球磨焼酎
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地理的要因
飲み方
歴史
近世
永禄2年(1559年)に焼酎に関する日本最古の記述がされた棟木札がある伊佐の郡山八幡神社は、当時相良氏の勢力下にあった[7]。隣接する球磨も江戸時代まで相良氏の領地となっており、早くから焼酎の技術などがあったとみられる[7]。技術の伝達経路は不明だが、泡盛に使うカラカラと酷似したガラという酒器を用いる点や、明治まで球磨では焼酎を「アワモリ」と呼んでいた点などから、大元は琉球である可能性が示唆される[8]。
宝永7年(1710年)の『巡見使応対之覚書』によると、焼酎の製造販売を許可された酒株を有する蔵元が人吉城下に18軒、大畑城付近の大畑村に2軒、それぞれあったという[2]。焼酎の原料とする米は球磨全体で年間345石(62キロリットル)のみと貴重なため寒造りの時期以外は雑穀を原料とし、価格は1升で1匁6分ほどだった[2]。延享3年(1746年)になると、人吉城下の蔵元のうち9軒が休業している[2]。なお焼酎の販売には酒株が必要とされたが、自家消費や祭礼用の製造は自由だった[9]。
文政11年(1828年)にはシーボルト台風の被害による米の払底を受けて米焼酎の製造が翌年まで禁止され、その後も凶作のたびに藩家老の田代政典による禁令が出され、これが天保12年(1841年)の茸山騒動の一因にもなったとされる[9]。安政5年(1858年)にはコレラの流行を受けて「龍脳や樟脳を焼酎に溶かして身体に擦り込むと良い」という回文が出された[9]。
近代以降
1871年(明治4年)に酒株制度が廃止されると、球磨の酒造業者は60軒に急増した[10]。交通の発達にともなって球磨焼酎は他地域にも流通するようになり、明治中期には全国的な知名度が高くなっていった[11]。醪垂れ歩合の向上を目的として1913年頃から玄米ではなく白米を原料とするようになり、同時に二段仕込みが行われるようになった[12]。その後、1923年には製造業者は53軒、年間生産量は1,723キロリットルとなっている[10]。1942年頃からは鹿児島県と同様に醪を1次、2次に分けて仕込むようになった[3]。
第二次世界大戦後、1945年から5年間は米による焼酎造りが禁止され、この間はサツマイモなどが原料とされた[10][12]。一方、1940年頃から黄麹菌に代えて黒麹菌、1950年頃からは白麹菌が使用されるようになり、1970年頃にはほとんどの事業者が白麹菌を使用するようになった[3]。1973年に福岡県で開発された減圧蒸留器が球磨で使用されるようになると、ソフトな米焼酎が作られて好評を博し、1980年から1985年の5年間で球磨焼酎の生産量は2倍になっている[3][13]。
1990年代も焼酎ブームに乗って生産は13,000キロリットルから20,000キロリットルに増え、1995年には酒類の地理的表示ブランドとして登録された[13]。21世紀に入って28軒の蔵元が統一したロゴマークを作成するなどブランド作りを進め、2006年には焼酎として初の地域団体商標を取得している[13]。

