木村庄之助

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木村 庄之助(きむら しょうのすけ)は、大相撲に於ける立行司の名称。行司の最高位で、相撲番付に例えると横綱に相当する。当代の39代2025年1月場所より登場した。

36代庄之助。木村庄之助の軍配の房色・直垂菊綴は総紫と定められている。2012年7月場所

現在、木村庄之助を襲名するための必要条件は、式守伊之助を経たのちに先代の庄之助が引退して空位になった場合である。24代以降で庄之助を襲名した者は、全員が伊之助を経たのちに庄之助を襲名している[注釈 1]。このため庄之助と伊之助が同時に引退した場合、次の格の行司はいきなり庄之助を襲名することはできず、一時的に伊之助を襲名したのちに次場所(以降)で庄之助を襲名することができるため、庄之助空位の場所が発生する[注釈 2]。この事例は2006年3月場所で発生した。伊之助から庄之助を継承した初めての事例は10代伊之助であった17代庄之助で、1921年5月場所の5日目に横綱大錦 - 前頭5枚目鞍ヶ嶽戦を差し違えた責任を取って突然廃業した。当時の12代伊之助18代庄之助を襲名せずに当場所限りで引退して立行司が空席となり、翌1922年1月場所で初代木村朝之助が伊之助を経ずに18代庄之助を襲名した。13代伊之助はのちに19代庄之助となる5代式守与太夫が襲名した。ほかに23代庄之助も伊之助を経ずに庄之助を襲名した。

6代庄之助より13代庄之助まで「木村庄之助正武」を名乗った。継代数は、6代庄之助が3代水増して自ら9代庄之助を名乗ったとする説がある。

江戸時代から年寄の資格を持ち、歴史上「木村庄之助部屋」として相撲部屋を持った上で弟子として力士を養成した庄之助がいたこともあったが、行司停年制を実施する前の1958年限りで年寄名跡から除かれている。

立行司としての装束・持ち物に加え、木村庄之助のみに許されるものとして軍配に紫の房、明治以後は装束である直垂に紫の菊綴じがある[1]

譲り団扇」と呼ばれる代々受け継がれている軍配は2本ある。いずれも相撲博物館に保管されていて、東京場所以外で使用することは通常ない。

  • 表面に「知進知退 随時出処」(進むを知って、退くを知る。いつでもどこでも。『淮南子』巻十八 人間訓の一節)、裏面に「冬則龍潜 夏則鳳擧」(冬すなわち龍潜み、夏すなわち鳳飛び立つ。表面の日本的漢文)と記されており(つまり両面とも、辛抱するときはじっとこらえ、時いたれば思いきって出る、という相撲の極意を示している。)13代庄之助以来のものである。素材はタガヤサン[2][3]
  • 白檀製で1面に牡丹、1面に唐獅子の彫金が施され(彫金は海野建夫作)、1971年1月に兵庫県宝塚市清荒神清澄寺から日本相撲協会に贈られた。1970年3月場所後に第51代横綱玉の海が清荒神清澄寺で横綱土俵入りを行い、そのお礼の宴席で25代庄之助22代伊之助に軍配を贈る話となった。伊之助のものは本人に贈られたが、庄之助のものは玉ノ海梅吉の働きかけにより譲り団扇とするために庄之助個人ではなく協会に寄贈したとされる。なお22代伊之助は26代庄之助となったのち、この軍配のレプリカを自費で製作して使用した[4]

「軍配は右手」と継承されているが、現存する錦絵によると、7代とされる庄之助は左利きのために左手で軍配を持っている。

本場所の本割では結びの一番のみを裁く。庄之助が結びの一番だけに命を懸けるのは古来からの伝統的格式と権威の象徴とされ、1971年(昭和46年)に協会が庄之助に2番裁かせる改革案を発表した際には行司一同の強い反発を招きこの案を協会が撤回した経緯がある[5]。庄之助は1番限りの慣例から千秋楽優勝決定戦を伊之助が裁いた時代もあるが、このときも庄之助が行司溜まりに控えており、出場力士が多数で番数が多い場合は、2番ずつを目安に交代して土俵に上がり裁いた。伊之助不在の場合は最初から庄之助が裁いた。立行司が3人いた時代は木村玉之助が裁いたこともあり、副立行司が存在した時代はこれが受け持ったこともある。現在は庄之助と伊之助のどちらが決定戦を裁くかはあらかじめ定めておき、もう一方が控えとなる。

番付上庄之助と伊之助が揃っている状態から先代の庄之助が引退しても、伊之助は必ずしも翌場所に庄之助に昇格できるとは限らず、行司としての実績や年齢などの要素によっては、庄之助が空位の場所が発生することもある。

37代庄之助2015年3月場所で停年退職後、次期庄之助になるはずだった40代伊之助が、軍配差し違えなどの土俵上でのミスや自身の不祥事などにより結局庄之助になれないまま辞職したことや、40代伊之助の後任となった41代伊之助(後の38代庄之助)も体調不良での休場や軍配差し違えなどの土俵上でのミスを多く経験していることなどもあり、大相撲史上最長となる8年以上にわたり庄之助不在状態が続くことになった。2023年9月28日に行われた日本相撲協会理事会で、2024年1月場所より41代伊之助が38代庄之助を襲名することが決まったが、庄之助襲名が遅れた理由として「(軍配差し違えの続出で)裁きが安定しないことが考慮された」と指摘する報道がある[6]

木村庄之助の代々

襲名期間備考
初代寛永年間?真田伊豆守家臣中立羽左衛門尉清重とされるが、実在は不明
2代貞享 - 宝永年間?木村喜左衛門。実在したとされ、木瀬太郎太夫の孫と伝わる
3代享保年間?中立羽左衛門正智(?)。実在は不明
4代? - 1725年頃?史実としての初代とされ、九重庄之助から中立姓となり、後に木村姓に改姓したと伝わる。勧進元、差添も務める
襲名期間師匠履歴その後
5代寛保年間に襲名?木瀬庄太郎→初代木村庄太郎→庄藏
6代宝暦初め頃? - 1770年11月場所木村荒助→初代木村庄九郎→2代庄太郎
7代1771年3月場所 - 1799年11月場所木村七次郎(?)→3代庄太郎
8代1800年4月場所 - 1824年1月場所7代庄之助の弟子木村七次郎→4代庄太郎
9代 (10代)1824年10月場所 - 1834年10月場所
10代として:1836年2月場所 - 1838年10月場所
7代庄之助の弟子で、のち8代庄之助の養子初代木村喜八→初代木村喜代治→5代庄太郎
11代1839年3月場所 - 1844年10月場所木村留次郎→庄助→6代庄太郎
12代1845年2月場所 - 1853年2月場所8代庄之助の弟子木村禎藏→正藏→7代庄太郎
13代1853年11月場所 - 1876年4月場所浦風林右エ門の弟子木村小太郎→幸太郎→市之介→3代木村夛司馬
14代1877年1月場所 - 1885年1月場所(死跡)10代庄之助の弟子木村富吉→留吉→4代喜代治→10代庄太郎現役没
15代1885年5月場所 - 1897年5月場所11代庄之助の弟子木村八三郎→角次郎(角治郎)→4代木村庄三郎現役没
16代1898年1月場所 - 1912年1月場所13代庄之助の弟子木村新介→3代木村龍五郎→吉田誠道→初代木村誠道→4代式守鬼一郎→木村誠道(再)現役没
17代1912年1月場所 - 1921年5月場所15代庄之助の弟子初代木村玉治郎→6代庄三郎→10代式守伊之助
18代1922年1月場所 - 1925年5月場所濱風今右衞門の弟子木村甚馬→甚助→甚之助→甚太郎→木村朝之介現役没
19代1926年1月場所 - 1932年5月場所9代伊之助の弟子式守夛喜太→2代式守錦之助→5代式守与太夫→13代伊之助現役没
20代1932年10月場所 - 1940年1月場所8代伊之助の弟子で、のち養子式守子之吉→3代式守錦太夫→6代与太夫→15代伊之助現役没
21代1940年5月場所 - 1951年5月場所3代式守与之吉→4代式守勘太夫→11代木村玉之助→17代伊之助
22代1951年9月場所 - 1959年11月場所松翁20代庄之助に師事初代木村林之助→初代木村容堂→12代玉之助→18代伊之助
23代1960年1月場所 - 1962年11月場所木村越後の弟子2代木村正直
24代1963年1月場所 - 1966年7月場所式守義松→義→初代式守伊三郎→義→伊三郎(再)→5代鬼一郎→20代伊之助
25代1966年9月場所 - 1972年1月場所[注釈 3]14代木村玉光→9代庄九郎→21代伊之助
26代1973年1月場所 - 1976年11月場所21代庄之助の弟子式守正→木村正→邦雄→5代与之吉→6代勘太夫→22代伊之助
27代1977年11月場所 - 1990年11月場所19代伊之助の弟子木村宗吉→4代木村玉治郎→23代伊之助
28代1991年1月場所 - 1993年11月場所松翁20代庄之助の弟子で、のち養子。松翁亡き後、22代庄之助の預かり弟子木村松尾→式守松尾→式守林之助→2代林之助→8代錦太夫→25代伊之助
29代1995年1月場所 - 2001年3月場所三役格9代式守与太夫の養子木村春芳→壽男→春義→真之助→2代式守慎之助→9代錦太夫→28代伊之助
30代2001年11月場所 - 2003年1月場所22代庄之助の弟子初代木村保之助→3代林之助→2代容堂→31代伊之助
31代2003年5月場所 - 2005年11月場所19代伊之助の弟子式守正夫→木村正三郎→9代庄三郎→32代伊之助
32代2006年1月場所22代庄之助の弟子木村郁也→咸喬→33代伊之助
33代2006年5月場所 - 2007年3月場所三役格4代木村誠道の弟子初代木村要之助→式守要之助→木村要之助(再)→政裕→要之助(再々)→賢嘉→友一→3代朝之助→35代伊之助
34代2007年5月場所 - 2008年3月場所幕内木村筆之助の弟子式守勝春→勝治→11代与太夫→36代伊之助
35代2008年5月場所 - 2011年9月場所木村順一→純一郎→順一→旬一→城之介→37代伊之助
36代2011年11月場所 - 2013年5月場所26代庄之助の弟子式守敏廣→9代與之吉→10代勘太夫→38代伊之助
37代2013年11月場所 - 2015年3月場所27代庄之助の弟子木村三治郎→5代玉治郎→10代庄三郎→39代伊之助
38代2024年1月場所 - 2024年9月場所木村秀樹→英樹→和一郎→11代式守勘太夫→41代伊之助
39代2025年1月場所[7] -木村裕司→恵之助→恵乃助→武蔵→恵之助→3代容堂→42代式守伊之助

大阪行司

備考履歴
木村兵丸大坂相撲
木村錦太夫大坂相撲の行司岩井正朝の弟子木村金八→信之助
2代木村正直大坂相撲の名行司木村越後(初代正直、8代玉之助)の弟子木村藤吾
木村金吾

木村庄之助の記録

記録
6代江戸相撲の現存最古の番付が発行された当時の庄之助。木村庄之助正武を名乗り、以来幕末までの歴代のは「正武」と称した。
7代在位最年長(29年)。珍しい左利きで軍配を持つ。
8代2代木村瀬平を襲名。1827年に先祖書を幕府に提出。
9代引退後に復帰して10代庄之助として再勤。
13代年寄・木村松翁を襲名。
15代年寄・木村松翁を襲名。
16代初めて木村・式守両家を名乗る。晩年は中風症のため手が震え「ブル庄」の異名をとった。
17代初めて式守伊之助より継承。差し違いの責任を取り廃業(「概要」の項参照)。
18代17代目の突然の廃業、12代伊之助の引退が重なり、伊之助を経ず襲名。能筆で「顔触れ」は名人級と評される。
20代唯一「松翁」の名誉尊号を番付上に冠した。
21代12代立田川を襲名。玉之助(当時は立行司)襲名からわずか2年半余りで庄之助襲名。
22代木村庄之助として行司停年制初の停年退職。稀にみる長寿(104歳で死去)。
23代式守伊之助を経験せず襲名。稀にみる長寿(96歳で死去)。
24代停年後は神官職となる。
25代ストライキ主導と差し違いの責任を取り廃業。(詳しくはこちらを参照)。
27代史上最年少の51歳で襲名。在位最多場所(79場所)1185番を裁く。稀にみる長寿(97歳で死去)。
28代平成の名行司。
32代在位1場所は行司定年制実施後では最短。
38代41代伊之助を襲名していた当時、庄之助は空位であったが、差し違えや転落などのハプニングが多かった影響で5年間伊之助に留まり、庄之助空位は史上最長の8年10ヶ月に及んだ。
停年退職直前の1月場所に当たる2024年1月場所で庄之助襲名。

木村庄之助として合わせた時代についての記録

記録
16代常陸時代」全盛期の名行司。
20代双葉山時代」全盛期を合わせた名行司。
22代時代」全盛期を合わせる。
23代時代」初期を合わせる。
24代「柏・鵬時代」全盛期の名勝負を合わせる。
25代「柏・鵬時代」後期から「時代」を合わせる。
26代時代」初期を合わせる。
27代「輪・湖時代」全盛期から「千代の富士時代」を合わせる。
28代時代」初期を合わせる。
29代四横綱(曙、貴乃花、3代若乃花武蔵丸)時代を合わせる。

脚注

参考文献

関連項目

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