陳嬰
From Wikipedia, the free encyclopedia
元々は東陽の令史(下級官吏)であり、職分は獄史(監獄官)であった。人となりは一貫して誠実で慎み深く、人々の信望を集め、「長者」と称えられていた。
二世元年(紀元前209年)7月、陳勝・呉広の乱が起こると、呼応した東陽の若者たちも県令を殺害し、数千人が集結して陳嬰を反乱軍の長に推戴しようとした。陳嬰は「器ではない」と辞退したが、人々に強引に長に担ぎ上げられた。県内で陳嬰に従う者は2万人に上り、青い頭巾を標とする蒼頭軍が組織された。人々は陳嬰を王にまで擁立しようとしたが、陳嬰の母はこれに反対し、「これまであなたの先祖に身分の高い者がいたとは聞いたことがない。急にこれほどの名声を得るのは不吉なことであり、どこかに属した方が良い。成功すれば侯に封じられることもあり、失敗しても身を隠しやすい」と述べた。陳嬰は母の意見に従って王を名乗ることをせず、配下の軍吏たちに、「項氏は代々将軍の家柄で、楚において名声がある。大業を起こそうとするならば、将帥はそのような人物でなければならない。私が名門の一族を頼りにすれば、秦を滅ぼすことは必定である」と力説して配下を納得させると、軍と共に項梁の指揮下に入った。
二世2年(紀元前208年)2月、項梁が淮河を渡った時、英布や蒲将軍もそれぞれ軍勢を率いて項梁の麾下に加わった。陳嬰含む諸将の軍勢は総数6、7万人に達し、下邳に駐屯した。
同年6月、項梁によって楚の懐王(後の義帝)が擁立されると、陳嬰は楚の上柱国に任命され、5県を封地として与えられた。また、懐王と共に盱眙を楚の都と定めた。
その後の陳嬰の事績については項羽本紀には記されていない。以下は『史記』高祖功臣侯者年表に基づく。
高祖5年(紀元前202年)、楚漢戦争において項羽が敗死すると、陳嬰は漢に帰順した。その後、豫章と浙江一帯を平定する、王を僭称していた壮息を討ち取るなどの功績を上げた
高祖6年(紀元前201年)12月、甲申の日、堂邑侯に封ぜられた。『漢書』によると当初の食邑は僅か600戸であったが、後に1,800戸に加増された。また、楚王劉交の下で丞相を11年間(『漢書』によると12年)務めた。
子の陳禄の元年(堂邑侯を継承した年)は高后5年(紀元前183年)とあるため、陳嬰の没年は紀元前183年前後であると推算される。死後、安侯と諡された。