和駅
札沼線の廃駅
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歴史
年表
駅名の由来
もともと同地はアイヌ語名「エタイエペッ」から「エタイエベツ」と称され[5][注 1]、現在も恵岱別川として河川名称になっている[6]。
現在の名称は吉植庄一郎ら、千葉県埜原(やわら)村(現在の印西市の一部)出身者が入植し、吉植が出身地の「埜原」から音を借り名づけた[5][7][7]。
「埜原」ではなく「和」の字を用いた理由は諸説あるが、厩戸皇子(聖徳太子)十七条憲法にある「和を以て尊しとなし、忤うこと無きを宗となせ」や、二宮尊徳の報徳思想における「人道は和を以て本質とする」の理念からとされており[7]、そこから「永久に平和なる村を建設する意味[5]」や、「住民の一致団結を願った[7]」と後年解釈されている。
駅構造
駅舎は桑園駅に向かって右手の西側に設置されていた。休止前の初期の構内は、駅舎前に単式ホーム1面1線と副本線を有し、副本線から札幌方に車庫線が分岐していた。また、駅舎横石狩沼田側の貨物ホームへ1本の引込線を有していた[8]。
休止再開後の構内は、駅裏側が石狩沼田側にずれた千鳥状の相対式ホーム2面2線と、駅舎とホーム間に敷かれて駅舎横の石狩沼田側に置かれた貨物ホームと札幌側の土場を利用する副本線の貨物積み降ろし線1線からなる都合2面3線で構成されていた。駅舎と各ホーム間は構内踏切で連絡していた。また、休止前にあった車庫が無くなり、引込線の車庫線も無かった[9]。
札沼線の部分廃止直前は浦臼駅と石狩沼田駅の間は1日5往復まで列車本数が削減されていたが、当駅ではこの区間で唯一列車交換が行われていた。
利用状況
乗車人員の推移は以下のとおりであった。年間の値のみ判明している年については、当該年度の日数で除した値を括弧書きで1日平均欄に示す。
| 年度 | 乗車人員 | 出典 | 備考 | |
|---|---|---|---|---|
| 年間 | 1日平均 | |||
| 1961年(昭和36年) | 99,926 | (273.8) | [4] | |
| 1962年(昭和37年) | 90,739 | (248.6) | ||
| 1963年(昭和38年) | 82,736 | (226.1) | ||
| 1964年(昭和39年) | 87,216 | (238.9) | ||
| 1965年(昭和40年) | 86,060 | (235.8) | ||
廃駅跡
跡地には北竜紳装が真竜小学校の旧体育館を移築して紳士服の縫製工場として用いたが、その後建物の一部を解体し建築会社の施設として用いられている[10]。