矢田 (大阪市)

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矢田
矢田駅西口 (2019年12月28日)
矢田駅西口 (2019年12月28日)
矢田の位置(大阪市内)
矢田
矢田
矢田の位置
矢田の位置(大阪府内)
矢田
矢田
矢田 (大阪府)
北緯34度36分8.28秒 東経135度31分43.43秒 / 北緯34.6023000度 東経135.5287306度 / 34.6023000; 135.5287306
日本の旗 日本
都道府県 大阪府
市町村 大阪市
東住吉区
面積
  合計 0.823138344 km2
人口
2024年(令和6年)9月30日現在)[2]
  合計 6,316人
  密度 7,700人/km2
等時帯 UTC+9 (日本標準時)
郵便番号
546-0023[3]
市外局番 06(大阪MA・1〜6丁目)
072(堺MA・7丁目)[4]
ナンバープレート なにわ
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矢田(やた)は、大阪府大阪市東住吉区町名、または、大阪市編入以前の中河内郡狭山藩後北条氏の矢田村にあたる地区名。現行行政地名は矢田一丁目から矢田七丁目。

東住吉区の南西部に位置する。東は近鉄南大阪線を境に照ヶ丘矢田住道矢田、西は長居公園東筋を境に公園南矢田、北は長居公園通を境に鷹合と接する。南は西流する大和川を越えて七丁目が南岸に及んでおり、松原市天美北天美東天美西に接する。七丁目にある阿麻美許曾神社の参道だった下高野街道大阪府道26号)が約370mにわたり松原市域に挟まれた細長い区域(回廊地帯)となっている。これは大和川付替えにより神社周辺が大和川の南岸に分断されたことによる[5]

歴史

沿革

1072年太政官牒に「矢田荘」「矢田部」が見える。

江戸時代初期には住道村、矢田部村、枯木村を形成し、1704年大和川付替え工事によって生じた砂原に城蓮寺村の住民によって開発された富田新田が加わった。枯木村は1661年に北枯木村と南枯木村に分かれたが、1727年に再び枯木村に戻った。

1868年丹北郡狭山藩後北条氏の矢田村となる。大阪府の旧幕府代官の支配地司農局が設置される。その後は明治維新により地粗改正が行われ、丹北郡狭山藩矢田村は廃止。

1889年町村制施行により、住道村、富田新田、矢田部村、枯木村が合併して矢田村が発足。1896年の統廃合により所属郡が丹北郡から中河内郡に変更された。1950年大字住道の東部に外沼町、河原田町、脇田町、大森町、平松町、東浦町、垣外町、笠松町、今池町、灰崎町が起立した。

1955年の大阪市第3次市域拡張により、大阪市東住吉区に編入され、矢田を冠した14町となった。1964年に矢田住道町の大半が矢田住道町1 - 8丁目となり、矢田矢田部町の大半が矢田矢田部町本通1 - 7丁目、矢田矢田部町中通1 - 7丁目、、矢田矢田部町西通1 - 7丁目となった。

1980年に矢田住道町、矢田富田町、矢田矢田部町本通1 - 7丁目、矢田矢田部町中通1 - 7丁目、矢田矢田部町西通1 - 7丁目、矢田枯木町の各一部が矢田1 - 7丁目となった[6]。遅れて、現在の矢田各町となる。

矢田部落

被差別部落の矢田地区は1955年に矢田村が大阪市に編入される以前は大阪府中河内郡矢田村に属し、大字を富田と称していた[7]

矢田部落は江戸時代の中ごろ、1704年に行われた大和川付替え工事によって水没した城蓮寺村領内、枯木村支配のかわたと呼ばれる被差別民が新大和川で断ちきられ干あがった西除川の河床(富田新田)を代替地として与えられ、移住させられてできたものである[8]。農地として適さない荒地をかわた部落の人々は開墾していった[8]。以後富田新田は穢多村として現在は松原市天美北に当たる当時城蓮寺村の支配下に入った[8]

産業

富田新田の人々は死牛馬の処理を中心に様々な仕事についた[8]明治期の矢田部落の仕事の中心は江戸時代に引き続き、履物業と博労業だった[8]。履物業では明治前期には下駄表の製造が隆盛をきわめた[8]。明治中期になると下駄表は不振となり雪駄表がさかんとなった[8]。矢田部落の有力者の多くはその問屋だった[8]

牛馬取扱い業がいつ頃から始まったか明らかでないが、幕末期には既に近在農家を相手とした牛馬仲買の大きい専業者がいた[9]。その屠殺はこの部落で行われず、屠殺牛の多くは近くの更池部落に運ばれた[9]。博労で有力だったのは石橋、田村、村上の3家である[9]。3家のうち最も大きく伸びた田村家は矢田村の内外を合して6、7歩の田畑と数10戸の借家をもつ高利貸し的地主となった[9]

青物行商は昭和期に入るとますます増え、1932年ごろには矢田部落に2つの常設市場が造られ、青物行商人が100人近くいたという[9]。また綱貫靴や太鼓張などの皮革細工も少しは行われた[8]。「住吉屋」住田家は、先進地で生産技術を習得したものを雇入れて膠工場をはじめた[9]。「住吉屋」は明治末から大正期に栄えた[9]

共同浴場

1902年、博労地主や履物問屋に指導され、共同浴場の建設が行われた[9]。出資者の名簿は浴場前の広場に据えられている顕彰碑から知ることができる[9]。顕彰碑に刻まれているのは石橋、村上、田村、大谷、南田、大谷、山崎、今井、沢井、森野、石田、山口の12名で、「村方十二人衆」といわれ、彼らは浴場を管理し、部落会を構成する中核で、浴場の敷地は彼らの共有持株であった[9]

部落解放運動

1934年に矢田水平社が結成される[8]

矢田における戦後の部落解放運動は、1951年の「結婚差別事件」をきっかけに1952年発足した「矢田村富田青年会」によって始まる[8][10]

1954年の「硫酸事件」への取り組み、全国初の自動車運転免許証取得運動、1956年の「金属屑営業条例」反対闘争、1958年の「住宅要求期成同盟」の結成、「生業資金獲得期成同盟」の結成を経て部落解放同盟矢田支部が結成される[10]

事件

1969年矢田事件が起こる。

経済

産業

店舗・企業

事業所

2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[11]

丁目事業所数従業員数
矢田一丁目 56事業所 722人
矢田二丁目 72事業所 872人
矢田三丁目 16事業所 159人
矢田四丁目 41事業所 247人
矢田五丁目 15事業所 398人
矢田六丁目 13事業所 252人
矢田七丁目 15事業所 274人
228事業所 2,924人

世帯数と人口

2024年(令和6年)9月30日現在の世帯数と人口は以下の通りである[2]

丁目世帯数人口
矢田一丁目 943世帯 1,345人
矢田二丁目 1,266世帯 1,685人
矢田三丁目 633世帯 830人
矢田四丁目 835世帯 1,172人
矢田五丁目 138世帯 212人
矢田六丁目 448世帯 768人
矢田七丁目 222世帯 304人
4,485世帯 6,316人

人口の変遷

国勢調査による人口の推移。

1995年(平成7年) 7,453人[12]
2000年(平成12年) 7,071人[13]
2005年(平成17年) 6,814人[14]
2010年(平成22年) 6,472人[15]
2015年(平成27年) 5,822人[16]
2020年(令和2年) 6,005人[17]

世帯数の変遷

国勢調査による世帯数の推移。

1995年(平成7年) 3,832世帯[12]
2000年(平成12年) 3,829世帯[13]
2005年(平成17年) 3,815世帯[14]
2010年(平成22年) 3,770世帯[15]
2015年(平成27年) 3,294世帯[16]
2020年(令和2年) 3,513世帯[17]

学区

市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる[18]。なお、小学校・中学校入学時に学校選択制度を導入しており、通学区域以外に東住吉区の小学校・中学校から選択することも可能[19]

丁目小学校中学校
矢田一丁目全域大阪市立矢田小学校大阪市立矢田南中学校
矢田二丁目全域
矢田三丁目全域
矢田四丁目全域
矢田五丁目全域
矢田六丁目全域
矢田七丁目全域

交通

鉄道

バス

道路

施設

出身・ゆかりのある人物

政治・経済

学術

芸能

社会運動

  • 西岡智部落解放・人権研究所名誉理事) - 1958年、部落解放同盟矢田支部を結成し、初代書記長。大阪府連書記長、副委員長、中央本部執行委員、書記次長などを歴任する[28]

名所・旧跡

  • 「下高野街道土木竣工」の碑 - 矢田5丁目の戎温泉前にあったが現在、下高野街道の約400m西にある公園南矢田3丁目の矢田冨田町墓地に設置されている[29]石碑には「主唱者 村長 松田秀、地主総代 大谷弥三郎」以下4人の姓名が刻されている[30]

その他

日本郵便

市外局番

一丁目から六丁目はその他大阪市内同様に大阪MA06(市内局番は4200 - 4999、6100 - 6999、7100 - 7989)であるが、大和川以南の七丁目は、松原市と同じMAに属しており072(市内局番は200 - 299、310 - 379)となる。同様の事例は同じく大和川以南の平野区長吉川辺四丁目にも見られる。

脚注

参考文献

関連項目

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