薛欧
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舍人として沛県豊邑で劉邦に従い挙兵し、西方へ征伐して霸上まで進軍した。この時は郎中を務めていた。
高祖1年(紀元前206年)、劉邦が漢王に封ぜられると、劉邦に従って漢中郡に入った。同年8月、劉邦は将軍の薛欧と王吸を武関から出兵させ、南陽に駐屯していた王陵の軍を頼り、沛県にいる劉太公と呂雉ら劉邦の家族を迎え入れようと図った。しかし、項羽が陽夏に兵を進めて守りを固めたため、漢軍は前進することができなかった。以後、劉邦の家族はしばらく人質としての生活を余儀なくされた。楚漢戦争では将軍として項羽軍と鍾離眜軍を撃破する功績を上げた。
高祖5年(紀元前202年)、典客(九卿の一つ、王朝と属国間の交流に関する事務を執り行う)に任命された。
高祖6年(紀元前201年)12月、甲申の日、広平侯に封ぜられ、食邑4,500戸を領した。
侯位には14年間在り、恵帝7年(紀元前188年)に逝去した。
評価
前漢王朝の礎を築いた功臣一覧の功績と家系録を記した『漢書』高恵高后文功臣表では序列第15位に列せられている。