カウーゼン・WK

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西ドイツアーヘン出身の元レーシングドライバー、ヴィリー・カウーゼンは1976年にヴィリー・カウーゼン・レーシングチーム(WKRT)を興し、欧州F2選手権に参戦。1977年11月、全日本F2000選手権にゲスト参戦した際、日本のシャシーコンストラクター、コジマと提携する案がまとまり、コジマが1977年日本GPで使用したKE009を提供され、1978年のF1世界選手権に参戦する計画を立てた。日本から西ドイツへマシンが輸送されたものの、カウーゼン側の事情により計画は中止となった[1]。この失敗にもかかわらず、カウーゼンはフォーミュラ1への進出を諦めず、1シーズン後に自身のマシンで参戦することを決め、アーヘン大学のハンス・J・ゲルハルト教授とカール・クレーマー、エドゥアルト・イェーガー[2]および空力の専門家であるクラウス・カピッツァとデザイナーのクルト・シャベックがそのチームに加わった[3]

開発

チームは全ての開発を自らの設備で行うこととし、その作業は1978年に始まった。プロジェクトはロータス・78をベースとした[3]。1978年の秋には最初のプロトタイプ、WK001が完成した[3]。エンジンはフォードコスワースDFVを搭載した。当初カウーゼンはアルファロメオV12エンジンの使用を希望していたが、ブラバムがアルファロメオとのエンジン供給契約を決定したため、このアイデアは放棄せざるを得なかった[2][3]。WK001はヒューランド製5速ギアボックスを採用した(その当時でほとんどのチームは6速ギアボックスを使用していた[2])。プロトタイプの特徴は、非常に短いホイールベース、フロントスポイラー、サイドセクションのラジエーターなどであった[2]。その設計により、グラウンド・エフェクト効果を得ることはできなかった[3]

欠点を解消するために開発が行われ、その後のバリエーションが製作された。主な目的はグラウンド・エフェクト効果を得ることであった。WK002およびWK003はディティールの差異があるもののWK001と同一であった。WK004はフロントスポイラーが無かったが、エキゾーストマニホールドとタンクの間違った配置などシャシー構造のため、グラウンド・エフェクト効果は達成されていなかった。WK005はホイールベースが大幅に延長され、グラウンド・エフェクト効果を得ることが可能であった[3]

レース戦績

車のテストはジャンフランコ・ブランカテリハラルド・アートルパトリック・ネーヴによって1978年11月に始まった[3]

1979年4月初旬、カウーゼンはイギリス国内選手権としても知られるオーロラF1のレースに出場した。ゾルダー・サーキットで行われたこのレースでブランカテリは8位で予選を通過したが、2周目にリタイアした[3]

カウーゼンはF1世界選手権にスペイングランプリでデビューした。WK004とWK005の2台を持ち込み(WK005はスペアカー)、グッドイヤーにタイヤ料金の全額を支払うことができなかったため、チームには中古タイヤが供給された[2]。WK004を走らせることができず、ブランカテリはWK005で予選に参加した。予選では最下位で通過したヤン・ラマースシャドウよりさらに5秒も遅く、予選落ちとなった[4]。スペイングランプリの後、クルト・シャベックはチームを去った[3]

ベルギーグランプリではWK005のみが使用された。予選セッションでクラッチに問題があり[3]、予選最下位タイムより9秒も遅く、ブランカテリは再び予選落ちとなった[5]

ベルギーグランプリの後、カウーゼンはF1から撤退した。

その後

1979年の夏、カウーゼンはマシンと機材をアルトゥーロ・メルツァリオのチームに売却した。メルツァリオは自身の名を冠した独自のチームを設立していた[2]メルツァリオ・A4はカウーゼン・WKをベースにしており、ジャンパオロ・ダラーラが設計を支援した[6]。 メルツァリオは1979年シーズンの7戦でA4を使用したが、1度も予選を通過することができなかった[7]

ダイワのエンジニアであるピエトロ・「ダイドー」モングッツィは、ダイワ・010でカウーゼン・WK001のリアスポイラーを使用したが、レースに出場することは無かった[3]

F1における全成績

参照

外部リンク

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