アンドリューズ夫妻
From Wikipedia, the free encyclopedia
| 英語: Mr and Mrs Andrews | |
| 作者 | トマス・ゲインズバラ |
|---|---|
| 製作年 | 1750年ごろ |
| 種類 | キャンバス上に油彩 |
| 寸法 | 69.8 cm × 119.4 cm (27.5 in × 47.0 in) |
| 所蔵 | ナショナル・ギャラリー、ロンドン |
『アンドリューズ夫妻』(アンドリューズふさい、英: Mr and Mrs Andrews)は、18世紀イギリスの巨匠トマス・ゲインズバラが1750年ごろ、キャンバス上に油彩で制作した肖像画である。現在、ナショナル・ギャラリー (ロンドン) に所蔵されている[1][2]。今日、ゲインズバラの最も著名な絵画の1つであるが、1960年までモデルの人物たちの子孫に継承され、1927年にイプスウィッチでの展覧会に登場するまではほとんど知られていなかった。その後、イギリス国内外のほかの展覧会に出品を要請され、その魅力と新鮮さにより批評家たちから称賛された。第二次世界大戦後、作品のイコン的な地位は確立され、1953年におけるエリザベス2世の戴冠式を記念するパリでの展覧会では、イギリス美術を代表する4点の絵画のうちの1点となった。すぐに、本作は18世紀イギリスのパターナリズムや資本主義の実例として批判的に見なされるようになったが、現在でも変わることのない人気作品である[3]。
この絵画は、当時一般的であった2種類の絵画を組み合わせた異例なものとなっている。すなわち、結婚したばかりのロバートとフランシスのアンドリューズ夫妻の二重肖像画と、イギリスの田舎の風景画が組み合わされているのである。ゲインズバラの作品は主に肖像画と風景画から成り立っているが、それらがこの横長の形式の絵画で並置されているのは彼の作品中でも独特で、他の画家たちには見られない。カンバセーション・ピース (語らいの場面)は集団肖像画にほかの要素や活動を含んだものである[4]が、それらは通常、人のいない風景の中ではなく、室内で何らかの活動をしている多くの人物たちを表している。
ゲインズバラは、収入の良い肖像画を制作するために真に愛好している風景画を描けないと後に不満を漏らしたことで知られている。画家の関心は、おそらく主な収入を大地主としての土地所有から得ていたのではない夫妻の田舎の所有地 (夫人の持参金の1部をなしていた) を肖像画で普通に表すよりも目立つように描くことにあり、その関心はおそらく夫妻の関心と同一のものであった[5]。

1750年に本作を描いた時、ゲインズバラは22歳であった。彼は妊娠していたマーガレット・バー (Margaret Burr) と結婚済で、ロンドンから故郷のサフォーク州サドベリーに帰ったが、サドベリーはアンドリューズ夫妻の故郷でもあった。ゲインズバラはロンドンでフランスの画家ユベール=フランソワ・グラヴロの下で修業をし、彼からフランスのロココ様式を学んでいた。彼はまた、ロンドンでオランダ黄金時代の絵画から風景画への愛好を育んだ。しかし、風景画は肖像画よりずっと低く見なされ、報酬も少なかった。そのため、家業の衣服商が1733年に破産していたゲインズバラは、彼の言葉を借りれば「顔を描く」のを余儀なくされた。『アンドリューズ夫妻』は、ゲインズバラの肖像画中で最も広大な風景を含んでいるが、後に画家はこうした構図に立ち返ることはなかった。彼のその後の肖像画は、無地ないし典型的にロココ風の背景の中に描かれることとなる。ゲインズバラは、潜在的な顧客に自身の風景画の才能を誇示し、自身の嗜好ないしアンドリューズ夫妻の望みを満足させたかったのだと推測されている[6]。

高さ69センチという本作の比較的小さなサイズというのは、ゲインズバラ初期の肖像画と風景画に典型的なものである。後に、彼は初期の地元のジェントリの肖像画とは異なり、ロンドンの多数の顧客たちのためにほぼ等身大のずっと大きな肖像画を制作した。それらの肖像画では背景の風景は大半が森で、非常にありふれたものとなっている。画家の肖像画中の風景と純粋な風景画は森を表したものが多く、本作に見られる開けた農地の景観は、とりわけそれが鑑賞者に非常なクローズアップで描かれている点で異例である[7]。大部分の純粋な風景画のように、ゲインズバラの風景画も通常、ある程度離れた距離から見られたものである。鑑賞者に非常に近い前景から広がる本作の風景は、肖像画という必要性によるだけでなく肖像画に典型的なものであるが、本作を傑作とするのに非常に役立っている。なお、当時のほとんどすべての画家同様、ゲインズバラは屋外で描くという習慣はなく、アンドリューズ夫妻は、実際には絹の服を纏ってポーズをとるため所有地を歩いたわけではなかった。現代の何人かの批評家たちが本作を批判する要素の中には、このような現実とは異なる絵画の一面も含まれる[8]。
モデルの人物と場所

男性のモデルであるロバート・アンドリューズはジェントリ階級の人物である[9]が、そのことは本作において非常に明らかである。彼の家族の資産はおそらく地主であることに由来したと思われるが、ロバートの父親はまた、多額の金を非常な高金利でほかのジェントリに貸し出してもいた。その中には1743年にフレデリック・ルイス (プリンス・オブ・ウェールズ)に貸し出した3万ポンドも含まれ、結果的にロバートの父親はリメンブランサー (財政官)となった。彼はメイフェアのグロズヴナー広場にロンドンの居宅を持ち、さらに船舶を所有してイギリス帝国の植民地と通商を行っていた。ロバートは1725年にブルマー (エセックス州)に生まれ、ゲインズバラと同時期にサドベリー・グラマー・スクールで学んだ後、オックスフォードのユニバーシティ・カレッジに進んだ。彼の父親は彼のために不動産を購入し、取り決め結婚も行った。その結果、ロバートを上流階級に入れるという試みは成功した。1763年、父親の死後、ロバートは家業を継ぐこととなり[6][10]、1750年までにほぼ3,000エーカーを所有していた。その中には、本作中に見える大半の土地が含まれていた[1][11]。

ロバートの横に座っている彼の妻フランシス・メアリー・カーター (Frances Mary Carter) は、ブルマーの同じ教区に育ち、「隣家の少女というわけでなかったが、至近距離にいた、彼と同じ階級の結婚可能な少女」であった[12]。2人は、1748年11月10日にサンドベリーで結婚している。ロバートは22歳、フランシスは16歳であった。彼女の父親も土地だけでなく事業を持っており、シティ・オブ・ロンドンに家の権利を有していたのに加え、サンドベリー近くのストー川沿いにあったバリンドンホールに田舎の拠点も持っていた[12]。彼女の家族は布地商の事業で財産を築いたが、土地を所有することで繊維産業の崩壊の影響を受けずに済んだ。
アンドリュー家のブルマーの所有地オーベリーズ (Auberies) は、サドベリーから約4キロのところで、フランシスの父親が持っていたバリンドンの所有地と接していた。バリンドンの所有地はフランシスの持参金の一部であったか持参金で購入されたもので、購入されたのであれば、2人が結婚した時期と本作が制作された時期の間である。画面中景に垣間見える教会は、サドベリーのオール・セインツ (All Saints) 教会で、夫妻が結婚した場所であった。背景左側の小さな塔は、ロング・メルフォードの聖三位一体 (Holy Trinity) 教会の塔である。右側には、フランシスが子供時代に過ごしたバリンドン・ホールの家の自家農場にあった納屋が見える。ゲインズバラの作品で、このように特定でき、正確に描写された場所というものは異例であり、おそらくモデルの夫妻の特別な要請によるものである[2]。やはりオーベリーズと呼ばれた夫妻の家は、鑑賞者の背後右側の、画面が示唆するよりずっと近くで、彼らの視界に入っていたであろう[13]。夫妻には9人の子供が誕生したが、1780年にフランシスが48歳で死去した時、ロバートは再婚し、1806年に80歳で死去した[1][14]。アンドリューズ夫妻はブルマーの聖アンデレ (St. Andrew) 教会の敷地に埋葬され、教会内には彼らの記念碑が掛けられている。

夫妻は異なった服装を身に着けているが、どちらの服装も多くの批評家が考える以上に非公式さという点で共通している。ロバートは自身の所有地においてでさえ、彼の地位の男性がよく見られたような非公式の格好をしており、火薬と弾丸の入った袋の付いた、緩い狩猟用コートを纏っている。フランシスは、現在なら実際にはサマースーツと呼ばれるような非公式の服を纏っており、ドレスではなく別個のスカートと上着を身に着けている。それらは明るい青色で、ゲインズバラがフランシスの母親を含む初期の女性人物たちの肖像画に描いたのと同じような服の色をしているが、実際の服の色は表していないのかもしれない。フランシスは非公式のミュールを履き、麦わら帽子を被っている。しかしながら、夫妻のポーズは確かに異なっており、ロバートのさりげないポーズは「まっすぐに座っている」フランシスのポーズとはマッチしていない。コルセットや淑女に求められた落ち着きを別として、彼女はおそらく服を着せられたマネキンをもとに描かれた。彼女が腰かけているロココ風の当時のベンチは木製のものであったに違いないが、ゲインズバラがグラヴロの下で修業をしていた時代にもとづく、ゲインズバラの創造によるものと考えられている[15]。なお、人物たちと風景を描くために用いられている色彩は調和している。アンドリューズ夫人の麦わら帽子、彼女の青色のドレス、アンドリューズ氏の灰色のコートは、風景の中に見られる色と呼応している[1]。
ゲインズバラは、おそらくロンドンで本作以前の1747-1748年に『カーター夫妻の肖像』(テート・ブリテン、ロンドン) を描いている。両作品は、多くの点で興味深い比較対象となる。カーター夫人となるフランシス・ジャミノー (Francis Jamineau) はフランス系であったが、夫妻がゲインズバラが描いているように身体的に不釣り合いであったかは不明である[12]。
ジェスロ・タル (農学者)の革新的かつ議論の的となった種まき機による平行な麦穂の列が示すように、描かれているのは完全に近代的で効率の良い農場である。ロバートは熱心な農業従事者で、彼が農学者アーサー・ヤングに宛てた1768年の手紙は、『麦における黒穂病 (On the Smut in Wheat)』は、『ヤング農業年鑑 (Young's Annals of Agriculture)』で出版された。平行な麦穂の列といった細部表現はゲインズバラの風景においては典型的なものではなく、彼よりほぼ25年遅く生まれたジョン・コンスタブルの作品を予期するものであり[16]、ロバートのアイデアであったと思われる。実際、小麦畑全体は、現実よりも夫妻の家に近く描かれている。小麦畑は、「創造され、あるいは遠くから移されている。描かれている通りであるならば、麦束は家の玄関ポーチの上に置かれていることになるであろう」[17]。

本作は異例であると見なされているが、それは、屋外のカンバセーション・ピースが人物たちを家の庭の中にではなく、農地を背景に表しているからである[18]。しかし、同様の情景はほかの初期のゲインズバラの作品にも見られる。グラヴィナー家の両親と2人の娘を表す1754年の集団肖像画は本作と類似した正方形の画面で、立っている父親と座っている母親の背後の左側には2本のオークの木があり、彼らの右側の立てられた麦の穂の近くには娘たちが見える。麦穂の奥には遠景が望まれるが、グラヴィナー氏はイプスウィッチの「繁盛している薬屋」で、地元の政界に入ったばかりであった。彼は、背景の麦畑も土地も所有していたとは思えない[19]。この作品は現在、米国のニューヘイヴン (コネチカット州) にあるイェール・ブリティッシユ・アート・センターに所蔵されている。ちなみに、同センターは、別のサフォークの紳士が犬と死んだ鳥とともに自身の農地で描かれている『狩猟服姿のデイド将校』 (1755年) も所有している[20]。
アンドリューズ夫妻の背後にあるオークの木には、その位置を別としていくつかの含蓄がある。それは、イギリス的性質、安定性、連続性、そして家業を引き継ぐ代々の家族といったものである。土地を所有するジェントリは、イギリスを統合するオークの木に譬えられていた[6]。画面のオークの木は今も現存しているが、ずっと大きなものとなっている[21]。
欠如している部分

アンドリューズ夫人の膝の上は「描き残され」ており、衣服の青色で塗られていない。茶色の筆致は、オスのキジが描かれるはずであったという「長い間人気のあった考え」を示唆している。しかし、麦の状態から、絵画はおそらく9月1日の法的なキジの狩猟期間の開始以前に描かれている。描かれるはずであったのは、肖像画によく見られるタッティングレースか編み結び (knotting) をするための刺繍用道具の袋、本、扇子、ラップ・ドッグ、あるいは生まれていない赤ん坊 (夫妻の第一子の娘は1751年に生まれた) であったのかもしれない[1][2][22]。なお、絵画は良好な状態にあり、描き残された部分を除き完全に仕上げられている[23]。
批評
1927年に注目されるようになって後、絵画は当初、批評家や美術史家たちの間で非常な好評を博した。初代デュヴィーン男爵ジョゼフ・デュヴィーンはいまだにアメリカの富豪にグランドマナー様式の肖像画を大変な高額で売却していたが、ゲインズバラのより小さく、新鮮な初期の肖像画に次第に人気が集まるようになっていた。1947年に、ジョン・ロゼンスタイン卿は「農地のある自然において文明人を理解するための作例で、(本作ほど) 魅力的で心理的に深いものはほとんどない」と述べた[24]。また、他の批評家たちは、本作に肥沃さ、豊富さ、そして自然に関する興味という主題を見出し、分析した。作品は、ケネス・クラークの『芸術における風景 (Landscape into Art)』 (1949年) で、「この魅惑的な作品は、大変な愛と技巧で描かれている...」と称賛された[25]。その一方で、マルクス主義美術評論家ジョン・バージャーは、『見る方法 (Ways of Seeing)』 (1972年) の中で、アンドリューズ夫妻は「ジャン=ジャック・ルソーが想像したような自然における男女ではない。彼らは土地所有者であり、自分たちを取り巻くものへの所有者的態度は、その物腰や表情に見て取れる」と蔑視的に批評した[26]。
バージャーの短い記述により、人文地理学やほかの人文科学における分野での本作への本質的に敵対的な批評が始まったが、それは、イギリスの18世紀の否定的側面を強調する見解において、歴史的肖像画の普通の特質を何かしら邪悪であると見なすものであった。2004年までに、本作は、「人文地理学者たちに非常に幅広く言及されてきたために、人文地理学に関する、全うだと自認するいかなるコメントも無視することのできない文化的産物であると我々が感じるようになった」作品として解説されていた。別の地理学者によれば、「『アンドリューズ夫妻』は、地理学者たちが合意するイメージである。すなわち、風景を視覚的に俯瞰することで合法化し、認可される資本主義的所有関係を表すイメージである」[27]。
この伝統の中で、キャンバス上に油彩という高価な媒体自体、画面における農民たちの不在が上述の見解のさらなる証拠として言及された[28][29]。アンドリューズ夫人のいくらか堅苦しい座った姿勢は、(女性の) 劣った受動的な地位を示すものといわれた[30]が、それは彼女が夫のほかの資産と同様に表されているためであるとされた。また、夫妻の外見と顔の表情、服装とポーズ、そして銃を持つアンドリューズ氏について辛辣な物言いがなされた。この伝統的見解をする何人かの批評家にとって、ゲインズバラの本肖像画を制作した意図は風刺的なものである[31]が、それは大部分の美術史家たちが賛同しそうにない意見である。
対照的に、アンドリュー・グラハム=ディクソンは、本作を「その静かで控えめな様式で、エロチック絵画の傑作の1つ」と見なし、ロバートの服はほとんど脱げそうになっており、非常に緩く、だらりとしている」としている[32]。一方、フランシスは、「溶けてしまっているかのような物憂げな表情をしている」。エリカ・ラングミュア (Erika Langmuir) にとっては、「歴史上最も辛辣な抒情的絵画。アンドリュー氏がよく手入れの行き届いた自身の農場に示す満足感は、野原と雑木林の金色と緑色、大きな雲と接する肥沃な土地のしなやかな曲線に対する画家の感情の強さと比べれば取るに足らない」。ラングミュアは、構図の諸要素を結びつける視覚的な「韻律と類韻」に着目している。すなわち、スカートとベンチの背もたれ、アンドリュー夫人の靴と脚、アンドリュー氏の靴と木の根、そして「銃とアンドリューズ氏の太腿、犬とアンドリューズ氏のふくらはぎ、コートを結びつける線」である。彼の垂れさがっているコートのテール部分は、妻の帽子から下がっているリボンに関連する[2]。
展示歴
1927年に開催されたイプスウィッチでのゲインズバラ生誕100周年を祝う展覧会で発見されて以来、本作は1929年にブリュッセルで、1930年にロンドンで、1934年にロンドンとマンチェスターで、1936年にアムステルダムで、1937年にロンドンで、1938年にパリのルーヴル美術館で展示された。第二次世界大戦後、1948年にノリッジで展示され、1949-1950年にブリティッシュ・カウンシルのために巡回展示された後、1951年にフェルティバル・オブ・ブリテン (Festival of Britain) のためにロンドンで、1953年にパリとロンドンで、1954年にフォートワースで、1955年にロッテルダムとブリュッセルで、1958年にサドベリーで展示された。サドベリーでの展示は、ゲインズバラの家を購入する嘆願を支援するためであった。ロンドンのナショナル・ギャラリーに収蔵されてからは、1967年にモントリオール万国博覧会で、1981年にパリで、1988-1989年にマドリードのプラド美術館で、1991-1992年にロンドンのナショナル・ポートレート・ギャラリーで展示され、1997年にはノリッジとニューカッスル・アポン・タインで巡回展示された[10]。