デューク・スナイダー
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1953年 | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | カリフォルニア州ロサンゼルス |
| 生年月日 | 1926年9月19日 |
| 没年月日 | 2011年2月27日(84歳没) |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 中堅手 |
| 初出場 | 1947年4月17日 |
| 最終出場 | 1964年10月3日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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| 選出年 | 1980年 |
| 得票率 | 86.49% |
| 選出方法 | BBWAA選出 |
この表について
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エドウィン・ドナルド・"デューク"・スナイダー(Edwin Donald "Duke" Snider, 1926年9月19日 - 2011年2月27日)は、アメリカ合衆国のプロ野球選手(外野手)。カリフォルニア州ロサンゼルス出身。ニックネームは「The Silver Fox」。
高校時代は様々なスポーツをこなし、アメリカンフットボールでは強肩の名QBで、60ヤードを投げることができたと言われている。卒業後は野球に専念。
1944年にマイナーリーグでプロとしてのキャリアをスタート。1945年は兵役に就き、1946年に復帰。1947年4月17日にブルックリン・ドジャースでメジャーデビューを果たした。もっともこの年は40試合の出場でマイナーに降格し、翌1948年もマイナーでの開幕となったが、後半にはメジャーに再昇格。
初のフルシーズンとなった1949年は23本塁打、92打点を記録。1950年には31本塁打、107打点の活躍で初のオールスター出場を果たす(通算8回出場)。以後も主に三番を打つ、ホームラン打者として活躍。それと前後して、ジャッキー・ロビンソン、ロイ・キャンパネラ、ギル・ホッジス、ドン・ニューカムらの1950年代を代表するスター選手がデビューし、ドジャースは毎年のようにワールドシリーズに出場し、同じニューヨークに本拠地を置くヤンキースに阻まれ続けたが、その中でもスナイダーは1952年と1955年の2度、シリーズ4本塁打を記録している。
1955年には打率.309、42本塁打、130打点(打点王)の成績を挙げ、チームのリーグ優勝に貢献。ワールドシリーズでは、これまで3度(1949年、1952年、1953年)にわたって苦杯を飲まされたヤンキースを破り、球団史上初のワールドチャンピオンに輝いた。
1956年には自己最多の43本塁打を放ち、本塁打王に輝く。シーズン43本塁打は2001年にショーン・グリーンが49本塁打を記録するまで、長らくドジャースの球団記録だった。もっとも、これは狭いエベッツ・フィールドを本拠地としていたブルックリン時代での記録で、ロサンゼルス移転後のチーム記録は33本塁打(1985年のペドロ・ゲレーロ)だった。この年もワールドシリーズに進出するが、再びヤンキースに敗れる。同年オフには日米野球でドジャース単独チームとして来日。各地で強打を見せつけた。
ドジャースは1958年にスナイダーの故郷ロサンゼルスに移転。地元ということもあり、人気を博したが、移転後は年齢的な衰えや当時の球場(ロサンゼルス・メモリアル・コロシアム)の広さもあり、最多でも23本塁打に終わる。チームはブルックリン時代の強打のチームから、投手を中心とする守りと走塁を軸とする機動力のチームに切り替え、1959年にはシカゴ・ホワイトソックスを破り、移転後初のワールドチャンピオンとなった。
本拠地ドジャー・スタジアムが完成した1962年を最後にニューヨークに戻り、メッツと契約。球団創設2年目のメッツでプレイするが、129試合出場で14本塁打に終わると、1964年の開幕日にはブルックリン時代以来のライバル、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍。この年限りで現役を引退した。
引退後はモントリオール・エクスポズ(現・ワシントン・ナショナルズ)専属解説者を1973年から1986年にわたって務めた。
ロサンゼルス・ドジャースの永久欠番に1980年指定。
1980年に記者選考でアル・ケーラインと共にアメリカ野球殿堂入りを果たす。同年、殿堂入りを記念し、スナイダーのドジャース在籍時の背番号『4』は永久欠番に指定された。ドジャースでの通算記録のうち、389本塁打、1,271打点、三振1,123、長打814はいずれも現在も球団記録となっている。