交響曲第39番 (ハイドン)
From Wikipedia, the free encyclopedia
この交響曲には自筆原稿が残っておらず、作曲年代は学者によって意見が分かれる。1770年に書かれた筆写譜が残り、エントヴルフ・カタログでは第2ページに現れる。H.C.ロビンス・ランドンは1768年頃の作曲とした[1]が、これに対して、本曲に4本のホルンが使われていることから、ソーニャ・ゲルラッハやゲオルク・フェーダーらはエステルハージ家に4人のホルン奏者が雇われていた時期から考えて、もっと前の1765年から1766年はじめの作曲とした[2][3]。大崎滋生は、ホルン4本といっても第31番のように4本のホルンがすべて同じ管長を持ち、それぞれが名人芸を見せる曲と、本作のように短調の曲のために異なる管長を必要とした場合では異なるとして、1765年説を疑問としている[4]。
1768年に作曲されたとすれば、この曲はいわゆるハイドンの「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期」に作曲された、古典派では数少ない短調の交響曲のひとつということになる(この時期には他に第26番、第44番『悲しみ』、第45番『告別』、第49番『受難』、第52番が短調)。1765年説を採れば、ハイドンがまだ副楽長であった時代の作品ということになり、シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)期以前の作品になるが、この時代にはやや特殊で成立事情に問題のある第34番以外は短調の交響曲は書かれていない。
おそらく本作に影響されて、同年代の作曲家たちによってト短調による一連の熱情的な交響曲が作られ、ヨハン・バプティスト・ヴァンハル(2曲)、ヨハン・クリスティアン・バッハ(作品6-6)、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(『交響曲第25番』)によって書かれており、特にヴァンハルとモーツァルトは4本のホルンの使い方でも共通している[3](ただし、ヴァンハルの作品はハイドンより前に書かれたという説もある[4])。
