山県昌景
日本の戦国~安土桃山時代の武将
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生涯
出自
武田氏譜代家老の飯富虎昌の弟、または、甥として生まれており、武田信虎の家臣である飯富道悦の息子とみられる飯富源四郎が昌景と同じ仮名を名乗っていることから昌景の父と考えられている[4]。
生年
昌景の生年は不明であるが、前述の飯富源四郎が昌景の父であるとすると、飯富道悦と飯富源四郎が永正12年(1515年)10月17日に西郡の国人の大井信達との合戦で死去している[5][4]ため、昌景の生年は永正12年(1515年)以前となる。
また、文化11年(1814年)に成立した地誌である『甲斐国志』では昌景の年齢について「昌景の年齢記する者なしと雖も、兄・兵部(虎昌)並びに馬場(信春)・秋山(虎繁)等に視合するに、(長篠の戦い時点で)大抵60有余なるべし」と推定している[6]。
前半生
『甲陽軍鑑』に拠れば、昌景ははじめ武田信玄の近習として仕え、続いて使番となる。『甲陽軍鑑』では晴信期の信濃侵攻における伊奈攻めにおいて初陣を果たし、神之峰城攻めで一番乗りの功名を立てたとし、天文21年(1552年)、信濃攻めの功績により騎馬150持の侍大将に抜擢される。その後も虎昌に勝るとも劣らない武者振りを発揮し、「源四郎の赴くところ敵なし」とまで言われたとしている。
昌景の確実な史料上の初見は、まだ「飯富源四郎昌景」と名乗っていた弘治2年(1556年)8月2日に信濃善光寺の住人である水科修理亮に対して武田氏から発給された信濃善光寺との往来に関する諸役免許の朱印状奏者を務めた事例である[7][8][9][10]。この昌景の働きについては永禄2年(1559年)頃にそれまで武田氏が発給した過所(通行許可証)とその発給プロセスをまとめた『分国商売之諸役免許之分』という史料に記載されているが、この史料では昌景と同じく奏者を務めた人物として駒井高白斎や跡部伊賀守といった老練な能吏たちが登場しており、昌景もそのような老練な能吏たちが務めうる仕事を担っていたことが分かる[11]。
また、この時に昌景が取次を行った水科修理亮は、武田氏に服属した信濃国衆(信濃先方衆)で信濃善光寺の別当を務める栗田氏の影響下にあった人物であり、昌景の兄または叔父にあたる飯富虎昌が武田氏の北信濃への進出に活躍して栗田氏との関係を深めていたことから、甲府における栗田氏関係の担当者として昌景が水科氏の取次を務めるように虎昌が指定し、昌景を吏僚として育てようとした信玄もそれを受け入れたと考えられている[12]。このように昌景の出発点となった事例からも、昌景は飯富虎昌を強力な後ろ盾として信玄の側近として着実にキャリアを重ねていった[12]。
永禄6年(1563年)8月3日、昌景が地頭として甲斐国山梨郡西小松郷の石宮神社に寄進して社殿を檜皮葺きに修造しており、その際の棟札に「飯富源四郎昌景」の名で記されている[13]。
永禄7年(1564年)3月7日、御室浅間神社の別当が甲府に参府し、御室浅間神社への諸納物の取り扱いについては今後は全て別当の取り扱いにしてほしい旨を信玄に訴えたことについての経過を、奉行を務める昌景が小山田信茂に伝達した[14]。この時の書状の署名が「飯富三昌景」となっていることから、この時までに「三郎兵衛尉」の官途名を名乗っている[14]。
同年7月、信玄の側近として近侍する中で軍事的才能も認められた昌景は飛騨国で上杉輝虎に味方する勢力を攻撃する軍事作戦を成功させ[12]、江馬氏や三木氏を降している[15]。
その後も順調に戦功を挙げて、譜代家老衆に列せられて300騎持の大将となったという。
義信事件と山県改姓
永禄8年(1565年)10月、信玄の嫡男である武田義信の謀反未遂が露見すると、義信の後見人のような立場にあった飯富虎昌が事件の責任を負う形で自害、あるいは処刑された(義信事件)[16][17]。この時、義信の謀反計画を信玄に報告したのは昌景とされており、前述の通り昌景と虎昌は密接な関係であったことから、虎昌から誘いを受けるなどして義信の謀反計画を知った昌景が信玄に報告したものと推測されている[18]。
虎昌を処断した信玄は飯富氏を廃絶させると共に、信玄の父・信虎の代に断絶していた山県氏の名跡を昌景に与えており、これ以後、昌景は名字を改めて山県昌景と名乗るようになった[18]。
永禄9年(1566年)8月、甲府の一蓮寺の軸屋跡の徳銭役を新しい住持が従前と同じように負担することを信玄が認めた際に昌景が奉者を務めているが、この時に「山県三郎兵衛尉」と署名していることから、この時点までに名字を改めていることが確認できる[19]。
その後も西上野侵攻における箕輪城攻略戦、駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)、甲相同盟の破綻後の相模後北条氏の戦いなどに参加したとされるが、文書上ではおもに信玄側近として諸役免許や参陣命令、寺社支配など武田氏朱印状奏者としての活動が確認されるほか、美濃国の遠山氏、三河国の徳川氏など遠方国衆や松尾小笠原氏・室賀氏・赤須氏などの信濃国衆や三枝氏・横田氏など甲斐武田家臣との取次を務めている。
永禄10年(1567年)に甘利信忠が死去した後は「職」に任じられ、裁判・検断権を管掌した[20]。
永禄11年(1568年)以降は蘆名氏との取次を務める[21]。
同年4月15日に信玄が大泉寺の方丈を造営するために門前や寺領の人足を徴用して人足たちの普請役を免除した際[22]や、同年5月7日に信玄が久保田内膳に甲斐国巨摩郡東向村50貫文と信濃国佐久郡馬洗70貫文の知行を与えた際に昌景が奉者を務めている[23]。
同年12月、武田氏と徳川氏が連携して今川領の駿河国に侵攻した際に、武田家臣の一部が駿河国の安倍山に立て籠った今川家残党と勝手に人質交換を行って和睦交渉を始めるという事件が起こった[20]。事件について知った徳川家康は、武田氏との取次を担当する酒井忠次を通じて、武田氏において徳川氏との取次を担当していた昌景に抗議した[20]。昌景は、今川氏旧臣で武田氏に降伏したばかりの武田信友、朝比奈信置、小原伊豆守ら駿河衆が手柄欲しさに暴走した事件で信玄は関与しておらず、むしろ事件に立腹していると弁明すると共に、今川家の人質となっていた酒井忠次の娘が駿河侵攻に際して甲府に送られていたため返還する旨を伝えている[注釈 1][25]。
永禄12年(1569年)に信玄が家康との約束をに反して遠江国へ侵攻する動きを見せたことで徳川氏との関係が悪化して最終的に決裂すると、信玄は駿河国支配の拠点である江尻城の城代に昌景を任じ、駿河、遠江、三河の3ヶ国の軍事統轄を委任した[注釈 2][24]。
西上作戦
元亀2年(1571年)3月9日、昌景と高坂虎綱(春日虎綱)が連名で高野山成慶院に書状を送り、成慶院が武田氏の位牌所であり、甲斐国からの参詣者の宿舎であるため、寺僧が廻国する際に案内を忘れないように求めている[26]。
なお、同年に武田氏は大規模な遠江・三河侵攻を行い、昌景は山家三方衆ら奥三河の国衆を服属させ、抵抗した菅沼定盈に対しては同年4月28日に居城の大野田城を押し潰し、菅沼定盈を退散させ、さらに吉田城を攻囲したとされるが、近年はこの元亀2年の侵攻は根拠となる文書群の年代比定が天正3年に下り、一連の経緯は長篠の戦いの前提である可能性が指摘されている[27][28]。
『当代記』によれば、元亀3年(1572年)10月、信玄が「西上作戦」を開始すると、秋山虎繁とともに別働隊を率いて信濃から三河に侵攻したという[29]。武田氏に従属した菅沼氏や奥平氏など奥三河国衆は山県の指揮下に組み込まれていたため、これらに先導させて三河東部の長篠城経由で浜松方面へ進軍する。三河八名郡の柿本城、さらに国越えをして遠江の井平城も落として南進し、浜松城を圧迫する下地作りを完了させた上で信玄本隊に合流した(仏坂の戦い)。同年12月22日には武田勢と三河の徳川家康との間で三方ヶ原の戦いが発生し、『甲陽軍鑑』では山県勢が崩れかかったところを武田勝頼が助けたとする逸話を記している[29]。
元亀4年(1573年)4月12日、信玄は信濃伊那郡駒場において死去する。『甲陽軍鑑』によれば、信玄は「わしの死を3年間秘せ。そして勝頼を補佐してくれ」、「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を託され、馬場信春とともに重鎮の筆頭として信玄の嫡子の武田勝頼を補佐することになった。
勝頼の家督相続後、天正元年(1573年)8月21日には三河長篠城(愛知県新城市)への後詰の指揮を命じられている[29]。
『明知年譜』によると、天正2年(1574年)、武田勝頼の東美濃侵攻における明知城をめぐる戰いでは、救援に来た織田信長本隊3万人に対し山県は6000人の別働隊を任され、山岳地帯の地形を利用して撃退した。戦闘では退却する信長軍を追撃して4里退かせ、信長の周囲を固めた16騎のうち9騎が打ち取られて7騎が逃げ出すなど、一時は信長を瀬戸際まで追い詰める場面もあったという。
天正2年(1574年)閏11月24日、勝頼が秤座の守隨、鈴木清三郎、鈴木与治郎、長坂善七郎の町棚に課される商売役を免除した際に昌景が奉者を務める[30]。
長篠の戦い

天正3年(1575年)、4月12日に執り行われる武田信玄の三回忌法要に先立って勝頼の命を受けた昌景は、3月6日に高野山の成慶院に参詣して信玄の位牌を奉納し、三回忌の卒塔婆を建てて信玄の供養を依頼した[31][32][3]。この頃に高野山へと参詣するためには織田領を突破する必要があるため相当に危険な行動であるが、それだけ昌景と信玄の紐帯が強かったと推測されている[33]。
高野山成慶院への参詣を終えた昌景は甲斐国には帰国せずにそのまま三河国で軍事行動を開始した武田軍の先勢に合流した[31][34]。武田軍の先勢は4月15日に足助城を包囲して城主の鱸越後守父子を降伏させ、4月19日に鱸父子を甲府へ送り、足助城には伊那の国衆である下条信氏を配備した[34]。なお、この時の戦いには昌景だけでなく山県同心衆の小菅忠元や孕石源右衛門尉らも参加している[34]。
4月12日に信玄の三回忌法要を執り行った勝頼は数日後には甲府を出陣して諏訪大社で戦勝祈願をした後、三河国設楽郡作手にて昌景や小笠原信嶺ら武田軍先勢と合流して設楽郡野田に侵攻した[34]。大野田城の普請を行っていた野田城主・菅沼定盈は武田軍先勢の接近を知ると抵抗できずと判断し城を捨てて逃亡したが、山県衆と小笠原信嶺の軍が追撃し、菅沼定盈を討ち洩らしたものの100余人を討ち取った[35]。さらに4月29日には渥美郡吉田へ進軍し、昌景、山家三方衆、小笠原信嶺らは戸田康長が守る二連木城を陥落させた[36]。
5月6日、勝頼が遠江国引佐郡渋川に対しての濫妨狼藉を禁止する禁制を出した際に、昌景が奉者を務めた[37][38]。
『甲陽軍鑑』『当代記』によれば、天正3年(1575年)5月の長篠の戦いでは馬場信春、内藤昌秀、昌景、小山田信茂、原昌胤らが撤退を進言したが、勝頼と側近の長坂光堅(釣閑斎)・跡部勝資が決戦を主張し、勝頼は決戦を決断したという[39][40]。
そして5月21日の設楽原決戦では、『甲陽軍鑑』や『長篠合戦図屏風』によれば内藤昌秀・原昌胤らと武田軍左翼の中核を担ったという[41]。『甲陽軍鑑』によれば、山県は300騎を率い、駿河の朝比奈氏、信濃の松尾小笠原氏・相木依田氏・大熊氏、三河の田峯菅沼氏・長篠菅沼氏、遠江の三浦氏・孕石氏らの国衆を相備にしていたという[42]。
『信長公記』『松平記』『大須賀記』によれば武田勢の攻勢は九ツ始め(午前11時)に始まり、左翼の山県勢が徳川軍を襲撃したという[43]。『信長公記』によれば山県勢は「一番」に攻撃を仕掛けたが敗退し、『信長公記』『松平記』によれば武田勢は未刻(午後2時頃)には退却し、山県、真田信綱ら武田勢の武将は追撃戦の最中に戦死したという[44]。享年は60歳余[6]。高野山成慶院『甲斐国供養帳』には山県の戦死時刻を「未ノ刻」と記している[45]。また、『長篠合戦図屏風』に、戦死した昌景の首級を家臣の志村又左衛門が敵に奪われない様持ち去る描写がある。
天正5年(1577年)8月23日、昌景の母が長篠で戦死した昌景と山県源左衛門の三回忌の卒塔婆を建て、高野山成慶院に供養を依頼している[3]。
『甲陽軍鑑』等における人物
武田四天王・武田二十四将
『信長公記』の長篠の戦いの部分で、討ち取った首の表の筆頭に上げられているのは、昌景の名前である。それほど彼の名は敵方にも広く知れ渡っており、武田家重臣の筆頭格であったことがわかる。武田四天王・武田二十四将の一人に数えられている。
赤備え
一般的に昌景が率いる部隊は軍装を赤一色に統一して編成した「赤備え」であったとされる。また、昌景と直接軍事的に対した徳川家康は、武田氏の滅亡後に昌景の片腕であった広瀬景房と三科形幸を井伊直政のもとに付けて「赤備え」を継承させたとされる[32]。しかし、『甲陽軍鑑』によると昌景の部隊にいた頃の広瀬郷左衛門尉と三科肥前守は赤備えの軍装をしていなかった[32]。
さらに、昌景の兄または叔父である飯富虎昌が率いる部隊は全員が「赤備え」であったが、虎昌の死後に「赤備え」は箕輪城代の浅利信種、上野国衆の小幡信真へと引き継がれており、昌景が率いた部隊が「赤備え」であったか否かは再考を要すると指摘されている[32]。
容姿
武勇に優れる昌景ではあったが、風采は冴えなかったとされている。身長は130cmから140cmの小柄で、体重も軽く、痩身で兎唇の醜男だったと言われている。しかしながら『校合雑記』では、昌景のことを次のように伝えている。
袴腰と頭との間、僅か四・五寸ならでは無き程の小男にて、不器量なれども渠を備え、立てば耳の際に雷が落ちたる如くなり。信玄家臣の中でも股肱の大将かな。戦にては信玄の小男出たりと恐怖しける程の侍大将に有りける也 — 校合雑記
安芸山県氏出身説
昌景は飯富兵部少輔の弟とされることが多いが、昌景を飯富兵部少輔の甥(姉の子)で安芸山県氏の出身とする異説が存在する。享保5年(1720年)から享保10年(1725年)頃にかけて、長州藩毛利家において藩士や寺社、町人等が所有する古文書や家譜、由緒書等を集めた史料集『閥閲録』が編纂された際に、安芸山県氏の子孫で長州藩士となっていた山県家が提出した家譜と由緒書において山県昌景との関係についての記述がある[46][47]。山県家の家譜では山県重秋の子である山県重房の事績について記された箇所で「重房の母は甲斐国の飯富兵部の姉」と記されており、家譜に続いて収録された由緒書において、山県昌景について以下の様に記している[47]。
「山縣三郎兵衛昌景は山縣重房(四位右馬助重房)の弟で、母は飯富兵部の姉である。昌景が11歳の時に継母との不和により、家にあった軍神の摩利支天像と法華普門品の文字を記した御守を隠し持って家を出奔し、安芸国から甲斐国へ赴き、叔父(母の弟)の飯富兵部を頼った。昌景は飯富兵部の弟と称して武田信玄に仕え、「飯富源四郎」と名乗った。後に「山縣三郎兵衛昌景」と名乗り、天正3年(1575年)5月21日に三河国の長篠合戦で討死した。その後、吉川家家臣の朝枝元言(平兵衛)が甲斐国に赴いて、かつて昌景が山縣家から持ち出した御守などを取り戻し、当時の山縣家当主であった兄の山縣元吉に渡した。朝枝元言は山縣元吉の弟、かつ、昌景の甥(家譜では甥の子)にあたり、吉川家家臣となって、名字を「山縣」から「朝枝」に改めた。以上は山縣家の系図に記されたことであり、山縣家に伝わる伝承でもそのように申し伝えている」[47]。
ただし、昌景が安芸山県氏の出身とする史料は先述の由緒書の他には確認できず、確実な山県昌景関係史料からは確認されない事柄である[48]。また、天保年間(1831年-1845年)の末から文久年間(1861年-1864年)にかけて長州藩が『閥閲録』では収録漏れしていた家伝文書等の追加収集を行って編纂された『閥閲録遺漏』には、永禄4年(1561年)の川中島の戦いにおいて信玄から昌景に宛てて送った書状が2通収録されている[49][50]が、「右の山縣の什書、尽く信ずるに足らざるといえども、博覧の為にこれを写し了んぬ」と注記されており、偽文書であると指摘されている[51]。
逸話

- 寛政9年(1797年)頃に成立した『甲越信戦録』に、川中島の戦いの際に昌景が上杉方の猛将である鬼小島弥太郎と一騎討ちを行った逸話が記されている[52]。その時昌景は黒糸の滋目結いの鎧と64軒の筋兜を身に着けて鹿毛の馬にまたがり、4尺3寸(約129cm)の大太刀で敵兵を斬り伏せていた[52]。一方の鬼小島弥太郎は赤皮の胴丸と烏帽子形の兜を身に着けて皆朱の柄の槍を持ち、白地に朱で「三国一」と記した指物を指して、良き武者に巡り合おうと武田軍に攻め入ったが武田軍の鉄砲で馬を失い、徒歩で駆け回っていたところで昌景に出会った[52]。互いに敵として不足はないと判断した馬上の昌景と徒歩の弥太郎は、それぞれの得物を振るって戦ったが、なかなか決着はつかなかった[52]。そのうちに信玄の嫡男の武田義信が窮地に陥るのを見た昌景は「弥太郎殿しばし待て」と制止すると、弥太郎は笑って「互いに命を限りの戦いに待てという事が有るだろうか。しかし山県[注釈 3]に卑怯未練はないだろう」と槍をゆるめた[52]。昌景が「御覧の通り、主君の御曹司の危難を救いたいため、武士の情けとしてこの勝負は免じて欲しい」と言うと、弥太郎は「主人を思うは武士の習い。許し難き所なれども、貴殿の忠節に免じてこの勝負は御縁次第」と言って去っていった[52]。昌景は心中で弥太郎について「花も実もある武士を「鬼小島」と名付けたは誰だろうか」と呟いて、そのまま武田義信の救援に向かい危難を救ったという[52]。
- 信玄の異母弟の一条信龍が昌景に対して、「山県隊はなぜそんなに強いのか」と訊ねると、「訓練も重要ですが、それだけではなく、一番大切なのは戦に臨む心がけであり、いつも初陣のように合戦に赴く覚悟で慎重に策を練り、勝てると思っても確信しない限り戦わないようにしているからです」と答えたという(翁物語)。
- 貞享2年(1685年)に飛騨高山藩金森家の儒医である角田亨庵が記した『平湯温泉記』には、昌景が飛騨国を攻めた際の平湯温泉開湯にまつわる逸話が記されている[53]。それによると、安房峠付近の合戦で多くの負傷者を出した武田軍が山中を彷徨っているうちに夜露に打たれる等して手足が痺れて歩行も覚束なくなったところに、一匹の白い老猿が温泉に飛び込んで元気になったのを見て、武田軍の将兵もその温泉に入って回復した[54]。そのことが京にも広く伝わり、平湯温泉の名が広く知られるようになったという[54]。
- 長篠の戦いでは銃弾で両腕を撃ち抜かれると采配を放すまいと口に咥え、討死するその時まで采配を咥えて放さなかったという。