岩本輝雄

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愛称 テル
カタカナ イワモト テルオ
ラテン文字 IWAMOTO Teruo
国籍 日本の旗 日本
岩本 輝雄
名前
愛称 テル
カタカナ イワモト テルオ
ラテン文字 IWAMOTO Teruo
基本情報
国籍 日本の旗 日本
生年月日 (1972-05-02) 1972年5月2日(53歳)
出身地 神奈川県横浜市金沢区
身長 180cm[1]
体重 74kg[1]
選手情報
ポジション MF[1] / DF
利き足 左足
ユース
1988-1990 日本の旗 横浜商科大学高校
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1991-1997 日本の旗 フジタ/ベルマーレ平塚 142 (25)
1998 日本の旗 京都パープルサンガ 33 (8)
1999 日本の旗 川崎フロンターレ 12 (5)
2000 日本の旗 ヴェルディ川崎 9 (0)
2001-2003 日本の旗 ベガルタ仙台 82 (14)
2004 日本の旗 名古屋グランパスエイト 5 (0)
2006 ニュージーランドの旗 オークランド・シティ 3 (0)
通算 278 (48)
代表歴2
1994[2] 日本の旗 日本 9 (2)
1. 国内リーグ戦に限る。2006年12月15日現在。
2. 1994年10月11日現在。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

岩本 輝雄(いわもと てるお、1972年5月2日 - )は、神奈川県横浜市金沢区出身の元サッカー選手ポジションディフェンダーミッドフィールダーベルマーレ平塚を皮切りに名古屋グランパスエイトを退団するまで6チーム(ベルマーレの前身、フジタを除く)に在籍した。

2004年名古屋グランパスエイトを退団後、約2年間選手生活から遠ざかっていたが、2006年10月ニュージーランドオークランド・シティFCと契約を結び、12月に行われたFIFAクラブワールドカップのオセアニア地区代表として2試合に出場した。独身。

フジタ / ベルマーレ平塚

横浜商科大学高等学校卒業後の1991年、フジタサッカークラブに加入[3]。高校時代まではミッドフィールダーだったが、同年7月にニカノールヘッドコーチによって左サイドバックにコンバートされた[4]。元々、左サイドバックを務めていた名良橋晃を右サイドに移した上での起用となったが、当時の岩本は左足の確かな技術を有する一方で、守備については不安視をされていた[5]。一方、ニカノールは「カバーリングと1対1で負けないこと。それだけ気をつけておけ」と岩本を後押ししたという[6]

加入初年度から出場機会を得ると1991-92シーズンのJSL2部では22試合に出場し、7得点を記録[3]。チームがJリーグ参入を逃したため1992年夏からはジャパンフットボールリーグでのプレーとなったが、右サイドバックの名良橋と共に両サイドが高めのポジションを取ることでチームを牽引し[4]、Jリーグ昇格に貢献。この当時のチームは「湘南の暴れん坊」と称された[4][6]。Jリーグ昇格後の1994年、NICOSシリーズ躍進(最終的には2位)の原動力となり、その活躍が認められ日本代表に選出された。同年、天皇杯優勝[6]

1995年、短期留学したブラジルで右足甲を痛め、代表定着のきっかけを失った。さらにリーグ戦では左膝靱帯を傷めたため靱帯に筋を移植、半月板を一部切除する手術を2回受けたため、チームのアジアカップウィナーズカップ初制覇に帯同できなかった[3]

日本代表

ハンス・オフト監督時代の1993年、左サイドバックのレギュラーだった都並敏史が負傷したことにより代表入りが噂され、代表スタッフによりチェックを受けたが招集には至らなかった[7]

ファルカン監督時代の1994年、日本代表に初招集され、同年5月22日に行われたキリンカップオーストラリア代表戦で代表デビューを果たした[7][8]

日本代表に選ばれた当初は背番号6を付け、左サイドバックでプレーした[5][7]。アシックスカップのガーナ代表戦では中盤での起用となり、7月14日に行われた第2戦では代表初得点を記録した[7][9]

10月から広島県で行われたアジア大会では澤登正朗を抑えて10番に抜擢されたが[5][7]、自身のコンディション不良の影響で先発から外れた試合もあり、満足な活躍は出来なかった[7]。同年10月11日に行われたアジア大会準々決勝の韓国代表戦が最後の代表出場となった[7][10]。アジア大会終了後、ファルカンが解任され、加茂周が監督に就任すると、これ以降は再び代表に呼ばれることはなかった[7]

怪我との戦い

故障の影響から、その後ベルマーレ平塚での活躍ぶりに陰りが見え始めた。そんな中、1998年に京都パープルサンガへ移籍。33試合に出場し、8得点を記録するなど復調の兆しを見せた[3]。京都を退団後は川崎フロンターレヴェルディ川崎と渡り歩いたが、故障しがちでなかなかチームに定着できず[3]。V川崎では監督と対立した末、2000年5月に自主退団[5]

その後は自主トレーニングを続けていたが、同年10月に京都時代に指導を受けた清水秀彦を頼り、ベガルタ仙台の練習に参加[5]。翌2001年、仙台に加入すると左サイドでの攻撃の軸として復活を果たし[3]、チームをJ1へと導くゴールを挙げた財前宣之へのクロスに象徴される数々のアシストを記録した[3]。特に長身FWのマルコスとの相性は抜群で、この当時は左サイドからのクロスに磨きをかけていたという[5]。また、2003年10月18日のジェフユナイテッド市原(当時)戦で、ゴール約40メートルの距離から直接決めたフリーキックは半ば伝説化し[11]、Jリーグ公式YouTubeチャンネルでは「Jリーグ史に刻まれる伝説的フリーキック」の一つとして紹介されている[12]

2004年、名古屋グランパスエイトへ移籍[3][13]5月29日ナビスコカップ予選Bグループ第3節対アルビレックス新潟戦(名古屋市瑞穂公園陸上競技場)でジャンプ後の着地に失敗し、右足首を負傷し、途中交代[3]。受傷後すぐに「靱帯の一部損傷」という診断結果が出たため、しばらくして練習を再開したものの[3]、後に右足首靭帯断裂という診断を受けた[3]。8月29日の横浜F・マリノス戦を最後に試合から遠ざかり[14]、10月、12月に2回手術を受けたが回復しないまま、同年限りで名古屋を退団[14]

手術により歩行可能にはなったものの慢性的な痛みが残り、軽く運動しただけで足首はテニスボールのように腫れたという[5]。その後はリハビリを続けながら現役復帰を目指すこととなった[3][15]2005年夏にはメキシコに渡りデポルティーボ・トルーカFCの練習に参加するが、足首の痛みが再発したため帰国。帰国後検査すると、足首に3箇所の亀裂骨折が見つかった[16]。そこで日本代表時代のチームドクターだった武井経憲を頼ったところ、過去の手術で腱を縫い付けていた糸が中で腐っていたことが発覚し、それを取り除く手術を受けた[16]

タレントとしての活動

リハビリのかたわら芸能プロダクション三桂と契約し、タレントとしても活動をしていた[14]

2006年、4月から6月にかけてNHK衛星放送『東海道五十三次完全踏破 街道てくてく旅』に旅人として出演。徒歩により約500kmある東海道五十三次を2か月半かけて完全制覇した[14]。本人によれば、この徒歩が結果的に良いリハビリになり、足首の状態が一気に回復したという[16]。また、4月発売のゲーム『ウイニングイレブン10』の中ではピッチレポーターとして登場している。

2008年のNHK教育テレビ『テレビでスペイン語』では得意のスペイン語を生かしてExamen(試験)コーナーでトップ賞を数多く勝ち取っている。9月11日放送分で最後を待たずに総合優勝した。

現役復帰

2006年8月、Jリーグのアビスパ福岡との契約交渉まで話が進展したが[14]、契約は実現せず。

同年10月、ニュージーランドオークランド・シティと7週間の短期契約を締結した[17]。オークランド・シティはFIFAクラブワールドカップへの出場を控えていたが、岩本以外の全選手がセミプロ契約というチームだった[17]。12月のFIFAクラブワールドカップでは、途中出場ながら2試合に出場。これをもって正式に現役を引退[3]

引退後

2009年1月、現役時代に所属していたクラブの1つである仙台がクラブの親善大使である「アンバサダー」職を新設。その初代アンバサダーに就任し、2010年まで務めた。2011年12月、横浜創学館高等学校サッカー部コーチに就任[18]

2015年8月よりワタナベエンターテインメントとマネジメント契約することが本人のブログで明らかとなった[19]

エピソード

AKB48のファンとして

現役引退後は、AKB48の熱狂的なファンとしても知られるようになった。推しメンバーは小嶋菜月大島涼花であることも公言していた。本人曰く「頭の中はサッカーが8割、AKB48が2割」とのこと。2015年9月18日にAKB48劇場で初日を迎えた岩本輝雄『青春はまだ終わらない』公演のプロデュースを行い、小嶋菜月をセンターに指名した[20]

しかし、2019年6月26日放送の『有吉大反省会2時間SP ウソつきアイドル祭り!!』に出演し、これまで「小嶋菜月の推し」を大々的に明言していたが、実は2推しで1推しは渡辺麻友であり、「推しメン詐称」をしていたことを告白・反省した[21]

所属クラブ

個人成績

国内大会個人成績
年度クラブ背番号リーグ リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
出場得点 出場得点出場得点 出場得点
日本リーグ戦JSL杯/ナビスコ杯天皇杯期間通算
1991-92フジタ13JSL2部22700
1992旧J1142-43185
19931014310154
1994平塚-J37611534310
1995182-10192
19961739230295
1997132446032336
1998京都63384110389
1999川崎28J21251000135
2000V川崎11J1902000110
2001仙台14J23452130396
2002J12246020304
20032654000305
2004名古屋850100060
ニュージーランド リーグ戦 リーグ杯オープン杯 期間通算
2006-07オークランド53NZFC30--30
通算日本J1 1913233415523941
日本J2 461031305211
日本JSL2部 22700
日本旧JFL1部 2434353339
ニュージーランドNZFC 30--30
総通算 28652

その他の公式戦

国際大会個人成績 FIFA
年度クラブ背番号出場得点出場得点
OFCOFC CLクラブW杯
2006オークランド16-20
通算OFC --
FIFA 20

その他

記録

タイトル

クラブ

フジタサッカークラブ/ベルマーレ平塚
川崎フロンターレ

代表歴

試合数

  • 国際Aマッチ 9試合 2得点 (1994)[2]
日本代表国際Aマッチ
出場得点
199492
通算 92

出場

No.開催日開催都市スタジアム対戦相手結果監督大会
1.1994年05月22日日本の旗広島県広島広域公園陸上競技場 オーストラリア△1-1パウロ・ロベルト・ファルカンキリンカップ
2.1994年05月29日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 フランス●1-4キリンカップ
3.1994年07月08日日本の旗愛知県名古屋市瑞穂公園陸上競技場 ガーナ○3-2アシックスカップ
4.1994年07月14日日本の旗愛知県神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 ガーナ○2-1アシックスカップ
5.1994年09月27日日本の旗東京都国立霞ヶ丘競技場陸上競技場 オーストラリア△0-0国際親善試合
6.1994年10月03日日本の旗広島県みよし運動公園陸上競技場 アラブ首長国連邦△1-1アジア大会
7.1994年10月05日日本の旗広島県広島県総合グランドメインスタジアム カタール△1-1アジア大会
8.1994年10月09日日本の旗広島県広島県立びんご運動公園陸上競技場 ミャンマー○5-0アジア大会
9.1994年10月11日日本の旗広島県広島県総合グランドメインスタジアム 韓国●2-3アジア大会

得点数

#開催日開催地会場相手結果大会
11994年07月14日日本の旗愛知県神戸総合運動公園ユニバー記念競技場 ガーナ○2-1アシックスカップ
21994年10月09日日本の旗広島県広島県立びんご運動公園陸上競技場 ミャンマー○5-0アジア大会

タレント活動

サッカー解説番組

バラエティ番組

その他のテレビ番組

  • いのちの響TBS
  • 旅するためのイタリア語 (2022年4月11日〜、 NHK教育)

イベント出演

脚注

参考文献

関連項目

外部リンク

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