仁藤
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| 仁藤 | |
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| 大字 | |
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仁藤の航空写真 (2020年6月16日撮影) | |
北緯34度46分40.90868秒 東経138度1分13.93784秒 / 北緯34.7780301889度 東経138.0205382889度座標: 北緯34度46分40.90868秒 東経138度1分13.93784秒 / 北緯34.7780301889度 東経138.0205382889度 | |
| 国 |
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| 都道府県 |
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| 市町村 |
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| 人口情報(2024年3月末日[1]) | |
| 人口 | 361 人 |
| 世帯数 | 150 世帯 |
| 設置日 | 1889年 |
| 郵便番号 | 436-0071 |
| 市外局番 | 0537(掛川MA) |
| ナンバープレート | 浜松 |
河川
歴史
仁藤と呼ばれている地には、もともとは自然村である遠江国佐野郡仁藤村が置かれていた[7][8]。そもそも掛川城が築かれる前は、神代地川から東が仁藤村の村域となっていた[8]。その後、文禄年間から慶長年間にかけて山内一豊が掛川城の城下町を整備した[9]。慶長6年には徳川家康が宿駅制を定め[10]、東海道の宿場町として掛川宿が整備されることになった。これを受け、仁藤村のうち東海道に近接する部分は仁藤町として独立したうえで[7][8][9]、掛川宿に組み込まれることになった[7][10]。その結果、仁藤村の村域は逆川から東にまで後退するとともに、掛川宿の領域は神代地川の東にまで及ぶこととなった[7]。これ以降、自然村である仁藤村と、掛川宿の町丁である仁藤町とが、同時に並存する状態となった。
仁藤村は、山内氏領となったが[10]、江戸時代に入ると掛川藩領となった[10]。『角川日本地名大辞典』によれば、仁藤村の鎮守社は神明宮とされている[10]。仁藤村は、明治元年には駿府藩領となり[10]、明治2年には静岡藩領となった[10]。一方、掛川宿も、山内氏領となったが[11]、江戸時代に入ると掛川藩領となった[11]。仁藤町の鈴木家と大場家が掛川宿の問屋を務めていた[10]。『角川日本地名大辞典』によれば、掛川宿のうち仁藤町の鎮守社は分離元である仁藤村に鎮座する神明宮とされている[10]。掛川宿は、明治元年には駿府藩領となり[11]、明治2年には静岡藩領となった[11]。
この仁藤村については、全域がのちの大字としての「仁藤」に該当する[7]。一方、掛川宿の仁藤町は、大部分がのちの大字としての「仁藤町」に該当するが[8]、一部はのちの大字としての「仁藤」に該当する[8]。
町村制が施行された1889年(明治22年)に掛川宿、下俣町、十九首町、仁藤村の大部分、大池村の一部、葛川村の一部は合併することになり、掛川町が発足した。その際に従来の宿駅や自然村は大字とされることになり[10]、掛川町の大字として「仁藤」が設置された[10]。仁藤村の村域は、この大字としての仁藤となった[10]。その後の度重なる市町村合併を経て、この地は掛川市の一部となった。なお、掛川宿の仁藤町については、1889年(明治22年)に掛川町の大字として「掛川」が設置され[10]、この大字の一部となっている[10]。しかし、後年になって大字としての掛川は細分化され、大字としての「仁藤町」が掛川から独立を果たした。
沿革
世帯数と人口
事業所
2021年(令和3年)現在の事業所数と従業員数は以下の通りである[12]。
| 大字 | 事業所数 | 従業員数 |
|---|---|---|
| 仁藤 | 16事業所 | 45人 |
