田名部匡省

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生年月日 (1934-12-07) 1934年12月7日
没年月日 (2025-03-26) 2025年3月26日(90歳没)
田名部 匡省
たなぶ まさみ
生年月日 (1934-12-07) 1934年12月7日
出生地 日本の旗 日本 青森県八戸市
没年月日 (2025-03-26) 2025年3月26日(90歳没)
死没地 日本の旗 日本 青森県八戸市
八戸市立市民病院
出身校 立教大学経済学部
前職 岩倉組社員
アイスホッケー日本代表選手・監督
西武鉄道アイスホッケー部監督
田名部組代表取締役社長
所属政党無所属→)
自由民主党福田派加藤グループ)→)
(無所属→)
新生党→)
新進党→)
無所属の会→)
民主党
称号 正三位
旭日大綬章
経営学士(立教大学)
永年在職議員(両院通算)
親族 次女・田名部匡代
内閣 宮澤内閣
宮澤改造内閣
在任期間 1991年11月5日 - 1993年8月4日
選挙区 青森県選挙区
当選回数 2回
在任期間 1998年7月26日 - 2010年7月25日
選挙区 旧青森1区
当選回数 6回
在任期間 1979年10月8日 - 1996年9月27日
選挙区 八戸市選挙区
当選回数 2回
在任期間 1967年4月23日 - 1975年4月22日
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田名部 匡省(たなぶ まさみ、1934年昭和9年〉12月7日 - 2025年令和7年〉3月26日[1])は、日本政治家アイスホッケー選手。位階は正三位、勲等は旭日大綬章

1960年スコーバレーオリンピック1964年インスブルックオリンピック日本代表[2]参議院議員(2期)、衆議院議員(6期)、農林水産大臣(第17代)などを歴任した[3]。次女は立憲民主党参議院議員の田名部匡代

アイスホッケー代表選手・監督時代

青森県八戸市出身。八戸市立第一中学校青森県立八戸高等学校を経て、大学進学を期に上京。1957年昭和32年)に立教大学経済学部経営学科を卒業した。

岩倉組アイスホッケー部のディフェンスとして活躍[4][5]アイスホッケー日本代表選手として2度の冬季オリンピック1960年スコーバレー1964年インスブルック)に出場した[2][6]。その後、指導者として、1972年札幌オリンピックなどでは、アイスホッケー男子日本代表監督を務めた[6]。また、西武鉄道アイスホッケー部監督として、チームを3度優勝に導いた[4][7]

政界入り・県議会議員時代

1967年(昭和42年)、青森県議会議員に初当選して政界入りする。1976年(昭和51年)の第34回衆議院議員総選挙に無所属で出馬したが落選。

自民党入り・衆議院議員時代

1979年(昭和54年)の第35回衆議院議員総選挙自由民主党から立候補して初当選した。清和政策研究会(福田派)に所属し、自民党で1993年(平成5年)の第40回衆議院議員総選挙まで6度の当選を重ねた。1991年(平成3年)には宮澤内閣の農林水産大臣に就任する。

自民党離党から民主党まで

三六戦争で加藤グループに所属していたため加藤六月らと共に1993年第40回衆議院選挙当選直後に自民党を離党し、翌年新生党に入党。羽田内閣の与党議員となるも、同内閣は短期間で総辞職し(後継は村山内閣で、田名部は野党議員となった)、新生党から発展的に結成された新進党に参加する。初の小選挙区比例代表並立制での選挙となった1996年(平成8年)の第41回衆議院議員総選挙では新進党から青森3区に立候補するが落選した。

1997年(平成9年)末の新進党解党により、青森県内の新進系組織として政治団体青森県民協会を立ち上げる。1998年(平成10年)の第18回参議院議員通常選挙青森県選挙区から無所属で立候補して当選し、2年ぶりに国政に復帰した。1999年(平成11年)に無所属の会を結党、2001年(平成13年)には無所属の会代表となる。しかし2003年(平成15年)に離党して民主党に入党した。参議院で初の改選となった2004年(平成16年)の第20回参議院議員通常選挙では民主党からの立候補となり、議席を守る。

2009年(平成21年)に鳩山由紀夫内閣が発足したことで、15年ぶりに与党議員となった。

2010年(平成22年)の第22回参議院議員通常選挙に立候補せず、政界引退を表明した。民主党からは元アナウンサーの波多野里奈が田名部の後継で立候補したが、自民党公認の山崎力に敗れ、民主党は青森県選挙区の改選議席を失った。同年11月3日、旭日大綬章を受章した[8]

現職議員だった頃、青森県旧3区(主に八戸市)では、大島理森との通称「八戸戦争」により、衆議院選挙6回で市を二分したとされる。その後、地盤を引き継いだ娘が田名部匡代である[9]

政界の外では、株式会社田名部組の代表取締役という実業家の一面もあった。

2025年(令和7年)3月26日3時47分、肺炎が要因の敗血症性ショックのため、青森県八戸市の八戸市立市民病院で死去した[1][10][11]90歳没。死没日付をもって正三位に叙された[12]。自身が亡くなって5日後の3月31日には妻の英子も後を追うように死去している。

人物

北京オリンピックを支援する議員の会の副会長を務めたほか、民主党内の保守系が名を連ねる永住外国人の地方参政権を慎重に考える勉強会に参加していた。

著書

  • 『アイスホッケー入門 : 氷上の男たちの闘い』,講談社,1973
  • 『新農政に駆ける』,東匡会,1994.3

選挙歴

当落選挙執行日年齢選挙区政党得票数得票率定数得票順位
/候補者数
1967年青森県議会議員選挙 1967年4月15日 32 八戸市選挙区 自由民主党 9515票   7 2/10
1971年青森県議会議員選挙 1971年4月25日 36 八戸市選挙区 自由民主党 1万1037票   7  
第34回衆議院議員総選挙 1976年12月5日 41 旧青森県第1区 無所属 4万5010票 9.3% 4 6/10
第35回衆議院議員総選挙 1979年10月7日 44 旧青森県第1区 自由民主党 7万3971票 15.8% 4 2/8
第36回衆議院議員総選挙 1980年6月22日 45 旧青森県第1区 自由民主党 7万9873票 16.8% 4 2/8
第37回衆議院議員総選挙 1983年12月18日 49 旧青森県第1区 自由民主党 8万1503票 17.8% 4 4/6
第38回衆議院議員総選挙 1986年7月6日 51 旧青森県第1区 自由民主党 9万6725票 19.4% 4 4/6
第39回衆議院議員総選挙 1990年2月18日 55 旧青森県第1区 自由民主党 10万6946票 20.3% 4 2/6
第40回衆議院議員総選挙 1993年7月18日 58 旧青森県第1区 自由民主党 10万5905票 23.4% 4 1/7
第41回衆議院議員総選挙 1996年10月20日 61 青森県第3区 新進党 8万1460票 44.22% 1 2/3
第18回参議院議員通常選挙 1998年7月12日 63 青森県選挙区 無所属 34万0515票 46.68% 1 1/5
第20回参議院議員通常選挙 2004年7月11日 69 青森県選挙区 民主党 29万7116票 47.50% 1 1/4

脚注

関連項目

外部リンク

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