辺境地域」(英語: Excluded areas)に分離し、前者を直接統治、後者を間接統治[注釈 2]したが(分割統治)[6]、管区ビルマ内では伝統的権力関係を廃して、ビルマ政庁を頂点に戴く一元的な支配構造の下に置いたので、社会に混乱が生じた。2つ目は、イギリス統治下で輸出用コメの一大生産地である下ビルマにはインド、上ビルマから大量に移民が流入して競争が激化、多くの自作農が小作農・農業労働者に転落し、インド系ビルマ人のチェッティヤーなどから借金を背負って生活苦に陥っていた。3つ目は、イギリスが、サンガ(僧団)の長であるタタナバインの地位を廃止してサンガへの支援を打ち切ったことにより仏教の権威[注釈 3]が失墜したことである。ミャンマー学者のドナルド・ユージン・スミスによれば、これにより「僧侶はイギリス人を憎むもっとも強い動機を持ち、ほとんど妥協を許さない民族主義者となった」[7][8]。
以上の理由により、反乱の指導者には僧侶が多かった[注釈 4]。当初彼らはコンバウン朝最後の王ティーボーの名の下に戦っていたが、1885年にティーボーがインドへ追放されると、当時、インドのポンディシェリで亡命生活を送っていたミングン王子の名の下に戦うようになり、やがて自ら「未来王」(ミンラウン、ビルマ語: မင်းလောင်း)、「仏教王」(ブッダザヤー、ビルマ語: ဗုဒ္ဓရာဇာ)、「転輪聖王」(セッチャーミン、ビルマ語: စကြာမင်း)などの国王僭称者を名乗るようになった。彼らの多くは超能力があると称し、集まったメンバーにナッの儀式を行い、不死身になるために刺青を入れさせた[5][1]。イギリスはインドから1万6,000人の援軍を派遣し、1890年までに反乱をほぼ鎮圧したが、民間人にも多くの犠牲者を出し、現地の人々との間に大きな禍根を残した。その後も1930年のサヤー・サンの乱まで、国王僭称者を名乗る人物の反乱は散発的に続いた[4]。
仏教系組織の設立とサヤー・サンの乱

一方、都市部ではミャンマー人知識人と僧侶による仏教保護団体・仏教学校の設立が相次いでおり、1906年にはスリランカの仏教徒青年会(YMBA)をモデルに、ウー・メイオウン(U Mei Oun)、ウー・キン(U Kin)などイギリスで教育を受けたミャンマー人知識人が中心となって[注釈 5]、ビルマ仏教徒青年会(YMBA、ビルマ語: ဗုဒ္ဓဘာသာကလျာဏယုဝအသင်း)が設立された[9][10]。
YMBAの目的は「民族・言語・宗教・教育の発展・繁栄」であり、その活動は仏教倫理の復興を目的とする学校教育の改善、貯蓄の習慣を普及させるための協同組合・信用組合の設立、飲酒の習慣の撲滅、都市部の華美な生活習慣の改善を訴えるだけの非政治的組織だった[11]。また、年次総会においてイギリス国歌を斉唱して開会し、イギリス国王の健康と長寿を願って閉会する習慣からも明らかなように、新英的な会員も多く、当初の会員は地主、自作農、商人、公務員、弁護士、教師などの新興中産階級に限られ、労働者・農民の動員には失敗した[10]。
しかし、1914年から始まった第一次世界大戦の際、インドのナショナリストたちが、戦争協力と引き換えに戦後の自治を要求する運動を推進したことに影響されてYMBAも徐々に政治化[注釈 6]、1917年にピンマナで開催された第5回年次総会では、英政府インド担当大臣の訪印に合わせて、YMBAの代表団をインドへ派遣し、ミャンマーのインドからの分離と自治権付与を訴える請願を行う決定が下された[10]。1919年には、ミャンマー人であれば必ず靴を脱いで上がるパゴダに、欧米人が土足のまま上がる「靴問題」が先鋭化。マンダレーのエインドーヤー・パゴダに欧米人のグループが靴を履いたまま上がろうとしたところ、怒った僧侶たちが彼らを襲撃し、僧侶4人が逮捕され、リーダー格のウー・ケッタヤ(U Kettaya)が殺人未遂罪で終身刑を宣告されるという事件が起きた[12]。結局、英植民地政府は土足を認めるか否かを各パゴダの僧侶に一任することで問題解決を図ったが、YMBAはこの問題に関与することで組織拡大に成功し、1920年までに220の組織を統合し、30の学校を統括し、会員数は約1万人を誇った[10]。
1920年、YMBA中央委員会を母体としてビルマ人団体総評議会(GCBA、ビルマ語: မြန်မာအသင်းချုပ်ကြီး)が設立された。GCBAはYMBAに比べればより政治的な組織で、外国人の土地所有制限、外国製品の輸入制限、ミャンマー人女性と外国人男性との結婚禁止、籾価の調整、村落法の改正など英植民地支配を真っ向から否定する目標を掲げた[13]。そして、後述する僧侶政治家と協力して、各地に「ウンターヌ・アティン」(ビルマ語: ဝံသာနုအသင်း)という民族主義結社や[注釈 7]、「ブー・アティン」(ビルマ語: သူးအသင်း)という秘密結社を組織[注釈 8]、支部数は約1万2,000に上り、10万人規模の集会を開催し、市民不服従運動、納税拒否、外国製品ボイコットなどの活動を展開した[14]。また、ラングーン大学第一次学生ストライキ[15]をきっかけに全国に設立された、ミャンマー式教育を行う民族学校を物心両面で支援した。バー・モウやウー・ソオなど英領インド(ビルマ)で有力政治家となる人々の多くがGCBA出身者である。ただし、GCBAは独立までは求めておらず、イギリスの自治領(ドミニオン)[注釈 9]となることを目標としており、1923年に英植民地政府により導入された両頭制(英語: Dyarchy)への対応をめぐり組織は分裂。その後も派閥争いが絶えず、組織は四分五裂に分裂した[16][17][18]。
一方、1920年には、YMBA、GCBAといった世俗組織だけではなく、サンガ統一総評議会(General Council of Sangha Sammeggi:GCSS)という仏教組織も設立された。これは仏教の地位向上のために、サンガがより積極的に社会に関わっていこうとするもので、「説法師(ビルマ語: ဓမ္မာကထိက)」と呼ばれた若手僧侶が全国行脚して、「サンガッ・サーミッギー(ビルマ語: သံဃာ့သာမဂ္ဂီ、英語: Sangha Sammeggi)」という、ウンターヌ・アティンの補助組織を設立した[19]。
そして、その中心的役割を担ったのが、国王僭称者の伝統に連なり、「ビルマ王が支配する独立王国の復活」を信条とする僧侶政治家(p'ounji politician)と呼ばれる僧侶で[16]、その代表的人物がラカイン族の僧侶ウー・オッタマだった。オッタマは中国、朝鮮半島、日本、東南アジアと旅し、インドでマハトマ・ガンディーと親交を深めた後、1919年に帰国。その後、ガンジーの非暴力主義に触発された反英植民地運動を展開して多くのデモや集会を組織して、その激烈な演説と煽動で多くの支持者を得た[注釈 10][20][21]。1921年には、当時のビルマ州総督・レジナルド・クラドックに向かって「レジナルド、イギリスへ帰れ!」と訴える論考を、YMBAの過激派が発行していた『トゥーリヤ』に寄稿したかどで逮捕投獄されたが、オッタマはこの容疑で投獄された初めての僧侶だった。その後もオッタマは逮捕投獄を繰り返し、1939年に獄死。もう1人の代表的僧侶政治家がウー・ウィサラで、彼も反英演説によって逮捕投獄を繰り返したが、163日間のハンガーストライキの末、1929年に獄死している[22][23]。

以上見てきたような、国王僭称者というミャンマーの伝統的反乱の系譜と、YMBA、GCBAといった欧米型近代政治のハイブリッドないし集大成と言えるのが、元僧侶かつ元GCBAのメンバーであるサヤー・サンが、1930年から1932年にかけて起こした反乱だった[注釈 11]。「トゥパンナカ・ガロン・ヤーザー」を名乗ったサヤー・サンに率いられた抗議者たちは、ヒンドゥー教の神話に登場する強力な鳥にちなんで「ガロン」と呼ばれ、弾除けになると信じて全身に刺青を彫り、お守りを持参して果敢にイギリス軍に挑んでいった。しかし反乱は鎮圧され、サヤー・サンは捕らえられて、1931年11月28日、反逆罪のかどで絞首刑に処せられた。サヤー・サンの遺言は「わが民族・言語・宗教・教育の発展・繁栄のために行動したがゆえに、このようになったのだ。幸せであったと見なしてくれ。下がってくれ、私は自ら絞首台に登る」というYMBAのスローガンだった[24]。ちなみにサヤー・サンの弁護人を務めたのは、バー・モウである[22][23]。
これは僧侶政治家主導の反植民地運動の終焉となり、この後は彼らにインスピレーションを受けた、われらビルマ人連盟(以下、タキン党)などの中産階級出身の若者たちが反植民地運動、独立運動を担っていくことになる[23]。
タキン党

結成
タキン党は、1930年5月30日、同年5月ヤンゴンで起きた反インド人暴動を機に、対立と分裂を繰り返すGCBAに幻滅した、元ラングーン大学英語科翻訳助手タキン・バタウン(Thakin Ba Thaung)とその仲間たちによって結成された。結成メンバー10人のうち、父親の職業が元王宮勤務、商人、弁護士、地主などの中産階級出身者で、年齢的にはGCBAのメンバーよりも5歳から15歳ほど若かった[25][26][27]。
彼らは名前の前に「タキン」(ビルマ語: သခင်)という言葉を付けた。「タキン」とはミャンマー語で「主人」を意味し、ミャンマーを支配する「主人」はイギリス人ではなく、ミャンマー人だという思いが込められていた[28]。また、タキン党の正式名称は「ドバマー・アシアヨン」(ビルマ語: တို့ဗမာအစည်းအရုံး)だが[注釈 12]、「バマー」には、「バマー」にビルマ族だけではなく、カレン族、カチン族、シャン族などの少数民族をも包括し、一体となって反英植民地運動を展開していきたいという思いが込められていた[28]。さらに、タキン党は「われらビルマ人」(ドバマー、ビルマ語: တို့ဗမာ)と「彼らビルマ人」(トゥードバマ、ビルマ語: သူတို့ဗမာ)を区別したが、「彼らビルマ人」とは、英植民地政府と協力するGCBA系政治家のことだった。タキン党は、交渉による自治領獲得ではなく、国民を動員することによって独立を獲得することを目標に掲げた[28]。
しかし、その活動は「バマー」の言葉に込められた包括的意味とは裏腹に、メンバーの大半はビルマ族、活動地域もビルマ族が多数派を占める「管区ビルマ」に限定されていた。タキン党のメンバーの多くがその後、ビルマ独立義勇軍(BIA)、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)、独立後の民主政府で活躍したことを考えれば、このタキン党の閉鎖性は、のちの少数民族に対する無理解、対立、ひいては内戦の勃発に繋がったとも指摘されている[28]。
活動
タキン党はサヤー・サンの乱の際に存在感を示せず、一時活動が停滞したが[29]、ビルマ統治法により英領ビルマとなった最初の総選挙である1936年11月の総選挙に、コウミーン・コウチーン結社という政党を結成して臨み、全28選挙区で約8万票を獲得し、3人の当選者を出した[30]。また、同年起きたラングーン大学第二次学生ストライキをタキン党が全面支援したのを機に、アウンサンやウー・ヌなどのラングーン大学の学生・卒業生の入党した[31]。
1937年2月2日、全15項からなる「われらのビルマ思想」(ビルマ語: တို့ဗမာဝါဒ)と銘打たれたタキン党の憲章が策定された。憲章は、第1項で「われらビルマ人」を「国内に住む貧困層」「ビルマ族の血を引く者」「ビルマの繁栄を本憲章に従って追求する者」と定義したが、これは「バマー」という言葉に込められた諸民族の包括思想の真逆を行くものだった。そして、第2項で「タキン」を「人間の平等な権利の獲得や生活水準の向上に努力する者」と定義し、第3項でタキンが擁護する者として「労働者」「農民」「貧困層」を列挙するなど、ラングーン大学の学生・卒業生などのインテリの入党が増加していたことを反映して、彼らが被れていた共産主義・社会主義思想の影響が色濃く表れており、第9項では、そのビルマ族中心主義と社会主義思想を「コウミーン・コウチーン」という言葉で融合させた。これは、アウンサン、ウー・ヌ、ネ・ウィンなど、その後の元タキンのミャンマーの最高権力者が共通して抱いていた「社会主義ミャンマー」の原型となったとされる[30]。
1938年1月8日、バーマ・オイル(BOC)が、ミャンマーの伝統的な祭りの日を休日から外したのを機に、マグウェ地方域チャウッの油田労働者がストライキを起こした(1300年革命)。タキン党は、これを宗教問題と喧伝して、手薄だった労働者の動員を目論み、積極的に支援し、「コウミーン・コウチーン」を広め、各地に地方支部を設立していった[32][33]。しかしその裏で、ストライキ参加者の約40%がインド系ビルマ人で、タキン党にも多くのインド系党員がいたのにもかかわらず、古参党員がビルマ族中心主義に固執する一方で、若手党員は、ビルマ族、インド人といった人種の垣根を超えた階級闘争を主張し、両者の間で亀裂が生じていた[33]。そして、同年3月に開催された第3回ドバマー会議で、ラングーン大学出身で、イギリス留学経験もあるインテリのタキン・テインマウンが新議長に選出されると、派閥争いが激化し、タキン党はテインマウン派とトゥンオウッ/バセイン派に分裂した。タキン・コウドオ・フマイン、アウンサン、ウー・ヌら有力な党員がテインマウン派に入ったので、「本部派」と呼ばれることもある。書記長に就任したアウンサンは、実質党ナンバー2だった[34][35]。
1939年9月、戦略の立て直しを図るためにタキン党は、全ビルマ学生組合連合(ABFSU)と、反英に転じたバー・モウの貧民党と組んで、自由ブロックという同盟を結成した。しかし、バーモウの後を継いだウー・プ内閣はビルマ防衛法を適用して、自由ブロック関係者を大量逮捕し、運動は挫折した[36]。
ビルマ独立義勇軍(BIA)


1300年革命と自由ブロックの挫折を経て、この頃からタキン党は武装闘争を画策し始め、兵器の供給先候補として中国国民党、中国共産党、インド国民会議が挙がった。そして1940年8月、逮捕状が出て潜伏していたアウンサンとタキン・フラミャインを中国共産党に接触すべく、中国人苦力に変装させて、中国船ハイリー号(海利号)で厦門へ脱出させた[37]。アウンサンは中国共産党との接触には失敗したが、代わりに同じくミャンマーで諜報活動を行っていた鈴木敬司大佐と東京で会談し、タキン党が日本軍のミャンマー侵攻に協力する代わりに、日本がビルマの独立を約束することで合意した。ただ、「ビルマ独立」は鈴木の独断で、参謀本部の許可を得ていなかった[37]。
1941年2月1日、ビルマ独立支援の謀略を担当する特務機関として「南機関」が設立された。アウンサンは再び中国人に変装して海路でビルマに戻り、タキン党とABFSUから、のちに「30人の同志」呼ばれる若者たちを募り、同年3月から10月まで、当時日本軍の占領下にあった海南島で厳しい軍事訓練を受けた[37]。そして、アウンサンらは南機関とともにバンコクに拠点を移し、在泰ミャンマー人の間から100人以上の義勇兵を募って、同年12月28日、ビルマ独立義勇軍(BIA)が結成された。その際、メンバーは過去のビルマの貴族の儀式に則り、指を切り、血を注ぎ、忠誠の誓いを立て、30人の同志にはそれぞれに戦闘名が与えられた[37]。
1942年1月3日、BIAはビルマ侵攻作戦に参加し、複数のルートでミャンマーへ進軍した。BIAは、占領地各地で志願兵を募って軍事訓練を施しつつ前進、一部では敗走中のイギリス軍と交戦した。ビルマ攻略戦終結時にはBIAの総兵力は約2万7千人に達したとも言われる[注釈 13][38]。しかし、モーラミャインにBIAが入城した際、鈴木との約束で独立宣言がなされることになっていたが、先に同市を占領していた第55師団はそれを許さず、それどころか、あらゆる政治活動、徴兵を禁止するという事態が生じた[39]。3月8日にはラングーンを占領し、3月25日に4500人による観兵式を行い、人々に熱狂的に歓迎されたが、やはりそこでも独立宣言はなされなかった[注釈 14][40]。日本軍の目的が明白となり、BIA内部では抗日の動きも出たが、アウンサンは現状勝機なしと判断し、BIAに戦闘経験を積ませるために、「北伐戦」と呼ばれた日本軍四個師団によるミャンマー中央部の英印軍掃討作戦に従事した[41][37]。
1943年8月1日、バー・モウを首班とする傀儡国家ビルマ国が樹立され、タキン党から6人が入閣し、アウンサンは国防大臣に就任した[42]。BIAは、ビルマ防衛軍(BDA)、次いでビルマ国民軍(BNA)に再編され、日本軍に従うふりをしつつ、抗日の機会を窺っていた。
反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)

インパール作戦の失敗により日本軍の劣勢が決定的となった1944年8月、アウンサンら民族主義者たちは、抗日闘争に勝機ありと見て、BNA、ビルマ共産党(CPB)、人民革命党(PRP、ビルマ社会党)が合流し、バゴーのBNA教導隊で反ファシスト機構(Anti-Fascist Organization:AFO)が結成され、アウンサンが議長、のちにCPB議長となるタキン・タントゥンが書記長、当時CPB書記長だったタキン・ソーが政治顧問に選出された[43][44][45][46][47]。そして1945年3月27日、AFOはついに抗日蜂起を開始。連合軍と協力して日本軍を駆逐し、同年5月1日、ヤンゴンを解放した[48]。ヤンゴン奪還後、AFOは反ファシスト人民自由連盟(Anti-Fascist People's Freedom League:AFPFL)に改名、6月末にはBNAがイギリス軍の指揮下に入り、愛国ビルマ軍(PBF)と改名した[49]。
ミャンマーを奪還したイギリスは、1945年5月17日、『ビルマ白書』を発表、経済復興を最優先事項とし、そのためにビルマ総督による直接統治を3年間継続し、その後総選挙を実施して英領ビルマ時代の統治体制を復活させ、最終的にミャンマーをイギリス自治領にするものとした[50]。しかし、完全独立を求めるアウンサン/AFPFLはこれを拒否。イギリスが設置した行政参事会への参加も拒否した。仕方なくイギリスは、ウー・ソオなどGCBA系政治家を行政参事会のメンバーに起用したが、政治のの主導権は、既に日本を武力で放逐したアウンサン/AFPFLに移っていた[50]。
1946年8月、前任のレジナルド・ドーマン=スミスに代わってビルマ総督に就任したされ、ヒューバート・ランスは、アウンサン/AFPFLにより妥協的な態度を取り、新たに組織された定員9人の行政参事会にAFPFLのメンバーを6人起用し、アウンサンは国防大臣、外務大臣、議長代理を兼任、実質、アウンサン政権が成立した。そして、1947年1月27日、ロンドンでアウンサン=アトリー協定が結ばれ、「管区ビルマと辺境地域を統合した1年以内のビルマの独立」が確認された。その際、前提条件として「パンロン会議」「辺境地域調査委員会」「制憲議会選挙」「制憲議会」という4つの場が設定された。同年2月には第二次パンロン会議を開催し、カチン州、シャン州、カレンニー州、チン特別区の設置とシャン州、カレンニー州の10年後の連符離脱権を認めることを条件に、全ミャンマーが1つの連邦国家として独立することについて各民族の代表の快諾を得た[50]。
1947年4月に実施された制憲議会選挙ではAFPFLが182議席中171議席を獲得して大勝。しかし、同年7月19日、アウンサンは行政参事会の他の閣僚とともに暗殺された。犯人はウー・ソオだった。代わりにウー・ヌが首相に就任し、同年10月、ウー・ヌはイギリスに赴いてヌ・アトリー協定を締結し、1948年1月4日午前4時20分、ミャンマーは「ビルマ連邦」として独立を果たした。同日、ランス総督はミャンマーを離れ、第一次英緬戦争が始まった1824年から数えて、123年でミャンマーの英植民地時代は幕を下ろした[50]。

