井上一成

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生年月日 (1932-01-05) 1932年1月5日
没年月日 (2025-08-25) 2025年8月25日(93歳没)
井上 一成
いのうえ いっせい
生年月日 (1932-01-05) 1932年1月5日
出生地 日本の旗 日本 大阪府三島郡鳥飼村
(現・摂津市
没年月日 (2025-08-25) 2025年8月25日(93歳没)
死没地 日本の旗 日本 大阪府摂津市
出身校 同志社大学
前職 大阪薫英女子短期大学客員教授
所属政党日本社会党→)
社会民主党→)
民主党→)
自由党→)
保守党→)
自由民主党
称号 従三位
勲一等瑞宝章
レジオン・ドヌール勲章
経済学士(同志社大学・1954年
親族 弟・井上信也
甥・井上哲也
公式サイト 井上一成のホームページ
日本の旗 第60代 郵政大臣
内閣 村山改造内閣
在任期間 1995年8月8日 - 1996年1月11日
選挙区旧大阪3区→)
比例近畿ブロック大阪8区
当選回数 8回
在任期間 1976年12月10日 - 2000年6月2日
摂津市の旗 第2-3代 摂津市長
当選回数 2回
在任期間 1968年10月12日 - 1976年10月11日
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井上 一成(いのうえ いっせい、1932年昭和7年〉1月5日[1] - 2025年令和7年〉8月25日)は、日本政治家。位階は従三位勲等勲一等大阪府摂津市長衆議院議員衆議院運輸委員会委員長、日本社会党副委員長、郵政大臣を歴任した。

生い立ち

大阪府三島郡鳥飼村[2](現在の摂津市鳥飼野々)で農家の長男として生まれる。1950年昭和25年)に大阪府立茨木高等学校1954年(昭和29年)に同志社大学経済学部卒業。

市長から代議士、閣僚へ

1968年(昭和43年)、地元摂津市の市制施行後最初の市長選挙に36歳で当選し、前身である三島町の成立以来町長・市長を12年務めた深田丈夫に代わって市長に就任した(当時の史上最年少市長)。在職中に近畿市長会会長などの要職を歴任、2期8年務めた。

1976年(昭和51年)に市長の2期目の任期を満了後、同年の衆議院議員総選挙日本社会党公認で立候補し、初当選。以降連続当選8回。社会党副委員長などを歴任後、1995年平成7年)に村山改造内閣郵政大臣として初入閣。

政界再編期の所属政党の変遷、政界引退まで

1996年(平成8年)に社会民主党を離党し、旧民主党結党に参加した。同年の総選挙大阪8区から立候補、小選挙区では落選するも比例復活で8選。部落解放同盟中央本部から「部落出身議員」と公表されており[3]、部落解放同盟の準組織内候補として選挙に当選したこともある[4]。1999年頃、「野中は政界でこそ大物官房長官として肩で風を切って来たが、同和社会では彼の地位は低い。井上一成代議士や上田卓三元代議士の方がはるかに強固な地盤を有している」との怪文書を永田町に流されたことがある[5]

その後、民主党を離党し、自由党を経て、保守党に入党する。2000年の総選挙では大阪7区から保守党公認で立候補も落選した。2003年の総選挙では、自由民主党公認で大阪7区から国政復帰を目指すも落選した。2006年(平成18年)、自らの議員秘書が、社会福祉法人「ともしび福祉会」(飛鳥会事件の小西邦彦・部落解放同盟前飛鳥支部長が理事長をつとめていた)の理事や評議員に就任していたことを報じられた[6]

死去

2025年令和7年)8月25日19時50分、肺炎のため大阪府摂津市の病院で死去した[7][8]93歳没。死没日付をもって従三位に叙された[9]

活動

社会党の野党時代に単独行動でカンボジア和平の実現に貢献し、カンボジアフン・セン首相をして「真のピースメーカー」と云わしめ、マスコミからも“影の外務大臣”と呼ばれた。

1982年には、日本中央競馬会(JRA)が購入・輸入した種牡馬ハンザダンサーの購入を巡る不正利得問題(ハンザダンサー事件)を国会で最初に取り上げたことでも話題となった[10]

親族

実弟の井上信也(1934年 - 2010年)は、一成と同様に日本社会党及び日本共産党の推薦を得て(ただし3選時共産党が与党を離脱)、一成の後任の摂津市長を務めた(3期、1976年 - 1988年)。また、サラリーマン新党でも活動した。

甥の井上哲也は、一成の秘書を経て、吹田市長を務めた。

栄典

脚注

関連項目

外部リンク

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