レンネル島沖海戦

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レンネル島沖海戦

被雷し沈みつつある重巡洋艦「シカゴ」(1月30日)
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日:1943年1月29日~30日
場所:ソロモン諸島、レンネル島
結果:日本の勝利
交戦勢力
大日本帝国の旗 大日本帝国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
指導者・指揮官
草鹿任一中将
市丸利之助少将[注 1]
檜貝襄治少佐[注 2] 
中村友男大尉[注 3]
西岡一夫少佐[注 4]
ウィリアム・ハルゼー中将
ロバート・C・ギッフェン少将
戦力
29日 陸上攻撃機31
30日 陸攻11
潜水艦部隊[注 5][注 6]
重巡洋艦3
軽巡洋艦3
駆逐艦6
別働隊
護衛空母2
駆逐艦2
後方支援
空母機動部隊
損害
陸攻10喪失[注 7] 重巡洋艦1沈没
駆逐艦1大破
ソロモン諸島の戦い

レンネル島沖海戦[8]太平洋戦争大東亜戦争)の1943年昭和18年)1月29日から30日にかけて、日本軍アメリカ軍の間でおこなわれた海空戦[9][10]ガダルカナル島攻防戦の終盤、ガダルカナル島撤収作戦時にソロモン諸島レンネル島沖において発生した。

ガダルカナル島に接近中のアメリカ海軍巡洋艦部隊に、日本海軍ラバウル航空隊が空襲をおこなった[11]。日本海軍の陸上攻撃機は、1月29日の夜間空襲と1月30日の昼間強襲により、重巡洋艦シカゴ」を撃沈し駆逐艦ラ・ヴァレット」を撃破した[12]。この海戦でアメリカ軍は近接信管を使用した[13]

水雷戦隊によるガダルカナル島からの撤退を企図してケ号作戦を発動した日本軍[14]駆逐艦ショートランド諸島に集結させた[15]。日本海軍の行動や艦艇の集結を「ガダルカナル島への増援作戦」と判断したアメリカ軍[16]、ガ島にむかう連合軍輸送船団の護衛を兼ねてロバート・C・ギッフェン少将が率いる第18任務部隊(護衛空母2隻、重巡3隻、大型軽巡3隻、駆逐艦8隻)を北上させた[17][注 8]。また艦隊決戦に備えてハルゼー提督麾下の正規空母2隻や新鋭戦艦3隻を基幹とする任務部隊も出動した[19]

1月29日、日本軍の偵察機はサンクリストバル島南方を行動中の第18任務部隊を捕捉した[20]南東方面艦隊司令長官草鹿任一中将[注 9]第十一航空艦隊(ラバウル航空隊)の陸上攻撃機により、第18任務部隊への空襲を敢行した[23]第七〇五海軍航空隊第七〇一海軍航空隊の陸攻合計31機による薄暮攻撃で[24]、重巡シカゴに魚雷が命中し、同艦は曳航されて南方への退却をはじめた[25]。日本側は3機を喪失し、攻撃隊指揮官檜貝襄治少佐が戦死した[26]

1月30日の攻撃は、第七五一海軍航空隊一式陸上攻撃機 11機による昼間強襲となった[27]。アメリカ軍は第18任務部隊の後方にいた空母エンタープライズ (USS Enterprise, CV-6) からF4F戦闘機を派遣した[12]。対空砲火と空戦で一式陸攻7機を撃墜したが、重巡シカゴと駆逐艦ラヴァレットに魚雷が命中する[28]。シカゴは沈没し、ラヴァレットは大破した[29]。陽動作戦や日本陸海軍航空隊の活躍により[30]、2月初旬に実施されたガ島撤収作戦(ケ号作戦)は成功した[31][32]。日本側は本海戦を「レンネル島沖海戦」と名付け、華々しい大本営発表をおこなった[注 10][注 11]

経過

日本軍

1942年(昭和17年)12月31日昭和天皇臨席の御前会議において大本営海軍部はガダルカナル島からの撤退を決定し[35][36]、翌年1月4日に大本営は連合艦隊(司令長官山本五十六大将)と第八方面軍(司令官今村均中将)にガダルカナル島撤収作戦の実施を命じた[14][37]

第二艦隊第三艦隊に所属する、第二水雷戦隊(司令官小柳冨次少将、1月21日付で伊崎俊二少将[38])、第三水雷戦隊(司令官橋本信太郎少将)、第四水雷戦隊(司令官高間完少将)、第十戦隊(司令官木村進少将[39]、負傷により急遽小柳冨次少将に交代[38])より抽出した駆逐艦ブーゲンビル島南東端ショートランド泊地に集め、外南洋方面部隊(第八艦隊)が撤収作戦を担当[40][41][15]

南東方面部隊の基地航空部隊(第十一航空艦隊)や日本陸軍航空部隊が航空撃滅戦や上空直衛を担当[42]、潜水艦部隊が偵察や敵増援阻止、連合艦隊の主隊[注 12]はトラック泊地で待機し、支援部隊(第二艦隊司令長官近藤信竹中将)が機宜ガ島北方で陽動を兼ねた作戦支援をおこなう[40]

また日本軍の航空優勢を少しでも確保するため、ガダルカナル島ヘンダーソン飛行場パプアニューギニアポートモレスビー方面の飛行場を攻撃し、連合軍の航空兵力を減少させる事となった[43][44]

1月15日から日本軍航空部隊はガダルカナル島への夜間攻撃強化を企画[45]、天候が回復した19日より撤収作戦終了までほぼ連夜に渡りヘンダーソン飛行場に対する爆撃をおこない[11][46]ポートモレスビーラビへの夜間爆撃も同時に実施[46]1月25日からはヘンダーソン飛行場に対し航空撃滅戦を実施する[47]

1月25日に日本海軍が第一次航空撃滅戦[48]を行い[49][50]零戦54機が誘導の一式陸攻18機とともにラバウルを発進、ブインで零戦22機が合流したが[51]、天候不良で零戦18機と誘導の陸攻も引き返した[51]。最終的に零戦58機でガ島上空に突入し、撃墜戦果7機を報じた[52]。敵機の邀撃と悪天候によって陸攻1機と零戦4機が未帰還、零戦6機が不時着した[51][53]

1月27日に日本陸軍が第二次航空撃滅戦を実施[49][54][55]。海軍の要請によりソロモン方面へ進出していた陸軍航空部隊のうち、飛行第11戦隊飛行第1戦隊一式戦「隼」69機、飛行第45戦隊九九双軽9機がガ島に向かい[56][57]アメリカ陸軍第339戦闘飛行隊および海兵隊第112海兵戦闘飛行隊の戦闘機24機と交戦した。一式戦「隼」は6機を喪失し、撃墜7機を報告した[58]。これ以降、ガダルカナル島に対する日本陸海軍航空隊の大規模攻撃は実施されず[53]、夜間空襲や小数機による強襲にとどまった[59]

1月28日午前、撤収作戦の一環としてガ島北西のラッセル諸島を占領して大発動艇の拠点を確保するため[60]、第三水雷戦隊司令官橋本信太郎少将麾下の駆逐艦6隻(警戒隊〈時津風黒潮白雪〉、輸送隊〈浦風浜風江風〉)がショートランド泊地を出撃した[61]。日本陸海軍戦闘機隊は上空直掩を実施し、ヘンダーソン基地より来襲した連合軍機を迎撃する[62]。小被害にとどまり、占領作戦は成功した[62][63]。また「ケ」号作戦部隊強化のため、連合艦隊はトラック泊地の第一航空戦隊瑞鶴瑞鳳)から航空隊をラバウル方面に転用した[64][59]

連合軍

ガダルカナル島をめぐる激戦でアメリカ海軍も痛手を受けたが、戦力を急速に回復していた[65]。1943年(昭和18年)1月の時点で南太平洋方面海軍司令官ウィリアム・ハルゼー・ジュニア中将の率いる主力艦艇は正規空母2隻、護衛空母2隻、新世代戦艦3隻、巡洋艦12隻、駆逐艦25隻[16][17][66]、その内1月上旬から中旬にかけてソロモン諸島で活発に行動していたのはウォルデン・L・エインズワース少将が率いる第67任務部隊だった[67][注 13]

1月4日深夜から5日未明にかけてニュージョージア諸島(中部ソロモン諸島)のニュージョージア島西部ムンダ基地コロンバンガラ島飛行場などに艦砲射撃をおこなった[68]。その後、再び中部ソロモン諸島に進出し、1月23日深夜から24日未明にかけてムンダ基地とコロンバンガラ基地に艦砲射撃をおこない、飛行場建設を妨害した[69]。ラバウル航空隊は第67任務部隊を捕捉できなかった[70]

1月下旬、連合軍はニューブリテン島ラバウルブーゲンビル島ブイン(ショートランド諸島)に日本軍艦艇が集結したのを察知した[29]。さらにガ島北方のオントンジャワ環礁で「日本軍の空母と戦艦部隊が行動している」との報告を受けた[29]。連合軍上層部は「日本軍が第三次ソロモン海戦以来の大規模増援輸送作戦を実施しようとしている」と判断する[29]。ガダルカナル島の海兵隊を交代させるため輸送船4隻を派遣する必要があったので、ハルゼー提督はギッフェン少将(旗艦「ウィチタ」)の護衛部隊に連合軍輸送船団の護衛と日本艦隊の南下阻止を命じ[71]、指揮下の艦艇群を新鋭戦艦3隻(ワシントンノースカロライナインディアナ)を基幹とする戦艦部隊、高速の巡洋艦部隊、空母サラトガを中核とする任務部隊、空母エンタープライズを中核とする任務部隊ロバート・C・ギッフェン少将の護衛部隊、計5つの部隊に分割した[17][71]

ギッフェン少将の護衛部隊(第18任務部隊)は、護衛空母2隻(シェナンゴスワニー)及び重巡洋艦3隻(ウイチタシカゴルイビル)、大型軽巡洋艦3隻(クリーブランドコロンビアモントピリア)、駆逐艦8隻からなっていた[72]。2隻の護衛空母(いわゆるジープ空母)は最高で18ノットしか出せず、高速巡洋艦の足を引っ張る結果となった[73]。またギッフェン少将や麾下艦船はトーチ作戦から太平洋へ転属になったばかりで、日本軍の戦術に慣れていなかった[74]

1月27日、第18任務部隊はガダルカナル島にむかうアメリカ軍輸送船団を護衛するため、ニューヘブリディーズ諸島エファテ島を出撃するが[75][18]、護衛空母の速力不足に悩まされたためにギッフェン少将は駆逐艦2隻を護衛につけて護衛空母2隻を分離した[73][76]。また第18任務部隊の後方約250浬には、正規空母(エンタープライズサラトガ)部隊や新鋭戦艦部隊が続航していた[76]。 日本海軍は陽動のため第二艦隊司令長官近藤信竹中将が率いる機動部隊を南太平洋に派遣しようとしており[77]、ハルゼー提督の注意は近藤艦隊に引きつけられていた[19]

航空戦

1月29日

1943年(昭和18年)1月30日に実施予定のガダルカナル島撤退作戦のため、日本海軍航空部隊はソロモン諸島周辺の索敵を強化していた[26]1月29日未明、ニューブリテン島ラバウルから一式陸上攻撃機7機、ショートランド諸島バラレ島から一式陸攻6機、ショートランド泊地から二式飛行艇2機が索敵のために発進した[20]。同29日早朝[78]ショートランド諸島バラレ島を発進した第七五一海軍航空隊の偵察機(一式陸攻)が[79]サンクリストバル島の南で戦艦2〜4隻と巡洋艦3隻程度を基幹とする連合軍艦隊と輸送船団を発見した[3][23]。これが第18任務部隊(重巡〈ウィチタ、ルイビル、シカゴ〉、大型軽巡〈クリーブランド、コロンビア、モントピリア〉、駆逐艦〈シャヴァリアラ・ヴァレットコンウェイウォーラーテイラー、他1隻)と輸送船団であり、巡洋艦を戦艦と誤認したものと思われる[80]。索敵機の報告には、地中海で行動しているはずのネルソン級戦艦2隻(ネルソンロドニー)も含まれていた[注 14]。正確な情報を掴むため、バラレ島、ブカ島、ラバウルから陸攻が発進し、ショートランド泊地から飛行艇が発進した[83]

南東方面の日本海軍最高責任者である草鹿任一中将[84](南東方面艦隊司令長官、第十一航空艦隊司令長官兼任)は[22]、隷下のラバウル航空隊で連合軍艦隊を攻撃することにした[80]。草鹿長官は、第二十六航空戦隊隷下の第七〇五海軍航空隊と、第二十二航空戦隊隷下の第七〇一海軍航空隊陸上攻撃機に出動を下令した[24]。この艦隊攻撃のため、第三次航空撃滅作戦は実施できなくなる[52]。また初の試み[85]として、海軍陸攻部隊の攻撃のタイミングが敵戦闘機の護衛がなくなる薄暮(太陽が没する直前)になるよう、わざと時間を遅らせて出撃することにし[86]、夜間雷撃になる事も想定して選り抜きの搭乗員で編成[87]。まず12時40分頃に第七〇一海軍航空隊(指揮官檜貝襄治少佐、海兵57期[88]の九六陸攻18機(他に照明隊6機)が順次離陸開始、編隊を整えて13時10分頃にラバウルを発ち、後から発進した第七〇五海軍航空隊(指揮官中村友男少佐、神戸商船学校出身現役士官)の一式陸攻16機(他に触接機1機)がイサベル島南方で檜貝編隊を追い越して先行している[89]

第18任務部隊は、ガダルカナル島ヘンダーソン基地の航空機活動圏内に入ろうと北上していた[12]。日中は護衛空母から発進したF4Fワイルドキャットに守られていたが、戦闘機は日没が近づいたので後方の母艦部隊に帰投してしまった[90]。このため陸攻の攻撃がはじまったとき、第18任務部隊は自艦の対空砲火で応戦するしか対抗手段がなかった[73]。午後の時点で巡洋艦のレーダーは奇妙な機影を捉えていたが、無線封鎖中のため上空警戒機に連絡しなかったという[71]。 午後2時以降、複数の日本軍索敵機がレンネル島北方50浬で第18任務部隊を視認する[91]。この日の第18任務部隊は対潜警戒に適した陣形を形成していたので[73]、空からの攻撃に対して万全ではなかった[71]。七〇五空指揮官機が海面に消えかかった航跡を発見して敵艦隊を捕捉、日没後であったが闇を背に残光で明るい方向に雷撃[92]する理想的条件で17時19分に雷撃を開始。奇襲に成功し対空射撃が開始されたのは雷撃直後[93]であったが1機を失っている[13]。この攻撃の直前に触接機は浮遊目標灯を投下しており[13]、七〇一空の檜貝編隊はこの発射光および戦闘の火光を遠望して敵艦隊の位置を捕えた。近づくと七〇五空の雷撃を受けて燃える艦や蒸気を吹き上げる艦、自爆機と思われる海面の炎を確認したという[94](七〇五空の戦果は無かったとする説も有り)。すでに残光も消え暗夜となった17時40分、七〇一空の九六陸攻が照明弾下で雷撃を開始した[13]。最初の攻撃で重巡洋艦ルイビル (USS Louisville, CA-28) に魚雷が命中したが、不発だった[95]。つづいて旗艦ウイチタUSS Wichita, CA-45)に魚雷が命中したが、不発だった[96]。一方、撃墜された陸攻が重巡シカゴ (USS Chicago, CA-29) に体当たりし、火災が発生した[97]。標的と化したシカゴに魚雷2本が命中し、今度は正常に起爆した[95]。機関部にダメージをうけたシカゴは航行不能となる[97]。ルイビルがシカゴの曳航を開始してエスピリトゥサント島に向かおうとしたが、速力4ノットしか出せない[97]。ハルゼー提督の下令により曳船ナバホ (USS Navajo, AT-64) が曳航任務を交代することになった[96]。また空母エンタープライズ[25]リー提督(旗艦ワシントン)の第64任務部隊が高速で進撃し、第18任務部隊の救援と掩護を開始した[97]

一連の薄暮攻撃で、日本軍は七〇五空が陸攻1機、七〇一空が指揮官機を含む陸攻2機を失った[82]。日本側は「檜貝少佐は戦艦に激突した」と報告している[1]。戦果報告は、戦艦1隻轟沈、巡洋艦2隻撃沈、他に戦艦や巡洋艦に魚雷命中というものだった[3]。第六空襲部隊の戦闘概報では、沈没した戦艦2隻のうち1隻はネルソン級戦艦であった[82]

1月30日

日本軍は第八五一海軍航空隊の飛行艇で退却する第18任務部隊を監視していたが[81]、一旦見失った[98]。29日深夜になり一式陸攻が再発見し、午後11時50分まで触接した[99]。基地航空部隊指揮官は第七五一海軍航空隊に第18任務部隊攻撃を命じたが、夜間攻撃は取止められた[99]

1月30日午前2時30分頃、伊26は敵駆逐艦から攻撃をうけた[注 15]。同30日早朝、日本軍は再び第18任務部隊を発見した[100][注 16]。上級司令部の連絡ミスや、戦機を失う恐れから、第二十一航空戦隊(司令官市丸利之助少将)および七五一空(司令小田原俊彦大佐)は零式艦上戦闘機の護衛なしでの昼間強襲を選択した[27][注 17]。10時15分、ブカ島から七五一空の一式陸攻11機(指揮官西岡一夫少佐)が発進した[99]

午前10時にバラレを発進した陸攻1機は、12時50分に敵主力部隊を発見し触接を開始したが、13時40分頃より敵戦闘機と交戦し、消息を絶った[33][4]。 第18任務部隊では、ナバホが合流して13時よりシカゴの曳航を開始した[25]。14時6分、七五一空の陸攻11機は第18任務部隊を発見、攻撃を開始した[102]。空母エンタープライズの直掩戦闘機などにより、雷撃前に陸攻2機が自爆した[33]。被弾して炎上した陸攻1機がホノルル型巡洋艦に魚雷を投下しつつ体当たりを試みたが、海中に突入した[33]。残りの陸攻8機が突入し、14時20分に雷撃を敢行する[33]。重巡シカゴに魚雷4本を叩き込み[103]、駆逐艦ラ・ヴァレット (USS La Vallette, DD-448) にも魚雷1本を命中させた[104]。2日間の航空戦で計6本の魚雷が命中したシカゴは、まもなく沈没した[105]。ラ・ヴァレットは曳船に曳航されてエスピリトゥサント島に向かった[28]

日本側は攻撃を終えた一式陸攻8機のうち2機が対空砲火で撃墜され、2機がF4Fに撃墜された[105]。出撃した一式陸攻11機のうち合計7機を失い、バラレ基地に3機が帰投、ムンダに1機が不時着した[33]。戦果報告は、敵機撃墜3、テキサス型戦艦1隻撃沈、ホノルル型巡洋艦1隻撃沈[注 18]ボストン型大巡1隻おおむね撃沈に訂正)[注 19]というものだった。

またケ号作戦支援のため行動中の日本軍潜水艦のうち[108][109]、近くにいた伊17伊25伊26伊176の4隻が支援に向かった[6]。同30日未明、伊26が敵駆逐艦に攻撃された(前述)[100]。同30日午後、七五一空の空襲を遠望していた伊25が敵機に制圧され[注 20]、さらに駆逐艦から約5時間にわたり爆雷を投下されたが、至近弾3のみで戦闘航海に支障はなかった[注 21]

結果

大本営発表

ラバウル航空隊の総合戦果報告は、戦艦2隻と巡洋艦2隻撃沈、戦艦2隻と巡洋艦2隻撃破、未帰還機10機だった[7][112]。 1月29日の薄暮攻撃でラバウル航空隊は、ネルソン級戦艦を含む戦艦2隻と巡洋艦1隻を撃沈、テキサス型戦艦1隻と巡洋艦1隻に魚雷を命中させたと報告した[注 22]。 1月30日の昼間強襲でラバウル航空隊は、テキサス型戦艦ニューヨーク級)に魚雷5本が命中し、大火災になって沈没したと報告した[7]。またホノルル型軽巡ブルックリン級)もしくはボストン型重巡1隻(ボルチモア級重巡洋艦)も大火災を起こして艦尾が沈下したと報告した[106]

日本の大本営は『戦艦2隻、巡洋艦3隻撃沈、戦艦1隻、巡洋艦1隻中破、戦闘機3機撃墜、味方損害10機』(2月1日発表では、戦艦2隻撃沈、巡洋艦2隻撃沈、戦艦1隻中破、巡洋艦1隻中破)[33]大本営発表を行った[34][9]嶋田繁太郎海軍大臣がレンネル島沖海戦の戦果を帝国議会で高らかに報告するなど、日本海軍は真珠湾攻撃に次ぐ大勝利を信じていた[114]。だが軍令部ではアメリカ側の発表から、沈んだのがシカゴであると察していた[注 24]。さらに戦後になって本当の戦果と戦闘状況が判明し、関係者は衝撃を受けたという[114]奥宮正武(レンネル島沖海戦時、第二航空戦隊参謀)は「檜貝少佐が生還していれば、あのような過大戦果は報告しなかっただろう」と回想している[88]

影響

アメリカ軍は重巡洋艦1隻沈没、駆逐艦1隻大破の損害を受けたが、輸送船団は無事にガダルカナル島に到着できた[28]。次の輸送船団も2月4日に無事ガ島に到着した[28]。空母2隻(エンタープライズ、サラトガ)と新鋭戦艦3隻を中核とする大艦隊は、オントンジャワ環礁付近で行動中の日本艦隊に備え、ソロモン諸島南方で待機した[28]

日本側も1月31日午前9時に第二艦隊司令長官近藤信竹中将(旗艦「愛宕」)が率いる前進部隊

がトラック泊地を出撃し、牽制行動をおこなった[115]

日本軍はガダルカナル撤退を察知されることなく、レンネル島沖海戦によりアメリカ軍巡洋艦部隊の北上を阻止した[116]。そして作戦開始日を1日延期して、2月1日より第十七軍のガ島撤収作戦を開始した[117]。この日、日本陸軍の一〇〇式司令部偵察機サボ島付近で巡洋艦3隻をふくむ敵水上部隊を発見した[118]。そこでブーゲンビル島ブインから第五八二海軍航空隊(司令山本栄大佐)の九九式艦上爆撃機15機が発進し[118]、五八二空の零戦21と瑞鶴派遣零戦20に掩護されて出撃した[119]。艦爆隊はガ島北方のシーラーク水道で巡洋艦3隻と駆逐艦3隻を攻撃して、巡洋艦1隻を撃沈、巡洋艦1隻に損傷を与え、敵機16(未確実3)を撃墜したと報告する(ガ島地上の海軍参謀は駆逐艦3隻撃沈、駆逐艦1隻大破と連絡)[119]。艦爆5、零戦4が失われた[119]。 連合軍側によれば日本軍航空機 21機を撃墜し、駆逐艦ド・ヘイヴン (USS De Haven, DD-469) が沈没、駆逐艦ニコラス (USS Nicholas, DD-449) が損傷、同行していた高速輸送艦ストリングハム英語版 (USS Stringham, APD-6) および6隻の戦車揚陸艇は無事だった。

また七五一空の陸攻がレンネル島東方で巡洋艦部隊を発見し、日本側は薄暮攻撃を敢行しようとしたが、悪天候で捕捉できなかった[120]。 この戦闘を含めてガ島撤収までの海空戦を日本側はイサベル島沖海戦と呼称した[121][122]。誤認戦果は別にして[123]、レンネル島沖海戦を含めて日本陸海軍航空隊の活動により連合軍の航空部隊や水上部隊の行動に制約が生じ[30]、結果としてガダルカナル島撤収作戦の予想外の成功につながった[124]

出典

参考文献

関連項目

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