尾張戸神社

愛知県名古屋市守山区・瀬戸市にある神社 From Wikipedia, the free encyclopedia

尾張戸神社(おわりべじんじゃ)は、愛知県名古屋市守山区および瀬戸市にある神社。『延喜式神名帳』の尾張国山田郡「尾張戸神社」に比定されている。

所在地 愛知県瀬戸市十軒町845
愛知県名古屋市守山区大字上志段味字東谷209
位置 北緯35度15分22.079秒 東経137度3分11.239秒
概要 尾張戸神社, 所在地 ...
尾張戸神社

拝殿
所在地 愛知県瀬戸市十軒町845
愛知県名古屋市守山区大字上志段味字東谷209
位置 北緯35度15分22.079秒 東経137度3分11.239秒
主祭神 天火明命
天香語山命
建稲種命
社格 式内社
郷社
創建 (伝)成務天皇5年
本殿の様式 神明造
別名 東谷大明神
熱田の奥の院
東谷明神
当国明神
山王
例祭 10月15日[1]
地図
尾張戸神社の位置(愛知県内)
尾張戸神社
尾張戸神社
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鳥居
尾張戸神社の鎮座する東谷山

東谷山山頂に鎮座し、「東谷大明神」「熱田の奥の院」「東谷明神」「当国明神」とも呼ばれる[2][3]

祭神

祭神は次の3柱[4][注 1]。いずれも尾張氏の遠祖とされる神々である。

  • 天火明命(あめのほのあかりのみこと)
    尾張氏祖神。
  • 天香語山命(あめのかぐやまのみこと)
    別名を「高倉下命(たかくらじのみこと)」。天火明命の長子。
  • 建稲種命(たけいなだねのみこと)
    天火明命十二世孫。

祭神のうち天香語山命(高倉下命)は、庄内川対岸の高蔵山に降り立ち、のちにこの東谷山に移ったという[2]。この際に白鹿に乗って川を渡ったといい、その地に架かる「鹿乗橋」に伝承の名残を残している[2][5]

歴史

江戸期まで東谷大明神などと呼ばれ、春日井郡下水野村の氏神であった。社伝『東谷大明神草創本紀』によると、第13代成務天皇5年に宮簀媛の勧請によって創建されたという[2][6]。東谷山西麓には多数の古墳があり、尾張戸神社本殿も円墳「尾張戸神社古墳」の墳丘上に鎮座する。中世には、大永元年(1521年)7月17日に起きた火災によって神宮寺と共に焼失、これに伴い神宮寺は廃寺となった[7]。同年12月には守護斯波氏により社殿が再興されたが、戦国時代には荒廃した[8]。かつては熱田神宮に次ぐ大社であったとする伝えもある[6]近世まで菊田家が代々神主を務めていた。

徳川義直の時代に当地から「当国明神」銘の鉄筒が出土したという[9]。この時に「東谷」は「当国」すなわち「尾張国」からの変化であると見なされ、『延喜式神名帳』の山田郡「尾張戸神社」に比定された[9]。これに伴い祭神は尾張氏祖神となされた[9][5]神階については、『尾張国内神名帳』熱田本に「従三位上 尾張戸天神」、国府宮本に「正四位下 尾張戸天神」とある。ただし当社を尾張戸神社に比定する説には異説もあり、津田正生は当社は『延喜式神名帳』の山田郡「尾張戸神社」ではなく山田郡「尾張神社」であるという見解を述べている。江戸末期の『尾張名所図会』では、尾張戸神社が鎮座する「東谷山」の由来について、「尾張戸の神を鎮まります山」なので古くは「尾張山」と呼ばれていたが、尾張の国名を表す「当国(當国、とうごく)」から「当国山(當国山、とうごくやま)」と称されるようになり、のちこれが転じて「東谷山」と書き表す様になったとする説を書いている。

名古屋城鬼門の位置に鎮座することから尾張徳川家の信仰は篤く、2代藩主の徳川光友により寛文5年(1665年)には中社・南社・薬師堂の造営、寛文11年(1671年)には社殿の修造が行われ[8][9][3]、それ以後も藩費による営繕が行われた[2]明治5年(1872年)5月、近代社格制度において郷社に列した。

境内

本殿はかつて八幡造であったが、明治時代神明造に建て替えられた[10]

また、尾張戸神社の北西側をやや下った場所に小堂がある。これは1935年昭和10年)の参道整備の際に見つかった中世の甕棺墓を現地に埋め戻して祀ったもので、「甕室明神」と呼ばれている[11][12]

摂末社

古墳

尾張戸神社古墳

概要 尾張戸神社古墳, 所属 ...
尾張戸神社古墳

墳丘全景(墳頂に尾張戸神社本殿)
所属 志段味古墳群
所在地 愛知県名古屋市守山区
形状 円墳
規模 墳径27.5m
出土品 山茶碗片など
築造時期 4世紀前半
史跡 国の史跡「尾張戸神社古墳」(「志段味古墳群」に包含)
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尾張戸神社古墳(おわりべじんじゃこふん)は、尾張戸神社の本殿下にある円墳志段味古墳群を構成する古墳の1つで、国の史跡に指定されている(史跡「志段味古墳群」のうち)[13][14]

埴輪を伴わない点・葺石の類似点から、山麓にある白鳥塚古墳(志段味古墳群の代表古墳)と同時期の4世紀前半の築造とされる[15]

規模・構造

この尾張戸神社古墳の形式について、かつては前方後方墳前方後円墳との説があった。1923年大正12年)あるいはその前年に京都帝国大学梅原末治によって概略図が作成されており[11]、当時は円墳と想定されていた。

2008年平成20年)6月に名古屋市教育委員会文化財保護室によって初めての試掘調査が行われ[16]、2009年の本調査で円墳とされた。この調査によって墳丘は直径約27.5メートルで2段築成と推測されているが、2段目は神社の社殿造営のためにほとんどが削平されている[12]

1段目は墳裾から高さ約2メートル、傾斜は30-35度で[17]、葺石は角礫主体[12]。基底石の大きさは約30センチメートルで、上部は10-20センチメートルの礫が使用されており[17]石英の小礫が混ざっていた[12]。葺石を配置したのちに蒔かれた可能性もあるとされる。1段目のテラス部は幅1.2-1.4メートルで、石英の小礫が葺かれていた[17]

2段目は30センチメートルほどの基底石とその上側の一部のみ、残存が確認されている。葺石は1段目と同様に10から20センチメートルの小礫が使用されていた。1935年昭和10年)に本殿裏側が掘り返されて盗掘されかけるも巨石に阻まれた事で被害を免れた記録があるが、この巨石は竪穴式石室の天井石と考えられている[11]。周溝は確認されていない[12]

2014年平成26年)10月6日、古墳域は白鳥塚古墳1952年に既指定)・中社古墳・南社古墳などとともに「志段味古墳群」として国の史跡に指定された[14]

出土品

古墳からの主な出土品は次の通り。

梅原が調査した際の聞き取りで「埴輪が見つかったことがある」との記録があるが、実物は確認されていない。また、近年の調査においても築造時期を明確に示す遺物の出土はない。山茶碗や四耳壺片、土師器皿などは中世遺物で、瓦類は近世のものであった[18]。なお、1935年昭和10年)の参道整備の際に見つかった甕棺墓は15-16世紀の常滑焼の大甕で、中から針状鉄製品や人骨片、歯牙、木炭片などが見つかっている[11]。また、かつて墳丘の北東側で渥美窯で焼かれたと考えられる経筒容器の破片が見つかった記録があるという[12]

中社古墳

中社古墳

中社古墳(なかやしろこふん)は、尾張戸神社の境内社・中社の社殿下にある前方後円墳。志段味古墳群を構成する古墳の1つで、国の史跡に指定されている(史跡「志段味古墳群」のうち)[13][14]

東谷山山頂から南約120メートルの地にある、墳丘長約63.5メートルの前方後円墳である[19]。斜面には川原石の葺石があり、円筒埴輪が巡らされている[19]。これらの墳形・埴輪から、尾張戸神社古墳に続く4世紀中頃の築造とされる[19]

南社古墳

南社古墳

南社古墳(みなみやしろこふん)は、尾張戸神社の境内社・南社の社殿下にある円墳。志段味古墳群を構成する古墳の1つで、国の史跡に指定されている(史跡「志段味古墳群」のうち)[13][14]

東谷山山頂から南の鞍部を越えた位置にある、直径約30メートルの円墳である[19]。かつては前方後円墳とする説もあった[19]。墳丘の上段には円礫、下段には角礫が葺かれる珍しい形式を有する[19]。出土した円筒埴輪が中社古墳と同形式であることから、本古墳も同じく4世紀中頃の築造とされる[19]

現地情報

所在地

交通アクセス

周辺

  • 志段味古墳群 - 上志段味に展開する古墳群。尾張戸神社との関係が指摘される[20]
    • 白鳥塚古墳 - 志段味古墳群の代表古墳。愛知県内第3位の大きさの前方後円墳。

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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