洞ヶ峠
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| 洞ヶ峠 | |
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洞ヶ峠、大阪府側より | |
| 所在地 | 京都府八幡市・大阪府枚方市 |
| 座標 | 北緯34度51分2秒 東経135度42分12秒 / 北緯34.85056度 東経135.70333度座標: 北緯34度51分2秒 東経135度42分12秒 / 北緯34.85056度 東経135.70333度 |
| 標高 | 59 m |
| 通過路 |
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洞ヶ峠(ほらがとうげ)は、京都府八幡市八幡南山 と 大阪府枚方市高野道・長尾峠町の境にある峠。かつては東高野街道の中継地であり、現在はその少し東を国道1号(枚方バイパス、京阪国道)が通っており、峠のすぐ北に八幡洞ヶ峠交差点(山手幹線の交点)がある。峠ではあるが、曲がりくねった坂道はなく、線形の良い勾配の緩やかな4車線道路である。
天正10年(1582年)、本能寺の変の直後に主君織田信長を討った明智光秀の軍と信長の重臣羽柴秀吉の軍が山城国山崎において激突した(山崎の戦い)。この時、北に居る明智・西に居る羽柴の双方から加勢を依頼された大和の大名筒井順慶は、一度は明智側に従って山崎の南方にある洞ヶ峠まで兵を進めながらも、最終的にはどちらに付くか日和見をしたとの伝説がある。これにちなみ、日和見することを洞ヶ峠あるいは洞ヶ峠を決め込むと表現することがある。
しかし、筒井順慶が洞ヶ峠に布陣したことについて、良質の史料では全く確認することができない[1]。『太閤記』のような俗書においても光秀が布陣して順慶を待ったと書かれている。
順慶が洞ヶ峠に布陣したとする史料に『増補筒井家記』があり、順慶が島左近の勧めで洞ヶ峠に布陣したと書かれているが[1]、この本は誤謬が多い悪本である[2]。しかし、順慶の態度を表現した、日和見順慶という言葉は相当古くからあったようである[2]。
現況
参考文献
高柳光寿『明智光秀』吉川弘文館、1958年