伊奴神社
名古屋市西区の神社
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歴史
近世まで熊野権現と称していた[5]。社伝によれば、天武天皇(白鳳)2年(673年)、この地で取れた稲を皇室に献上した際に社殿を建立したと伝えられる[6]。神鏡が12枚伝わっているという。周辺には「稲生遺跡」と呼ばれる遺跡があり、古代から中世の須恵器などが出土している[7]。
最も古い棟札として永享2年(1430年)のものがあったとされる。文明2年(1470年)の棟札には以下のようにある[5]。
奉造立天照大神御殿 大檀那尾州山田稲生住人源朝臣 祢宜大夫 藤原安重 — 文明二年棟札
元禄年間の棟札には、以下のように「熊野明神」と「稲生明神」が併記されており、古くは熊野権現と稲荷を祀っていた可能性が指摘されている[5]。
奉崇秘稲生明神 倉稲魂神稚産霊神 保食神霊 慎而之改 — 元禄八年棟札
奉崇秘熊野明神 伊弊並神早玉男神 天熊人神 事解男神 慎而之改 — 元禄八年棟札
江戸前期成立の『寛文村々覚書』には「稲生村...熊野権現 社内年貢地」とある[5]。幕末まで山田家が社人を務めていたという[5]。
江戸中期に天野信景によって『延喜式神名帳』の山田郡「伊奴神社」に比定され、以降は定説となった。所在地が稲生村で「伊奴」に類似していることから当社に比定したものとみられる。『尾張国内神名帳』には「従三位上 伊奴天神」とある[2][3]。津田正生らは、本来の伊奴神社は当社の相殿に祀られていた天神であるという説を述べている。『尾張志』では、熊野権現は中古まで単なる末社であったが、荒廃して本社の中に祀ったところそれが本神として扱われるようになったと考察している。また、出雲国秋鹿郡に「伊農郷」「伊奴社」など当社と同名の地名・神社が存在したことが『出雲国風土記』に記録されており、当社と関連する可能性を指摘している。
