フランク・シュルト
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| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 |
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| 生年月日 | 1882年9月17日 |
| 没年月日 | 1949年10月2日(67歳没) |
| 身長 体重 |
5' 11" =約180.3 cm 170 lb =約77.1 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投左打 |
| ポジション | 外野手 |
| プロ入り | 1902年 |
| 初出場 | 1904年9月21日 |
| 最終出場 | 1918年9月2日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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フランク・シュルト(Frank M. Schulte、 1882年9月17日 - 1949年10月2日[1])は、ニューヨーク州コホークトン生まれの野球選手。ポジションは外野手。右投げ左打ち。ニックネームは"Wildfire"(ワイルドファイアー)。主にシカゴ・カブスで活躍した強打者で、1911年にナショナルリーグ最優秀選手賞の最初の受賞者となった。
ドイツ移民の子としてニューヨーク州で生まれる。1902年にニューヨーク州リーグのシラキュース・スターズに入団しプロの選手となり、1904年にシカゴ・カブスと契約を結び、翌年からカブスの外野手のレギュラーとなる。1906年にリーグ最多となる13本の三塁打を記録し、同年のワールドシリーズに出場した時は、チーム打率が2割に満たない中で3本の二塁打を含む7安打、3打点と気をはいた。
シュルトは1910年にリーグ最多となる10本の本塁打を放ち、更に1911年には21本の本塁打と107打点を記録、三塁打21本、二塁打30本に加え23盗塁も記録するなど活躍し(20-20-20クラブ)、アメリカンリーグのタイ・カッブと共にこの年表彰が始まったリーグの最優秀選手の最初の受賞者となった。二塁打・三塁打・本塁打・盗塁の4つの部門で20個以上を記録したのはメジャー史上初めてのことで、これは1957年にウィリー・メイズが達成するまでメジャーリーグ唯一の記録だった。
その後打撃成績は徐々に落ち、シュルトは1916年シーズン中にカブスからパイレーツに移籍するが、1917年には打率が2割1分台まで落ち込む。1918年にはセネタースに在籍したが、所有する農場の火災によって財産を失うなどの悲劇に見舞われ、この年を最後にメジャーリーグから引退。その後ニューヨークのマイナーリーグ球団ビンガムトンの選手兼任監督などを経て、1923年までマイナーリーグで選手としてプレーした。
人物
ニックネームの"Wildfire"(ワイルドファイアー)は同名の映画が由来であるという[1]。当時、シュルトはこの映画を見て感銘を受け、自身の所有する競走馬に同じ「Wildfire」という名前を付けた[1]。これを聞いた新聞記者がシュルトのニックネームとして"Wildfire"と誌面に書いたことにより、チーム内に定着したという[1]。
シュルトは合板で造られた柄の細いバットを使っていたが、多い時でシーズンに50本ものバットを折ったといい、これは現代ほど本塁打が出なかった1900年代では考えられないほどの数だった。打撃面でスランプに陥った時は、いつも打てない理由を靴のせいにしていたそうである。また大胆な走塁を見せた選手でもあり、現役通算で22回もの本塁盗塁を記録している。
シュルトはまた、道にヘアピンが落ちていないかをずっと捜しているという奇妙な習性でも知られていた。彼にとってのゲン担ぎだったようで、拾ったヘアピンが大きいほど、より大きな成功を収められると信じていたそうである[1]。