大祓詞
大祓式に用いられる祝詞
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概要
古代日本の律令制国家では、朝廷大内裏の朱雀門で「神祇令」に規定された大祓(大解除)の儀式が行われており、その儀で唱えられていた祝詞が大祓詞である[7][8]。大祓詞と派生の中臣祓は、『古事記』『日本書紀』(記紀)等の古典に並んで最重要視されてきた神道・神祇に関する文献の一つである[9]。大祓詞の文章は壮大で美しく、「華麗な修辞を駆使した国文体の名文」として古来から高い評価を受けてきた[10][11]。
大祓は大嘗祭ほど重視されておらず、秘儀でもないが、古代において王権を支える柱の一つであった[12]。大祓詞は、罪(神道の観念による「罪」であり、犯罪とは意味合いが異なる)・穢(けがれ)[注釈 1]を祓うために唱えられた祝詞とされる。ただし、大祓詞に「罪」という言葉は頻出しても「穢」という言葉はなく、古くは「祓へ」は「罪穢」ではなく専ら「罪」を対象としたものであり、「祓へ」とは罪の除去であったと指摘されている[17]。
大祓詞には記紀の神話と共通する言辞があり、冒頭には天孫降臨のモチーフが取り入れられ、参列した官人に対して天皇による支配の正当性が確認されている[18][19][注釈 2]。
日本の祓は中国の習俗に由来するもので、大祓にも道教的な要素が加えられている[8]。大祓詞は、日本で仏教の薬師如来信仰の『薬師経』思想が受容され、これが中国の天命思想と結びつき、古代日本の律令制国家のもとで7世紀以降に形成されたものと考えられている[21]。大祓・大祓詞の特性として、擬古的であると同時に、仏教の影響が認められる点がある[18]。
旧暦6月・12月の晦日(末日)に行われた二季恒例大祓には、天皇を対象とする祓の儀と百官(朝廷に仕える全ての官人)を対象とする祓の儀があり、百官大祓の祓詞が大祓詞である[22][注釈 3]。天皇に対する祓の儀は百官大祓の前に行われ、百官大祓には天皇は臨席しない[23]。
大祓詞は天武朝に成立したと推定されている[5]。大祓詞の文献上の初出は『延喜式』(巻八・神祇八・祝詞)で、他の律令祭祀の祝詞と共に収録されている[8][7]。『延喜式』には「六月晦大祓」として記載されており、今日使用されている大祓詞は「六月晦大祓」の祓詞を元にしたものである。大祓詞は中臣祓や中臣祭文とも呼ばれるが、この呼称は大祓詞を中臣氏が読み上げたことに由来する[24]。一般的に、大祓詞を奏上する形に改編した祝詞が中臣祓、中臣祓詞や中臣祭文と呼ばれる[6]。『朝野群載』の中臣祓は中臣祭文の名で収録されており、大祓詞の冒頭と終盤を削除し、本文を一部改変したものである[25]。中臣祓は最も広く流布した神祇・神道に関わるテキストであり、大祓詞・中臣祓に関わる儀礼のテキストや注釈は神祇・神道に関する文献で重要な位置を占めている[9]。平安末期以降、中臣祓の注釈書は数多く存在しており[1]、昭和14年頃の研究で、中臣祓に関わる300近い文献の名称とその所蔵者がリスト化されている[26]。
平安時代初期頃は律令時代の大祓が踏襲されて行われていたようであるが、平安中期以降には、公的な大祓は衰退していき、貴族社会等で陰陽師や僧侶が私的な祈祷を行うようになった[5][27]。私的な祓は主に陰陽師が担ったが、中臣祓が荘厳な祓の呪文として用いられた[27]。さらに神道でも陰陽祓・仏教祓の影響を受け、平安末期には伊勢神宮の御祈祷師(のちの御師につながる)が、それまで陰陽師が担っていた鬼病祈祷や安産祈祷などの私的な祓を行うようになり(伊勢流祓[注釈 4])、神社のある地域を超えて東国各地で活躍し、これが中世の伊勢大神宮信仰を推進する原動力となった[29][30][31]。大祓詞・中臣祓は古代から現代まで様々な儀礼や解釈が行われ、宗教や流派、目的や用い方に応じて多様な展開を見せた[9]。律令国家体制の中にあった神道は、儀式面は整っていたが思想面・理論的は全く未発展であり、中世には仏教の天台宗・真言宗の高僧が中臣祓の注釈を通して仏教側の神道思想を形成・体系化し、神道側がこれを吸収して仏説を排する形で神道思想を形成していった[32][33][34]。さらに中世の宗教者たちは、中臣祓や記紀が内包する律令国家形成期の精神・枠組みを通して中臣祓を解釈することになり、実際の天皇権力とは関わりなく天皇を指向する思想を観念的に形成し、尊王、復古、日本的純粋性の希求へとつながり、そして王制復古の精神が展開、明治維新後に政府の「政祭一致」の理念のもとで神道が国家神道となった[33]。
明治時代に国家儀礼としての大祓が「復興」されたが、明治政府は官僚組織のトップとして天皇を頂く体制であり、復興はこの政体ゆえと思われる[35]。また明治政府は、古代の大祓をアレンジして神社祭式としての大祓を新しく「再興」し全国の神社に行わせるようになったが、神社祭式用の大祓詞はかなり簡略化されたものだった[36][37][38]。明治政府は大正3年に祭式・祭祀の具体的な手順作法を綿密に定めており、大祓詞は延喜式祝詞・中臣祓に準拠するものに変更されたが、『延喜式』の大祓詞の中で列挙される罪は全て省略され、天津罪・国津罪とだけ示し罪の内容は全て削除された[38]。この時定められた祭式・祓詞が、現在の神社の大祓の基本となってる[39]。
大祓と大祓詞は、大正デモクラシーを経て満州事変を機に変化する国論の中、日本精神・国体と結び付けられて非常に隆盛した[40]。
内容
大祓詞
國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館は、『延喜式』収録の大祓詞は、大きく次の三段で構成されるとしている[4]。
- 第一段・第二段:集められた親王以下の官人等に大祓の開式を宣言し、天皇の朝廷に仕える様々な職の者・役人たちが犯した様々な罪を、今年の六月の晦日〔今日〕に実施する大祓で祓い清めて下さることを、集まった者たちはよく拝聴せよと宣り聞かせる[4][20]。
- 第三段:本文に相当する段で最も長く、祓の中核とみなされる[20]。三橋正は第三段をさらに3つに分けている。
- 高天原から皇御孫命(すめみまのみこと、皇孫邇邇芸命)が降臨し、この国を支配していることを確認し、日本の人々が犯した過ちで発生した国中の罪を「天津罪・国津罪」として列挙し、その除去のために、大中臣が「天津祝詞の太祝詞事を宣(の)」ることを命じる[4][20]。
以下詳細:高天原に坐す神漏岐命・神漏美命が神々を集めて話し合い、〔天照大神の子孫である〕皇御孫命(すめみまのみこと、皇孫邇邇芸命)に豊葦原の水穂の国(日本)を平穏に治めさせることを決め、〔地上の〕乱暴する神々を問いただして追い払い、ものを言った(抵抗した)岩や木の切り株、木の一枚までものを言わないようにさせ、〔皇御孫命を〕天の岩座(天上の堅固な御座)を後にして、天に幾重にもたなびく雲をかき分け〔地上に〕降臨させ統治を任せた。このように任された国の中心に、地下の岩の上に宮殿の柱を立て、高天原に向かって〔屋根の両端に〕千木を付けて高々と造り構え、皇御孫命の瑞の御舎(みづのみあらか。若々しく生き生きとした御殿)を造営し、皇御孫命がそこにお籠りになり〔日本を〕平穏な国として統治なさる、その国の中に次々増えていく天上界の立派な人々が間違えて犯したという様々な罪過行為は、〔まず〕天津罪(天上界における罪) として「畔放ち(田のあぜをこわす罪)・溝埋め(田に水を流す溝を埋める罪)・樋放ち(田に水を送る竹や木の管をこわす罪)・頻蒔き(穀物の種をまいてある上へ重ねてまいて、成長を妨げる罪)・串刺し(家畜にとがった串をさして殺す罪)・生剥ぎ(家畜の皮を生きたまま剥ぐ罪)・逆剥ぎ(家畜の皮を尾の方からさかさまに剥ぐ罪)・屎戸(肥料の屎(くそ、大便)にのろいをかけて、農耕の妨害をする罪)[4]」を定め 、〔次に〕国津罪(地上の人々が犯した罪) として 「生膚断ち(人の膚を傷つける罪、但し被害者が生きている場合)・死膚断ち(人の膚を傷つけて殺す罪)・白人(皮膚の異常に白くなる病気)・こくみ(こぶのような皮膚の異常の類)・己が母犯す罪(自分の母親と通ずる罪)・己が子犯す罪(自分の娘と通ずる罪)・母と子と犯す罪(一人の女性と通じ、更にその女性の娘と通ずる罪)・子と母と犯す罪(一人の女性と通じ、更にその女性の母親と通ずる罪)・畜犯す罪(畜類と通ずる罪)・昆虫の災(家屋の下部に蛇やむかでのような地を這う虫が加える災禍)・高つ神の災(高いところにいる雷神が家屋に落ちて生ずる災禍)・高つ鳥の災(家屋の上部に鷲や鷹のような空を飛ぶ鳥が加える災禍)・畜仆(けものたお)し蟲物する罪(畜類を殺してその血を取り、悪神を祭って憎む相手をのろう呪術を行う罪)[4]」 というように、多くの罪過が現れ出てくるだろう。このように数多くの罪が出て来れば、〔罪の除去のために〕天津宮事(天上の宮廷の行事)に従って、大中臣は、天津金木(金属のように堅い神聖な木)の上下を切り落して〔中間の部分を〕千座の置座(祓えつ物を置く台)に大量に置き、天津菅曾(神聖な菅曾)の根元・端を刈り取って〔中間の部分を〕たくさんの針で細かく裂いて、天津祝詞の太祝詞事(天上から伝わった神聖で荘厳な祝詞)を宣れ[注釈 5][4][20][42][43]。 - 天上から八重雲を押し分けて降りてくる「天津神」と、山間から出てくる「国津神」がそれを聞いて、日本の国中「罪と云ふ罪はあらじ」という状態になる[4][20]。
以下詳細:このように宣読したならば、 天津神は〔天の入り口にあるという〕天岩門を押し開いて、天の幾重にもたなびく雲を押し分けてお聞きになるであろう。また国津神は、高い山や低い山の頂にお登りになって、高い山や低い山の上の伊褒理(いぼり)[注釈 6]を掻き別けてお聞きになるであろう。このように〔天津神・国津神が〕お聞きくださったならば、皇御孫之命の朝廷をはじめ天下の四方の国に、罪という罪は一切なくなるだろうと[注釈 7]、〔罪がなくなってしまう様子は〕科戸(しなと)之風(風の吹き起こる大もとの戸口から吹いてくる風)が天に幾重にもたなびく雲を吹き飛ばす様子のように、朝や夕方に立つ霧を朝風・夕風が吹き飛ばす様子のように、大きな港に泊まる大きな船を船首・船尾の縄を解き放って大海原に押し放つ様子のように、向こうの茂った木の根もとを焼入れした鋭利な鎌で打ち払う様子のように、後に残る罪はないだろうと、[4][42][20] - 〔祓の四神とされる〕瀬織津比咩(セオリツヒメ)・速開都比咩(ハヤアキツヒメ)・気吹戸主(イブキドヌシ)・速佐須良比咩(ハヤサスラヒメ)が「遺(のこ)る罪はあらじと祓へたまひ清めたまふ事を」次々と受け継いで、罪は川→海→根の国・底の国と運ばれ失われて行き、再度、朝廷に仕える人々に罪がなくなったことを宣言する[4][20][47]。
以下詳細:〔今日こうして朝廷において大祓の儀式を行って神に祈り〕祓い清めてくださる事(具体的には、罪を付けた祓えつ物)を、高い山や低い山の頂から勢いよく〔水が〕落下する速い川の瀬においでになる瀬織津比咩という神が川から大海原へ持ち出すだろう。そうしたら、激しい潮流が複数集まって渦をなしているところにおいでになる〔潮流が流れ込むように口を開けている〕速開都比咩という神が、それを持って呑み込むだろう。そうしたら、息を吹きだす所においでになる気吹戸主という神が、それを〔地下にあるという〕根の国・底の国へ息を吹いて飛ばすだろう。そうしたら、根の国・底の国においでになる速佐須良比咩という神が、〔罪を〕持ってさすらい失くすだろう。このように、今日より罪という罪は一切なくなるだろうと[注釈 8]、高天原[注釈 9]に向かって耳を振り立てて聞くものとしてこの場に馬を引いて来て[注釈 10]、今年の六月[注釈 11]の晦日の夕日が沈む頃に実施する〔今日のこの〕大祓にて、罪を祓い清めて下さることを、集まった者たちはよく拝聴するよう宣り聞かせる[4][20][47]。
- 高天原から皇御孫命(すめみまのみこと、皇孫邇邇芸命)が降臨し、この国を支配していることを確認し、日本の人々が犯した過ちで発生した国中の罪を「天津罪・国津罪」として列挙し、その除去のために、大中臣が「天津祝詞の太祝詞事を宣(の)」ることを命じる[4][20]。
- 第四段:四つの国(伊豆・壱岐・対馬上県・対馬下県)の卜部らは、大川へ行く道に「祓えつ物」を持って退出し、大川に祓い棄てよと宣り聞かせる(指示の周知)[4][20]。
中臣祓
二期恒例大祓・臨時大祓で用いられた大祓詞は宣読体であったが、中臣祓はこれを奏申の形に改めたもので、随時、祓戸の八百万の神達に祈願するものである[49]。中臣祓の文章は、12世紀初頭成立の『朝野群載』に「中臣祭文」と題して載るものが最も古い[50]。大東敬明は、10世紀には中臣祓が成立していたと推定し、神祇官が天皇の私的な祓に用いたとみなしている[50]。中臣祓の成立には陰陽師が関与しているとする見方(萩原龍夫、岡田米夫など)と否定する見方(岡田莊司など)がある[51]。
『神道大系 古典註釈編八 中臣祓註釈』(1985年)では、代表的な祓詞として次の6つがあげられ、以下のように内容が比較されている[52]。
- 『延喜式祝詞式』所載の大祓詞:朝廷の大祓の祓詞
- 『朝野群載』巻6、神祇官の項目所載の中臣祭文:現存する最古の中臣祓[49]。1の第一段・第二段・第四段を削除し、第三段を若干変更したものとなっている[25][4][注釈 12]。神祇官内部の人間が作成し、1と並行して神祇官が用い、神祇官宮主に近い役目を担っていた陰陽師に受容されたと考えられる[53]。陰陽道的な改変はみられない[53]。
- 『中臣祓注抄』第一部所載の中臣祓:陰陽祓の中臣祓。「科戸風」の前に「祓へ申す清め申す」が加えられており、「祓へ給ひ清め給ふ事を」が「祓へ申す清め申す事を」となっている[54][55]。
- 『中臣祓注抄』第三部所載の中臣祓:初期の伊勢流祓の中臣祓[55]。「給」「申」の両方を使い「祓へ給ひ清め申す事を」となっている[55]。
- 『氏経卿記録』所載の常良本中臣祓:伊勢流祓の中臣祓。「科戸之風」の前に「祓へ申す清め申す」が加えられており、「祓へ給ひ清め給ふ事を」が「祓へ申す清め申す事を」となっている[54][55]。
- 『祓品々秘書』吉田兼倶(卜部兼吉)自筆本所載の中臣祓:吉田流祓の中臣祓。「給」が「賜」になり「祓へ賜ひ清め賜ふ事を」となっている[55]。
1(大祓詞)、2(最初期の中臣祓)は他力祓であったが、3(陰陽祓の中臣祓)では自力祓に転換している[56][注釈 13]。陰陽道の祓詞が「祓へ申す清め申す」に改めているのは、陰陽祓では陰陽師個人の呪力が大きな意味を持っていたからと思われる[57]。「申す」の祓詞では祓の自力的な自覚が強調されており、自力聖道門に属する[55]。陰陽祓の影響を受けた伊勢流祓もこれを継承し自力祓である[58]。一方吉田流は他力祓に戻し、「祓へ賜ひ清め賜ふ」を中臣祓の要としている[58]。吉田流祓は神の意志で救われる他力聖道門に属し、陰陽祓・伊勢流祓とは根本的な違いがある[55]。
1の第三段-1の「天之磐座放(天の岩座を後にして)」は、2では「天乃磐戸遠押開天(天の岩戸を押し開いて)」に改められており、3、4(初期の伊勢流祓の中臣祓)もこれを踏襲している[55]。5(伊勢流祓の中臣祓)では1と2の両方を取り入れて、「天磐座押放天磐戸押開」となっており、以降の伊勢流祓はこれを踏襲している[55]。6(吉田流祓の中臣祓)では1の句に戻り、「天磐座放千」となっている[55]。
1の第三段-3の「高天原に向かって耳を振り立てて聞くものとしてこの場に馬を引いて来て」の部分の「馬」は、2では「鹿」に改められており、3、6もこれを踏襲している[56]。伊勢流祓に属する4、5ではこの部分は削除され、これを読まないことが口伝となっている[56]。
1の第三段は「諸聞食止申(集まった者たちはよく拝聴するよう宣り聞かせる)」の宣読体で終わっているが、2以降は祓戸の八百万の神に祈願する奏上体で終わっている[56]。(中臣祓には第四段はないため、これが末尾である。)2では祓の神は、大祓詞に登場する四神に限られない。現在の神社本庁が頒布する大祓詞では祓の神を「天津神、国津神、八百万の神達」としているが、これを継承したものである[59]。
現代の神社本庁の解釈
西岡和彦は、現代の神社本庁の大祓についての基本的見解を示すものとして、戦後の神社界を教導した岡田米夫を取り上げ、その思想を次のように説明している[60]。
- 「大祓詞の筋は、民族祖神(天皇家の祖である皇祖神。親神とも)の言葉を中軸として語り伝えられている。ということは、(日本)民族全体がこの詞を民族信仰の詞として、支持してきたことを意味する」と述べており、西岡はこれを、岡田は大祓詞を日本民族の倫理の結晶とみなしていると解説している[60]。
- 大祓詞本文(第三段)冒頭に注目し、大祓詞は「祖神のミコトモチ」、祖神のお言葉・ご命令であるとし、大祓詞とは神に奏上するものではなく(岡田は、祝詞とは神から示されるお言葉であるとしている)、祖神の権威の根源を認めるものであり、祖神の言葉を権威を持って伝えたものとした[61]。岡田は祖神を第一から第三まであるとし、第一の祖神は生成発展を促すムスビの神であり内在の神である高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、第二の祖神は、高皇産霊神の力を受け継いだ顕在の神であるイザナギ・イザナミ、第三の祖神は、これらの神々の力を一身に兼ね備え、代表し統括する天照大神であると解釈している[60]。禊ぎ祓いは天照大神の御心へ帰一するためにあると主張し、神道とは「高天原すなわち神の御心」に適う世界を理想とし、神の分身としての自覚を持ちその理想をこの国土に実現することであり、大祓詞は神道の眼目を示すものとした[60]。
- 大祓詞に示された罪穢れの祓い方として、祓いの道理を体得することと、その道理を実行することの2つの方法があるとし、祓いの道理とは、大祓詞で高天原の神が地上の「荒ぶる神」(歴史的には「まつろわぬ者ども(朝廷の支配に服従しない者たち)」)を掃討する前に問いただしたように、神の道に従わない者にはまず荒ぶる理由を説いたただし、手を差し伸べ、道理を理解させ反省させることで、祓い清めて正しい道に復帰させることができるとし、それを実行することで祓いは完結するとした[62]。
朝廷の大祓
大祓詞は朝廷の大祓(二季恒例大祓)に用いられた[1]。古代において大祓とは「百官以下万民の罪穢を祓い除き、清浄にするための神道儀礼[注釈 14]」であったとされる[7][63]。
大祓(大解除)は、天武朝(飛鳥時代)の記録が最古のものであり、奈良時代に律令(当時の基本法)に明記された[64][65]。当初大祓は、服属儀礼、国家秩序を象徴する儀礼として始まったが、記紀神話の精神を投影し擬古的な儀礼が行われたことで、「神祇令」で年2回の定例の「六月・十二月晦日大祓」の儀式と臨時の儀式として規定され、神祇(神道)儀礼として律令制にも組み込まれ定着した[66][22][67]。武光誠は、大祓は「『浄御原令』制定と深くかかわる形で天武朝後半に整備された」と述べている[68][注釈 15]。天武朝の大解除や諸国大祓が基となり、浄御原律令に続いて大宝6年(701年)に制定された大宝令 (たいほうりょう)以後に、二季恒例大祓が制度として定例化したと考えられる[69][70]。二季恒例大祓は一般的に7世紀の天武朝に創始されたと考えられているが、持統天皇朝とする説もあり、7世紀後半であるとは言える[71]。大祓は農耕儀礼としての性格を持ち、稲作を妨げる穢れを清めるものといわれるが、これまでの諸研究によると、稲作に関わる祭祀は天武朝から持統天皇朝にかけて急速に整備された[72]。8世紀初頭には大祓が恒例で行われていたことが確認できる[71]。
二季恒例大祓は、天皇を対象とする祓と百官を対象とする祓(百官大祓)の2つの儀から成り、天皇中心の国家秩序を体現し確認する意味があった[73][74]。両者は元々独立した別の儀であった可能性が高く、百官大祓が後から追加されたと考えられている[75][76]。百官大祓の参加対象者は百官男女で、集解によると、親王以下百官男女の全員で、通常は官人に含まれない下働きまで含み、つまり天皇を除く朝廷の参仕者全員とされる[77]。
二季恒例大祓については、「神祇令[注釈 16]」の中で次のように規定されている[78]。並木和子によると、「訖」の前後で異なる儀の説明がなされている[78][79]。
大祓詞は百官大祓で読まれたが、この儀礼は朝廷に仕える全ての官人の参加を求める大がかりなものとして規定されている[65][81]。ただし、国家運営の理想と現実には落差があり、実際に全官人を集めて大規模な神祇祭祀を行っていた記録上の形跡がないとの指摘もある[81][注釈 18]。百官大祓は律令期から終焉まで大内裏の南正門である朱雀門を祓所とした[83]。大内裏が荒廃して朱雀門がなくなり朱雀門跡地となっても、この近辺で行われ、一貫して朝廷の「天皇以下百官」を祓う儀として行われ続けた[83]。大祓は人形祭祀であり、道教に由来する除病・除災・延命の呪具である人形(ひとがた)と、罪を贖う伝統的な人形を用いられた[84]。
平安中期以降は二季恒例大祓は衰退し、摂関期になると参加者も減り、天元5年(892年)の記録では公卿が一人も参加していない[85][86]。また、律令官人制の再編成・貴族社会の新しい身分秩序の形成に伴い、二季恒例大祓は平安中期以降は分裂し、派生の祓の儀も生じ、また陰陽師の祓も急激に広まり、公の場で多くの恒例祓が行われるようになった[87][88]。二季恒例大祓は朝廷の律令的官人制・官司制と密接に結びついたものであり、二季恒例大祓は衰退したまま数百年続き、王権・朝廷が権威を失う中世には実質的な意義を失い、15世紀応仁の乱後に公家が京を離れ、実施を支える構造・体制が失われると廃絶した[85][89][64]。乱後に小規模になった朝廷では官職も名目上のものとなり、朝廷の祓は六月祓(二季恒例大祓の六月の大祓ではない)で事足りたと見え、朝廷や神祇官にとっての二季恒例大祓の意味も失われていた[89]。中世後期に吉田神道を作った吉田兼倶により臨時の祓が行われるようになり、江戸時代中期の元禄4年(1691年)には、6月と12月末に恒例で行う祓が復活した[7]。ただしこれは宮廷内の祓を目的とするもので、二季恒例大祓ではなく、国家の祓ではない[7]。
成立の背景と機能
律令時代の朝廷で大祓が創られた背景としては、当時中国を模範とした国家建設・国家儀礼の確立が目指されており、国家統合の象徴として「伝統的な神祇」、外来の宗教と区別される日本在来の伝統的な国家的宗教の創出が必要とされていたことがある[90]。天武天皇は律令国家建設と共に神祇(神道)祭祀を整え、その中心に神格化された天皇を位置付け、前代の宗教儀礼を復活させ大嘗(新嘗)や大解除(大祓)を行った[91]。古代日本の律令制国家において、神祇祭祀には、天皇中心の国家秩序を神の名のもとに確認するという意味があり、2月の祈年祭、6月・12月の月次祭と大祓は、天皇直属の神祇官から全官人まで集めて行い、これを徹底させようというものであった[73]。
「大祓詞」に対応する『古事記』の記述
『日本書紀』の記述からは、成務天皇の時代には、仲哀天皇(実在性が低い天皇の一人で、ヤマトタケルの子とされる)崩御後に「祓(解)」ないし服属儀礼的な諸氏族による財物の貢納があったという伝承が定着していたことが分かるが、『古事記』のみがこれを祓ではなく大祓としており、大祓詞と深く関連させた内容的となっている[92]。
引用の前後を補足したエピソードの内容は次の通りである。帯中日子天皇(たらしなかつひこのすめらのみこと、仲哀天皇)と皇后の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと、神功皇后)が熊襲を討とうという時に、皇后が筑紫の訶志比宮(かしひのみや、香椎宮)で神がかりになり、天皇が神降ろしのための琴を弾いて、建内宿禰が沙庭(神降ろしの場)で神託を求め、「西の方に金銀や宝に満ちた国があり、その国を服従させてやろう」という神託が下された[94]。しかし西の方には海しか見えず、天皇はその信託を信じずに「神の偽り」と述べ琴を弾くのを止めたため、神罰を受けて急死[94]。それに驚き恐れ、天皇の遺体を殯宮(遺体を埋葬まで安置する場所)に安置して、国中に大奴佐(おおぬさ。祓具の大幣)を献上させ、生剝、逆剝…といった(祓うべき)罪[注釈 19]の類を色々求めて国の大祓を行い、建内宿禰が神託を請い、この国の全ては皇后のおなかの子(応神天皇)が統治すべきという神託が下され、その子の性別を問うと男子とのことであった[96]。建内宿禰が神託を下した神の名を問うと、天照大神の御心によるものであり、また底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神(住吉三神)であると仰せられた(この後、神の後押しを受けた神功皇后が新羅を征服する三韓征伐のエピソードが続く)[96]。
この『古事記』の記述は、大祓が太古に成立したという説の有力な根拠ともされてきた[92]。三橋正は、『古事記』は天武天皇の同時代性が強い書であり、擬古的な服属儀礼として創られた大祓は、「国家秩序の具現を可視的に示すだけでなく、神話と共に史実として語り継がなければならなかった」ため、『古事記』に強引に編入されたと推定している[92]。
大祓詞・中臣祓の歴史
- 古代の国家的祭祀における大祓詞
7世紀後半・8世紀の天武天皇・持統天皇朝においてに神道が成立したという見解が主流であるが、この時期に国家的祭祀体制とその体系が整備され、公的祭祀の基本を定めた「神祇令」が作られ、朝廷の国家的儀礼としての大祓が成立した[97][98]。大祓の文献上の初見は『日本書紀』の天武天皇5年8月16日の大解除(大祓)で、これは恒例のものではなく、臨時大祓と言える[99]。天武朝の大解除や、朝廷から大祓使を諸国に派遣して行う諸国大祓が基となり、7世紀の天武天皇朝もしくは持統天皇朝に二季恒例大祓が創始され、8世紀初頭には恒例で行われていた[71]。大宝令 (たいほうりょう、大宝元年(701年)制定)以後に、制度として定例化したと考えられる[69]。大祓の高齢化や整備を踏まえて、大祓詞は天武朝に成立したと推定されている[5]。
大祓詞は『延喜式』収録のものが最古であるが、これが載録された時期は天武朝の最初の大祓の2世紀以上後であり、構造や文体は不統一である[100][101]。追記・改変があるとはいえ大祓の草創期(天武朝)の思想を表すという見方もあるが、「原大祓詞」から変化していると考えるのが妥当で、もはや大祓が「神話の再生儀礼としての祭儀」ではなく「年中行事」化した段階のものという見方もある[100][101]。
朝廷による大祓の意義は時代によってかなり違いがあり、天武朝末期にはすでに変化が見られ、飛鳥元年(686年)の大祓(大解除)は天皇の病気の回復を願う一連の宗教行事の一つとして行われた[102]。文武天皇の時代には、祭祀(神事)に先立って行う大祓が初めて登場し、大祓と神道(神祇)の祭りに必要な清浄性をもたらす「禊祓」とはほぼ同義になっていた[103]。奈良時代には本来の服属儀礼としての意味をなくしていき、清浄・除災・釈服(喪明け)のために行われるようになり、平安時代に入ると、祭の中止による神の祟りを事前に防ぐことを目的とし、「神への謝罪」としての側面を持つ「由(よし)の大祓」が成立した[15][104]。
- 中臣祓の登場(平安時代中頃)・陰陽祓の流行
宮中の神道の神事や仏教の法会、天皇の私的な神事の前にも臨時大祓が行われたが、大祓詞を一部省略し神に申し上げる形に改変した中臣祓、「中臣祭文」が読まれていたと考えられる[105]。大東敬明は、中臣祓は10世紀には成立していたと推定しており[24]、12世紀初頭成立の『朝野群載』に「中臣祭文」と題して載るものが現存するテキストとしては最も古い[24]。「中臣祭文」は「中臣寿詞」とも称され、一般的には「中臣祓」と呼ばれた[105]。宮中の臨時大祓では必ずしも神官が中臣祓を読誦していたわけではなく、陰陽師が担った記録も残されている[105]。
平安時代中期の摂関期以降は、大祓は国家的儀礼としての威厳と実効性を失い形骸化した[105]。それに伴い貴族が個人レベルで祓を行うようになり、貴族が私的な宗教儀礼・信仰習俗として取り入れることで祓の儀礼が普及した[27]。平安中期以降に貴族社会等で行われた私的祈祷は陰陽師や僧侶によるもので、主に陰陽師が担ったが[注釈 20]、彼らは中臣祓を荘厳な祓の呪文として用いた[27][7][15][106]。中臣祓は必要に応じて改編されて用いられた[30]。神職は神社に属しその神社の神々に奉仕するため、外に出て個人のために私的な祈祷を行うことは難しく、そのため民間の陰陽師が活躍した[29]。山下克明は、陰陽師が律令制下の陰陽寮という枠を出て、呪術的な祭祀者として貴族の家へ招かれて祓を行うようになった背景として、「律令制秩序の弛緩、貴族社会の広汎呪術的利益の希求等」を挙げてている[107]。
10世紀には水辺で行う陰陽道の祓の河臨祓・七瀬祓が国家的行事・国家的呪法として行われており、これらは安産や病気平癒のための呪法、祈祷の一種、個人祈願の呪法として流行した[53][106][30][注釈 21]。11世紀初頭には陰陽師たちが中臣祓を私的な祈祷に用いていたことが確認できる[24]。『紫式部日記』寛弘5年(1008)9月10日条に、中宮の安産祈願のために陰陽師が総動員されたこと、彼らが唱える「八百万の神も耳ふり立てぬはあらじ」という中臣祓の結句が聞こえたことが記載されている[24]。密教修法と同じく回数が多いほどご利益があると考えられ、百度祓・千度祓・万度祓の度数祓が行われるようになった[106][30]。こうして平安時代の人々は陰陽祓によって中臣祓を耳にするようになり、平安時代の和歌や『源氏物語』などの物語に中臣祓等の祝詞特有の詞が引用されるようになった[109]。例えば「科戸の風」という言葉は、罪が払拭される様子の比喩として平明に受容され、「罪やそれに准ずるようなものをはらってくれる風」を意味する言葉として用いられた[109][110]。
- 仏教祓の登場と僧による中臣祓注釈・神道理論の形成
仏教では陰陽道の祓の影響を受けて、仏教の六字法[注釈 22]と河臨祓を習合させ、反逆呪詛(呪詛の祓)・病事・産婦のための修法である密教儀礼・仏教祓の六字河臨法が作られ、修法に陰陽師を招いて中臣祓を読ませるだけでなく、僧が中臣祓を読むようになった[57][30][112][57]。
祓の儀礼は中世には習俗化し簡略化していったが、中核には中臣祓があり、そのため陰陽師や僧侶が担っても神道儀礼(神祇儀礼)として理解されていた[113]。呪文化した中臣祓は日本固有のものと捉えられ、「日本」研究の古典、一種の「神道古典」と解釈され研究され、この注釈から様々な神道説が生まれた[33][34]。平安時代末期には仏僧による中臣祓の注釈書『中臣祓訓解』が成立したと推定されており、清浄性をもたらす中臣祓の効験を密教思想に基づいて説明した[50]。
陰陽師・僧侶・神職それぞれの立場から多くの中臣祓の注釈書が書かれたが、初期の注釈書はほぼ仏教側によるものである[114]。初期の神道思想は、天台宗・真言宗の高僧たちの教学研究から生まれた[32]。神道の思想史的展開は仏教側から始まったが、古代律令国家の解体が進み混沌とする時代の中、当時の新仏教である浄土宗に対する旧仏教側の高僧たちの危機感、末法という時代意識が出発点となっている[115][116]。岡田莊司は「神道の理論的形成は、古代末期の律令的秩序の崩壊と価値大系の変動に起因する仏教革新運動の一環として位置づけられる。」と述べている[32]。中臣祓(大祓詞)は陰陽道や仏教と深く関わりながら、両部神道、伊勢神道(度会神道)、 吉田神道(卜部神道、唯一神道)、 伯家神道、 垂加神道、 復古神道等の神道の教義や、学問、実践の重要な部分の形成に関わった[7]。
旧仏教側は、仏法の衰えた末法の世でも中臣祓の効能で罪咎も滅すると強調し、苦しみを取り除き楽を与え、福を速やかに招く等と説いたが、これは苦しむ民衆の願望を反映させたものであった[117]。当時浄土教が流行したが、これは死後の来世(極楽浄土)における救済を信じそれを目指すものであり、現世否定の立場の宗教である[31]。浄土教の一派である日本の浄土宗の祖法然は、絶対的な救済者を阿弥陀如来のみとして専修念仏を説き、神に祈ることを否定したが、真言宗(真言密教)を中心とする旧仏教側は、救済者を阿弥陀如来のみとする法然の考えと根本的に相容れなかった[116]。旧仏教側の僧たちは浄土教に対抗し、末法の世における自教の有用さを示すために中臣祓を取り入れていき、中臣祓によって自身が救われたい・人々を救いたいという願いを結晶する形で、『中臣祓訓解』やその異本の『中臣祓記解』といった中臣祓の注釈本が書かれた[31]。
『中臣祓訓解』『中臣祓記解』は、密教思想を用いて伊勢神宮について説明する両部神道(真言密教系神道)の伝書であり、両部神道と中臣祓註釈が結びつけられているが、完全に仏教の教説を借用する形で中臣祓を説明している[31]。『中臣祓訓解』『中臣祓記解』の現存本は鎌倉時代中期の成立だが、両部神道は平安時代末期から形成され始めており、『中臣祓訓解』の原型はこの頃に成立したとも考えられている[118]。この二冊は当時の仏教側の代表的な著述であり、中世神道思想史の出発点となる重要な書である[31]。旧仏教側はこうして神道思想を発展させ、時代に即した思想を体系的に形成し、浄土教・浄土宗への批判を展開した[116]。
- 神道側における神道理論の形成
神道は国家体制の中にあったこともあり、儀礼面は厳重に整えられ祭祀が執行されていたが、思想面・理論的は全く未発展であり、仏教側が展開した神道説を受け継いで、そこから自らの神道理論を体系化していった[32]。神道側による神道説は、仏教側の中臣祓の注釈書を下敷きに仏説を排する形で展開した[32][114]。律令祭祀であった神社制度は古代律令国家の崩壊で変化せざるを得ず、経済基盤を失いつつあった神官たちは強い危機感を抱き、これが神官よる神道思想の発展・神道の組織化につながった[32]。
こうして形成された中世の神道流派の神道説は、仏教・儒教・道教などの外来思想の影響が強く、用語や概念を取り入れて形成されており、神道で重視された清浄を心の問題として見る際には、仏教の「禅定」や儒教の「正直」等の言葉で表現され、内面的な純粋さが求められるようになった[119]。神道説で説かれる清浄性は朝廷が定めた穢規定の次元を超えて仏教的に理解されており、両部神道の『中臣祓訓解』では中臣祓は仏教的に解釈され、中臣祓により煩悩に汚されない清浄な「心の源」が得られるとされ、心の清浄性が強調された(煩悩は仏教用語)[119]。
- 神道側の私的な祓への進出と神道の新時代
平安末期から鎌倉初期にかけて、『中臣祓訓解』『中臣祓記解』、仏教祓の陀羅尼、陰陽祓の所作などの影響を受けて、伊勢の祠官の間で伊勢流祓が形成されていき、御祈祷師(後の御師につながる)が病気や安産祈願などの「私的な祈祷としての祓」の分野に進出し、12世紀にはいると東国を積極的に開拓、領主と師檀関係を結んで私的な祈祷を行うようになっていった[29][30][31]。神道は神社のある地域に活動が限定されていたが、彼らの東国での活動は中世の伊勢大神宮信仰を推進する原動力となり、神道は新時代を迎えた[29][31]。伊勢流祓の形式は、伊勢祠官の間で伊鎌倉時代初頭までに成立し、伊勢流祓の祓本が書かれ祓祈祷が行われ、鎌倉時代後期以降秘伝化していった[31][50]。千度祓や万度祓が盛んに行われ、仏教の祈祷の巻数(カンジュ)をまねて御師が信者の間に配布した。中臣祓は各地の国衙や神社に広がっていったと考えられ、春日社では12世紀に春日祭に先立って行う祓の祭祀で中臣祓が行われていた[120][24]。松村和歌子は、春日社の清祓関係史料からは「氏の長者への申上げとその判断、時には神祇官占や、明法家の判断を承けて、神祇官によって行われていた清祓が、十二世紀後半には、徐々に社家(代々特定の神社に仕える家)の手にゆだねられ、やがて常住神殿守(かんどのもり)によって担われるようになったということが分かる。」と述べている[121]。
伊勢神道(度会神道)は、真言宗による両部神道の初期の中臣祓の注釈書を吸収し、強い影響を受けて形成された[32][122]。伊勢神道や伊勢流祓の形成には、伊勢神道を唱えた伊勢神宮外宮の祠官である度会氏の度会行忠(1236年 - 1305年)や度会常昌(12636年 - 1339年)が関わっており、彼らは両部神道の伝書『中臣祓訓解』『中臣祓記解』を度会氏「最極秘本」として所持し、祓の研究を行っていたことがわかっている[118][32]。伊勢流祓の形成期は伊勢神道の形成期でもあり、伊勢神道が公家などの一部の知識人に広まったのに対し、伊勢流祓は地方の武士、農村の有力者に広まり、両者は全く別のものであるが、伊勢神道は両部神道、伊勢流祓は陰陽祓・仏教祓の影響を直接受けて発展しており、成立背景自体は同じと言え、岡田莊司は両者は相互補完的な関係にあると考えるのが妥当としている[123]。
- 吉田神道の勢力拡大と吉田流祓
中世後期に吉田兼倶(1435年 - 1511年)によって創始された作り出された吉田神道(卜部(うらべ)神道とも。吉田兼倶は元本宗源(げんぽんそうげん)神道、唯一神道等と称した)では、中臣祓は儀礼・教説両面で重視され、様々な儀礼の中で用いられた[118]。卜部氏の流れをくむ吉田家は、神道祭祀や『日本書紀』に精通した家系として知られ、吉田兼倶は応仁の乱以後家に伝わった学問を下敷きに、神道説の偽作[注釈 23]と秘事化を重ね、「天児屋命の後胤(子孫)である卜部氏のみが伝えてきた唯一至高の神道」として新たな神道を作り出し(吉田家は卜部氏の系譜)、数多くの捏造・偽作を駆使して教説の流布に尽力した[125][124][126]。吉田兼倶は全国の官社や延喜式内社の3000余りの神々を祀る斎場所を創建したが、これにより古代以来の伝統祭祀は終焉し、さらに朝廷祭祀のほとんどが途絶えることになった[126]。また吉田兼倶は、朝廷の宣旨に擬した宗源宣旨なる文書を発行して私的に神社に神階、神格、神号などを与え金銭を得ていたが、中世末以降代々の吉田家当主が引き続き行って全国の神職の大部分を傘下に収め、絶大な勢力を誇った[127]。
吉田兼倶は古来の神社神道と仏教と習合した神道の両方を否定し、儒教・仏教・道教に対する吉田神道の唯一純粋性を主張したが、吉田神道の教説の内容は、儒教・真言密教を中心とする仏教、老荘思想、道教、陰陽五行説等、室町時代当時の様々な教説や信仰を取り込んだものであり、こうした教説に基づき、中臣祓などの加持・儀礼の実践により内外の清浄を実現することを説いた[124]。吉田兼倶は吉田神道形成期に公家・僧侶・武士に中臣祓の講釈を頻繁に行い、自説を確立させていった[118]。中臣祓の講釈では、神代から代々続く日本神道はインドや中国に勝るもので、中臣祓は(吉田神道の拠点である吉田神社の祭神でもある)春日明神の作であり、日本の祓が最古かつ最上であると主張、中臣祓等の伝授を行って自身が提唱した吉田神道の普及に努めた[128]。
吉田兼倶はそれまでの中臣祓の「祓申」を「大祓詞」と同様に「祓たまひ(給、賜)」に改め、「祓」ではなく「秡」の字を用いてそれに特別の意味を持たせるなどして差別化を行い、吉田流祓の儀礼や注釈は近世に多く流布した[118]。
また吉田神道では、祓の根本である「祓賜比清賜(「祓へ賜ひ清め賜ふ)」の字句を抜き取って「蒼生祓(善言美辞祓)」として独立させ、「波羅伊玉意喜余目出玉(ハライタマイキヨメデタマフ)」という非常に短い祓詞を作り、これを称すれば利益・効能は広大であると説いており、南無阿弥陀仏を繰り返し称する新仏教の浄土系の思想に通じるものとなっている[129]。吉田神道は中臣祓の注釈・研究で知られ[24]、吉田兼右の子孫の吉田兼永・吉田兼右は、吉田兼倶の『中臣祓聞書』・清原宣賢の『中臣祓抄』の講説・宣伝・書写・普及に努めた[130]。
- 中臣祓研究を通じた天皇の精神的権威化
大祓と記紀神話は律令国家・天皇制の形成期に作られたものであり、そのため天孫降臨などのモチーフを共有し、当時の精神が投影されている[33]。記紀神話は天皇による日本支配の正当性を語るものであるが、中臣祓(大祓詞)にも同様の面があり、両者は一体的に解釈されるようになった[131]。こうして宗教者たちは、中世における実際の天皇権力・王権とは離れた場所で、古代律令国家が創生期に残した枠組みの中で中臣祓を解釈し、王権を精神的に追及することになった[33]。その結果、「日本」や「神道」を意識すると「記紀神話」と「大祓詞」に回帰し、必然的に天皇を指向する、という思考構造が形成され、天皇の存在とは離れた場所で天皇権力と特に利害もなく、天皇制を支えようとする観念的な思想が生じ、天皇の精神的権威が高められた[131]。
- 江戸時代の吉田家の神道界支配と吉田流祓の権威化
江戸時代には、吉田家の江戸幕府に対する強い働きかけにより、吉田家による神社・神職への支配関係を援用し、神職の身分支配の根幹に吉田家を位置づける諸社禰宜神主法度が寛文5年(1665年)に発布、吉田家は幕府に認められる形で、全国の神職が代替わりするごとに神道裁許状を発行し、吉田家の神職統括体制とその根幹となる祭式の基礎が確立した[132][133][134][135]。吉田家は全国の大部分の神社・神職を傘下に収め、神道裁許状の対価として金銭を得ていた[135][136]。吉田家の神職統括体制により吉田神道の思想的な影響も大きく、吉田家の神道裁許状発行や出版活動によって中臣祓も社会に広く普及していき[133]、江戸時代には吉田流祓は権威化した[137]。卜部兼直(生没年不詳)や吉田兼俱(1435年 - 1511年)の著作からは、吉田流の中臣祓などの祓が吉田家が権威を示す上で重要であったことがわかる[133]。
- 中臣祓注釈の隆盛と尊王との結びつき
中臣祓を理論付けて宗教的実践と結び付けて重視することも広まり、江戸時代だけでも中臣祓に関する書が300以上も書かれ、少なくない数が流布していた[131]。近世以降も神道流派の間では中臣祓の研究が引き続き行われ、中世の神仏習合思想から脱し、後期伊勢神道の度会延佳(出口延佳)『中臣祓瑞穂鈔』、吉川神道の吉川惟足[注釈 24]『中臣祓御講談聞書』、垂加神道の山崎闇斎『中臣祓風水草』など、独自の神学思想を論ずる者も現れた[138]。吉川惟足は吉田神道の伝授を受けているが、さらに朱子学を学んで吉田神道の脱仏教化を図っており、度会延佳は神道と儒教、特に易との合一をベースに中臣祓注釈を行った[133]。
朱子学者の山崎闇斎は吉川惟足に神道説を学び、度会延佳の弟子の河辺精長(1601年 - 1688年)から中臣祓の伝授を受けたことをきっかけに垂加神道を形成した[134]。彼は自身の朱子学を取り込み、日本では神代から天皇との君臣関係が不変・絶対であるという政治的な面を含む神道論を説いて、中臣祓を重視して解釈し、祓の儀礼を絶対的な君臣関係の象徴と解釈し、祓により清浄な境地に至った者は自然と皇統守護に挺身すると主張するなど、神道・中臣祓と尊王を結びつけた[131][139]。山崎闇斎は自らの教説を秘伝としていたが、多くの門人を擁しており、一部の門人が伝授の内容を公開していたこともあり、彼の中臣祓解釈は社会にある程度広まった[134]。
- 古典尊重の立場での中臣祓・大祓詞研究
注釈研究は近世中期以降から、『延喜式』の大祓詞を対象とするものに移行していき、それまでの中臣祓の研究とは異なり、古典尊重の立場からの研究が見られるようになる[138]。
江戸時代の後期に国学や復古神道が盛んになるにつれて、大祓詞という名称が再び用いられるようになった[140]。国学者の大祓詞への関心は高まり、中臣祓ではなく『延喜式』に収録された大祓詞の注釈研究が盛んになり、竹内式部『式部 竹内中臣祓講義』、賀茂真淵『延喜式祝詞解』、同『祝詞考』 、本居宣長『大祓詞後釈』、鈴木重胤『延喜式祝詞講義』の「大祓講義」、平田篤胤『大祓太祝詞考』、同『天津祝詞考』、六人部是香『大祓詞天津菅麻』、岡熊臣『大祓詞鹽之八百會』、大国隆正『天都詔詞太詔詞考』等、大祓詞についての様々な論考が書かれた[141][142]。本居宣長は、大祓詞と神話との関連を考察するだけでなく歴史的考察を行い、古代律令国家が大祓を行っていた実態を明らかにし、民間の祓の儀礼での中臣祓の読誦と本来の国家儀礼としての大祓との違いを示した[142]。
- 王政復古の精神への展開、明治政府による宮中の大祓の復興
神道は、山崎闇斎によって尊王との結びつき、本居宣長によって復古と日本的純粋性を希求する方向性が示されたことで、王制復古の精神へと展開した[143]。
こうした流れの中、明治時代に入るといわゆる「神仏判然令」が出され苛烈な廃仏毀釈が横行し、国家の祓としての大祓を復興しようという動きも具体化した[144][145]。明治維新後、明治政府は文明を開化し、欧米列強諸国と渡り合える国造りを目指し、その中で国の根幹の精神の基礎に「古代よりの神祇(神道)信仰」を据えることを決め、「政祭一致」の理念のもとで神道国家主義体制がとられ、まず皇室の古儀(古い儀式)の復興の一つとして宮中の大祓を復興、「万民の罪穢を祓う行事」として宮中で行われるようになった[144][146][147][143]。
また明治政府は、民間での祓は正統的でないとして禁止し、伊勢神宮改革で御師たちの御祓大麻の配賦を禁じた[148]。
- 神社の大祓の「復興」と大祓の隆盛
明治政府は、民間の神社で旧暦6月に行われる「六月祓」「夏越神事」と呼ばれる行事は本来の意義を失い歪曲された「大祓」であるとし、古く正しい儀礼に戻すと主張して、古代の大祓をアレンジして神社祭式としての大祓を新しく「再興」し全国の神社に行わせるようになった[36][37][注釈 25]。この神社の大祓は、宮司による祝詞と神官による「祓詞」の宣読をセットにした二部制の儀式となっており、大祓詞を大幅に短縮した祓詞が作られた[144]。明治政府が定めた二部制の神社の大祓の祭式は、宮司が神殿の扉を開いて祝詞を奏上体で唱え、神官が神殿扉を背に「群參諸人」に対し、公民の犯したかもしれない罪事が祓処の四神により祓われたことを宣命体で宣べる形となっている[150]。神社に祀られる神に祈ることで、その神と祓処の四神との「神講」が行われ諸人の罪穢が払われるという独特の神理解となっており、復興された宮中の大祓とも異なるものとなっている[150]。
- 大正3年の神社の大祓の改革と神社祭式用の大祓詞の制定
日清戦争・日露戦争を経て、役人や国民の神社崇敬の熱気が高まり、内務省が大正3年に神社祭祀や祭式、神道の制度や体制の多くを現在につながる形に定めし、大祓式も古代の儀式を参照して策定され、大祓詞も『延喜式』祝詞、中臣祓に準拠したものが定められた[144][151]。神社の大祓式については、内務省訓令第四号による「官国幣社以下神社遙拝及大祓次第」で定め、府県社以下神社遙拝及大祓次第」も官国幣社に「準ス」とした[152]。新たに定められた大祓式では、古代には貴重だった紙を幣として多用しており、古儀の復興を意図したことが窺える[39]。大祓詞は、かなり簡略化していたものが延喜式祝詞・中臣祓に準拠するものに変更されたが、「今日では天津罪の内容はあまりに不自然であり、国津罪の内容に至つては非道義的で不義の宣伝にもなるからよろしくない」(八束清貫談)として、天津罪・国津罪とだけ示し罪の内容は全て削除された[38]。この時定められた祭式・祓詞が、現在の神社の大祓の基本となってる[39]。「古儀の復活」とされた大正3年の神社の大祓の改革は、明治5年に明治政府が定めた二部制の大祓式を行うようになっていた神社界から熱烈に歓迎された[40]。
また同時期に明治政府は、神道を国教として国民を強化する大教宣布運動を展開したが、そこでの説教の内容には大祓の意義も含まれ、解説書が出版された[153]。この運動は半年で挫折したが、それに伴って神道事務局が設立された[153][145]。明治15年(1882年)に神道事務局生徒寮を基盤に創立された皇典講究所は、「大祓詞」を含めた祝詞の研究を熱心に行い、皇典講究所・國學院大學出版部を通して神官資格試験のための参考書や『校訂延喜式』(昭和6年(1931年))等の祝詞関連書籍を刊行した[153]。
研究
本文
金子善光は、大祓詞の本文は構成上大きく前後2段に分かれるとしている[154]。前段では、大祓が高天原に由来する重要な行事であり、天皇によって行われることを語るが、これは祝詞の神話の定番であり、金子はこの型は『延喜式』の他の祝詞にも散見されると指摘している[155]。神話を語り、高天原由来の神聖な詞章を際立たせ、この前段の権威によって後段の内容(大祓詞の場合は祓え)を達成しようという構成である[155]。大祓詞では、まず天孫降臨神話が語られるが、金子によると、大祓詞は記紀とは異なり、神話を「瑞の御舎(みあらか)」つまり降臨した天孫である天皇が籠もる場としての「みあらか」、宮殿に収斂させており、「瑞の御舎」の意義を際立たせるために神話が語られている[155][156]。金子は、大祓詞だけでなく「祝詞の神話が語るのは〈天皇の祭祀〉そのもので、これが〈高天原〉に由来する正当性あるものにするためである。つまり祝詞の神話は(天皇の)参籠の場である〈瑞の御舎〉〈天の御舎〉へと神話を収束させるためにのみあると見られるのである。」と述べ、「御舎」への言及は、天皇がマツリゴト(祭祀)を行う朝廷に出入りする官人らに穢れを持ち込ませないためであり、大祓の最終目的は「至聖所の維持」とみている[155][157]。金子によると、大祓詞は①「みあらか」を強調する神話、②予祝行事である「祝木」、③伊勢神道の祓の信仰などが重層している[158]。
戦後の祝詞研究の第一人者である青木紀元は、文章の内容的に、第三段-2の「天の下四方の国には、罪と云ふ罪は在らじ」で罪の祓は終わっており、「祓えつ物(祓のために神に捧げる品物)」を川に捨てることは祓いの後の付属的なことに過ぎないはずであり、第三段の2と3の祓の思想には相違が見られると指摘している[47]。第三段-2の祓の思想は「天つ宮事により天つ金木・天つ菅曽の行事を行い、天つ祝詞の太祝詞事を宣ることによって罪は祓われる」とするもので、第三段-3の祓の思想は「罪が川→海→根の国・底の国と失われて行く」、つまり、祓が終わってから「祓えつ物」を川に流すことで罪が清められるいう考えであり、前者(第三段-2)の思想が古い本来の祓である(記紀神話のスサノヲの罪の祓の説話などに見られる)[47]。青木は、後者(第三段-3)は、禊(神聖な水で身心の穢れを浄める宗教行事)の思想が祓に入り込んだものであり、元来明確に区別されていた祓と禊が徐々に混同される過程で生じたものとしている[47]。金子善光も、「天つ宮事」によって天津神・国津神が罪や災いの消滅を聞き届けるとしながら、改めて四柱の祓の神を引き合いに出していることを「疑問点」としており、また祓の祝詞である大祓詞に禊の要素があるとして、中臣氏と水の信仰の関連を指摘している[159][160]。
第三段-1で中臣に「天津祝詞の太祝詞事を宣」ることを命じるのは、この祓詞を読んでる中臣自身であり、桜井好朗は、これは中臣が高貴な人や神に奏上するのでも、高貴な人が宣(のたま)ったことを中臣が取り次ぐのでもなく、中臣が「神もしくは『現つ神(天皇)』の宣るさまを演じ」、自分自身に命じるという構成になっているとし、大祓は「王権 - 国家の神話に裏打ちされた祭礼 - 儀礼でありつつ、神聖な演劇」でもあるとしている[41]。
成立
- 中世
中世以来、中臣祓は「神から人へ伝えられた神の言葉」であり、それが神代以来連綿と伝えられたと解釈されていた[161]。以下有名な注釈書における成立説を述べる。
- 両部神道『中臣祓訓解』:イザナギの宣命を天児屋命が解き明かしたもの[162]。
- 伊勢神道 度会延佳(出口延佳)著『中臣祓瑞穂鈔』:(天児屋命の孫の)天種子命作とされるもの[162]。
- 吉川神道 吉川惟足講談『中臣祓御講談聞書』 :イザナギ・イザナミの命を受けた天児屋命が素直な(邪念のない、清らかな)言葉を集めたもので、天児屋命が新しく作ったわけではない[162]。神武天皇の時代に、天児屋命の孫である天種子命が神代文字を用いて書き記し一巻の書物とした[162]。欽明天皇の時代に常磐大連(ときわのおおむらじ)[注釈 26]がこれを漢字の書にした[162]。
- 垂加神道 山崎闇斎著『中臣祓風水草』:神武天皇の時代に、天児屋命の孫である天種子命が祖父が司ってきた道を継承し、天皇に奏上するために作ったもの[162]。
- 吉田神道 吉田兼倶著『中臣秡抄』 :日神が悪神におかされて天の岩戸に籠もり天下が暗くなったときに、日神に出てきてもらおうと神々が様々なことをした[162]。この時に春日大明神(天児屋命)が申し上げた祓の言葉とする[162]。春日大明神は天上諸神の言葉をそのまま集めたとする[162]。
- 近代
戦前の『神道大辞典』では、大祓詞が作成された時代について、天智・天武両朝の頃と推定する近世の国学者賀茂真淵の説を載せている[1]。なお賀茂真淵は、『古事記』の天の岩戸の段における高木神(高御産巣日神)から天児屋命へのおことば、すなわち「皇祖神の詔」が大祓詞の「原型」であるとした[164]
- 戦前
戦前の『神道大辞典』は、大祓詞の作者は諸説あるとし、天児屋命の子天種子命説や、常磐大連説、また天智天皇の命により中臣金連が祓詞を献じ、この簡文が二季恒例大祓に用いられ文武天皇朝に新文に改められたものが大祓詞である等の説を示し、いずれの説も明確ではないと評している[3]。
- 戦後
大祓詞は『延喜式』収録のものが最古であるが、構造や文体が不統一であり、最古の大祓詞がそのまま残されたわけではなく、段階的に追記や改変が行われたものと考えられている[100]。三橋正は、最古の大祓詞からの追記・改変があるとはいえ、『延喜式』収録の大祓詞は、基本的には大祓の草創期(天武朝)の思想を表すとみている[100]。藤原享和は、大祓詞が載録された時期は天武朝の最初の大祓の2世紀以上後で、祓が「神話の再生儀礼としての祭儀」の段階を過ぎて「年中行事」化した時期であり、よって『延喜式』の大祓詞は「原大祓詞」から変化していると考えるのが妥当と述べている[101]。
青木紀元は、大祓詞の文章で不自然に断裂している箇所に注目して分析し、本文全体(最後の卜部への指示は含まない)を5つに分け、成立年代を次の通り推定した[165][166]。
- 第一段「集はり侍る親王・諸王・諸臣・百の官の人等、諸聞き食(たま)へよと宣ふ。」:第二次成立 大祓の恒例化の時 天武朝(673年 - 686年)末期
- 第二段「天皇が朝廷に仕へ奉る比礼挂くる伴の男・手襁挂くる伴の男…今年の六月の晦の大祓に、祓へ給ひ清給ふ事を、諸聞き食へよと宣ふ。」:第三次成立 平安時代 延喜(901年-923年)に近い頃
- 第三段「高天の原に神留ります皇親神漏伎・神漏美の命を以ちて、…かく聞こし食してば、皇御孫の命の朝廷を始めて、天の下四方の国には、罪と云ふ罪は在らじと、」:第一次成立 臨時大祓創始の時 天武朝初期
- 第四段「科戸の風の天の八重雲を吹き放つ事の如く、…遣る罪は在らじと、」:第二次成立
- 第五段「高山・短山の末より、さくなだりに落ちたぎつ速川の瀬に坐す瀬織津比咩と云ふ神…今年の六月の晦の夕日の降ちの大祓に、祓へ給ひ清め給ふ事を、諸聞き食へよと宣ふ。」:第三次成立[165][167][166]
第三段の内容は臨時の(恒例ではない)大祓で、「国内の罪の祓除を神に祈願するもの」であり、天武期5年8月16日の臨時の大解除に相当し、天武朝初期と考えられる[165]。青木は、この時点では大祓詞は神に奏上する詞であったと推定し、第三段の最後「罪と云ふ罪は在らじと、」の後には元々「…と申す」で終わる文があり、後世にそれを削除して第四段を繋げたと推定している[99]。
第二次成立は恒例の大祓であり、第一段は集まった諸人に対して宣読するものである[165]。第四段は、青木によると「その参集の諸人に罪の祓除を意識させ、今後一層浄正直の心をもって、朝廷の仕事に勤務追進することを覚悟させるところに主旨がある」[165]。天武期14年正月二十一日条に制定された爵位「明・浄・正・直・勤・務・追・進」の名目が恒例大祓の精神をよくあらわしており、よって天武朝後期、天武朝末期と推定している[165][99]。青木は、第一次成立の臨時の大祓と第二次成立の恒例化された大祓の主旨の違いから、大祓詞は第二次成立の時に参集の諸人に対して宣読する詞に変わったと推定している[99]。
第二段・第五段は後に追加されたもので、この2つの段は末尾が呼応する形になっており、同時に成立し追加されたとしている[165][168]。第三次成立の2つの段は祓と禊が混同されるようになってから書かれたものであり、また「祓えつ物」を大川道に持っていって水に流すようになってから書かれたものである[47]。青木は、本来「祓えつ物」は祓のために神に捧げる品物であり、後始末は問題ではないため、元々大祓には祓の後にこれを川に流す工程はなく、「祓えつ物」の後始末に意味を見出す考え方は比較的新しいと指摘している[47]。
第五段は、罪が川→海→根の国・底の国と運ばれ失われていく様が流麗な文体で描かれ、青木は時代の新しさを感じさせると評している[47]。
また青木は、大祓の実施時刻は時代を下るにつれて遅くなったようだが、大祓詞の末尾の方に「今年の六月の晦の日の夕日の降ちの大祓に、祓え給ひ清め給ふ事を、」とあることから、「夕日の降ち」の時刻に大祓を行っていた時期に第三次成立の段が追加されたと指摘し、それは平安時代に入ってから、延喜に近い頃ではないか、と述べている[167]。
桜井好朗は、第二段・第三段・第五段を一連の構成と見て、青木の段階的成立説に異を唱え、第四段はやや不自然な重複になっているため、これのみが後から追加された可能性があると述べている[169]。成立時期は、石母田正の見解を踏襲し7世紀後半と推定している[170]。最後の卜部への指示は、当初よりあると考えるのが自然とする[169]。桜井は、罪が川から根の国・底の国に運ばれ消滅するという思想を本来の祓とは異なり新しいとする青木の説に対し、天武朝・持統朝の思想を新しいと言うなら、大祓自体が新しいと考える方が適当と反論し、考古学の成果に学ぶべきと述べている[171]。考古学者の金子裕之によれば、平城京跡で発見が増えている祭場は大祓の祓所である可能性があり、こうした祓の祭事は天武天皇・持統天皇の祭祀政策から生まれたものである[171]。祓の祭事は平城京から長岡京に、そして平安京の七瀬祓(陰陽道の祓)へと展開した[171]。
天津罪・国津罪
大祓詞で挙げられる天津罪・国津罪は、全般的に古代的色彩が濃い[172]。人を殺すことや謀反のような基本的刑罰の対象となる罪ではなく、共同体秩序の破壊、農業関連の妨害行為、または祭事に関する農業関連の妨害行為・これが象徴する祭事や神聖なものの冒涜である[173][174]。天津罪は記紀神話でスサノヲが犯した罪であり、三橋正は「実質的な意味を持たなかったと思われる」としている[20]。大祓詞における罪の中には災禍も含まれており、そのため罪全体の整合性について、近代以降に様々に論じられてきた[175]。「大祓は罪でなく災気を除去する儀礼」とする説もあり、その場合、大祓詞で列挙される罪とは「災禍の一表現」と捉えることができる[175]。
桜井好朗は、国津罪で列挙されるセックスに関する罪に、兄妹・姉弟の近親相姦がないのは、『古事記』『日本書紀』におけるアマテラスとスサノヲの関係が本質的に姉弟婚であるためとしている[176]。ふたりの間には物根の交換によって子が生まれているが、桜井はこれを原初の対としての兄妹婚をぼかして王権神話に組み込んだものと解釈し、兄妹始祖譚が崩れた型と見ている[176]。また、獣姦の罪については、文字通りのものではなく異類婚姻譚を貶めて表現したもので、三輪神が雷であり蛇(蛇神)であり、人間の女と性交して子をもうけたように、皇統以外が異類と婚姻して超常の力を持つ異類神の血筋が成立すること、血筋の乱れの排除・抑制であると解釈している[177]。
青木紀元は、大祓詞における罪のうち、「『昆虫乃災』『高津神乃災』『高津鳥災』は、災禍であって、罪ではない」と指摘し、「このような災禍の類(略)が祓い清められる罪の中にまじっているのは、仏教の影響を考えねばならない」と述べて、大祓詞には除災招福の経典である薬師経の関与があるとの見解を示し、薬師経の文言との対応関係を示している[178]。
内務省が大正3年に神社祭祀や祭式、神道の制度や体制の多くを現在につながる形に整備し、その際に内務省の神社局を中心とする作業グループが、信仰と当時の社会情勢を勘案し、元々の大祓詞にあった天津罪8項目、国津罪13項目の具体的な内容を削除した[144][179]。その形式が神社本庁に引き継がれているため、現代の神社本庁の大祓詞も罪名の列挙を省略して「天津罪・国津罪」とだけ言っている[180]。罪に関する部分の削除に対する反対意見や疑問は当時ほとんど見れらなかったが、明治-大正期の神職で大山阿夫利神社などの宮司、國學院主事兼皇典考究所幹事も務めた目黒和三郎は、大正3年の改革について、大祓詞が延喜式祝詞・中臣祓に準拠し古儀に則って復活したことを喜びつつ、罪に関する部分の削除について貴重な古伝の「改竄」と述べ、同意し難いとして削除に疑念を示している[40]。
東郷茂彦は、明治政府が神社の祭式として従来と大きく異なる「二部制の大祓式」を作ったが、「この変化の背景には、文明開化を成し遂げるために、大祓詞の天津罪、とくに国津罪の具体的な内容に対する忌避の念があったのではないか」と述べている[181]。
國學院大學の上田賢治は平成2年に、罪の列挙の削除について、「当時、取られた処置の中には、今日にも通じる近代感覚、そこに挙げられた罪・災いの呼称・内容が時代にそぐわぬという、判断が働いていたに違いない」と当時の状況に理解をしめしつつも、「たとえ呼称を中止したからといって、それで神学問題が消滅したわけではない。」と述べて、大祓詞から天津罪国津罪の内容を削除したことが「神学的」に「正しかったのかどうか」の問題提起を行った[182]。上田は、天津罪国津罪の内容が「神道の存在理解、人間観」の根本に深く関わるものであることを指摘し、その削除の適否自体が検討すべき課題であると述べている[182]。東郷茂彦は、昨今神道に興味を持つ人も増え、神社の大祓式・茅の輪くぐりが人を集めているが、その削除によって現代の一般人に受け入れやすい形になったと評価し、「近代神道史における、伝統と近代化の相克の結果として、現行大祓式と大祓詞を捉えるならば、大祓式と大祓詞の近代化の一つの到達点として、現況は評価できると考える。」と述べている[183]。ただし、目黒和三郎が提起した「天津罪国津罪の具体的内容の削除が妥当であったのか」という疑義については、現代の神道や神社の大祓式が一般人に広く受け入れられておりよかったという話とは「次元を異にする」重要な問題としている[181]。
天津宮事
天津宮事(天つ宮事)で行うことの詳細は不明で、伝承や信仰背景もよくわかっていない[184]。宮事については、卜占の用意(武田祐吉)や儀式(金子武雄)など諸説あり、金子は「菅麻」(菅)を祓に用いて、金木を祓つ物として、これに罪を移して祓ったとする[156]。三宅清は鈴木重胤の説を支持して「菅曽」の「菅」を白茅、「曽」を麻とし、共に罪を贖う贖物としており、本澤雅史は詳細な検討の上「菅曽」を菅としている[156]。金子善光は、天つ金木については正月の予祝行事として行われた「祝木」を庭に置く民俗と重なると述べ、「神々の力を引き出すために特別な木切れを用意するのが『天つ宮事』であった」と推定し、大祓詞の茂った木の根もとを鎌で打ち払う比喩は、「祝木」切りからの連想であるとしている[156]。
天津祝詞
大祓詞には、「天津祝詞の太祝詞事を宣れ」と命じて「如此(かく)宣らば…」と受けている部分があり、この「天津祝詞乃太祝詞」(天津祝詞太諄辞)」に先人たちは意義を見出し、多岐に渡る解釈を行っていた[185]。河野省三は「天津祝詞太諄辞考」(昭和15年)で中・近世の大祓詞/中臣祓の注釈書を網羅的に整理し、「天津祝詞乃太祝詞」(天津祝詞太諄辞)」の解釈について、①大祓詞/中臣祓そのものとする説、②大祓詞/中臣祓のうち、天津金木から八針に取辟きて(「天津祝詞乃太祝詞」の直前)までを指すという一部分説、③大祓詞/中臣祓とは全く別の祝詞であり一種の神呪であるという説、の3つに大別している[185]。③は、「宣れ」の後に本来「宣」られるべき「すべての罪穢れを解除する力を持つ天津祝詞太諄詞」があるはずだとする信仰である[186]。
近世の国学者の間だけでも様々な意見があり、山崎闇斎(1619年 - 1682年)は、伊勢神道をベースに吉田神道(吉川神道)を統合し、自身の朱子学者としての研究も取り入れて、誠を込めて述べる祝詞の意味としており、彼が創始した垂加神道における「祓」の末に至る境地を端的に表すものとなっている[187][139]。山崎闇斎の解釈には、彼が始めた朱子学の一派である崎門学(闇斎学)が重視した「君(君主)に対するやむにやまれぬ思い」である「繾綣惻怛(けんけんそくだつ)」、仁の精神が、彼の垂加神道に注入されていることをよく示している[187]。万人は天神国常立尊から生命の根源たる「心神」を賜っていることから、我々は皆日嗣君(天皇)を守護する「神籬」であると説き、徹底した「祓」 によって清浄なる「心神」を発揮する「天津祝詞太諄辞」の境地にあれば、人は天神から賜った生命の根源「心神」の天神のおことば(勅言)すなわち雑念のない誠のままに、君主に対するやむにやまれぬ強い思い(繾綣惻怛)が自然と湧きあがり、心から皇統守護に挺身するという[188][139]。皇統守護に他念なく自然と努める境地(誠)こそが、「天津祝詞太諄辞」であり祓の境地であるとした[188][139]。
賀茂真淵(1697年 - 1769年)は、天の岩戸の段で天児屋命が高御産巣日神(高木神)よりおことばを賜ったとする自身の神学を前提に、大祓詞とは別に神代紀の「大諄辞」なる祝詞があったと想定し、「天津祝詞の太祝詞事」はこれであるとした[189]。またその後解釈を変え、天の岩戸の前において高御産巣日神(高木神)が天児屋命に命じた詞である「天津宣事」が大祓詞の原型とする説を唱えている[190][191]。
一方本居宣長(1730年 - 1801年)は、祝詞とは神の詞ではなく「神に申す詞」であるとして、天津祝詞を神の詞とする説を否定している[192]。また、天の岩戸の段における神々の動きは自主的なもので高御産巣日神から神々への命はなかったという自身の神学を前提に、賀茂真淵の神学は『古事記』にも『日本書紀』にも全く根拠がないとして、祝詞とは皇祖神の詔命であるとする彼の闇斎解釈を厳しく批判し、皇祖神に主体に置いた祝詞解釈も暗に否定した[193]。
平田篤胤(1776年 - 1843年)は、大祓詞とは別に奏上する祝詞であると考えて、禊祓の詞4編から1篇の祝詞を編成して「天津祝詞」とし、これを祓戸神の奏上するという実践形式を示した[194]。これは神社祈祷の行われる祓に影響を与えたと言われており、大本系の教団では平田篤胤が編成した祝詞を「天津祝詞」と呼んで重んじている[186][194]。また禊教では「禊祓詞」と呼んで、これのみを繰り返しを唱えることを行法の核心とした[195]。
六人部是香(1798年 - 1864年)は、祓とは祓戸の4柱の神に自ら願って罪咎を祓うものとするような風潮を批判し、祓では天津神・国津神に対して罪を悔い改めることが肝要であり、「天津祝詞」とはそのような内容を持つものであると考えて、『延喜式』に収められている祝詞のうち「天津祝詞」とある祝詞の中で共通する部分を探し、これを神代より伝わる「天津祝詞」とした[196]。『延喜式』の祝詞の多くは、この「天津祝詞」の前後に祈りの詞を付け加えたものであり、大祓詞もそうであると主張している[196]。
大祓詞に登場する神
神漏岐命・神漏美命
神漏伎・神漏美(神漏弥)の語は大祓詞をはじめ祝詞に見られる[197]。『延喜式』掲載の祝詞は、大祓だけでなく、祈年祭・月次・大殿祭・鎮火祭・大嘗祭・鎮御魂斎戸祭・遷却祟神・践祚大嘗祭の祝詞全てが、神漏伎・神漏美の命でそれぞれの神に申し上げる形式ではじまる[197]。祝詞においては、神漏伎・神漏美が神道祭祀の起点となっている[197]。しかし記紀の中で記紀神話の神々と律令祭祀や祭神が密接に関連していることが示されているにもかかわらず、神漏伎・神漏美の語は記紀には登場しない[197]。神漏伎・神漏美に関する記述は限られており、解釈は一致していないが、崇めるべきものと理解されてきた[198]。神漏伎・神漏美の語は普通名詞と考えられており、主な解釈に特定の神の固有名とするものはない[198]。祖先、特に記紀神話の中心をなす天皇の祖である皇祖神と解釈され、また身分が高貴であるとされ崇められたが、具体的にどの神を指すかの解釈はそれぞれであった[198]。高皇産霊神(高御産巣日神、タカミムスヒノカミ)は共通して上げられており、天照大神および神皇産霊神もあげられている[198]。しかし、神漏伎・神漏美の字義に祖という意味は見られない[199]。
なお、一般に天照大神が皇祖神とされているが、近年の研究では、天照大神は律令国家形成期の7世紀末-8世紀初頭に皇祖神として祭られるようになった神であり、それ以前の古来からの皇祖神は高御産巣日神であったという見解が主流である[200]。
平安時代に成立した『古語拾遺』では、天地開闢の部分で「高皇産霊神」が「皇親神留伎命」、「神皇産霊神」が「皇親神留漏弥命」とされている[201]。神漏伎・神漏美の近世から現代までの解釈[注釈 27]を辿ると、高皇産霊神・神皇産霊神を指していたが、徐々に広く男女の皇祖神、もしくは多くの神々を指すようになったようである[202]。東郷茂彦によると、これらの解釈は、「高天原という神道の根底の信仰を前提とし、皇統の永続性を願っての論理展開」となっている[202]。現代の研究では、金子武雄は神そのものを強く表わした語で、「『神の中の神』であらせられる絶対至高神」を指すとしており、青木紀元は男女の祖先神と解釈している[199]。
國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館の大祓詞の現代語訳では、「高天原に神留り坐す 皇親神漏岐神漏美の命以ちて」は、「高天の原に神様として鎮まっておられる貴く又むつまじい皇祖の男神様・女神様のお言葉によって」と訳されている[4]。
「命じる神漏伎・神漏美(天神[注釈 28])」のモチーフは、文献のなかでは神武天皇の即位に、現実としては『日本書紀』が編纂された当時の天皇に結実しており、天皇のあり方・正当性に結び付いている[206]。天神の命令は神話の各所に挿入されており、これにより繰り返し天皇の存在の正当化が確認される[206]。大嘗祭や大祓などの重要な国家的神事の祝詞の冒頭にも「高天原に神留り坐す皇が睦神漏伎命・神漏弥命以ちて」などの文言が置かれた[206]。この文言により、祭祀の実施が神神漏伎・神漏美の命によるもので、その正当性が神漏伎・神漏美に担保されているかのような構成となっており、天皇の統治や祭祀の実行が正当化され、さらに神漏伎・神漏美(天神)と天皇を重ね合わせることで天皇の命令が正当化されている[206][注釈 29]。尾留川方孝は、神漏伎・神漏美の核心は「命じるという機能・働き」であり、神漏伎・神漏美とは神の「命じるという働き」を実体化した語であり、高皇産霊・天照大神は具体的な活動をするときや客体化され祭られるときはもっぱら固有名が用いられると述べている[207]。
天津神・国津神
「天津神」「国津神」は抽象的な神であり記紀神話には登場しない[208]。「神祇令」では中国の成語「天神地祇」(天の神が「神」、地の神が「祇」)を用いて、「天神」をおおよそ天孫系の神々、「地祇」を土着系の神々としており、「天津神」がこの天神、「国津神」が地祇に当たると思われるが、「天津神」「国津神」が共同作業するかのように「天津宮事」を聞き届けるという神観念は、記紀神話や神祇令には見られない[209][210]。「神祇」は「天神地祇」の略語であるが、日本における天神・地祇の区別ははっきりしたものでなく、「神祇」は日本における在来の神々を総称する言葉として用いられたようである[210]。「神名式」では天神と地祇の区別はすでに曖昧になっている[45]。
祓の四神
罪を川→海→根の国・底の国へと流しやり消去する瀬織津比咩(セオリツヒメ)、速開都比咩(ハヤアキツヒメ)、気吹戸主(イブキドヌシ)、速佐須良比咩(ハヤサスラヒメ)の祓の四神(うち三神は名前から女神[211])のうち、古典に登場するのは『古事記』の速秋津比売神(速開都比咩)だけであり、古代の神祇信仰の中でどのような神格として位置づけられてたか不明である[47][212]。
藤原享和は、平安末期から明治末期までの祓の四神の解釈を5つに大別している。
- 「仏教、道教、陰陽道など大陸系の神(仏)格として説くもの」:セオリツヒメを焔魔法王、ハヤアキツヒメを竜宮天子・難陀竜王妹・五道大神・歓喜天・竜神、イブキドヌシを大山府君、炎魔王、高山天子、ハヤサスラヒメを焔羅、司命、司禄に比定する[213]。両部神道系、伊勢神道系、卜部神道系の注釈書の多くがこの解釈であるが、これらの神道説は真言密教等の仏教、儒教、道教、陰陽道といった大陸系の思想を吸収して成立しているため、当然の流れと言える[213]。
- 「(伊勢神宮の)皇大神宮や豊受大神宮の別宮、又はその祭神として説くもの」:主に、セオリツヒメをアラマツリノミヤ(荒祭宮、天照大神の荒魂))、ハヤアキツヒメをタキハラノミヤ(瀧原宮)他、イブキドヌシをタカミヤ(多賀宮)・カゼノミヤ(風宮)他の祭神に、ハヤサスラヒメをツチノミクラノムチ(土蔵霊貴)に比定する[214]。中世以降流派問わず見られる[214]。この解釈の多くが所謂「神道五部書」及び『伊勢二所皇大神宮神名秘書』を主な根拠とする[214][注釈 30]。「神道五部書」は奈良時代成立と偽られていたが、伊勢神宮の外宮の神官が内宮に対する外宮の優位性を根拠づけるために12世紀後半-13世紀に書いた偽書である[215]。1736年に吉見幸和が偽書であることを明らかにしているが、これ以降も「神道五部書」に依拠する解釈は少なくなく、本居宣長の速開都比咩の解釈も『倭姫命世記』に拠っている[214]。
- 「『記・紀』に見える神名に比定するもの」:中世近世問わず、また神道説を問わず広く唱えられた[216]。主にイザナギ・イザナミの国生みの条と、イザナギの禊の条に登場する神々(イザナギ、イザナミ、マガツヒ、ナホビ、イズノメ等)に比定されたが、ハヤサスラヒメは音の共通性からスサノヲや、女神であることからその娘のスセリビメに比定されている[216]。
- 「その他の神名等に比定するもの」:既出の3分類とは神名の傾向は異なるが、厳密に見ると、「神道五部書」の影響や記紀の記述から類推したと思われるものが多い[217]。また、15-16世紀前半の卜部兼倶の『中臣祓抄』に速開都比咩を「月神」とする記述があり、それに倣う注釈書も多い[217]。
- 「他の神名等に比定しないもの」:独立派神道に多く見られ、祓の四神全て又は一部を大祓詞独自の神格とみなすもの[218]。
現代では、次田潤の解釈が祓の四神を記紀の神格に比定するもので、本居宣長の説を紹介し踏襲している[219]。千田憲は宣長の説を批判し、記紀の神格に比定せず祝詞の中の神格として理解すべきとしたが、どのような神格であるかの解釈は行わなかった[220]。今泉定助は、祓の四神の名から神々の機能を分析し、また大祓には表の行事と裏の行事があったと主張したが、藤原享和はこれは根拠が弱いと述べている[220]。戦後の金子武雄と青木紀元は、神名そのものが各々の神の機能や状態や状態を表すものと分析した[221]。また青木は、速開都比咩(速秋津比売神)以外の神は「いずれも大祓の詞の中で、文章の綾と共に生まれた観念的な神々で、宗教的というよりはむしろ文芸的な性格が強く、それだけに新しい神々と言うべきである。」と述べており、割り切った解釈かつ、祓の四神の成立時期を記紀成立時期か大祓詞成立以前と考える既存の説から踏み出したものとなっている[47][222]。
藤原享和は、「厳粛に行われる神話の再生」としての大祓で読み上げる祝詞であれば、記紀神話の神の名を読み上げなければ意味がなく、そうであるのが自然であると述べ、天武朝に国家としての祓が行われた段階で祓はもはやプリミティブなものではなく、「国全体の(広義の)罪過一般を流し去る」という高度に観念的なものに変化していることを指摘している[223]。大祓詞が載録された時期(天武朝の最初の大祓の2世紀以上後)は祓が「年中行事」化する段階であり、連れ立って集まった文武百官とその妻女・姉妹に対して宣る(聞かせる)年中行事となった大祓では、もはや記紀神話の神名を読み上げる必要はなく、求められたのは清涼感をもたらす語感であったとみて、聞き手が半年の罪過を流し去るのにふさわしいと感じる清涼感、壮大感にあふれ、しかも大祓を行う朱雀門外の溝を大海に通じる急流大河に見立てることのできる神名として創られた、大祓詞固有の創作神名であるとしている[223]。祓の四神は、実際に信仰されたり神統譜の一部を形成する神ではないと推定し、周知の神であれば神名に続く「~止云神(~という神)」は全く不要であり、流れるような美文を損なうこの表現が祓の四神全てについていることが、周知の神でないことを示すとしている[223]。
仏教・薬師経の影響
現代の研究では、『延喜式』所収の大祓詞は、仏教の薬師如来信仰の『薬師経』の思想を受容した日本において、『薬師経』の放生思想[注釈 31]と、中国の天命思想が結びついて、古代律令制のもとで7世紀以降に形成されたと考えられている[21][注釈 32]
7世紀前半までに日本に伝わった仏教は百済経由であるが、百済仏教では、マントラや仏名を読誦して病気の悪鬼を除去し滅する、密教的な呪術師である咒禁師による医療が発展していた[224]。有働智奘は、放生と大祓の思想は『灌頂経』にも見られると述べている[225]。仏教伝来当時の6世紀、日本は疫病が蔓延し災害が起こる国難の状況にあり、当時の神道思想に即して、病や穢れを除去する呪術が記述された『灌頂経』が受容されたと考えられと考えられる[226]。
天武天皇が執行した大祓、放生では、唐代の玄奘訳の薬師経が大きな意味を持っており、日本の伝統的な祓の儀礼に影響を与えていたと指摘されている[17]。仏教伝来当初に日本中に疫病が蔓延したが、これは「国家が病によって穢れた」という罪であり、大祓が行われたと考えられる[226]。青木紀元は、祓や穢の起源説話であるスサノヲ神話やイザナギ神話には、疫病や災害についての説話がなく、大祓の内容には仏典が取り入れられていることを指摘し、大祓は「日本在来の穢れや祓いの行事に仏教思想が組み込まれた」ものと論じており、西田長男もこれを支持している[17]。有働智奘は、日本に薬師信仰が伝来した時期を6世紀と推定し、仏教医療の呪術を通じて広まったとしている[226]。西尾正仁は、日本で薬師信仰は7世紀半ばまでに受容されたとしている[21]。
『日本書紀』の大祓記事には薬師経の漢訳の影響が見られる[225]。青木紀元と笹生衛の神道研究によると、『日本書紀』の大祓記事は、薬師経の漢訳の隋代の達磨伧多訳『薬師瑠璃光如来本願経』(615年)と、唐代の玄奘訳『薬師瑠璃光如来本願功徳経』(650年)の影響を受けている[225]。加瀬直弥は、青木の研究によって大祓詞への薬師経の影響は明らかになっていると評価し、これを踏まえて、当時の朝廷は広範な災禍に対応する儀礼を必要としており、大祓詞の作成者たちは、「災禍の原因である罪の消滅や、罪からわざわいに至るプロセスの中断」ではなく、「災禍という結果そのものの除去」に強い関心を持って、大祓詞に薬師経における罪を組み込んだと推測している[178]。
20世紀前半以降の研究の流れ
明治末期から大正期にかけて、山本信哉、河野省三、清原貞雄らによって中臣祓の研究が行われ、昭和に入ると宮地直一の発案で、山本信哉を中心に、山本信哉・宮地直一・河野信哉によって大祓詞・中臣祓の注釈について最も多くの史料を集めた(2011年時点)『大祓詞註釈大成』が編纂され昭和10 - 16年(1935 - 41年)に出版された[227][注釈 33]。また、宮地直一や西田長男らが吉田家や吉田家に仕えた鈴鹿家の文庫調査を行い、中臣祓の関連史料も見つかった[228]。宮地直一はこれらの史料を用いて中臣祓の展開史を示し、西田長男は中臣祓を他力・自力という視点で分析し、中臣祓研究の基礎が築かれた[228]。中臣祓研究は戦後も西田長男が引き続き行い、岡田莊司らが引き継いでいる[228]。