北船場

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大阪取引所

北船場(きたせんば)は大阪市中央区船場地域北部の汎称地名である。本町通を境に北側が「北船場」、南側が「南船場」となり、北・南船場間の地域は中船場とも通称される[1]

町並み

北船場地域の地図(『大阪圖(元祿十六年)』)
北船場地域の地図
(『大阪圖(元祿十六年)』)

江戸時代北船場に相当する地域は大坂三郷北組に属し、明治2年5月4日に東西南北の四大組が出来ると東大組に属した。同8年4月に大区小区制が施行されると第一大区に、同12年2月には大阪市東区に属した[2]

北船場の範囲は『大阪市史』では、東西横堀川間久宝寺町以北、とあり、明治44年発行の『大阪市地理指導』では、北浜・大川町・今橋高麗橋伏見町道修町平野町となっている[3][4]

(※ 以下、本項では北浜から平野町までを北船場として記述する。)

土佐堀川沿いの風景

北船場には富有商人が多く、北脇ともいわれた。船場の東北端の一部は築地といわれ、大川べりに数軒の宿屋料理屋があった。浪花の納涼は大川であり、天神橋下流、難波橋までの中間は中洲といって納涼船が雲のように集まり、大家形船・小家形船・通い舟が西横堀川東横堀川蜆川からよってきたという。築地はまさにその中心であり、楼上の絃歌は終夜のことであった[注釈 1]。付近には路地のような道が縦横で、屋形らしい軒が並び、細い葭屋橋が東に斜めに架かっていた。また蟹島には遊女町があり、船場としては風変わりの一郭であった。外北浜は大川沿いの浜通、内北浜は過書町[注釈 2]といい、会所町と転訛されることもあった。その西側は梶木町で、升屋平右衛門や千草屋平瀬露香の邸宅があった。今橋通には天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の邸宅が両角にあって、十兵衛横町と称された。今橋通り堺筋西南角より浮世小路までには紙屋治兵衛の古風な屋敷があった。この家は鉄製の堅固な捻金数本で大屋根の下から小屋根を吊っており、浪花市中の一奇物として捻金の紙治と呼ばれた。鴻池家も今橋通にあり、長々とした格子造りの邸宅であった。また今橋・高麗橋・内北浜は長者町と称された。浮世小路は船板塀に見越の松、昼間にも爪弾きの音が聞こえるという情調があり、四、五尺の狭路の左右に大下水が流れていた。高麗橋筋は三井越後屋をはじめ、呉服屋の並ぶ繁華の地であった。伏見町は唐物商・道修町は薬種商の町で、かつては平野町にも薬問屋があった[注釈 3]。明治時代に平野町の朝日新聞の上野邸になった所が、両替商炭彦(白山、炭屋彦五郎)のあった所である。堺筋角には殿村の別家米喜石崎喜兵衛の店があり、屋根に城があった。平野町は北船場一帯の家庭用品の提供場であり、御霊神社付近には飲食店が多かった[8]

歴史

北浜

大阪株式取引所

大阪株式取引所

明治11年4月大阪財界の有力者が相会して株式取引所の設立について協議し、ついで株式取引所条例に基づいて五代友厚鴻池善右衛門三井元之助住友吉左衛門山口吉郎兵衛などを発起人として出願し、6月17日をもって認許された。8月15日大阪府下第一大区4小区北浜二丁目11番地において大阪株式取引所が開業し、中山信彬が初代頭取であった。開業当時の売買物件は秩禄公債、新公債及び旧公債の三種で、間もなく金禄公債も売買された。その中金禄・秩禄の二公債の売買が最も盛んであった。明治12年10月より銀貨の取引を開始したが、紙幣の増発のため金紙の開きが大きくなり、金銀相場が著しく変動した。そこで人気は国債を去って金銀貨の売買に向った。しかしやがて兌換制度が確立され、同19年1月金銀貨取引は法律をもって禁止された。株式の取引は明治12年1月に開始したが、初めは当取引所のみであった。その後数種の株式が上場されたが、極めて不振で毎日の立会すらなかった。取引所株式売買が旺盛になるのは明治19年頃からで、まず大阪商船株の外に山陽関西鉄道株が商内あきなわれ、紡績株はまだ微々たるものであった。頭取の名称から明治26年10月株式会社取引所条例の改正で、理事長となった磯野小右衛門は献身的努力をもって取引所の発展に資し、その功績は永らく取引所の北門前の角に羽織銅像となって表頌されていた。取引所の建物は当初まだ会所といわれ、黒門板掲示板などがあったが、明治27年2月から着手して11月に落成した建坪93坪は北浜街最初の洋館であった。その後、株式の取引が旺盛となったので、市場増築の議がおこり、明治31年12月に落成し、翌32年1月4日、初相場から新市場で行った。ここで昭和7年10月まで立会がなされた。また明治41年には立会場も改築され、同44年には当時としては立派な赤煉瓦造りの事務所が建った[9][10][11]

北浜の株式仲買人

加島安治郎商店営業所

株式仲買人として取引所の創立の時に開業したのは北野平右衛門ほか81名で、往時金相場に関係した両替屋が多く看板をぬりかえた。そのため店舗の構造も旧両替商の名残をとどめて格子造りの外に用水桶があり、入口には黒麻の暖簾を吊し、店内は敷の上段に結界をめぐらしたを前に手代番頭が控えるという仕末であった。注文先といっても市内の物持が大部分で、一般者を相手にはせず、主人や手代がその日の相場表を携えて注文をうけてまわった。しかし幾多の変遷、新陳代謝を経て日清戦争後から業務を刷新拡張するようになったのである。北浜街で株式取引員(もとは仲買人)の店舗ではじめて洋館になったのは梅原亀七商店で、明治38年二階建白亜館として出来た。これは当時の北浜街に一異彩を放ったが、その他も次第に土間造りの店になってきた。梅原家は元来大阪で有名な本屋出版元であったが、梅原亀七は北浜に出て成功し、明治42年当時の金で50万円という資本金で北浜三丁目に三層楼の帝国新聞社(後の大阪日日新聞社)を創立し、また同じ三丁目に総造りの梅原御殿を建設した。旧両替屋は明治維新後次第にその存在の意味を失ったが、それで銀行業になったり、倉庫その他の事業を興し、古金銀の両替商を兼営したり、貴金属商になったりしたが、株式仲買人になった者も多い。黒川家などはその一人であって、黒川幸七徳川家御用、諸の掛屋であった。米屋喜兵(石崎)の一族として、本両替であった。北浜仲買人の店舗と居宅は概ね別々の所にあったが、また店と同一の場所にあるものもあった。例えば江口孫兵衛は功名をとげてからもずっと北浜一丁目に住んでいた。そして毎朝未明起床、近所の道路上を清掃したという。株屋は少々北浜から離れた場所で営業していても、次第に北浜に近づいて居を占めた。例えば竹原友三郎島之内屋に丁稚奉公し、後に平野町心斎橋筋北入る東側に家を見つけて、銭両替と株券の売買をなした。次第に成長して所謂竹原長者となるに及んで、平野町から北浜へ一歩近づいた今橋堺筋角へ店舗を、内北浜堺筋西入るに自邸を移した。かつては大阪北浜付近が日本一時価の高い場所であったという。明治の末から次第に店舗もかわり、北浜仲買人の半数以上はかつて店頭にぶら下がっていた「のれん」の代わりにドア、銀行台、簿記台といった近代装備にかわってきた。梅原商店を初め洋館が次第に建つようになった。難波橋はまだ、現在の場所の一町ほど西にかかっており、大川にはしじみ取りの小が浮かんでいた。堂島川土佐堀川とに分かれる中州の突端を剣先といい、そこから西へ銀行協会、大阪ホテル、豊國神社、旧公会堂がならんでいた。しかし大正期になるとこの辺りの景観もかわり、大阪市中央公会堂が大正7年に出来、松井伊助の建てた難波橋南詰の北浜ビルディングが大正10年に出現するなど段々近代調になっていった[12]

難波橋

難波橋

難波橋は明治18年の大洪水の後、土佐堀川の部分が同19年4月に架かり、しばらくたった同34年5月に北側の堂島川に架かる部分が竣工した。そして中之島の東端を挟んで初めて相対するようになった。その後市電の開通によって難波橋も架けかえられることになり、大正4年5月大林組の手によって、橋頭に巨大な獅子の像を配する橋に架けかわった。大阪近代を代表する橋となったが、元来行基が架設したといわれる位に旧いこの橋が最も近代調をうたわれたのである。北浜の近代調に相呼応するかのように株式取引所も昭和10年に改築、竣工した[13][14]

北浜の町並み

赤松麟作《難波橋》(『大阪三十六景』金尾文淵堂 1947年)

淀川に面した北浜の語源は、淀川を前にして店が皆北に向いていたことによる。金相場会所[注釈 4]、株式取引所、証券取引所の場所から東行する北浜一丁目の上端である大川の東横堀川を分派とする三角州を古くは蟹島新地といい、普通には築地といった[注釈 5]。天明3年に出来た新地である。古くは小丘をなして山の鼻といった。この地は眺望に富んでいたので、いつの頃からか紅楼翠閣の連る地となり、妓女は客を迎え、糸竹の音が淀川の流れに響いたという。かつてあった専崎楼には伊藤博文が、花外楼には木戸孝允が宿泊していた。花外楼はもと加賀屋伊助といって初代は日本橋で商売をしていたが、加賀屋伊助の代に料亭を初め、加賀屋伊助を縮めて加賀伊と称した。楼名はなかったが、木戸孝允が宿泊した際、花外楼の三字を書いて与えてから楼名となった。明治7年の暮、大久保利通が来阪し、北通一丁目の五代友厚邸に投じた。そして木戸孝允は花外楼に、伊藤博文は専崎楼に宿した。有名な「大阪会議」は即ちこの三人の宿舎及び三橋楼の間で行われた。三橋楼は石町一丁目、ニコライ会堂のあった所にあった旅亭で、天満橋天神橋京橋の三橋を眺望し得る勝地になるために名付けたものである。明治憲法ができる発端ともいえる会議を大阪に開催させ、斡旋した五代友厚の政治力は極めて大きいものであった。築地には多景色楼・紙政楼(後、金仁楼)・大喜楼・泉亀楼(後、金水楼)・天保屋(後、相原楼)・坂本屋などの旅館料理屋が明治10年頃まであり、また浜側には伊賀喜楼・船重楼・明石屋などの料亭や、丸山亭、旭日亭の町芸者置屋があって、明治25年頃まで経営していた。多景色楼はその築地の尖端にあったもので、電車道路によって築地も横断されてしまった。その狭い路地の内には待合もあって一種特別な雰囲気を醸していた。浅黄の暖簾に紋を染め抜いた盆屋である。更に北浜二丁目にのびて名声屋・吾妻屋などの芸妓屋もあって、浜には網彦という生け簀、船屋形の料亭があり、船場としては珍しい歓楽境であった。夏季には多数の遊船が賑わいをなし、大川の中洲は満潮時には水にかくれ、干潮時には蘆荻の茂みをあらわし、情趣があった。しかし明治42年の北区の大火以来まず納涼船が姿をひそめ、同44年に市電が開通して、その特徴を失って北浜株屋街の一部になった[17][18]

俵物会所

灘万北浜本店

難波橋はかつて北浜二丁目から北区樋の上町(現・西天満一丁目)に通じる所に架かっており、堺筋の土佐堀川には橋がなかった。しかし市電の開通により一つ上手の長堀橋筋(堺筋)より対岸に向けて架けられるようになった。北浜二丁目、堺筋を隔てて西側に俵物会所があった。江戸時代長崎貿易は元来金銀を輸出して舶来品を買ったものであるが、金銀の流出が甚だしくなるのを防ぐため、貿易額や船数を減らしたりするが、別に決済にをあてることにした。この銅を扱う銅座が大阪の過書町(北浜)にあり、各地の銅は大阪に集中し、吹分けられて棹銅にして長崎に運ばれた。住友家の業務はこの銅の吹分けをした所にある。この点からもまた大阪が江戸時代の貿易の重要な場所であったことが判る。また長崎の決済に清国向けの俵物(ナマコアワビフカヒレ)をもってした。各地から供出させ、それを大阪にあった俵物会所に集め、長崎に送ったのである。即ち天文4年に俵物買入役を設け、延享元年には俵物一手請方なる株仲間的な請負人団を設定した。俵物一手請方のものは長崎と大阪とに俵物会所を設け、その他の要地には指定の問屋をおいて買集めを行わせた。このようにして一手諸方商人以外の俵物の売買は禁ぜられていた。幕府は一手諸方商人に対して貸渡銀を貸与し、彼等はこれをもって沿海の漁民に貸し付け、俵物の増産と回収とをはかった。しかし俵物の買集めは円滑にはいかず、天明4年には請負人の名は存するも直仕入同様なものになった。ついで天明5年には俵物諸方なる特権商人を廃止し、長崎会所直買入に申し付けたのである。これより俵物会所は俵物方役所、俵物役所と唱えられるようになり、長崎・大阪・下関・江戸・松前にその買集めの中心があった。就中大阪のものは重要であって、大阪は俵物集散の中心市場でもあった。ナマコ・アワビ・フカヒレは装しているために「俵物」の称があったが、別に昆布鶏冠茯苓寒天五倍子樟脳・干海老・いたら椎茸・和人参鰹節などを「諸色」といい、俵物に準じて取引された。北前・松前からの西廻り航路によって大阪が栄えたが、その重要な輸送品中にこの俵物・諸色があったのである。俵物の買集め輸送に、近江商人北前船頭が活躍した。こうして大阪は俵物の集散地となり、大阪が松前昆布を名物にしている所以はこうした歴史的事情に由来している。大阪は元来昆布の産地ではないが、その集散地・加工場であり、このような背景から山崎豊子小説『暖簾』が生まれた。灘萬の主人灘屋萬助は俵物会所に勤務し、維新後長崎の卓袱料理を基にする大阪料理を創めたが、今橋五丁目(現・今橋四丁目)に大正年代に移り、分家の蒲鉾店は北浜二丁目、かつての俵物会所の地に位置していた[19][20][21]

栴檀木橋

栴檀木橋

栴檀木橋筋(三休橋筋)は従来は間の筋で、小店つづきの狭い路だった。橋名の由来は、橋詰に往古栴檀の巨木があり、神功皇后御還の時、船をつないだという伝説による。この辺を過書町とよび、蔵屋敷は多く中之島に位置していて、船場には割合に少なかったが、栴檀木橋の南詰に彦根藩南部藩の蔵屋敷が並んでいた。蔵屋敷は北浜ではこの二つと大川町に伊予吉田藩のものがあるのみであった[22]

銅座

大阪市立愛珠幼稚園
銅座趾の碑

淀屋橋南詰付近は八軒屋についで三十石船の発着地で、そのためこの辺りを過書町といった。栴檀木橋の南詰西側一町四角をいう。横堀一丁目(現・北浜四丁目、今橋四丁目)にはかつて頴川徳助という長崎廻船の問屋があった。この過書町の一角に銅座があったことは俵物会所とともに注目すべきである。元来、大阪が江戸時代から貿易上重要な所であったことを物語る。銅座は過書町丼池筋東南角の地で大阪市立愛珠幼稚園のある北浜三丁目に比定される。銅座は銅の精煉及び売買を扱った所であり、銅は長崎貿易における重要輸出品の一つであって、大阪の銅商が仲間をつくって精煉、売買を許されていたのである。後、金銀流出防止のため銅が貿易決済手段として重要視されるに及び、幕府はその蒐集のため、元禄14年大阪銅座をして諸国の銅を買い集めて長崎に送らせ、元文3年に銅座加役として銅座が置かれた。この銅座は寛延3年に廃されたが、明和3年に改めて銅座となった。銅座は勘定奉行長崎奉行大阪町奉行の支配下にあり、諸国銅山より出る荒銅を大阪の問屋を通じて悉く買上げ、銅吹屋仲間をして精煉せしめて、棹銅として長崎に廻送し、その残余を民間に払下げるにあった。大阪の銅吹屋中最も有力なものが住友家である。市中の銅商はこの銅座に集まって銅の価格を定め、門外に時の相場を記した札を掲示した。また長崎より役人が来た時はここに泊った。オランダ商館長が江戸参勤する時にも大阪通過の時はここを宿所とした。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトもここに泊まり、東西町奉行所や住友の銅吹所を訪ねている[23]

加賀文

長崎本商人から荷請する唐物屋は伏見町(栴檀木橋筋より心斎橋筋に至る間)、唐薬種問屋は道修町に集まっていた。唐物問屋が伏見町に多かった理由は、天正年間加賀国金沢出身の斎藤九右衛門が大阪へ来て、豊臣秀吉の使用する唐物などを取扱い、寵用され伏見町の一廊に屋敷を賜い、出身地にちなんで加賀屋という屋号で唐物を取扱う特権を与えられた。この分家もまたこの地に居住し、後には同族でない者も加賀屋の屋号を名乗りこの地に移住して来た。この一統から五軒問屋ができ、長崎本商人から唐巻物、反物を引き受けて取り扱ったのである。延享5年3月、唐巻物、反物問屋として加賀屋与兵衛・加賀屋四郎兵衛・同七郎兵衛・同庄五郎・炭屋作兵衛の名が見える。その中炭屋を除いては加賀屋一統のものだった。加賀屋一統の岩井文助商店創業者、岩井文助は12歳の頃、浄覚町(現・安土町三丁目)の舶来雑貨商加賀屋(井田氏)徳兵衛方に奉公し、18歳の時一時帰郷したが、再び大阪に戻り文久2年に21歳で独立して京町堀通羽子板橋東入北側に一戸を借り受け、雑貨類の売買仲介業を開始した。文助の名は加賀屋に奉公の当時主人より与えられたものである。後、隠居して文平と改めたが、後また文助に復した。明治10年に南久太郎町四丁目(現・久太郎町三丁目)心斎橋筋にて舶来雑貨・硝子毛糸石油洋酒煙草燐寸薬品の店を開き、舶来物問屋を始めた。二代目勝次郎の代には北浜四丁目43番地に洋館建ての本店を新築し、大正元年12月株式会社となった[24]

西洋料理その他

松岡病院(左)凮月堂大阪支店(右)

北浜には西洋料理が早くから現れた。栴檀木橋の南詰西側に「アラスカ」の西洋料理店があり、高級洋食店として特異の存在であった。大正・昭和期の大阪の一名物であった。「中央亭」は大正2年の創業当初は北浜一丁目にあり、備後町二丁目を経て南本町二丁目に移った。大阪の西洋料理は割合に遅れ、西区本田三番丁に開店した「欧風亭」が初の洋食店で後に梅本町に移り、名を「自由亭」と改め、明治14年に中之島に進出して「大阪クラブホテル」と称した。その後船場では北浜の浪花亭、大川町の天伍楼、瓦町の末広亭、北浜の萬歳軒が出来たが、日露戦争後、洋食屋らしいものがやや多くなり、船場では淡路町に改進亭が出来た。大正期になると北浜に凮月堂・野田屋が現れ、アラスカも開店した。北浜の浜側の天伍楼は早くから本当の洋食を提供した所で当時は川口の古川クラブと天伍楼しかなかったという。難波橋筋北浜を南下した所に竹水亭という問屋があり、北海道から氷を引いて、夏だけ氷店を出し、所謂玉製のアイスクリンを販売していた。北浜三丁目の浜側栴檀木橋の南詰に松岡病院の洋風建築があった。日露戦争後写真撮影が流行し、ここにアマチュア写真家として有名だった光村利藻がいた。名妓の写真をものしたもので、南地富田屋の八千代が全国津々浦々もてはやされたのは、この光村の道楽のおかげであったという[25]

淀屋の跡と北浜の米市

淀屋の碑

淀屋橋筋(御堂筋)は明治中頃までは名物の莨入屋たばこいれやを始めとして、淀屋橋から平野町までは洋反物・羅紗屋などが軒をつらねていたが、いつしか洋反物は御堂筋へ、羅紗屋は淡路町へ移っていった。淀屋橋は始め名前がなく、単に「淀屋が架けた橋」と唱えていたが、後に「淀屋の橋」となり、遂に淀屋橋と略称するに至った。淀屋の宅地は心斎橋筋の辺より西、肥後橋までの中と推定される。しかし後に堂島の初相場をたてたのは淀屋橋南詰の西の地であるからはっきりしないが、仲仕が肥後橋辺に集まったので肥後橋より東に推定される。また淀屋小路の地名があり、これは淀屋の裏口というが、邸内の中の小路とも想定される。一説には淀屋の表は北浜(大川町)、裏は梶木町(北浜四丁目)、東は心斎橋筋から西は御霊筋に至り、惣構え百間四方であったという。淀屋橋は淀屋の門前に市をなす所謂淀屋米市の便利のために自費で架け諸人の便をはかったものであるが、享保15年に堂島米市になってからも初相場だけは必ず淀屋橋南詰で立てるのが慣例となった[注釈 6]。淀屋の盛時にその店先に多数の米商人が集まって盛んに米の売買を行ったのを記念したものである。堂島の米市の前身北浜の米市については井原西鶴が『日本永代蔵』巻一「浪風静に神通丸」の章で描写している[27][28]

淀屋橋

淀屋橋

宝永6年の『公私便覧』によると昔の淀屋橋南詰の町名は、南は大川町、北は上中ノ島とある。また淀屋橋筋は南詰から南へ淡路町で突当たっていた。これが明暦3年の古版地図では、一丁半前の平野町までを称し、淀屋橋の架かる土佐堀川には東西共に橋があったが、現在の堂島川にある大江橋渡辺橋玉江橋も架かっていない。これは元禄元年に堂島新地の完成後に架けられたものである。明治18年の大洪水で天神橋・天満橋が流され、この時まで淀屋橋は北詰に島原藩の蔵屋敷があり突当たりとなっていた。大江橋と一筋になったのはその後である。淀屋橋畔には有名な皮煙草入が名物としてあり、本家などの看板をあげる店が数軒もあった[注釈 7]。明治31年の『大阪繁昌誌』によると寺谷・田辺・井上・駒井・楠山・岸本・植村・吉田・鍵屋などの煙草入屋が並んでいたが、大正期には橋詰にただ一軒鍵五が名残を留めているにすぎなかった。淀屋橋仕立てといって、四ツ橋煙管と対照的であった。これは他国から大阪へ来た旅客が家土産に求めたもので、明治の初期までこの付近が船着場であったためである。『摂陽奇観』にも「淀屋橋の浜は金比羅参詣の渡海船或は明石の通船の乗場にして旅籠多く立ちつらなり、昼夜共に頗る賑はし」とある。御堂筋の道路拡築事業は大正15年から昭和12年5月に完成し、煙草入れ道具屋や小間物店が並んでいて狭隘であった御堂筋は大阪随一のメインストリートとなった。それと共に淀屋橋も鉄筋コンクリートの構造をもって改築され、昭和10年5月に完成した。水野利八を創始者とするスポーツ用品店ミヅノは大正の始めから有名となり、大正14年にラジオ放送JOBKが始まると、店頭に大きなラッパ状のスピーカーを設け、通行人にラジオを聞かせた。昭和2年に淀屋橋南詰にビルを新築しスポーツ用品のデパートとして貿易面においても好調を続けた[30][31]

大川町

現在の北浜四丁目にあたる大川町は、かつて船着場としての面影が残っており、明治大正期にも宿屋が軒を並べていた。特にそこは四国航路の船着場で、例年6月17日には御霊神社神輿がこの浜から乗船して御旅所に渡御した。古くは拾三人町及び浜四丁目の町名であった。大川町西部に吉田藩の蔵屋敷、尊光寺があった。加島屋長田作兵衛の店もこの大川町にあった。西国橋を挟んで西詰に加島屋広岡久右衛門の店があり、東詰に長田家があった。船町(現・江戸堀一丁目)には加島屋作五郎のかじ作五という分家があった。この家は十人両替にもなり、堂島米切手入替両替五軒之内でもあった。長田作兵衛家は長州中津藩その他の掛け屋・蔵元であった。しかし加島作は維新にさいし没落してしまった。鴻池屋与三吉の店も大川町にあった。日本銀行大阪支店は当初、今橋五丁目(現・今橋四丁目)、現在の大阪倶楽部の土地に建てられ(当地は後に松岡病院、帝国商業銀行大阪支店が建ち、大正2年に大林組の手によって大阪倶楽部が建てられた。)明治17年6月に大川町、同36年1月に中之島に移り、大川町の跡地に住友ビルディングが建てられた。加島作のあった大川町魚の棚筋東入るに大阪毎日新聞社があった。大阪毎日新聞は明治21年11月休刊中の『大阪日報』を復活改題したもので、大阪日報本社は当初今橋2丁目1番地にあり、後に高麗橋2丁目15番地に移った。毎日新聞はこれを継承し、明治22年6月に株式会社となり、大川町55番地、元大阪簿記学校の所在地を買収して木造新館を建設し、同30年10月に洋館建ての新社屋が建てられた。なおこの頃の社長は原敬であった。大正11年3月に堂島に移転した[32][33]

住友家

今橋時代の住友銀行本店(左)住友ビルディング(右)

北浜四丁目、昔の梶木町に建つ住友ビルディングは大正15年に第一期、昭和5年に第二期を完成したものであるが、明治41年以来ここに本店と銀行があった。新ビルディング完成によって旧社屋は関西大学千里山学舎の図書館となった。住友家は江戸時代においても金融業を行っていたが、明治維新により一旦中止し、明治6年に並合業を富島町で始めた。倉庫へ商品の寄託を以来するものが段々おこり、この寄託商品を担保にして金融を以来するものがあり、そこで倉敷収入と利息収入を兼ねた業務を営むようになった。これを並合業といった。江戸時代、両替屋が町人に金融する場合、貸借に担保を入れるのと入れないのがあり、後者を素銀といい、前者を並合といった。住友家の並合業は銅山の発展につれて盛大になり、本店だけでなく支店でもこれを営み、他の大阪の諸銀行に比して遜色のないものになったが、当時の住友総理広瀬宰平産業重点主義で銀行を好まなかったので、銀行にまで発展しなかった。住友が個人銀行として発足したのは広瀬の引退の翌年明治28年10月の事である。この開業は富島町ではなく中之島五丁目であった。ところが同34年9月に中之島から今橋四丁目(現・今橋三丁目)に移った。中之島よりも商業の中心船場に進出する必要があったからであるが、その社屋は日本生命の赤煉瓦建ての借家ずまいであった。しかし同41年11月には日本銀行大阪支店跡地の北浜五丁目(現・北浜四丁目)に移り、大川町の一角と隣地約千坪を買収して同38年に起工、同41年に移った[34]

大川町・西横堀の町並み

大川町(土佐堀川)遊歩道
林市蔵の像

西横堀川沿いの町を七郎右衛門町といったが、由来は開鑿者の木屋七郎右衛門にちなむ。これを七郎右衛門町一丁目及び二丁目に分け、明治5年3月からは横堀一丁目(土佐堀通~高麗橋通)・二丁目(高麗橋通~平野町通)となった。木屋七郎右衛門(永瀬氏)は西横堀にて材木商を営み、寛永4年以来大阪の惣年寄の一人に選ばれている。かつては柴藤の川魚料理も大川町の浜にあり、明治大正期には北川旅館や吾妻楼、花月楼があり、町芸者がこの辺にもいて清風楼という置屋があった。置屋と妓方を兼ねたような家が多く、新内ながし、声色屋の行き来もあって、廓内の風景とあまり変わらず、盆屋もあった。淀屋橋南詰に江戸安という牛肉店があり、北詰には江戸留があった。旅館が建ち並んでいた大川町は昭和11年6月川口町~淀屋橋の土佐堀南岸線の開通と共に道幅が拡張され、浜側の家々は取り払われて芝生地帯となり、これに樹木が配置されて快適な遊歩道(土佐堀川遊歩道・大川町遊歩道)となり、都市美は増進された。淀屋橋の西より、土佐堀川のほとりに愛の女神と共に羽織袴の座像がある。この記念像は「民政委員の父」として知られる第16第大阪府知事林市蔵の像である。林市蔵は大正7年府知事時代に救済事業として全国初の方面委員制度を作り、やがて民政委員に発展、全国的な社会救済の制度に発展した。林市蔵は理髪店椅子の上でこの制度を思い付いたといわれ、この銅像はその姿を示している[35][36]

藤本ビルブローカー銀行・北浜銀行

藤本ビルブローカー銀行
北浜銀行

藤本ビルブローカー銀行は明治41年3月北浜五丁目(現・北浜四丁目)に開業した。この銀行も同42年大日本製糖会社の破綻の累を蒙って動揺したが、藤本清兵衛が退き平賀敏取締役会長に選挙し、翌43年8月1日より営業を再開するに至った。藤本清兵衛は大阪の米商中屈指のもので、藤本商店は北区安治川一丁目(現・野田一丁目)、大阪市中央卸売市場本場の川下にあった。店は土蔵が八戸前もあり、の中の空き地で盆踊りが催されたほどの大きな屋敷であった。藤本清兵衛の出身は丹波国川勝氏で藤本家に養子に入り、綿布業界の名門八木与三郎の叔父にあたる。藤本商店は明治中期において、米の海外輸出をはじめ、政府の備荒貯蓄米をも取扱い、東京三井三菱大倉を向こうに回して関西における御用商人の尤もなるものであった。二代目藤本清兵衛は明治29年に藤本銀行を創立し、横堀一丁目に店を張り、北浜堂島の間に多くの取引先をもった。福島紡績(敷島紡績)の社長となり、大日本製糖・大阪生命・大電・大株・日本貯蓄の重役を兼ねた。明治35年5月藤本ビルブローカーの経営を初めた。はじめ営業所は藤本銀行の一室にあったが、同39年には個人経営を株式組織にして、横堀一丁目に本店をおいたのが日本におけるビルブローカー業の嚆矢であった。明治41年には藤本ビルブローカー銀行として上記のように北浜五丁目に進出した。昭和7年に藤本ビルブローカー証券と変更し、昭和18年に島徳蔵日本信託銀行と合併して大和証券に改められた。大阪の証券界には岩本栄之助・松井伊助・井上徳三郎・栗生武右衛門など紀州出身の人が多い。いずれも紀之國屋文左衛門の気風をついで、胆斗のごとき度胸者揃いである。北浜銀行は北浜二丁目にあった。同行は明治30年に普通銀行として開店し、明治34年に一度取付けにあって波紋を描いたが、大正3年に北浜銀行事件を起こすに至った。同行は岩下清周を頭取として派手な活躍をしていた。昭和の大阪財界で今太閤といわれた小林一三の師匠格であり、その先駆者にあたる人物が岩下清周である。経営する北浜銀行の融資で、信貴生駒電鉄近鉄生駒線)を発展させ、生駒山トンネルを掘り、広軌線路を敷く大計画をたてた。阪堺電鉄箕面有馬電気軌道広島電鉄その他各種の事業に関係し、思いきった計画で世人を驚かせた。一般銀行屋の逡巡するものでも、将来を見通して是と信ずるものは助けた。従って多少の失敗にも頓着せず、それ故新進気鋭の連中は悉く馳せ参じ、勢に乗じて時の首相桂太郎に通じて遣露使節に加わってロシアを訪問した。従来から放漫な貸出をなし、欠損も少なからず、加えるに無理な配当をなし来り、その資金に大いなる欠陥を生じていた。その他岩下関係の諸事業についての風評も伝わり、新聞社の攻撃もあった。たまたま彼が助けた才賀某の電気事業の失敗が緒となり、大正3年4月18~19日の頃から本支店に対し預金の取付けが急激となり、岩下は急を日本銀行に告げて救済を求めた。そこで杉村太郎が代わって頭取となったが、結局8月には臨時休業をした。大久保利武府知事は当時の大阪財界の長老片岡直輝小山健三土居通夫永田仁助、牧野元良の諸氏に援助を懇願し、10月に高倉藤平が頭取となり、片岡及び藤田家を代表する中橋徳五郎援助の下鋭意整理に従い、種々の方法で資金を調達して漸く開業の運びに立ち至った。当時大阪株式取引所及び堂島米殻取引所は北浜銀行をその取引銀行としていたため、同行の破綻に逢って両取引所とも立会を中止する有様であった。北浜銀行は整理の完了すると共に大正8年より商号を摂陽銀行と改めた。退陣した岩下清周は全てを断念して富士山を望む高原に引退して寂しい晩年を送った。しかし彼によって起こされた事業や彼に用いられて台頭した人物は相当多く、なかでも大林芳五郎や小林一三などが著しい例である。北浜銀行の支払停止より延いてはそれと関係深い大軌電車及び大林組の整理改革となったが、大林芳五郎の活躍の本拠もまた北浜にあった。明治38年6月以降本店を北浜二丁目難破橋南詰に移し、黒漆喰塗の建物は威容を誇っていた。岩下の推挽と後援で第五回内国勧業博覧会の建築を引き受けて成功して、一挙に土建界に頭角を現したのである。彼はこの恩を忘れず、生駒トンネルなどは多数の人命と財産を失って世間から警戒されても万難を排して開通させた。島徳蔵なども岩下の恩恵を蒙った一人で、小林一三にほれて箕面有馬電軌にも手をだしている。湯川秀樹博士の岳父湯川玄洋博士が欧州留学から帰朝、大阪で開業した明治35年の秋に岩下は博士の腕と人格を信じて、敷地を今橋に購入、一切を北浜銀行が引き受けて建築したのが湯川胃腸病院で施工は大林組である。「百里先の見える人は馬鹿にされる。現状に踏みとどまる者は落伍者になる。十里先を見て実行する人が、世の成功者である」これは岩下の言葉であるが、この言葉を確実に実行したのが小林一三であったといわれる[37][38]

北洲社

明治7年北浜二丁目において寺村富栄・池田正董・馬渡俊献らによって発足した北洲社は、大阪における最初の代言代書のための結社であり、北洲は北浜の意で、北浜の文字を雅にして浜を洲に改めて北洲としたものである。北洲社は高麗橋一丁目の島田組(島田信兵衛)より出資を得、その番頭田部密の理解によって発足し発展したものであるが、後に今橋一丁目5番地の高木五兵衛(平野屋)の所有屋敷に移った。この北洲社から寺村富栄の指導下に菊池侃二が出ており、代言人となり北浜四丁目に事務所をおいた。明治14年政界に身を投じ、立憲政党を創設、明治22年衆議院議員となり、同31年には大阪府知事となった[39]

内北浜

適塾

適塾

過書町、内北浜の北浜三丁目に設けられた適塾は、八代将軍徳川吉宗洋書の禁を弛めてから、日本に蘭学が起こってきたが、蘭学興隆の道程は一は天文暦学からであり、一は医学からであった。そして天文暦学においては大阪がかえって江戸を風靡する観があった。明和年間大阪において医を生業とした麻田剛立は星学に励み、その門人に高橋作左衛門間重富の両人をのこした。重富は未だ蘭文を充分に読み得なかったので、小石元俊という医者と相談して蘭語を学ばせることにし、橋本宗吉を江戸に遊学させた。彼は帰阪後、医を生業とし、多くの有名な医学書を出し、また電気学に通じた。これ以来大阪にも和蘭学者が興隆した。こうして天保弘化の頃には緒方洪庵が出て、その名が天下に喧伝せられた[40]

平瀬家・平瀬露香

両替屋平瀬千草屋宗十郎の家は梶木町にあった。梶木町は楫の木を売る所で、過書船の船持の住んでいた過書町と共に舟運に関係をもっている。梶木町から尼崎町一丁目にかけて千宗、鴻楢、鴻市が並んでいた。千草屋は梶木町すなわち内北浜四丁目淀屋橋筋の角を引きまわした宏壮な邸宅であった。現在の御堂筋の日本生命の建物の所である。維新当時大阪の両替屋は天五、平五を初め多く倒れたが、千草屋は伊予の大洲を主として薩摩など勤王方が多かったので、鴻池、米平、加島屋と共に維持出来た。初代常有は元禄年間に大阪に出、七代目が人、風流人として有名な平瀬露香である。露香はの趣味も深く、その上徳行が多く懐徳堂台所を切り盛りさえしていたという。平瀬家は代々学者で慈善家であったために大塩平八郎の乱の際にも無事だったといわれる。慶応2年家督を相続した露香亀之助は、大阪の町人学者の最後の典型で、読書の外、国典有職の研究より茶道・能楽・俳諧・遊芸・歌謡の述作は特に得意であった。所謂世の旦那芸とは選を異にして、明治時代の町人文化の代表者と云うべき人であった。露香は第三十二国立銀行の頭取として、あるいは日本火災保険会社の社長として、また大阪貯蓄銀行の取締役として、大阪博物場長として各種事業界に名を列していたが、実際業務に当たったことはなかった。第三十二国立銀行は、明治9年一族をあげて創立したもので、自家の両替屋の営業を全てこれに移し自ら頭取となり、明治29年に浪速銀行と改称した。平瀬家では浮世小路の御霊筋を東へ入った南側に一方庵と称した控家があって、露香は殆どここで起居し、文人墨客、神官僧侶芸人、宗匠、美術家、道具屋の訪客が絶えなかった。茶道は官休庵で不昧の二流において妙域に達した。能は金剛流で、野村三治郎の教えをうけ、本宅には稽古舞台もあり、能装束も沢山揃っていて、その頃大阪での能にはこの装束を拝借しなければ出来なかったという位であった。中之島の緑品揃いで、書画、茶道具、蒔絵物、糸印、古銭、古鏡、能面、能衣装、古代更紗が宝庫に満ちていた。明治になり文明の代となっては芸妓といえども四畳半的では駄目で、芸を大衆的なものとすべきという主張から、南地に技芸道場の「女紅場」と、公演場たる「演舞場」を建て、明治21年11月第一回の「芦辺踊」が催されたが、この芦辺踊の作歌は第一回以来露香の作歌であった。露香は粋人であったけれども、決して耽溺する者ではなく、尋常の通人というのではなく、芸に入っては飽くまでその道、その人を刺戟、奨励した。文楽は勿論愛好者で、絶えず一座の人々を激励した。露香は大阪博物場長の外、日本美術協会大阪支部長に挙げられている。大阪博物場が当時大阪の一名所となって、美術工芸の逸品を集め得たのは、場長として平瀬露香と丸亀屋の主人[[[田村太兵衛]]を続いて迎えたことによるといわれる[41]

升屋平右衛門・山片蟠桃

山片蟠桃の像(兵庫県高砂市

大阪の両替屋は北浜組・梶木組・高麗橋組・久太郎町組などの二十二組に分れ、過書町・今橋・高麗橋・平野町あたりに集中していた。過書町、今橋辺には本両替のみならず、やりくり両替=米方両替も多かった。加島屋広岡久右衛門は米方両替の雄であるが、升屋平右衛門もまた米方両替であり、米方年行司をやっていた。当時両替屋を初め商人は皆天秤衡を持っていた。北船場を歩くと家々から天秤の音が聞こえて来たという。天秤の棹の中央の支点部前に取り付けた平たい金属板を小さい木槌で叩く音が冴えて聞こえて来たという。これはこころよい音で、金銀をはかるということはゲンがよく町人には富貴を奏でる音楽とも聞こえ『新永代蔵』には「聞いて心地よきもの、番匠の鑿音、餅つく音、天秤の音」とある。要するに秤衡の調整をする目的で叩いたもので、これは細かな衡差を検出しようとする上方町人の風習で、江戸では濶達をてらって殊更に調整しなかったという。升屋山片家の祖先は摂津国島上郡高槻冠馬場邑の宮本仁兵衛に始まり、その子の一人が京都綾小路通に住して山形屋と号し、中川七兵衛家の初代となったが、その子の一人光重が元禄7年大阪に来て堂島中一丁目(現・堂島一丁目)に住んだ。これが山片家の初めで、堂島浜一丁目に移り享保2年に堂島中一丁目に移った。この頃から堂島の米相場に活躍し、米仲買となった。米取引と大名貸とは密接な関係にある。大名貸をなし、両替屋にもなる。二代目重賢は学問好きで懐徳堂に出入していた。山片蟠桃が升屋に奉公したのは平右衛門重賢の時であった。後に別家して升屋小右衛門となり、仙台藩の買米制度に関与して升屋も仙台藩も大いに隆盛させている。山片蟠桃が『夢の代』で大作をなした代表的な町人学者であることは有名であるが、山片升屋平右衛門の旧跡は梶木町の内(内北浜)魚の棚筋の角である[42]

帝国座と愛日小学校及び愛日文庫

今橋駐車場(愛日小学校跡地)
愛日小学校記念碑

維新後、升屋平右衛門重明は自宅全部を提供し、市内に率先して北浜小学校を設けた。その邸宅は文化8年新たに家作をなしたもので、南北およそ二十三間一尺余、東西間およそ二十七間である。文政7年に台所と東店を建替えている。この北浜小学校は開校当時はまだ升平の宅をそのまま使っていた。一柳安治郎は「高い高い火見櫓が空にそびえて、半鐘が上に吊ってある。表は黒板塀の武者窓つきで、魚の棚の処に土蔵があって、はその東手にあった」とある。そして升平は家を整理して向かいの尊光寺西手にささやかな店を営んだ。平右衛門は第十三小区の区長だったので、学校に台所を提供し、元の座敷は会所にあてた。その後第十三小区と第十五小区とが併合され九連合になり、第十五小区の道修町心斎橋筋(後、明治生命となる)にあった道修小学校と合併して、愛日小学校となった。この小学校は愛珠幼稚園と共に藤沢南岳の命名による。そこで道修町が本校、北浜が分校となっていたが、やがて合併し今橋に移った。升屋邸跡地の北浜小学校が今橋に移り愛日小学校となってから、その跡地(内北浜魚の棚角)に帝国座が建てられた。川上音二郎は妻の川上貞奴と欧米に遊び、帰朝後、劇団の革新を策した。そして新劇場建設をはかったが、北浜銀行の岩下清周の賛する所となり、上述の地に二十万余円を投じて大林芳五郎の手により新劇場を建設した。明治43年3月この帝国座が出現した時、大阪の子女はその清新味に魅せられて雲集したという。しかしこの試みはこの時代には早く、忽ち経営難に陥り川上は苦悩の中に楽屋で倒れ、帝国座落成の翌年の明治44年に没した。大正7年にこの建物の内部が改装され、大正15年5月まで住友銀行本店営業部となり、後に住友ビルディングの地に移った。升屋小右衛門が別家した家は升平の東二軒目南側で、大正12年4月に全部改築され、料亭鶴屋の北側入り口にあたる所がその家の址となっていた。愛日文庫は明治5年第十三区小学校(北浜小学校)設立時に、山片平右衛門が大阪府の小学校設立の告論に応じて、宅地と山片家伝来の書物約三千冊を寄贈して、愛日教育会が保存した古典籍である。二代目重芳の遺書も散逸せずにそのまま書庫に保有され、山片蟠桃が読破した書物や、仙台藩伊達家からの拝領書のほか、今橋四丁目の草間真太郎、北浜五丁目の金井伊十郎が提供された和漢洋書、1660年版の蘭書、ヨハネス・ヨンストン動物学全書、1792年司馬江漢編纂の地球全図、伊能忠敬の実測図など、6,598冊の貴重な書物が納められた記念すべきもので、現在は大阪市立開平小学校の倉庫に保管されている[43][44][45]

尾崎雅嘉

梶木町には国学尾崎雅嘉が住んでいた。江戸後期の大阪の漢学者といえば篠崎小竹で国学者といえば尾崎雅嘉があって、その名は著聞していた。天保4年心斎橋筋の敦九(敦賀屋九兵衛)から出版された彼の『百人一首一夕語』はもてはやされた。若い頃は塩町三丁目(現・南船場三丁目)に住しており、壮年時代は梶木町に移り、その著述の大部分はここで記され、晩年は北浜二丁目に住んだ[46]

今橋

鴻池家

初代鴻池銀行本店
1924年竣工の鴻池銀行本店
(今橋三丁目)

大阪に始めて出た鴻池家の元祖新六は元和5年内久宝寺町に店舗を構え、酒の醸造をなした。またこれと前後して大阪和泉町(現・和泉町二丁目)にも松屋裏町(現・松屋町)にも店をもった。延宝2年始めて今橋二丁目旧難波橋角の土地建物を購入して両替屋をここに移し、同6年4月今橋新宅の西隣に宅地を買求め増築した。現在の大阪美術倶楽部の場所で、天保時代に再建された。また貞享2年12月にも今橋邸の西隣宅地を買い入れ建増をしている。鴻池の分家・別家は多く、それらは北船場や上町の和泉町に多かった。一家中有名なのは鴻池屋又右衛門(和泉町)の外、同新十郎・同善五郎・同善作・同善之助・同鶴十郎があり、別家支店には鴻池屋庄兵衛・同伊助・同伊兵衛・同篤兵衛・同市兵衛があって、何れも大家であった。鴻池屋庄兵衛は中原氏、同伊助は草間氏である。明治時代に入ると中原庄兵衛・鴻池伊兵衛・鴻池徳兵衛を三別家と称した。庄兵衛は今橋二丁目鴻池本宅の向かい、伊兵衛は今橋四丁目の西北角、徳兵衛は今橋二丁目の中橋筋角であった。後に伊兵衛の家は絶家したが、長男は草間貞次郎として鴻池家に勤務した。庄兵衛は後に中之島二丁目に移った。明治30年頃の有力なる別家には武田伴兵衛、蘆田安三郎、永田彦作、蘆田順三郎などがあった。鴻池が質素健実であったことは『浪華百事談』に「産土神坐摩神社の祭礼の時も、軒端に献燈の提灯を多くいだすことなく、入口に家紋の五つ山をかいた提灯一張のみを点ぜり」とあるので察せられる。大阪の町家では宗旨は本家の宗旨を、新宅及び別家にも伝えるのが一般であったが、鴻池家のみはその例なく、本家は禅宗であるが、新宅別家はその好む所の宗門を信ずる事が出来、真言宗浄土宗真宗もあって、別家はその出身実家の宗門を立てるならいであった。別家の子供は必ず本家に出て、小僕丁稚の奉公をした。たとえ別家の子であっても、本家に勤仕せざるものは別家の相続人たるを許さずとした。別家以外から出るものは全て町人(自居の者)二名の請人を要した。婦人は仏参その他外出の時は必ず駕籠に乗り、厨より出たので、内室を知らぬ店のものもあったという。新宅及び別家の妻女が年若くして未亡人になっても、後夫を迎え、或いは他に嫁すことを許さなかった。もしこれをなすときは直ちに鴻池屋の家号を本家へ没収したと伝える。大阪の町家では別家の妻女は式日に本家に礼に行くのが例であったが、鴻池家ではこの習慣がなく、家婢をもって祝辞を述べさせたという。婦人の髪の結いようもこの一門には一風あって、髪の飾りのなども鼈甲を用いることなく、玳瑁まがい(爪の四方張)、象牙或いは秋田春慶ぬりにて製したものを用いたという。家婢の姿も他家と違って、年少なきものの髪の飾りに紙製のかのこを掛けた。また年少の丁稚で髷を結わない者のみ振袖を着せたとつたえる。明治大正期の今橋の鴻池の玄関先には生きたが飼ってあった。鴻池家本家には扣家抱屋敷が所々にあった。新宅別家も自ら求めず、本家の抱屋敷に住んだ。これもまた鴻池の家風であった。鴻池の扣家の中、内久宝寺町御払筋にあるものは、維新前毎年大阪城番が8月に交代する時に追手口の守衛をなす武士の旅館に用いた。その他の城番及び家士杯は全て市中自宅の者の家に泊まった。その日数は三日ばかりであった。だから世人はこの扣家のことを御本陣とよんだ。また松屋町通り瓦屋橋の辺にある扣家は累代の仏事をいとなむために設けた家であった。この所にて客を饗したという。また日本橋筋の南にも扣家があって、ここは火災のある時に家人一族の避ける宅であった。以上の三所とも地所広く、庭中に樹木が多く植わり、他よりこれを見るとあたかも森の如くであったという。(以上『浪華百事談』による)今橋二丁目は大体鴻池家の一統、別家が多く、鴻池善右衛門家はその中三十六間間口で巨大な構えであった。鴻池本家の向いに中原庄兵衛(鴻庄)の家があり、ここも別家であるが、両替屋としては相当で十人両替になったりしている。安政3年5月の地図によると、今橋二丁目の家数二十九軒、役数合四十六役であり、町年寄は眼医の真嶋隆斎が勤めていた。鴻池の番頭で町人学者として名の高かった鴻池屋伊助(草間方)の家も見出だせる。草間直方山片蟠桃と共に江戸後期の大阪町人学者の双璧とも言うべき人物である。『三貸図彙』の著者で通称は伊助、幼名は文次郎、仲我といい、京都の枡屋唯右衛門の子として宝暦3年9月に生まれた。10歳の頃鴻池家に仕え、信用を得て、尼ヶ崎町一丁目の草間家(鴻池家の別家)の女婿となり、鴻池姓を名乗った。今橋二丁目に住み、本家に勤務していたが、文化5年本家より両替業を営む事を許され、翌年本家の勤仕も免ぜられて、本家同様に両替商を営み、家業も次第に繁栄した。鴻池伊助の名四方に聞え、為に肥前及び南部の両藩を始め、諸大名の財政整理をも託された。文化7年家督を子の伊作に譲り、隠居して伊三之助と改名した。閑を得て、多年心掛けた貨幣経済史『三貨図彙』の編集に専念した。他面、茶道を嗜み『茶器名物図彙』も著し、その他『麓之塵』、『草間伊助筆記』など数種の著述をのこした。何れも生存中に出版に至らなかったが、代表作『三貨図彙』は当時好事家の間にもてはやされ、伝写本も少なからず世に行われた。交友には近藤守重中井積善塙保己一、皆川愿などがあった。本邦の貨幣経済史の嚆矢である『三貨図彙』編集の主意は大阪十人両替の筆頭である鴻池が公辺より度々古い事の諮問を受けた際、その恥辱を免れる為に発憤して編集したもので、素より世間に発表する目的ではなかった。すなわち伝家の秘書として他見を好まず、ただ本家鴻池の望みにまかせて貸出す外、同業の天天王寺屋と平野屋との両家に対し、拠なくその伝写を許したばかりであった。本書が始めて刊行されたのは、日本経済叢書第二七、二八巻の二冊として発表されてからのことである。寛政5、6年頃から着手し、文化12年に至って一旦終結を告げたが、その後遺考として文化13年より文政8年までの新記事を補充したため、前後36年間を費して大成したものである。稀世の大著といってよく、大阪の町人文化を誇示するにたる金字塔である[47]

十兵衛横町

今橋一丁目と八百屋町筋の辺りを古くは十兵衛横町といった。これは天王寺屋五兵衛(大眉氏)と平野屋五兵衛(高木氏)の両五兵衛の居宅が向かい合っていたからである。大阪では横町は「よこまち」で、「よこちょう」とは言わなかった。「天五に平五、十兵衛横町」といわれ、また「天五に平五、二五十人両替」ともいわれて、並び称せられた。平五もまた寛永13年開店で大阪の両替屋としては旧い家柄である。この平五・天五も明治維新と共に断絶して、この横町の意味もなくなった。鴻池家所蔵の安政3年の町割地図によると、今橋一丁目の南側に天王寺屋清右衛門の家があり、表口十三間半と表口五間になっている。この辺りの家は皆奥行二十間である。その向い側今橋一丁目の北側に平野屋五兵衛の家があった。これは表口七間と八間と表口十二間五分と九間と四間五分の五つ口の面積からなっている。そして天王寺屋五兵衛の家は今橋一丁目と二丁目の町境にあって、この分は表口七間、奥行二十間で、明治8年に大眉五兵衛により小野十作が買入れている。明治15年2月日本立憲政党新聞が刊行されたが、これは十兵衛横町の天王寺屋の旧宅をそのまま用いたという。この新聞は大阪日報となり、明治21年11月にそれを引き継いで大阪毎日新聞となった[48]

今橋の町並み

大阪倶楽部
大阪農工銀行本店
(今橋三丁目)

明暦・寛文の頃この一帯は建家なく、茫々たる空地で、下駄職人が屯していたらしく下駄屋町といった。そのため後に中橋の浜を下駄屋浜と呼んだ。その後、眼病医者真嶋安徳が居を構えたので真嶋町ともいった。古図には今橋の名は見えず、元和・寛永の頃までは当時の今橋通りの南側ばかりが町家であって、北は広い浜岸であった。そのためそこを北浜とよんだという説も存在する。(『摂陽奇観』『摂津名所図絵大成』)初めは仮葺の小屋があったに過ぎなかったが、段々今橋通りの北側にも町家が建つようになり、その北の通りも町家となった。このように繁昌するに従って、東に橋がないのは不便である。そこで京町橋からの往来にあたる所に今新たに架けた橋が今橋ということになった。しかし後にはこの今橋が巨商富豪の櫛比する所となった。すなわち鴻池の存在する今橋及びそれに近い高麗橋には身代連綿たる旦那が住し「よい衆」「エエシ」の居住する地域になった。総じて北脇・北船場は一番格の高い者の集まる地域であって、この事は海保青陵も述べている(『陰陽談』)。中井積善も『草茅危言』の中で今橋、高麗橋は年古き富豪の多い所で礼儀正しく、諸事今橋、高麗橋は格別であると唱えている。あたかも当時の今橋の詰に「蟹島」の新地が出来、遊所的の場所になった。この蟹島の持主がその人別を今橋の町内に結んでくれと再三頼んできた。しかし今橋の側では一向に承引せず、何事も決して取合わなかったという。これは「よい衆」が自ら高く標榜して、他の町人に伍さなかった所以のものを示しており、旧家の見識ともいえる。元来町人は系図を人に誇るものではないが、江戸時代中期において世が固定し、由緒が重んぜられるようになると町人の社会においても固定した慣習格式が生まれ、その規模・面目・家風が出来上がってしまった。鴻池を中心とする今橋二丁目は大阪でも最も格式の高い地区となり、鴻池の本家や別家が軒を並べていたのである。今橋一丁目には天王寺屋・平野屋の居宅があり、前述の如く、今橋一丁目八百屋町筋を十兵衛横町といった位であった。明治になって一時天王寺屋のあとには今利休といわれた高谷篁圃が住み、上述の如く立憲政党新聞社となったともいわれる。平野屋五兵衛の家は維新後衰頽していたが、明治7年7月に岩成名義で借りられ、ここに北洲舎を移した。これは代書代言人事務所である。寺村富栄らの創立したものである。寺村富栄は大阪硫酸製造会社や大阪商船会社にも関わり、大阪商法会議所の副会頭として五代友厚の下にいた。また北浜二丁目、鴻池事務所のあった前、料亭北浜水の向かいに代言人会長となり関西大学理事にもなった砂川雄峻の事務所があった。網島に移る前の藤田伝三郎藤田組もここの平野屋五兵衛の宅地の一部にあった。明治後いち早く鉄格子鉄柵付の椅子式事務所となっていたが、やがて網島に移り跡地は吉田病院となった。そしてその後郵便局の仮事務所になったりした。今橋と堺筋の角屋敷に小屋根を捻じ金で吊った古風の家、紙治の家と伝えるものがあった。丼池筋東入るには緒方婦人病院があり、初代国手正清時代は木造家屋であった。別に緒方病院もここにあり、後に三菱銀行になった。今橋四丁目の大阪倶楽部はもと日本銀行大阪支店の跡地で、料亭鶴屋は帝国座の路地に仕出しを当て込みに開業したが、この今橋に門戸を張出したものである。包丁専門の料亭で、包丁の腕で名を高めたものに昔は『江戸堀の槌田』というのがあった。この家の料理人出崎鶴吉が北浜に川上音二郎の帝国座が出来た機会に、懇望されて本邦初の洋式和食堂を階上に経営した。これが北浜の「つるや」の前身となった。またこの帝国座跡地に升屋が出来たのは前述した通りである。灘萬楼の所は両替屋米屋殿村の西店であったのを借りて開業したものである。尼崎町二丁目(現・今橋四丁目)には米屋伊兵衛の店があり、今橋四丁目には加島屋作次郎の店があった。今橋四丁目にあった旅館「紫雲楼」の建物は江戸時代、鴻池善右衛門の別宅であったと伝わる。明治8年に米屋平川善右衛門の娘梶井フサが買取り、内部を数寄屋風に改築して旅館を始めた。初めは船宿風であったが、次第に客筋を選び、一見さんのお客は断り、商社薬品骨董綿布織物関係の客が多く、株や金融方面の客は出来るだけ断っていた。部屋割にも気を配り、いつの頃から「紫雲楼に泊まると商談が成功する」と評判になり、各地の事業家が泊まりに来て「キタの花屋か船場の紫雲楼か」といわれる程の有数の旅館となった。紫雲楼の名は、鴻池の時代に斬り合いがあり、襖に飛んだ血痕の跡を桂小五郎が「紫の雲のようだ」と評したことに由来する。場所は日本生命本社東側、表は心斎橋筋に面しており、間口十軒余、奥行十八軒ほど、御堂筋の軒切りで二十坪ほど削られて、約百八十坪の敷地に二階建て(一部平屋と三階建)の土蔵造りの建物であった。今橋四丁目にあった大阪農工銀行は、明治31年8月に西区立売堀北通に設立され、同43年今橋四丁目に移転し、大正7年に洋館建ての宏荘なる新館となった。また鴻池家が明治10年に創設した第十三国立銀行も今橋二丁目4番地にあり、同30年に鴻池銀行となった。後大正14年9月に鴻池ビルディングを新築して移転した。今橋三丁目の日商株式会社は昭和3年2月に神戸の元鈴木商店の機構と取引先を受け継いで開いたものである。稲葉病院創業者の稲葉章通は日本医専を卒業後、大阪に移り今橋二丁目に稲葉医院を開業し、集英小学校の校医もつとめた。病院の向いは岩本栄之助邸、加賀正太郎邸があった場所である[49][50][51]

懐徳堂

懐徳堂の模型(大阪大学豊中キャンパス文学部・文学研究科玄関)
『浪華網洲之図名家寄書』(玉手棠洲画、篠崎小竹賛)

今橋通りは一丁目・二丁目で、西へ行くと尼ヶ崎町となり、西横堀に架かる橋を尼ヶ崎橋といった。安永年間は今橋一丁目、同二丁目、尼ヶ崎町一丁目、同二丁目、西横堀七郎右衛門町一丁目となっており、今橋一丁目より西横堀までは両替屋・問屋が多かったという。明治5年に尼ヶ崎町を両分して、その一部に尼ヶ崎町一丁目の内を加えて今橋三丁目、尼ヶ崎町一丁目の残部を今橋四丁目、尼ヶ崎町二丁目を今橋五丁目(現・今橋四丁目)とした。尼ヶ崎町に懐徳堂と梅花社が位置していた。懐徳堂は尼ヶ崎町一丁目(現・今橋三丁目)にあり、京都の浅見絅斎に学び、元禄13、14年に大阪に来り、三宅石庵の門下に中井甃庵が出た。甃庵は三星屋武右衛門・道明寺屋吉左衛門・舟橋屋四郎右衛門の同志を糾合して石庵の講学の場所として安土町二丁目に多松堂という講舎を正徳3年に設立した。後に高麗橋三丁目に移り、享保9年3月大火に遭い一時平野郷に難をさけたが、その間、武右衛門、吉左衛門、四郎右衛門、備前屋吉兵衛、鴻池屋又四郎の五名が首唱者となり、尼ヶ崎町一丁目に講舎を設け、享保9年11月に石庵を迎えた。これが懐徳堂で、堂名は甃庵の命ずるところであった。あたかも吉宗の治世で、甃庵は江戸に下って奔走し、遂に懐徳堂は永代拝領地となり、諸役免除の特典を得た。石庵はすなわち学生、甃庵は学問所預りとして学問に関する一切の事務を総管し、創立首唱者の五名は年行司として学校の財政を掌った。これによっても懐徳堂が町人によって経営維持されたことが明白である。石庵の学問は学問と揶揄されたが、それはかえって実質的に身を修めて教養を高めさえすればいいという町人には甚だ適していた。つまり町人の学問は派閥的であってはならぬからである。石庵の没後学主になったのは中井甃庵である。彼は学主兼預人として宝暦8年に没するまで35年間懐徳堂のために尽力した。その頃彼を助けて救援にあたったのは学友五井蘭洲であり、その門下に中井竹山中井履軒の兄弟を輩出した。懐徳堂の学風はその学問所の壁書第一条に「学問は忠孝をつくし、職業を勤むる等の上に有之事にて候。講釈も唯右の趣を説きすすむる義、第一に候へば書物不レ持人も聴聞くるしかるまじく候事」とあるので判る。初め「武家方は上座なさるべき事」とあったが、竹山の時にこれを「書生の交は貴賤貧富を論ぜず、同輩となさるべき事」とした。身分制度のやかましい当時としては異彩をはなっている。天明元年竹山は門人から資金を集め、改築をなし、寛政4年に大火でまた焼けたが、竹山は幕府に願って三百をうけ、寛政8年6月に再建した。弟の履軒は竹山を助けつつ、別に水哉館という私塾を開いていたが、晩年竹山の没後は懐徳堂で講義をした。竹山の子に蕉園がおり、英才をもって知られたが若くして亡くなった。そして履軒も文化14年に没し、後は履軒の子柚園、その子桐園及び並河寒泉を経て、明治2年12月に廃校となった。閉鎖に当たって並河寒泉が校門に張り付けた悲壮な歌がある。「百余り四十路四年のふみの宿けふをかぎりと見かへりて出づ」幕府の学問所たる昌平黌及び各藩の藩校は武士の子弟の学ぶ所であったが、懐徳堂は大阪の町人の力により、町人的色彩の強いものであった。それが両替屋富商店軒を並べる今橋にあったということは余程注意する必要がある。懐徳堂五人衆の中、道明寺屋吉左衛門は懐徳堂の東隣の醤油屋で、その子毅斎も懐徳堂を援助したが、彼の異母弟の富永仲基はとりわけ偉大で、石庵に学び、後黄檗山に上り、仏典を読破して『出定後語』を書いた。仏教を初めて歴史的に研究したもので、ある意味では大阪の町人学者中の第一人者であるといってよい。この仲基の生まれたのは尼ヶ崎町一丁目で、現在の今橋四丁目の日本生命保険の場所とされ、文化的にも今橋は意義深い所である[52][53]

日本生命保険会社

日本生命保険相互会社本店本館

日本生命保険会社は明治21年9月大阪に本店を有する最初の保険会社として出現した。銀行業者を中心とする関西財界の重鎮を背景として設立したもので、鴻池善右衛門が初代の社長であった。しかし特にその創設に力を尽くしたのは弘世助三郎である。日本生命はもと北浜三丁目にあり、石造の社屋であった。しかし日清戦争後に飛躍的発展を遂げてきたので、本店の新築となり、明治35年3月にルネッサンス式の赤煉瓦の三階建ての全館が完成した。本館は当時、やや遅れて出来た中之島の日銀大阪支店、堂島の大阪控訴院と並んで、大阪の新名所の一つに数えられた。特に大阪で初めて設けられたエレベーターが人気を呼び、近郊から弁当持参で見物に来た人もあったと伝える。この地は今橋四丁目で前述の通りもとの懐徳堂の所である。大正7年6月、日本生命ではこの塾の遺風をしのんで記念碑を建てた。旧館中庭に「懐徳堂旧址碑」で、撰文は西村天囚博士、書は甃庵の玄孫である中井木莵麿である。しかしこの旧館も昭和3年6月に解体され新館となった[54][55]

梅花社と浮世小路

梅花社は尼ヶ崎町二丁目(現・今橋四丁目)にあった。貞和先生篠崎小竹はこの地に壮麗な邸宅を構え、梅花社と名付けて懐徳堂の官学派に対し、混沌社と共に私学派の重鎮となった。篠崎小竹は九歳にして篠崎三島の養子となった。三島は伊予の人で玉水町(現・土佐堀一丁目、江戸堀一丁目)の伊予屋長兵衛という紙屋と両替屋であったが、後に儒学者となり梅花社を設けて教授した。小竹は三島の下で勉学し江戸で古賀精里について半年ばかり程朱子学を専攻した。帰阪後は三島に代わって講筵を開いたが、講義も巧妙で作も法も抜群であったので忽ち人気を集めて弟子が増え、揮毫依頼者が断れ切れぬ程にあるという全盛ぶりであった。毎年その潤筆料は六、七万両に上り「儒者の鴻池」といわれた。嘉永4年に没した時、その葬儀の盛んである事は前駆が寺(天満東寺町天徳寺)へ着いたのに後列はまだ篠崎邸を出切らなかった、という言い伝えがある。篠崎氏三代の文筆と筆跡は天保以後の大阪の文雅を代表していた。また梅花社の碑の場所に安宅産業株式会社がかつてあり、昭和の初め頃安宅氏の令嬢にテニスをよくする一代の麗人がおり、京都九条山時代の日仏会館に出入りする若人達にこの令嬢の印象が強かったという[56][57]

浮世小路

今橋と高麗橋の両通りの間を浮世小路という[注釈 8]。寛永・貞享の頃は東横堀から西横堀までの間、この小路の両側には楊弓屋・風呂屋屋・質屋三弦の法師の家があり、古手屋・魚屋もあって、まことに浮世の有り様を呈していた。ところが今橋・高麗橋に両替屋の巨商が集まると、丁度この小路は家々の裏手の土蔵のある所になった。両側から土蔵の白壁が迫って、その上家々の裏側に大きながあって道中の半ばを占めていて夜などは危なっかしい細道であった(摂陽奇観)。『浪花の梅』四之巻には「浮世小路とて昔は家建多く賑はしき小町にてうき世と呼びしや、次第に南北より土蔵を立ならべ、当時は東横堀より西横堀まで凡百十三蔵あり、よって犬のふんのみ多し」とあり「銀持の蔵と蔵との尻合はすうきよ小路はさてもふんたく」とある。それでも溝のない側には音曲師などもいて些か艶めいたところもあったという風にもいわれる。浮世小路が色めいた所であったのは西鶴の『好色一代男』『新永代蔵』にも出ている。大阪落語ではよくこの小路を妾宅の場所として述べられ、幕末から明治にかけてもそのような風景であったという。元来船場といえばであり、船場の「とうはん」と琴はつきもので、三味線はあまりしないが、この界隈ではまれに爪びき程度は聞けたという。この界隈は見越しの松に舟板塀であったというが、宮本又次氏の叔父宮本甲造氏によると明治時代はそのような雰囲気はもうなく、横通りの土蔵の白壁が多く、蔵と蔵との間には間口の狭い格子造りの粗末な家が多く、つとめ人か隠居の住居位であったという。なお富商で商の筑紫三次郎の宅がここにあった。その四男音松は後の日本毛繊の社長川西清兵衛である。また明治の風流人平瀬露香の妾宅がこの小路にあったのは前述した通りである[59]

高麗橋

高麗橋

木橋時代の高麗橋(『写真浪花百景』長谷川貞信画)
明治3年に鉄橋となった高麗橋

高麗橋は朝鮮国使来朝のために架けた橋と伝わる。また、往古の難波高麗館の古跡が橋の東にあるためだともいう。「両傍家楼猶城楪に残る」「平野橋西の二家も亦然り」と『大阪繁昌誌後篇』にあるので両橋とも西詰に櫓があったと思われる。御公儀橋なので高欄擬宝珠厳めしく、東詰には高札場が設けてあった[注釈 9]。かつて九之助橋辺の河底から掘り出した青銅擬宝珠に「大坂橋天正十三乙酉年七月吉日」と刻銘したものがある。これによると石山本願寺の全盛期に大坂橋があった事が判り、それは東横堀ではなく大川筋に架かっていたともいわれるが、天正10年頃に架けられた高麗橋は慶長9年に豊臣秀頼によって改築され、擬宝珠のある橋になった。「慶長九年八月吉日御大工奉行吉久」という切銘があったという。元和・寛永頃になっても橋は東横堀に少し架かっていた程度であった。後に幕府の経費で維持支弁する公儀橋が出来、初めは京橋・天満橋・高麗橋・本町橋農人橋長堀橋日本橋の七橋であったが、後に天神橋・難波橋・野田橋・備前島橋・鴫野橋の五橋を加えて十二橋となった。高麗橋の両詰は札場であり、高札場は幕府の訓令を示す所で、宝永年間将軍家宣の時、公儀橋へそれぞれ掲示したものである。札場は天満橋・天神橋・難波橋・京橋・本町橋・農人橋・大江橋・心斎橋・安治川橋・上本町桃谷にもあったが、中でも高麗橋が有名であった。この高札のおかげで広島名産の牡蠣船が大阪名物になった話がある。宝永5年12月の大火で身を捨てて高札を守った安芸国草津村から稼ぎにきた牡蠣船屋の五郎左衛門の功労によって大阪市中一円、橋の下で牡蠣船をつなぎ、牡蠣船料理店を営むことを許された。それがやがて大阪名物の牡蠣船のもとになったという。大阪の牡蠣船は固定的なものではなく、もとは冬期に広島から来て繋留するという仕組になっていた。近松門左衛門の『鑓の権三重帷子』の描かれた頃はまだ北に橋がなく、東横堀川五橋中の最北端にあって「北の橋」といわれた。北に葭屋橋・今橋が出来たのは江戸後期になってからのことである。享保3年10月に抜買仲間の一味五人が召捕われ高麗橋の橋詰で三日間曝され、野江の刑場で鼻をそがれて所払になったという噂が『摂陽落穂集』に出ている。大阪は鎖国時代になっても密貿易の本場であったことが窺える。かつて豊臣秀吉が天正11年東横堀川を開き、高麗橋を架設した当時、この橋を中心に高麗との貿易が極めて盛んであったと伝える。明治になって大阪初の鉄橋がここに架かった。明治3年9月本木昌造が設計し、当時の府知事後藤象二郎英国へ注文して架けたものであるが、寸法を間違えたのか、出来上がって見ると川幅より橋が短くなって送られてきたので、やむなく突堤を築いてその上に架けたという。ともかく大阪における最初の鉄橋なので評判となり、橋の名をよぶに「鉄橋」と唱え西通り一体を「鉄橋通り」と俗称したという。もと栴檀木橋東入る南側に鉄三というの帳場があった。これはいうまでもなく鉄橋三丁目の意味で、後に大島の帳場となりやがて他へ移転してしまった。寛永11年三代将軍徳川家光が来阪し、地子銀を免除されたので、その徳を称える為、釣鐘をいて高麗橋口の古屋敷に釣り、鳴らして日々時報を報じた。これが釣鐘町の起りで、その釣鐘は大阪市庁舎の楼上に吊るされていた。釣鐘町はもとより上町で船場内ではないが、高麗橋に関係が深い。高麗橋は上町と下町との界をなすもので、古の安曇江は東横堀川の旧名で、昔川畔に安曇寺なる寺院があり、現在は堀の東西に安堂寺町の名を残している[61][62][63][64]

浜納屋

大阪の川筋について注目すべきことは流垂形と岸岐である。大阪では川岸が斜めに開いているので河水が増してもこれを受ける余裕があるから容易に溢れなかった。特に岸岐は平日は昇降に便利であった。岸岐は両岸を段々の石畳にしたもので、貞享元年町奉行藤堂伊勢守良直の命によって作り、縦横合計二万八千六間五尺に及んだという。川沿いの地を江戸では河岸地かし、大阪では浜地はまというが、そこに建てた納屋を住居地すなわち火焚所とすることは厳禁であった。宝暦7年から浜地冥加銀を納めしめた。浜側に作る納屋は必ず足駄作あしだづくりといって、下を囲うことを許さなかった。これも河水を遮らぬようにとの工夫から出ていたのである。これが大阪の浜納屋、すなわち倉庫の風景である。東横堀川に沿って、また西横堀川に沿ってこうした問屋の倉庫が多くあった。江戸のいわゆる河岸蔵は両岸の線と直角に配置され、奥行が深いものであったが、大阪のいわゆる浜納屋は浜の線に平行して建てられることが多く、しかも傾斜面にて石柱の石土台に支えられて恰も足駄をはいているように築造されていた。納屋とはいっても大名の蔵屋敷に対して卑下した名称にすぎず、倉庫そのものが粗雑な板屋の如きものであったというのではない。大阪では斜面を及び石垣で平にすることが許されず、市中の浜納屋は足駄作りにすることとなっていた。高麗橋付近にはこうした浜納屋が永く残っていた。東横堀川に架かる橋はみな高かったが、これは土地が高いのと、昔大阪城の外濠で水面までが深いという点もあった為である。またこの付近は公儀橋が多く、町の費用でなく悉く公儀の費用で架けたことによる。これに対し西横堀の橋は西国橋・船町橋・筋違橋・呉服橋にしても町橋で格式は低い。それに浜地に浜納屋も多く並んでいたが、川沿の住家も多かった。東西両横堀の川沿の家は川に向って架け出しをつくり、その上に種々の草花植木鉢を並べ川に面してを下していた。縁側にはおばしまをつけて、夏になると釣しのぶや風鈴などが下がる風景がみられた[65]

高麗橋通の呉服店と三越

明治初期のゑちご屋の広告チラシ
三井住友銀行大阪中央支店

大阪の代表的な商店街呉服店の櫛比する所としては心斎橋を第一と考えがちであるが、古くは必ずしもそうではなく、維新前の心斎橋の繁華はむしろ心斎橋北詰から北方を主としていた。しかもこの辺りには書肆が多かった。そして大呉服屋はなんといっても高麗橋通に集まっており、とりわけ越後屋をもって筆頭としていた。三井の大阪両替店及び呉服店が開店したのは元禄4年のことであった。江戸の三井は元禄4年に金銀為替御用を命ぜられた。金銀為替御用は大阪の金蔵で金銀を受け取り、それを六十日、後改めて九十日切、また百五十日切の為替として期限がきた時に江戸にて上納する仕組みであったが、この制度によって幕府もまた現金輸送の危険と煩わしさとを免れたわけである。そして御用為替組の面々も長期間無利子の金を利用することが出来て甚だ有利であった。三井はこのことがあると直ちに大阪に支店を出し、大阪で金蔵から金子を請取り、その金で呉服太物を仕入れ、その商品を江戸に送って「現金安売かけねなし」で売捌いた上、幕府に上納することとなった。大阪の三井の店はこうして開かれたのであるが、単なる支店ではなく、三井高平の代に組織化された本家六軒、連家三軒の大元方のいわゆる同族組織の一環をなすものであった。そして京都の両替店は三郎助、大阪の両替店は元之助、江戸の両替店は次郎右衛門を店名としていた。そして呉服店は八郎右衛門が店名であった。天保8年2月19日の大塩平八郎の乱で、高麗橋通は第一に襲われるところとなり、巨商はみるみる灰燼に帰し、三井も岩城・ます屋と共に炮烙火矢にて難を被り罹災した。しかし天保11年11月には再築、店開きをなし、その時には観山筆天保山入舟出舟の絵がある扇面を配ったと伝える。『浪華百事談』には三井の呉服店の当時の模様を「其地は高麗橋通り、境すじの東南側にて、表に凡半町許長暖簾をかけ、屋根には看板を掲げて、頗る美々敷大店なり、大阪において昔呉服の小ぎれを売るは此店が始めなりといひ伝へり」と記しており「此店の他に優れるは、呉服店の向ひ北側に(境筋より八百屋町すじ迄)支店軒をならべ、店、鼈甲店、店、紅白粉店、ぬり道具店、又境筋の角の小家に店あって、婦女嫁入の拵えは此所に来れば、悉皆ととのふやうになせり。又同通り中橋すじの北西角の家敷は両替屋を設けたり」とあり、既にそこには百貨店の着想があったことが窺える。なお越後屋・鼈甲店・糸店のあった所には後に三井物産三井銀行が建った。三井越後屋は江戸において幕府御用の呉服所などもやったが、むしろ正札現金掛値なしを標榜して公衆によびかけ、成功したものである。大阪の越後屋は維新後両替屋を廃して一時その跡地(高麗橋三丁目)に移ったのである。そしてもと呉服店のあった所には一時三井銀行を設けた。この三井銀行は堺筋に沿って白壁の高塀作りにして高麗橋を表門にしていた。明治26年9月東京における越後屋呉服店は三井の傘下に入り合名会社となり、同29年5月には三井呉服店となった。こうして越後屋呉服店としての大阪店は27年以来またもとの堺筋に復帰したが、幾許もなくこの大阪店は閉鎖されたらしい。しかし明治31年発行の『大阪繁昌誌』には高麗橋通りの南側に三井呉服店の名があり、この時は三井呉服店として再開したものと思われる。その後明治37年に三井呉服店は三越呉服店とかわり、大阪店もこの名称となって旧越後屋の地に開業した。すなわち明治37年12月の日露戦争の湧き返る人気の中に三越呉服店が開業し、かつての三井呉服店の営業上のこと一切を譲り受けて一歩を踏み出したのである。高麗橋三丁目に創業した東洋綿花株式会社(現・豊田通商)はもと三井両替店のあった所であるが、東綿は元三井物産株式会社綿花部が独立して出来たものである。三越新館ができるまで、東隣に二階建ての洋館があり、ここでは子供博覧会などの催しが行われ、船場のぼんぼんやいとさんの年に二回の楽しみであった。そこには舞台があり、童話劇や児童劇が見られ、専属の少年音楽隊があった。当時、所用で三越近くの三井銀行大阪支店に出向いていた小林一三は、家族づれの観客が集まり、凛々しい少年音楽隊の演奏や合唱が催される会場の楽しげな風景を見て、これを後の宝塚唱歌隊(現・宝塚歌劇団)のアイディアにしたという[66][67][68][69]

富山・岩城呉服店及び山中商会

山中商会本社

三井の越後屋の外、伊勢商人の富山家も岩城も高麗橋に店を出していた。しかし三井・岩城天保富山に先立って高麗橋には河内屋三右衛門の店が早くよりあった。河内屋三右衛門は大阪城落城の後、高麗橋二丁目堺筋の北横町西側に開店し、類焼後は高麗橋一丁目八百屋町筋西北角の家屋敷を買受けて新築移転し、呉服屋を続けていた。これが先駆となって呉服屋が多くこの町に出来たという。富山家は伊勢国飯野郡射和村の豪家で、江戸時代初期から三都で活躍し、元禄12年に高麗橋一丁目、宝永元年には同二丁目に店を設けた。また上州藤岡に元禄初年から仕入店をもった。当時は呉服業はよくそれと関連して両替商を営んだが、呉服店の一部においてこれを営み、元禄・宝永の頃には甲府宰相家の御為替御用を承り、京阪において喜右衛門の名で両替店を営んだ。しかし富山家の商家としての発展は享保期を頂点として、その後は不振沈滞となり、文化5年には分散整理に至ったと伝える。富山家は伊豆蔵いづくら・小野田などと共に伊勢商人の代表でいわゆる江戸店持ちの京商人である。本拠を京都にすえて、西陣で生産される絹織物を仕入れ、一方江戸に豪華な家作りの販売店を開いて売り捌いた。三井もまた伊勢商人の一人として富山などを範にしてあとを追った。江戸に店を出したのは幕府、大名の上級武士目当てであったが、元禄以後商品貨幣経済の進展につれ、問屋商人の台頭となり、そうした上級町人の需要にも応ずるように店売りを盛んにした。そして大阪にも進出したわけで、元禄以後における町人の興隆に応ずるものであった。岩城岩ます屋呉服店のあった所は高麗橋一丁目で、そこは明治以後一時東区役所となった。この岩城は近江国大津駅玉屋町(現・近江八幡市)の出身で、大阪に開店したのは寛永6年であった。呉服物現金正札付商内あきないを大阪で始めてなしたと伝える。三井の開店より60年も前であった。また岩城が京都に支店を開いたのは寛文7年で大阪店よりは37年の後、江戸に支店を設けたのは延宝5年で、大阪店より50年の後であった。こうして二百五十年余も綿々として続き壮観な構造をもち三井と覇をあらそっていたが、明治になって廃業した。この岩城のあとに骨董美術商の山中商会が店を設けた。大阪商人は堅実主義で、始末で、しぶちんと言われるが、新しいもので見込みがあると躊躇せずに飛び込んでいく所があったが、その例に山中商会の山中定次郎がある。中央アジアエジプトバルカン東南アジアタイベトナム中国の美術品を仕入れて、アメリカイギリスへ持っていって商売した世界有数の道具屋・美術商であった。日本における蓄音機の嚆矢は、明治19年陸奥宗光がアメリカより帰朝の際に持ち帰ったものが初といわれるが、定次郎は初めて日本へ蝋管の蓄音機を輸入した人物といわれ、山中の蓄音機は荒木和一という人物が取扱っていた。荒木は活動写真の輸入も行い、明治28年には南地演舞場の二階で二分間の興行をし、翌29年には新町の婦徳会場でエジソン式活動写真による興行を2回開き成功をおさめた。明治36年の第五回内国勧業博覧会では中山と共同で不思議館と称して活動写真を呼び物とした。また高麗橋西詰の両角屋敷の上には旧櫓が建っており、浪花市中の一奇物であった[注釈 10]。北角屋敷の方は早くなくなったが、寛政印本の『摂津名所図会』巻四には綿問屋の様子が描かれている。ここに天保6年江戸の呉服商恵比須屋が支店を開いていたと伝える[71][72][73]

高麗橋の町並み

高麗橋一丁目三井八郎右衛門、同丁東、升屋いわき、同堺筋角富山平右衛門、高麗橋三丁目谷川大和屋が延享5年版の『難波丸綱目』に呉服物現銀店の名称であがっている。その外では今橋二丁目に伊豆蔵伝蔵、堺筋本靱町に伊賀屋忠兵衛があった。また『摂陽奇観』巻の一に高麗橋通として「中古高麗橋はし筋繁昌のとき、其頃の劇作に一に一閑紙子、二に人形店、伊豆蔵、三に三井呉服店、四に岩(□中に岩)、四角に岩城、五に五明玉玉露堂、六に六味地黄丸大黒屋、七に七星練薬かじ美屋、八に矢倉袴屋、九に櫛筓べつこう店、十に富山」と記されている。高麗橋三丁目に虎屋大和大掾藤原伊織という菓子屋があった[注釈 11]。宅地は高麗橋通丼池筋の東南側であった。京都で技術を習得して、元禄15年に大阪にて開業したという。これが大阪にて饅頭を売り始めた最初であると伝える。虎屋は商切手を発行しており、これは江戸時代の商品切手の代表的なものであった。大阪市内外の仏事供養の御茶の子に盛んに用いられた。鴻池家では元禄以来虎屋の饅頭切手に限り、一度も使わなかったといい、切手を全て長持に入れていたという。これは虎屋を保護するためであったらしい。高麗橋三丁目の町年寄も虎屋の饅頭を時々取寄せてその品質を検査したそうだが、これは大阪名物の誇りを失うまいとの配慮からであった。しかし虎屋も天保末年から衰えはじめ、文久年間には没落した。ここに奉公していた今中伊八が製法原料一切虎屋の様式を踏襲し、伏見町丼池筋に開業し、家号を鶴屋と称し、恩人である八幡屋辰邨の八幡をとって、鶴屋八幡といい、後に高麗橋から今橋に店を構えた。高麗橋通りを西にいくと筋違橋畔に牡丹餅屋と雀鮓すずめずし屋とがあった。「すし万の雀ずし」である。新町の瓢箪屋も堀江の駒屋もここを源流としていた。すし万の番頭が淀屋橋筋の平野町の北の方で丸政という店を出し、その丸政から新町通の瓢箪屋が分かれ、その瓢箪屋から堀江の駒屋が分かれたという。また高麗橋三丁目に屋吉右衛門甘棠があり、ここへ安永3、4年頃与謝蕪村が来て逗留したという。喫茶店の「ラ・パボーニ」は初め堂島に創業され、創業者は小森譲であった。後に経営を中村善太郎に譲り、高麗橋に移転し同時に朝日スタンドも経営した。中村善太郎の親戚で手伝いをしていた益山邦子は来客であった画家大石輝一と結婚し、昭和9年西宮夙川千歳町)に屋号を受け継いで喫茶店「ルージュ・ラ・パボーニ」を開いた。平野町の表具店の老舗、井口古今堂は天保元年に創業し、はじめは曽根崎に店舗を構え、慶応年間に伏見町三丁目に移った。その頃から住友家や藤田家などを得意先として商売をなしていた。大阪美術倶楽部社長を務めた美術商児島嘉助は、京都寺町通の福田という美術商の長男として生まれ、大阪に出て児島家の婿養子となった。屋号の米山居は初代が大和国八木の出身で、八木をひとつにして米の字をあてた。高麗橋三丁目の店には「吉兆」の主人湯木貞一がよく来訪したという。高麗橋の「吉兆」は、前は島之内にあり、昭和初期には新町宇和島橋筋にあり、ここを発祥地とする。普茶料理式で売り出し、戦後北船場に進出した。児島嘉助は号を米爺と称し、大阪では数少ない大名出前の遠州流の茶会を催して、住友本店の要人や小林一三、松下幸之助などを招いた。また小林一三は阪急百貨店に美術画廊を設けた際、児島嘉助に依頼したという。昭和12年には官休庵(武者小路千家)の木津宗匠と平田雅哉棟梁に設計施工を頼み、高麗橋三丁目に数寄屋造りの本宅を構えた。また孫の恭子氏は昭和22年鴻池十郎氏に嫁いだ。坂田作始郎の茶道具屋は、高麗橋二丁目堺筋西入る北側にあり、坂田作始郎の代から表千家の茶道具専門店となった。もとは鴻池家の別家筋で大名貸しの両替商であったと伝わる。作家の庄野潤三は親戚筋にあたり、坂田氏の名前は小説『水の都』にも登場する[75][76][77]

鈴鹿屋敷と秤座

六代将軍徳川家宣の正徳年間、この町の丼池筋北西角に稲垣氏が鈴鹿屋と号し、諸候御出入の領主として繁昌を極めた。三代目には実子がなく他より養子を迎えると、自分の所有する高麗橋二丁目中橋東北角の抱屋敷同番地上借家六戸、土蔵一ヶ所外に土所分の地貸を同町内にあてて寄付し後事を託した。これが鈴鹿屋敷の由来である。高麗橋三丁目及び二丁目には苧屋が集中し、主産地信用から多く送られていた。『難波丸綱目』によると高麗橋二丁目に池田屋庄兵衛、同町苧屋久兵衛、同半兵衛、同法兵衛、同平八、高麗橋三丁目苧屋長兵衛、同町泉屋治兵衛その他多数があった。また幕末明治初期では高麗橋三丁目苧屋佐兵衛、同町苧屋市右衛門、同町苧屋弥兵衛が著名であった。要するに高麗橋の東には呉服屋と骨董屋、中間には両替屋が多く苧屋もあり、五丁目(現・高麗橋四丁目)には西国向の道具屋が相当にあったという。高麗橋通にはまた秤座があった。大阪の秤座は高麗橋一丁目の西北側にあり、岩城の呉服屋の向い側であった。天秤の台、試し箱、ちぎの釣木などを製造する職人を針口屋といい、秤座に付属していた。秤は秤座で販売したが、両替屋で使う天秤は銀・金用の精密な秤であったから、主体はで、針口と皿は京都で製造し、分銅後藤四郎兵衛が当った。この分銅売り捌所は本町一丁目にあったが、後に取扱人を設け、高麗橋・北久太郎町などの針口屋で兼ねさせていた[78]

滝山瑄

七代目豊島屋与右衛門(滝山氏)の長男として瑄は嘉永4年3月18日四軒町(現・高麗橋四丁目)に生まれた。累代麻苧商を業としていた大阪における旧家であった。明治2年八代与右衛門として家業をついだが、明治12年隠居して名を瑄とあらため、明治13年頃から戸長のかたわら教育事業にあたり、富田文三郎らと共に愛珠幼稚園を開いた。また道修・北浜両小学校の校長となり、両校を合した愛日小学校の校長であった。明治22年市制施行後の第一次東区長に選任され、日本生命保険会社に入り、また日本教育生命保険会社を創立した[79]

銀座と三井両替屋

高麗橋東詰に銀座が位置していた。大阪に銀座が置かれたのは伏見銀座の京都移転と同年の慶長13年である。高麗橋内両替町というのは高麗橋東詰から天神橋筋までの間である。銀座は銀の品位を定め、丁銀豆板銀鋳造する所である。初め伏見と駿河にあったのが、のち伏見は京都に、駿河は江戸京橋に移され、長崎にも銀座が設けられた。大阪の両替屋は北船場に集中し、高麗橋・大川町・梶木町・今橋・尼ヶ崎町に多かった。大川町の加島作、淀屋橋筋の千宗・鴻猶・鴻市、今橋二丁目の鴻善・鴻庄、高麗橋一丁目の三井、平野町一丁目の炭彦、同二丁目の米喜は著名であったが、高麗橋の三井元之助は大阪の両替商中特異な存在であった。大阪の両替屋には本仲間両替、南仲間両替、三郷銭屋仲間があり、本仲間両替すなわち本両替を取締るのが十人両替であった。こうした両替は大名貸と商人貸をなし、手形を発行したが、主として大名貸しをするところに特色があった。ところが別に米方両替というのがあった。商品の蔵預り切手、米切手を抵当にして貸付をなすものであった。升平や加島作はこの代表であり、鴻池屋や殿村屋は本両替の代表であった。その多くは米屋屋・酒屋より発展したものが多いが、後には両替商一本になっている。これに対し三井はもと「越後屋の酒屋」といわれるように酒屋兼質屋から出発しているが、呉服屋としても大いに活躍した。とりわけ三都にまたがって店をもち、基本は呉服屋にあった。京都は西陣機業に関連して越後屋(三井)、井筒屋(小野)、蛭子屋(島田)の大呉服商が繁昌した。その二十軒組という株仲間は、京都の資本を代表して諸藩への大名貸や幕府の金銀為替用達として活動し、やがてこの三家は幕末の三大金融財閥となった。この京都に対し、大阪の三井両替店もやはり上方から江戸間の公金為替によって立っており、公金為替は幕府の公金輸送と三都の商人を連絡したものである。これに対し大阪において殿村平右衛門が案出した江戸為替は在府諸候と阪地商人間との金融を簡便円滑にしたものであった。要するに三井は幕府と結び、殿村その他大阪の両替屋は藩侯・大名と結んでのはたらきであった。三井は元来『町人孝見録』にいましめている通り大名貸しをあまりせず、大阪の固有の両替屋は大名貸しに力を入れていた。また米切手、蔵預り切手による金融を多くやっていた。三井は例外として紀州徳川家肥後細川家、津の藤堂家などの大名貸をしていた。また郷貸・在貸といって農村へも貸付けたが、これは村の名義で、年貢米を抵当として差し入れた大名の借金であった。しかしなんといっても三井両替店は問屋商人に対する商業金融に全力を傾けて来たといってよい[80]

吹田四郎兵衛

幕末・明治初年の大阪三井両替店の番頭に吹田四郎兵衛がいた。この人物は紀州銀札発行の主脳者であった。慶応2年紀州徳川家が許可を得た銀札は大和河内和泉摂津播磨五ヶ国に通用し、高麗橋三丁目にこの取替所があった。吹田四郎兵衛は紙幣の動きについて鋭い知識をもっていた為、発行引替にあたった。明治期には新政府側の座に連なり大阪商人の参加を勧誘した。陸奥宗光や小松帯刀が来阪し、大阪に臨時の御用金を命じた時にも斡旋につとめた。次いで紀州五ヶ国通用礼の経験を生かして太政官礼の発行にも活躍した。吹田は新政府に協力し、この三井の態度に引かれて、当初新政府への協力を渋った大阪財界も基立金の応募、金札の発行流通に力を合わせるに至った。吹田の持ち込んだ太政官札は流通難であったが、江戸三井両替店の三野村利左衛門が、江戸の大商人を結集して商法会所をつくり、三井が中心となってその流通を引き受けようと健策し、京・大阪より江戸(東京)への舞台転換の場に吹田より三野村へのバトンタッチがあり、財閥として三井が成長する基礎がこうしてすえられた。吹田はまた明治4年1月に政府に建議して廻漕取扱所を設立し、同5年8月に日本国(政府)郵便蒸気船会所に発展させた日本近代海運業の基礎を開いた人物でもあった。三井両替店の大阪店は元禄4年以来高麗橋一丁目にあり、のち三丁目に移ったが、明治9年8月にこれを改めて、三井銀行大阪支店(一等分店)とした。明治34年11月に高麗橋二丁目堺筋に新築移転し、後に二回程店舗を新築している。この土地はもと三井の糸店や鼈甲店のあった場所であると伝える。しかしその敷地中二百八坪の相当の部分の土地はもと岡橋治助という巨豪がもっていたもので、明治44年9月1日に三井合名会社が坪千円でやっと手に入れて現在の建物をつくったのである[81]

東綿と児玉一造

高麗橋三丁目には児玉一造によって創立された東洋綿花株式会社があった。明治7年1月に鉱山業及び貿易業を目的とする岡田組が設立されたが、まもなく貿易業を主とする先収会社が出来た。これは各地の貢米を売買し、これを輸出するものであった。この会社は三井組に継承され、ここに三井物産が誕生した。そして大阪の高麗橋二丁目に支店が置かれた。児玉一造は明治33年滋賀県商業学校を卒業し、同年8月三井物産の練習生に採用され、アモイ駐在となり、各地支店を転々としていたが、ロンドン支店時代満州大豆の欧州輸入に成功した。大正9年4月にこの三井物産綿花部を独立させ、東洋綿花とし専務取締役となった。この場所は高麗橋三丁目でもと三井両替屋のあった場所である。児玉一造は寄付献金も綺麗な人物で「世間様の御蔭で得させてもらった金は大いに世間様の為に使うべきで、私すべきでない」と常に云っていたという。高麗橋一丁目には三井の外、三井組・小野組とならび称せられた島田組があった。島田信兵衛の商号であった。その八郎右衛門の屋敷は一丁目の橋詰にあったが、明治7年11月に閉店した。その屋敷は藤田伝三郎に買い取られたという[82]

飛久と豊田文三郎

大阪の人力車は前述の吹田四郎兵衛が初めてつくらせて乗ったといわれている。人力車は東京の和泉要助鈴木徳次郎、高山幸助の三人が協力して明治2年に完成したものであるが、これを大阪に移入したのが飛久とびきゅうこと田井久治であった。飛久はもと大阪江戸間の飛脚人足の請負人だったという(或いは京飛脚ともいう)。維新後転業の必要を感じ、たまたま江戸日本橋付近において荷車の如き人力車を見て、早速宿に帰り、主人下総屋助三郎及びその息子の大助と相談した。この大助が人力車改良家の秋葉大助であり、二人協力して工夫し、十輛ばかりを製造し、その中三輛を飛久がもってきたという。その結果は評判がよかったので、更に百輛仕入れて明治7年11月に高麗橋一丁目に秋葉大助支店と称して、人力車業を開業したという。そのため世人は当時これを大助車と称したと伝える。三井糸店の出身に豊田文三郎がいた。彼は三井糸店の若隠居で、明治初期の大阪人士中一頭角抜きん出ていたという。すなわち言論界・政界・財界などに活躍して多くの自績を生んだのである。高麗橋を鉄筋とするのも豊田による発案であったとされ、大阪初の幼稚園である愛珠幼稚園を創始したのも豊田であったという。また大阪最初の連合区会が東区に設けられた時にも、滝山瑄が議長に、豊田が副議長に選ばれて区会をまとめたといわれている。大阪で催された演説会に町人で演壇に立ったのも豊田文三郎が嚆矢であったという。滝山瑄と共に魁新聞を引き受けたりもした。明治15年に府会議員に当選し、同23年7月には最初の衆議院議員に当選して、府会議員を辞した[83][84]

高麗橋と藤田組

藤田銀行本店
(今橋四丁目)

藤田伝三郎の発祥地、活躍の地は高麗橋にあった。伝三郎が初めて大阪に出て来たのは明治2年というが、そこで大賀幾助なるものにかかえられ、その家業をついで屋を営み、高麗橋二丁目で相当売出した。中野梧一山口県令を辞して大阪今橋三丁目に屋敷を構え、相場師の平原太助を手先に米殻市場で活躍した。彼の今橋の居宅には関西の豪商が続々集り、門前市をなしたという。佐賀の乱から台湾出兵新風連の乱秋月の乱萩の乱と相連なり軍需品の需要が多く、この頃高麗橋二丁目の藤田の靴店も大変な繁昌振りであった。その上藤田は高杉晋作奇兵隊の残党の一人であり、その点からも長閥との関係は浅くはない。その上藤田の実家はで酒造業を営んでいたが、傍ら掛屋をやっていた。大阪の掛屋は大名相手の金融業だが、藩の掛屋は藩士の小身者相手に節季の物成りを抵当に貸付けするものであった。そして長州藩の士分の末班「仲間ちゅうげん」の株を買い、士分とも交わっていた。明治政府の長州の大官は全て下士出身で、旧藩時代節季の俸米を抵当にして藤田家で金を借りていたものが多かった。なので政府当局とは連絡がつきやすく、かつての木戸孝允も藤田の生家とは関係が深く、融通を受けたこともあり、木戸の家と藤田の家とは表裏で、幼少の頃から腕白仲間としてよく遊んだといい、井上馨も同様だったという。このような関係から藤田組が政商となる素質は初めからあったわけである。西南戦争が起こると藤田組は中野梧一と共に征討軍の輜重用達を命ぜられる。軍靴は勿論、被服、糧食わらじに至るまで一手に引き受けて納品した。これまでの店では手狭なので高麗橋四丁目に大店舗を設け、ドイツ人技師を雇い入れ、中国人を使用し、軍靴製造の工場を起こした。藤田組は軍夫、人夫も請負い、戦地でコレラがはやると、石炭酸を買い占めて一挙に利益をおさめた。大倉喜八郎も三菱も三井もこの西南の役で巨利を得たが、大阪では松本重太郎がラシャで儲けた外、群少の成金の中では藤田組が第一であった。しかし世間は藤田組の致富に対して嫉視反感を抱くようになる。これに長閥に対する薩閥を中心とする警視局のスパイ的反感が結びつきいわゆる藤田組贋札事件なるものが起る。藤田伝三郎が明治12年9月15日の暁に東京警視局から乗込んだ百余名の警官に捕縛されたのは高麗橋一丁目の本店からであった。これと同時に今橋四丁目の中野梧一の家、同一丁目の伝三郎の兄鹿太郎の家にも手入れがあり、多数の拘引と大捜索が行われたが、一枚の贋造紙幣も現れず、証拠物件は一つもあがらなかった。藤田組の中野梧一、伝三郎、鹿太郎その外が拘引され、東京に送られ同年12月26日に無罪放免になるまでの間、店務を一人で統べていた人物が伝三郎の実兄久原庄三郎である。この庄三郎の三男が久原房之助である。明治22年慶応義塾を卒業後、海外貿易業を志し、森村組に入ったが、叔父の伝三郎の経営にかかる藤田組の業務整理に際して同店に入り、後に小坂鉱山の経営に任じ、同山を再興した。これが後年、実業家としての久原房之助の腕だめしであった。藤田組・藤田家の勃興期の活躍が主としてこの今橋・高麗橋を中心としてなされたことは注目すべく、後、上記の如く今橋一丁目に本店を置き、ついで堂島に移り、その邸宅をやがて網島に移した[85][86]

大阪商法会議所・三品取引所

大阪三品取引所
(北久太郎町三丁目)

大阪商法会議所は明治11年8月に設立されたが、最初仮事務所は北区堂島浜通二丁目、朝陽館製藍所内にあった。五代友厚を会頭とし、中野梧一、広瀬宰平の両氏が副会頭、加藤祐一、芝川又平の両氏が理事であった。翌12年1月に東区高麗橋通四丁目22番地に新設されここに移った。商業会議所条例が発布された時、商法会議所を解散し、明治23年12月の市内商工業者五十名が発起人となり、大阪商業会議所を設立し、翌24年に堂島浜通一丁目に移った。この高麗橋の跡地は長らく空き地のままであったが、明治26年取引所法が発布され、綿絲、綿花、木綿の三品の営業者はその取引所を申請認許されて、同28年2月21日に高麗橋四丁目において開業した。大阪内外綿木綿取引所と称し、明治29年東区久太郎町三丁目に移り、大阪糸綿木綿取引所と改め、同34年12月より大阪三品取引所と改称した[87]

国立銀行と熊谷辰太郎

第一銀行大阪支店
三十四銀行本店
(高麗橋四丁目)

明治初年に為替会社なるものがあり、大阪にも中之島の大阪通商司役所に大阪為替会社があったが、後に解散した。太政官札その他の紙幣及び藩札整理のため、明治4年12月より新紙幣が発行されたが、これも事実上の不換紙幣であった。これを兌換紙幣に代える必要となり、別に各地に銀行及び銀行類似の金融機関が現れようとしたので、完備した銀行の組織化が要望されそこで国立銀行制度が出来上がった。これは米国の National Bank System にならったものである。この北浜・今橋・高麗橋には色々の国立銀行が出来た。しかしこれより先、本邦の国立銀行の先駆である第一国立銀行(東京)の大阪支店がいち早く高麗橋三丁目に開業した。第一国立銀行は渋沢栄一が三井・小野両組と共に明治6年6月に東京に設立したもので、大阪開店は同年8月であった。ここへ同8年10月に大阪支店勘定改役として熊谷辰太郎が赴任して来た。熊谷は三井組の本山、小野組の野間と共に第一期の簿記伝習生として、明治初年に紙幣寮の御傭英人シャンドから簿記の伝習をうけた人物で、当時比較的に進歩した知識をもっていた。当時の第一銀行は日本銀行が出来る前であり、殆ど中央銀行の観を呈し、政府の出納所出張所として公金を取扱い、取引所や郵便局にも出役し、ある点では中央銀行以上の事務を行っていた。この銀行の有力な支配人であった熊谷が大阪に偉大な勢力扶植したことは偶然ではない。明治10年前後の大阪の財界は五代・藤田・広瀬の三人を中心として行われていた。その人々はいわば藩閥的勢力の上に立っていたから彼等は殆ど資本を顧慮する必要がなかった。しかしこうしたことはこの三人にしてはじめて可能なのであった。一般では漸く資本の供給が熱望されていた。熊谷が大阪に来た時、大阪には第五銀行があるのみで、人々は銀行と取引することは少なく、大阪の財界も極めて幼稚であった。熊谷はこうした時に、取引の拡張につとめ、第一銀行の勢力を伸ばし、大阪の商人に銀行経営の範を示したので、やがて大阪の銀行はみな熊谷を範とした。明治11年には東京の択善会に倣い、当時大阪において輩出した国立銀行の人々、すなわち三十二の外山脩造、五十八の大三輪長兵衛、百四十八の西田永助、十三の草間貞次郎、三十四の原嘉助、四十二の田中市兵衛と相会して、大阪クラブなるものを設け、銀行家以外の人々も網羅して集会所をつくった。明治12年7月には三十二の外山、五十八の大三輪と相談して、米国の例にならって手形交換所を開始しようとし、9月免許を得、12月から開始した。東京に先立つこと三年であった。初めは第一銀行大阪支店の内で交換を練習したという。第一銀行の力は当時としては相当に多大で、大阪倉庫大阪紡績大阪セメント・京都織布・大阪共立銀行・摂津製油・日本生命・大阪商船の諸事業は熊谷と関連をもっていた。明治20年頃における熊谷の勢力は甚大で、各種の集会でも田中市兵衛、松本重太郎の上席についたと伝える。ただし途中で第一銀行の方針が変わったので、熊谷は一切の事業方面には関与せず、専ら銀行事務にのみ従うようになった。上述の如く第一銀行の外、高麗橋には国立銀行が多かった。第三十四国立銀行岡橋治助、原嘉助、野田吉兵衛その他合計七名の発起で、明治11年4月13日高麗橋五丁目で開業したものである。初代の頭取は岡橋治助で、松本重太郎、田中市兵衛と並んで、明治の半ば大阪財界で活躍した逸材であった。大阪金融界にて重きをなした外、一面天満紡績日本綿花、紡績用品会社などを育成した大阪綿業界の草分けでもあった。明治32年小山健三が三十四銀行の頭取となった。小山健三は明治28年8月東京の高等商業学校校長となり、文部次官などを歴任したが、退官後、三十四銀行の取締役・頭取となり、大阪銀行集会所委員長などもなした。松本重太郎の第百三十国立銀行も高麗橋三丁目に明治11年に創立された。松本重太郎はその頭取兼支配人であった。この人物も藤田伝三郎と共に西南の役において、のし上って来た商人であるが、元来、平野町四丁目にて洋反物雑貨商をなして抬頭した人物であった。高麗橋の地はまた毎日新聞、ひいては兼松とも関係が深かった。毎日新聞の前身は明治9年2月の大阪日報で、明治15年2月に立憲政党新聞となり明治18年9月にまた大阪日報に戻り、高麗橋三丁目に移った。これを同20年頃に兼松房治郎が譲り受けて、知人にやらせていたが、後に兼松自身が主幹となって、実業新聞を旗印に改題、第一号を出した。これがすなわち毎日新聞で明治21年11月20日のことである。その発祥地は高麗橋二丁目15番地とされているが、それは堺筋の三井銀行大阪支店の向い側、高麗橋野村ビルの南隅と比定される。兼松房治郎は三井組銀行部(当地は後に三越百貨店が建つ)に明治6年に入店した。銀行をやめてから広瀬宰平と共に大阪商船の設立に奔走し、明治20年には単身豪州に渡り、日豪貿易を開始し、兼松株式会社を起業する。毎日新聞の方は後継者である本山彦一を得てこれに譲った[88][89][90]

三和銀行

山口銀行本店
(瓦町二丁目)

高麗橋四丁目のもと商法会議所のあった場所、すなわち御堂筋の高麗橋と伏見町の間に三和銀行本店があった。この銀行は昭和8年12月9日に鴻池銀行三十四銀行山口銀行が合同して設立したものである。この三行はもとは明治10年から同12年にかけて相次いで創立された国立銀行である。その中一番古いのは第十三国立銀行で、鴻池銀行の前身であった。三十四銀行はもとの第三十四国立銀行で、同11年3月創立、山口銀行は第百四十八国立銀行で、同12年3月の創立であった[注釈 12][91]

島徳蔵

北浜でカネつくりの名人といわれた島徳蔵の邸宅も高麗橋御堂筋西入る北側にあった。島徳の父は徳治郎といって堂島の米仲買人であったが、島は第一次世界大戦前に既に財をなしていた。それは岩下清周から特別な引き立てをうけた為でもあった。島は第一次世界大戦後に大成功をなし、大株理事長となった[92]

伏見町

呉服町

伏見町は江戸時代にはまだ丁目が存在せず、東横堀から堺筋までが本靱町で、もとは塩干魚屋の町であった。堺筋より栴檀木橋筋までは本天満町といった。伏見町は栴檀木橋筋より心斎橋筋までをいい、呉服町は心斎橋筋より渡辺筋までで呉服屋が多かった。西横堀は西横堀七郎右衛門町一丁目で、呉服橋が架かっていた。本靱町はもと靱町といい、本天満町は天満町、呉服町は瓢箪町といった。明治5年3月の改正でみな伏見町の丁目に統一された。山城伏見の地名は古代からあるが、秀吉が伏見城を築き、市街が形成され、商人が集まった。大阪の伏見町もこの伏見に関連している。島之内、船場の地よりも、先に東横堀以東、すなわち上町及び玉造方面がまずひらかれた。秀吉は大阪城築造後この玉造方面に山城伏見の町人を移住させた。それを玉造の伏見町と称え、或いは伏見錦町とも、伏見呉服町ともいった。その町人は専ら呉服のみを商い、城中の御用達もなしていた。天正8年3月に伏見呉服町の町名を許可され、同時に商業の守護神として黄金の恵美須尊像と秀吉の御朱印とを拝領したという。この黄金像は後に伏見町の恵比寿神社の本体として祀られた。当時の大阪の町を形成していたのは堺と伏見の町人で、町名に堺又は伏見の字を冠したものが多かった。上堺町、元堺町、伏見坂町、元伏見町、伏見両替町、伏見呉服町の類で、伏見呉服町はまたの名を伏見錦町ともいった。江戸時代になっても、城中及び諸候の蔵屋敷の呉服物の用達は、全てこの伏見呉服町の一手引受であって、三井・大丸などの大商店も現金商内はともかく御得意先へ掛売する場合は、当町へ一札を差入れての後でなくては「通帳」を発行することが出来なかったほどに権威を有していた。しかし上町・玉造の根本の地にも同業者が増してくると次第に狭隘となり移転が必要となった。元禄年間に現在の伏見町の地に町形を造ることになった。しかし大阪町奉行その他から様々な干渉をうけ、面倒であったので、当町の有力者三名が江戸に下って替地の直訴を得ようとし、途中伊勢参詣をし、御師八羽右太夫なるものの後援を得たという。それによって玉造の呉服町から船場内の伏見町四丁目の地に移ることが出来た。その境域は初め東は中橋筋を限り、西は渡辺筋魚の棚までとし、伏見呉服町と称していたが、後に二つに分け、中橋筋から西へ心斎橋筋までを伏見町、心斎橋筋から西へ渡辺筋までを呉服町と称し、この一区創には呉服商を主とし、諸織物の仕事場や洗張業、湯熨業など呉服に関係ある工人の団結が出来上った[注釈 13]。この一区画の家は各自店の暖簾の色が変わっていて、当時は一種の趣があり「呉服町の五色暖簾」と称し、人の眼をひいた。また伏見町通の西端、西横堀に架かっていた呉服橋は享保の末に架けられたものであるが、当時は伏見呉服町の町有橋であった。この呉服町に墨屋作兵衛なる呉服屋があった。寛政4年の晩年に家督をつぐ者がなかったので、遺産を町内に託し、その元利金をもって橋の架け換え及び修繕費にあてることを遺言し、その妻の死後はこの遺言が実行され、もって明治に及んだ。また秀吉から拝領したという恵比寿像は当町の守護神として崇敬の的となっていたが、別に社殿を設けず、町会所で奉斎し、最初は正月と4月とに祭祀を行っていたのを、後に10月19、20日の両日を例祭日と定め、町内の呉服店は截地残りの端ぎれを売ることとした。すなわち恵比寿ぎれの名で広く人々に知られていたものである。この黄金像は寛政の末、筋違橋東詰の材木納屋より失火した時、当町全部が鳥有となり、御朱印その他が焼失したのに幸いに黄金像は無事であったので、それ以来黄金像の開扉は勿体ないといって、当時の名手部蔀関月に嘱し、黄金像を模写して掛物とし、祭日にはこらを開帳することにした。前述の墨屋作兵衛家の宅地は町内保管となり、家屋はそのまま町持の会所屋敷となったが、明治12年その会所は不用となったので取り払い、恵比寿神社の敷地とし、墨屋が遺財の元利金全部を投じて本殿・拝殿・付属社務所をも新築し、雑社格に列せられていた。ところが明治40年10月10日その筋の論達により、神社の合併が命ぜられ、恵比寿の黄金像は恵比寿神社として、御霊神社の境内に合祀される事になった。それ以来は1月9日・10日、10月19日・20日を例祭日と定め、この町内から祭典費を納め、1月は「小宝」10月は「紙製の」を参拝者に公頒つこととなった。ところが戦後、町内の共有財産は市のものとなったので、この遺徳を記録した碑を建てることになり、呉服橋北詰の地に墨屋作兵衛をたたえる碑が立てられた。昭和27年4月伏見町の有力者が発起人となり、安治川から引き上げた大阪城築城用の石と伝える石を刻み、五十万円で作ったという。また「墨屋作温古会」が組織され、秋分の日には生玉の円通寺で墨屋作兵衛の法要をいとなんでいる[94]

伏見町の町並み

昔の伏見町は現在の伏見町三・四丁目周辺で、栴檀木橋筋より心斎橋筋に至る間で、ここには唐物を扱う問屋が集中していた[注釈 14]。唐物は唐巻物・反物といい、その濫觴は天文年間で、唐物商と称して、外国船が堺港で貿易する商品に属していた。その後天正年間加賀国の斎藤九郎右衛門が豊臣氏に従って大阪で唐産茶番御用をつとめそれによって住地を伏見町に賜り、以降加賀屋と称して同地において舶来品取扱いの業を創めた。これが舶来品取扱い業の最初とされる。その後、斎藤氏は子孫数人を分家させ、いずれも加賀屋を家号とし、この辺りにて同業を営んだ。舶来品売買は加賀屋称のものの外は許さなかったので、此業を営もうとする者は皆家を伏見町に移し、他の家号を去って加賀屋と改称した。当時は長崎のみが唯一の貿易港となっていたが、この長崎にて清・蘭よりの輸入品を入札する本商人は長崎・堺・大阪・京都・江戸の五ヶ所の商人であった。そして五ヶ所商人が落札した荷物は必ず悉く大阪に輸送され、この加賀屋一統がこれを引き受けることになっていた。ところが天保6年に同業中主立ったもの数名が申合せ、唐巻物・反物を取扱うものは五軒問屋と称し、薬種並びに砂糖荒物を取扱うものは唐薬問屋と称し、これを東横堀辺に移した。そしてその仲買は従来の地に置き、仲買の内一名をあげて改役とし、長崎商人の手を経た物品と抜荷を検査させ、かつ他所積の荷は必ずこの改役の手板を添えて売買することに定めていた。このため改役は官より年々銀一枚づつを給せられた。また五軒問屋は享保6年4月に株数五軒と定められ、御免株であったために冥加金をおさめなかった。正しくは唐糸端物五軒問屋、長崎糸端物五軒問屋或は唐糸端物五軒問屋といい、唐反物問屋とも記された。また唐巻物反物問屋ともいった。享保5年3月の古文書によると五軒問屋には加賀屋与兵衛、加賀屋四郎兵衛、同七郎兵衛、同庄五郎、炭屋作兵衛の名が見える。その中炭屋を除いてはみな加賀屋一統のものである。その内、加賀屋(池田)四郎兵衛の家が最も繁栄していた如く、文化年間頃伏見町三丁目から道修町四丁目へと移っている。当地は後に高安病院が建てられた[96]

百足屋又右衛門家

芝川ビル(旧芝蘭社)
明治村に移築された芝川又右衛門別邸

伏見町三丁目には古くからの貿易商として百足屋又右衛門家があった。しかしこの家は五軒問屋ではなく、嘉永5年に伏見町で唐小間物業を開業したものである。芝川百々翁がこれで、淡路船を利用して長崎と通交した。幕末の神戸開港にて、往古よりある唐物商仲間が無力になったのに乗じ、新たに本組商人と称え、二十八名の組合を組織し、百足屋又右衛門は大阪神戸両所本商人の総代になるに至った。そして慶応頃から奥縞、羅紗、袱綸などを輸入しはじめ、大いに擡頭するに至った。大阪の布屋喜兵衛(山口吉郎兵衛)もまたこの頃から横浜にて輸入問屋を開いた。幕末から明治初期にかけて洋銀売買が必要になると、芝川は神戸にて洋銀の両替商を開いた。また大阪にて貿易に関する両替屋を計画し、通商司の賛同を得て、伏見町四丁目にて来谷復平なる名義の両替店を開始した。これは芝川の外、殿村平右衛門、石崎善兵衛、中原庄兵衛、殿村伊太郎、山口伝兵衛、豊田善右衛門らの組合組織であった。これは主として貿易の便宜をはかり、引取・売込商を取引の主なる客とし、主として洋銀の売買をするものであった。明治8年百々翁は家督を長男に譲り、又平の旧名に復し、長男が又右衛門を襲名して、貿易事業で大いに活躍した。また、西宮の甲東村一帯の土地を取得し、明治29年には甲東園と称する果樹園を拓き、その一角に明治45年、武田五一設計による和洋折衷式の別荘が建てられた[97][98][99][100]

辻忠右衛門・日下部平次郎

五軒問屋ではしばしば株の譲渡が行われていたが、天保4年7月に滋賀屋忠右衛門が加賀屋弥三右衛門から株を譲りうけた。嘉永4年頃の五軒問屋は、小橋屋伊右衛門(両替町三丁目)、田辺屋作兵衛(本天満町)、加賀屋四郎兵衛(道修町四丁目)、炭屋順治郎(安土町)、滋賀屋忠右衛門(本靱町)となっていた。辻忠は近江国滋賀郡堅田の出身で、正徳・享保の頃忠兵衛正治が大阪にいで、梶木町に住み、天王寺屋忠兵衛と称し、両替屋を営んだ。四代目忠兵衛の実弟正倫が、天保4年7月分家して本靱町に移り、加賀屋弥三右衛門の株をうけて五軒問屋の一人となったものである。本靱町は現在の伏見町一丁目で、昔はここに魚市場・塩魚市場があった。天正の頃天満鳴尾町(現・天神西町)の辺にまだ魚商売人達が住居して渡世していた。ところが大阪城築城後、伏見・堺の商人を大阪に集め、諸商人にして北組南組に移るものが多くなった。鳴尾町の魚商人も次第に船場に移るようになった。これが靱町、天満町である。靱町の町名の由来は、秀吉が市中巡視中、魚をひさぐのに「ヤスヤス」というのを聞き「矢栖(矢の巣)々々」というのは太平の称であるので、この町名を靱と唱えよと上意を下したことに由来するという。天満町は鳴尾町から引越した由縁から天満町と名付けたという。このうち生魚を取扱う雑喉場は元和4年上魚屋町(安土町一丁目、備後町一丁目)に移り塩干魚のみもとの地に残っていたが、その後元和8年に靱町、天満町両町の商人はこの地が船着場に遠く塩魚荷物の運送に不便であったので、淀屋个庵・鳥羽彦七の両名をもって、津村の田畑葭島を新地に開発の願出をし、葭島の下付を請うて、町奉行島田越前守久貝因幡守の許可を得て開発し、新たにここに移住して元の靱町・天満町を本靱町・本天満町と改め、新靱町・新天満町が同時に出来上った。しかしこの新靱町・新天満町も荷物発着の水利に不便であったので、寛永元年海部屋某の願出により町奉行所の許可を得て海部堀川を開鑿した。明和4年海部堀川の北岸に四十間の埋立をなし、更に三間の水道を掘った。この水道は川の直角する所にあって永代堀・永代浜と呼び、塩魚荷物の陸揚地となった。塩魚商はこの新靱町・新天満町・海部堀川町の三町に移住したが、海部堀川の開鑿によって忽ち発展し、この三町のみならず、付近の油掛町・信濃町・海部町・敷屋町・京町堀三丁目、四丁目、五丁目に分布散在するに至った。これを総称してまたは靱島と呼んだ。この新靱町・新天満町・海部堀川町の三町に住する者を株元といい、外を五組といった。このように西大阪または西船場(下船場)に移ったものであるが、船場の地にもこうした市場の町が初期にはあった。なお伏見町五丁目(現・伏見町四丁目)には日下部平次郎の家があった。日下部平次郎は明治元年大阪に来て、某商家につとめ、役2・3年外国貿易をなし、香港に渡航し、その後も雑貨の輸出をはかった。帰航には舶来商品を輸入した。また大阪商人として直接海外市場との取引を開始した先駆者であった。明治5年香港に店舗を設け、日森洋行の名をもって直輸入等に従事し、同23年11月高麗橋二丁目に日下部商店を開き、同25年6月伏見町五丁目に移った[101]

木村蒹葭堂

『木村蒹葭堂像』谷文晁

伏見町通淀屋橋筋東南角に木村蒹葭堂が居住していた。名は孔恭、字は世粛、通称坪井屋吉右衛門を号とした。元文元年11月28日北堀江通五丁目(現・北堀江四丁目)に生れた。邸宅の井戸に一片の古い芦の根が出たので浪華の芦ならんとて、蒹葭堂と号した。博学多芸、書及び詩文に通じ、物産本草学に精通していた。資性奇を好み、多くの典籍・古書画金石標本を収蔵し、四方好事の士で、蒹葭堂を訪問せざるはなかったという。中年にして酒造過多の嫌疑をうけ、寛政2年秋一家をあげて、伊勢長島領の川尻村に移ったが、同5年正月には帰阪して、伏見町に住し、文房具をひさいでいたという[102]

道修町

北山道修

道修町の町名の由来は北山道修の名によるという説がある。中国北山県の馬栄宇という医師神農氏の像を携えて来朝し、肥前国長崎に住して医業を開き、丸山の妓を妻とし、その子供が長じて父の故郷にちなみ、北山の姓を名乗り、父について道を修めたので、道修と名乗った。北山道修はその後、長崎を出て、河内国金剛山の麓に住んでいたが、迎えられて浪速津に移った。そしてその優れた医術が盛んになるに従って、薬種の店が門前に集まるようになり、ついには店舗を構え、いつしかそれが街をなす様になったという。そして道修の門前町について、道修を記念して道修町と称することとなり、ついには薬品市場ともなるに至ったというのである。なお道修は北山寿安とも称し、本名は道長で、道修は又の名、号を友松、仁寿庵、逃禅堂といった。元禄14年3月15日に没し、著者には『北山医薬』『北山医話』『方考評議』等があるという。また室町時代末期に北山道修が道修谷に来て住したので、自分の名を道修に改めたという説もある。道修谷は道修町四丁目辺りにあったとされ、ここには田辺家の菩提寺大福寺があり、後に上本町に移されたという。天王寺区六万体町太平寺には「北山大日大聖不動明王奉安所」と書かれた木札がかかっていた。本堂北側にある石像がそれであるが、「風吹不動」「目病不動」とも云われた。戦災で消失してしまったが、戦後再建された。この不動像は、北山道修が医術による衆生の救いを悲願として、等身大の不動明王として安置したものだという[103]

道修町の町並み

道修町は秀吉の時代から既にある程度の町が形成され、明暦3年の地図には整然な市街地がみられ、同4年7月に奉行所より「御改に付、薬種三十五味真偽の次第相改商売可仕旨道修町薬種屋中、家持十一軒借家二十二軒、惣連判をもって、公儀へ一礼差上」という記事が仲間古記覚書にあり、多くの薬種屋が集っていたことが判る。延宝7年版の『難波雀』によると、商業集団地域を列挙している中に、道修町には薬屋の集団の外、屋、箪笥屋、屋の集団があり、隣町の伏見町には唐物屋、呉服屋の集団、平野町には屋、両替屋、象牙屋、つかや、包丁屋、なまりや、弓矢屋、すびつ屋などの集団があっげられており、その頃は立派な商業街区になっていたことが判る。大阪には難読地名が多く、道修町もその一つに数えられる。語源については『難波雀』の中に、道修町に箪笥屋の集団があげられているが、その所在地を「道修谷せんだんの木橋筋」と書いており、これは現在の三休橋筋とされる。道修町三休橋筋辺りに箪笥屋が多かったわけであるが、この辺を道修谷と古くから呼んだという。足利時代にはこの辺りを道修谷と記録されており、石山本願寺の門前町が出来る前、この辺は相当低地であったとされ、凹地でのようになっていたという。丼池という字もこれに関連する。『摂陽奇観』にも船場の地は往昔所々に谷のような高低があったとある。元来大阪には清水谷や鰻谷や桃谷といった谷の付いた地名が多く、道修町も道修谷に由来すると想定される。また一説には道修寺という寺にちなむともいわれる。元和元年松平忠明が赴任して以来、都市の復興計画を行った際、将来における市街の発展を予測して市中及び接近町村に散在していた諸寺院の基地を一定地区に整理統合したという事実が記されている。この事は市内に相当寺があったことを裏書きするものである。また東横堀川を開鑿した時に現在の本町橋下流の川筋を曲げている(俗称「まがり」)のはその西岸にあった豊臣氏が信仰していた寺院を動かすことをはばかった為と云われている。また農人橋以西の地は寛永年間までは田畑や蘆荻に被われていたということから考えても、概ね寺院は北船場に多く、こうしたことから道修谷付近に道修寺という寺があったと想定される。『摂津名所図絵大成』(安政-万延)巻十三には「高麗橋通より三筋目にあり、凡五六丁の間すべて薬種の問屋軒をつらね、和漢の薬種の真偽を糺し、買いたくはへ、上品と下品とを撰りわけ、或は乾し、塵を除くあり、刻むあり、而して諸国の薬店の注文にまかせて、互妻のはてより、筑紫がたまで運送するをなりはひとす」とあり、端的に道修町の景観をあらわしている。このようにして揚店をつけ、出し櫃を置いた道修町の店構えが軒並になっていたのである。この道修町は伏見町とも関連している。斎藤氏が住地を伏見町に賜って、舶来品取扱の業を初めてよりこの地がそうした中心となったが、上記の如く享保ごろからはっきり薬種商が伏見町東横堀に移った。そして当初は平野橋を中心として東横堀川両岸筋と平野町の船場地区へかけて問屋が並んでいたようで、現在の道修町は寧ろその北裏町であり、淡路町はその南裏町であったとも考えられる。すなわち平野町が小西長左衛門や長崎屋など堂々たる門戸を張っていた表町なのに対し、道修町はその店売場であったと思われる。何故なら伏見町では西横堀に呉服橋があり、平野町にも平野橋があるが、道修町には橋が架かっていないので、その為に裏町であったというのである[104][105][106]

小西一統

道修町の薬種業者は秀吉の政策にはじまり、吉宗の時代に基礎をおいたといわれる。この頃から裏町程度に見なされていた道修町が薬種商の中心街となっていった。しかし道修町は初めから薬種商の集中する町であった。それは小西吉右衛門の住地であったことからも窺える。博多と共に中世における最大の貿易港であった堺には有名な豪商が輩出した。小西一族もそれで、小西隆佐は中世末におけるその統領格の人物であった。その息子に小西行長がいた。彼は父からついだ商才に侍の魂を忘れず、秀吉側近の財政経済策実践家として活躍し、キリシタン大名として文化的にもすぐれていた。また堺の薬種商小西弥九郎の末裔の吉右衛門は堺在住中、既に名字帯刀を許されていたが、寛永年間将軍徳川秀忠の命により大阪に移り、道修町一丁目に住して薬種商を家業とし、大阪の復興に尽くしたと伝える。この家は道修町における小西姓を名乗る薬種商の本家と仰がれ、かつ長崎本商人の一人として重きをなして、幕末に及んだ。その他平野町の小西長左衛門家も有名な薬種問屋であった。小西姓の薬種問屋からは小西来山も出ている。来山は松尾芭蕉と左右しつつ、元禄俳壇を固めた代表俳人の一人である。来山は承応3年船場平野町八百屋町筋東入る薬種屋小西六左衛門の一子として生まれた。小西の本家は堺であったが、来山の晩年には堺の本家をも合併して盛大となり、大きな店舗を張っていた。来山は幼年から文芸に縁があって、俳諧にて名をなしていたが、四十歳で今宮に草庵、十万堂を結んで悠々の生活をしていた。これは「大阪も大阪まん中に住てお奉行の名さへおぼえず年暮れぬ」の句が累をなし、お上を軽んずるものであるとして、三郷払い(大阪退去)を命ぜられ、今宮へ住したという説がある。淀屋辰五郎や木村蒹葭堂などと共に町人と官僚とのいきさつを物語る話材ではあるが、来山の場合はそのような理由ではなかったといい、この句が当局の忌諱にふれたとすれば遺稿集「今宮草」に出す事を遠慮すべきであるのに、堂々と掲載している。如何に旧幕府の役人といえども、無謀なことばかりをしていたわけではない。かえって民間の文芸家や学者とは武士の方から辞を低くして教えを請うている。これはやはり来山が無常心にうたれて、隠栖したもので、外部からの圧迫ではなかったとされる。ともかくこの「御奉行」の句には、政治の事などに関わり合うよりも、まずもって脚下に関心をもつという大阪の町人気質ががっちりと出ている[107]

小西儀助商店

小西家住宅(旧小西儀助商店)

初代国谷儀助は天保7年京都に生まれ、儀助の兄が烏丸二条の薬種問屋小西市兵衛に奉公し、別家して小西を称した。初代はその跡継ぎとなって小西儀助となった。安政3年に浴衣一枚と天保銭一枚を持って大阪に出て、伏見町中橋筋の田林利兵衛の薬問屋に奉公し、道修町中橋筋の塩野屋吉兵衛の四男である塩野惣三郎のところへ勤めた。そのかたわら、道修町堺筋南入る東側で菓子商を行い、近隣の備六という薬の老舗の主人が亡くなり、跡継ぎもないので店を買ってほしいと頼まれたので、明治7年に古薬や古道具込みの「居抜き」でこの家を購入し、ここから薬の小売りを始めた。二代目小西儀助は元の名を北村伝次郎といい、彦根の鶴屋という薬屋に奉公し、明治9年大阪へ出て鶴屋の取引先である道修町の赤根屋を訪ねた。しかしそこは逼塞していたので、向かいの小西屋に紹介され、そこへ奉公に上がった。ところが小西屋は伝次郎が奉公して二ヶ月ほどで商売に行き詰まった。そこで伝次郎は大阪に薬の刻み職人が少ないことに目をつけて、彦根時代に身につけた経験を生かして薬の刻みを始めた。そして三年後店は立派に立ち直り、伝次郎は主人に勧めて三年前にまけてもらった取引先に返済し、お詫びとお礼の意味で平野町の丸水楼という料理屋に招待したところ更に信用を回復し、その後の小西儀助商店の暖簾を支えることとなった。明治13年2月伝次郎は小西儀助の長女きしと結婚し、翌年11月に入籍して小西家の養子となった。初代が亡くなり、二代目小西儀助が本家を相続し、道修町堺筋南東角で薬店と洋酒店を取り扱った。初代小西儀助は、明治9年に関西初の洋酒製造を始めた。洋酒は当時、薬品とみなされており翌年には混合白葡萄酒リキュールブランデーシェリー酒などの販売を手掛けた。ビールは明治5年に堂島で製造された渋谷ビールが嚆矢とされるが、初代儀助は明治17年に天満橋筋一丁目に「朝日麦酒」の製造を始めた。明治21にビール製造から手を引き、その時種々の権利を他へ譲渡したが、その流れはアサヒビールに引き継がれ、その後「赤門印」の葡萄酒を製造した。その頃に小西儀助商店へ商売の修行に来ていた釣鐘町の両替商の次男で大阪商業学校を出た鳥井信治郎は、明治32年に独立し、西区靱で葡萄酒製造販売を始め、赤玉ポートワインサントリーウイスキーなどの商品を製造した。二代目小西儀助は、明治33年頃からは化学薬品の輸入販売を始め、景気もよく商品も順調となったので、道修町堺筋北東角に店の建設を開始した。もとあった五、六の家をつぶしてその跡地に沢山の石を入れて地盤を固めて三階建ての家と三棟を構えた。完成までに三年もかかったという。店の東半分は食料部、西半分の堺筋側は薬品部で堺筋からも出入り出来たが、初めから道修町が表であった。明治42年に堺筋が拡張されると、堺筋北側に店の続きにあった三軒の借家をつぶして現在の規模になったという。舗道は市の道路であるが、自費で御影石の石畳を敷き、の並木を植えたと伝わり、当時の堺筋で舗装が出来ていたのはここだけで他の舗道は土道であったという[注釈 15]。大正9年には店の入り口に英国製のガラスが飾られた。正面玄関は堺筋ではなく、道修町側にあり、当時の船場は東西の通りを主軸にしていたことを物語っている。谷崎潤一郎の『春琴抄』は道修町が舞台であるが、谷崎もこの家を見に来たという。昭和25年の春、合成樹脂の分野に参入し、合成接着剤の時代を予測して、昭和27年に「ボンド博士」と呼ばれた沖津俊直と共同で「ボンドのコニシ」が始まった。平成8年小西儀助商店主屋と三つの蔵文化財に登録され、同13年6月に重要文化財指定となった[108][109][110]

薬種仲買と和薬種改会所

正徳年間の唐和薬種仲買は二百二十九人であり、延享年間の唐和薬問屋仲買の組頭は内平野町伏見屋久兵衛、同町河内屋七郎兵衛、淡路町一丁目小西茂兵衛、道修町一丁目糟屋久右衛門、平野町一丁目日野屋清三郎である。また『大阪商業史資料』によると「薬種問屋は道修町二丁目に百三十五戸、仲買百九十四戸」であった。一般に薬種はその性情の識別は容易でなく、また価格変動の著しい事のために、偽物販売、抜荷の取扱もしくは占売、買占め、暴利等の不正行為が行われがちで、為政者、当事者共に悩まされてきた。享保7年8月に淡路町一丁目に和漢薬種改会所が開設されたが、それはこれを取締るために外ならなかった。そして従来諸薬種の吟味を行っていた百二十四軒を仲買仲間株として公認し、仲間寄合を道修町三丁目に設けたという。この株百二十四軒の公認は、八代将軍吉宗が南紀に入城の途中大阪で病み、侍医の献じた薬湯で忽ち本復し、その薬を道修町で求めたものであることを聞いてその御感斜めならず、かくは公認されたと伝える。享保8年12月に幕府は和薬問屋を二十軒と決定し、全国より大阪へ積出してくる薬種は一応、この二十軒の問屋に入荷させることにし、ここで薬種の性情を吟味識別してからでないと売捌き得ないことにした。このようにして仲買仲間と問屋仲間との二つの株制度が確立されたのである。実際の薬種の取引は仲買仲間が中心で、仲買は薬種吟味の上、責任をもって産地と問屋の間、また問屋と下部機構の薬種屋との売買を仲介すると共に、自ら問屋から買入れて、加工小分けをしてまた売出していたという。一方問屋は産地から直接集荷または仲買を通ずる集荷にかかわらず、一応全和薬種を取まとめ、その真偽検査を行い、仲買を通じて売捌きを行っていた。江戸積については、江戸積仲間と称する問屋の連合体があり、問屋仲間から買入れて積出を専門にするものもあった。外に唐薬問屋があった。これは伏見町に発祥し、最初は唐物問屋として反物薬類その他を取扱っていたのが、享保6年に薬種関係を分離して、伏見町東横堀に集結した。長崎本商人から唐薬問屋が落札入荷した唐薬はまず道修町仲買仲間に通牒され、相場建をして価格を定めて売出したもので、これに仲買仲間が仲介することも前同様であった。その外仲買仲間の分家、別家として、薬種商となったものを脇店(わきみせ)といった。脇店は道修町以外にて居住せねばならず、出商売または見世商売をやっていたもので、もし仲買仲間に欠員が出来たら、これを譲り受ける権利を付与された。脇店は二つあり、平野町と伏見町は準脇店であり、瓦町は本当の脇店であった。その他に薬種屋(木薬屋ともいう)トンビが大阪各地に散在していた。これらは仲買を通じて和薬唐薬を買入れ、小商売をしていた。その数は宝暦14年には七百余軒あったという。天保8年の大塩の乱によって道修町はその東半部が焼失の被害にあった。天保改革における株仲間の解放に際して、これらの道修町薬種仲買仲間、唐薬問屋、脇店仲間薬種商は唐薬取扱と「病用第一の品」のために一様に唐薬屋の名称のもとに総轄し、年行司として、これが取締に改められた。但し嘉永再興令によって復活したが、和薬種改会所は廃止され、取締仲間自らにおいて行われた。大阪の医師で詩人の田中金峰の著『大阪繁昌誌』には「道修坊は伏見街の南に在り、戸々皆な薬舗、舗前之を駄し、之を車し、之を担ひ、之を船にし、東奥に輸し、西薩に運び、春夏秋冬、朝夕昼夜絶えず輟まず、路上往来の人薬気鼻を薫し、薬埃眼を昧す」これが文久頃の道修町の風景であった。大正9年の軒切で様子をかえたが、昭和の初期にはまだその俤を残していた。両側の店先には荷造りの屑や切れが、自転車の数々と共にあり、空が積み重ねられ、道端が仕事場となっていた。人々はその身分に応じて前掛姿で働いていた。また後にはカーキ色ズボンで労働に従事したりしていた。またかつては出しが道修町の名物であった。店先に床几のような揚げ出しがあり、その揚げ出しに白い箱を置いていた。これを出し櫃といって、正面には屋号を書いて、横手にその店のマークを書いていた[111]

少彦名神社と祭礼

くすりの道修町資料館(左)と少彦名神社(右)

道修町には少彦名神社があり、通称「神農さんの御祭」という秋祭があった。これは少彦名命すなわち薬祖神を祀るものである。安永9年京都の五条天神社の祭神の一柱の少彦名命を薬祖神として、大阪道修町の寄合所に勧請したのがはじまりで、当初は寄合所の邸内で神棚式の御祀りの仕方であったが、大塩の乱以後の天保11年、庭上の一隅に宮居を建てて遷座した。元々薬種業者は伊勢を組織していたが、この神社が出来てからは後に薬祖講となった。少彦名命を中国の薬祖神である神農氏から神農さんと呼ぶが、享保7年に和薬種改会所を開設した時にも、神農氏を祀っていた。安永9年に少彦名神を奉斎してからも、人々はなお「神農さん」と称した。少彦名神社の例祭日には、につけた張子を授与される習がある。これは文政5年にコレラが流行した時、道修町の薬種商が協議し、疫病除薬として「虎頭殺鬼雄黄丹(ことうさっきゆうこうたん)」という虎頭骨等を配合した丸薬を施与した。その効能は顕著であったので、市民は大いに感謝した。初めは百人に限定で施与したもので、黄色の丸薬を小袋に入れ、笹につるした。少彦名神社の秋祭りは賑やかで、辻々には大笹を建て、枠にはまった辻台提灯の献燈が掲げられた。所々では和漢薬で趣向を凝らした造り物が出来たり、素人浄瑠璃の会が催されたり、店頭は片付けられて、金屏風緋毛氈活花などで飾られ、平生とは様相が一変したという。神社では神楽が間断なく奏され、賽者には張子の虎が授与されるが、大衆がそれを待っているうちに「おっさん虎おくれ」の声が上がった。そのため「虎おくれ祭」の異名があった[112][113]

田辺五兵衛家

田辺屋は元禄頃から江戸堀にその一族が住んでいた。俗に田辺屋橋筋という通りがあったという。享保年間、道修町薬品市場が幕府によって公許された頃から、田辺屋は道修町に住した。田辺五兵衛は明治初年当時、舶戴した洋薬に着目してこの取扱いに転向し、明治6年に開校した精々舎にて製薬を学習し、明治10年に道修町最初の製薬工場を設けてアルコールエーテルの製造を開始した。そして明治18年には北区同心町に製薬所を興し、田辺製薬の基礎を固めたのであった。その後英、米、等各国に製品を輸出するようになり、大正5年には川崎町に本社工場を、大正14年には山口県小野田市に小野田工場を設け、昭和13年には東淀川区加島町に加島工場を建設して、近代的製薬業者としての規模を整えるに至った。昭和8年に株式会社田辺五兵衛商店を創設し、同18年にはマルコ印のマークを社章とする田辺製薬株式会社となった[114]

塩野義家

創業者塩野義三郎は道修町で生まれ、明治3年頃から神戸の中国人を訪ね、取引に行ったが、丼池の浜から和船で天保山に行き、帆をかけて神戸に向かったという。明治17年3月道修町三丁目に個人商店として和漢薬の販売を始め、その後、西洋医学の発達に即応して、明治19年に洋薬に転換した。大正8年6月長男正太郎が管掌していた薬種問屋と次男長次郎の管下にあった製薬事業とを、統一して株式会社塩野義商店とし、続いて翌大正9年2月に長男正太郎に家督を譲り、義三郎自身は隠居し、名を義一と改称し、義三郎は長男正太郎が襲名した。隠居後は池田に移り、読書や散歩で余生を送ったという[115]

武田長兵衛家

初代近江屋長兵衛は寛延3年に生まれた。宝暦5年大阪博労町の綿商で叔父にあたる河内屋武兵衛の養子となった。その後道修町二丁目中橋筋東入る南側で薬種仲買商の近江屋喜助へ丁稚奉公に上った。その後道修町二丁目堺筋南西角へ別宅した。天明元年6月12日ここに薬種仲買として店舗を開いた。寛政末、同町難波橋筋西入る南側四軒目に居を移し、更に文政元年に道修町中橋筋西南角屋敷に居を移し、文政3年にこれを買入れた。近江屋長兵衛を略して「近長きんちょう」と呼ばれ、店の印には「抱き山、本」が用いられた。明治初年から同11年頃まで道修町で扱った商品は殆ど和漢薬ばかりであった。この頃は四代目長兵衛の時代で、彼は洋薬の輸入に着目し、以降は和漢薬から洋薬本位となった。これらの洋薬は全て外国商館を通じて取引がなされ、始めは横浜が主であったが、その中でもアーレンスというドイツ人がよくやっていたようである。その後神戸の外国商館の方に移ってからは取引はここをも通してなされるようになった。当時武田には小川安兵衛(小川香料店主)という人物がいて店の仕事に非常に功績があった。外国商館との取引に特別な熱意を示し、大賀寿吉という人物を武田に紹介し、この紹介でロンドンのダフという店と取引するようになり、主に工業薬品を輸入した。また内地の営業関係では松井喜助があった。武田長兵衛商店では明治28年内林製薬所を専属工場にした。明治37年四代目長兵衛は隠居して長四郎と改名し、長男の重太郎が家督を相続して五代目長兵衛となって経営に当たることとなった。五代目長兵衛は営業方面の拡張をはかると共に、明治39年には武田薬品試験所を創設し、翌41年には大阪市外の中津村に工場を設けて内林製薬所をここに移し、自家製薬の拡充につとめた。大正7年に新薬部が設置され、同11年に武田化学薬品株式会社を創設したが、同14年にはこれと武田長兵衛商店を併せて、株式会社武田長兵衛商店となり、昭和3年には道修町の本社が耐震耐火鉄筋コンクリート三階建に改築された。昭和18年8月には社名を武田薬品工業株式会社に改称した。同時に五代目長兵衛の長男鋭太郎が六代目長兵衛を襲名して社長となり、五代目長兵衛は和歌かずのりと改名して相談役となった。また昭和28年4月6日には創業百七十周年の記念式典が挙行された[116]

上小澤能敏

道修町心斎橋筋東南角に旧上小澤内科病院の町家がある。創業者の上小澤能敏は京大医学部を卒業後、京大医学部病理学の教室につとめ、大正12、3年頃に上小澤内科を開業した。特に野村徳七のかかりつけの医者として活躍し、彼が国外へ出向く際にも主治医として同行した。また病院の向いに白井松医療器械店があった[117]

高安一家

高安病院

高安道純は本姓香川氏、天保8年10月今橋一丁目に生まれ、後に瓦町二丁目の高安杏山に養われ、安政3年にそのあとをついだ。篠崎小竹・広瀬旭荘について漢学を学び、緒方洪庵・ボートイン・エルメレンス・アンスフェルトについて医学を修めた。慶応3年10月大阪町奉行により大阪在住常備兵隊御雇医師を申渡され、十五人扶持を賜った。明治2年鈴木町旧代官所跡に大阪仮病院が創設されてから同13年の春まで勤務した。初め中之島に病院をもったが、後に道修町四丁目丼池筋北西角の加賀四郎兵衛家跡に三階建て洋館の近代的病院を開いた。この時、土蔵のあとに銀銭が埋没してあるのを発見したという。高安道純の子弟に高安三郎(月郊)、道成、六郎の三兄弟があった。高安月郊は早くイプセンの劇を翻訳紹介し『桜時雨』を著した。高安六郎は吸江と号し、劇評家・能楽研究家として著聞していた。高安道成はイギリスとドイツに留学し、帰国後、高安病院を継いだ。また「市外居住の利益」と題する講演を行い、自らも家族と共に浜芦屋の別荘に住んでいた。道成の妻、高安やす子夫人は歌人として、麗人のほまれをもって一世に喧伝された。与謝野晶子の門下で、大正7年には芦屋における女流短歌会「紫絃社」を結成し、翌8年に第一歌集『内に聴く』を著した。また絵画では亀高文子らが結成した「朱葉会」に加わり、大正13年には神戸に引っ越した亀高に依頼して「赤艸社女子洋画研究所」の設立を働きかけている。大正13年頃、与謝野晶子の明星派から斎藤茂吉アララギ派に転向した夫人は、社交界での活動を断ち、子女の養育と自己の作歌に専念し、昭和16年には第二歌集『樹下』を著した[118][119][120]

道修町付近の文運

道修町の名の由来は修学修道にちなむという俗説もあるが、しかし古来から道修町付近には私塾が多かった。懐徳堂や梅花社、適塾、泊園塾、広瀬旭荘の家塾も道修町周辺の旧愛日校区にあった。道修町は町人学者も輩出しており、とりわけ俳諧俳句においては小西来山をはじめ著名な人物が出ている。また芭蕉は晩年道修町の薬でその病を看護されたと伝える。大阪の芭蕉の俳人、之道は道修町一丁目の薬種商の出身であり、園女は難波橋南詰東角(現・北浜二丁目)、上島鬼貫は伝馬町(現・北久宝寺町四丁目)、鴻池百三は尼ヶ崎町二丁目(現・今橋四丁目)と、いずれも道修町に近い地に住んでいたが、椎本才磨は道修町五丁目に住んでいた。江戸にはたえず往復し、初代市川団十郎らもその門人であったと伝える。来山の高弟宇陀野文十は淡路町に住んでいたらしく、大伴大江丸は高麗橋一丁目で代々飛脚問屋を営む旧家であったという。並木五瓶は道修町の木戸役の和泉屋に生まれたと伝える。天保年代において梅宝と論戦した天来もまた道修町一丁目に居を構えていた。明治時代には大阪に正岡子規の俳風が風靡するようになり、松瀬青々が大川町に生まれ『宝船』や『倦鳥』によった。また子規門下の松村鬼史は北久宝寺町二丁目に住み、山中北渚は北浜三丁目に住していた。水落露石は本名庄兵衛、家は小間物屋を業とし、安土町二丁目に生まれた。明治大阪の町人学者として注目すべき人物で、聴蛙亭の別号があった。明治30年に子規が露石の運座の硯に題して「来山は消し炭淡々はいぶり炭」という句を寄せたが、これは露石の関西俳壇における燃焼力を暗示されたものである。露石は大阪町人文化の発揚にも尽くし、大正5年に再建した懐徳堂のために永田仁助と共に町人発起人として名を列している。道修町を舞台とした『春琴抄』は谷崎潤一郎の耽美文学の真髄を示す代表作であるが、生まれつき音曲の好きな盲目の「こいさん」にまつわる温井佐助の悲愛もまたこの町の古い町並みの中で醸し出されたものである。こうした伝統に培われ、道修町の地から大正の俳壇を背負う俳人が輩出した。青木月斗は明治11年道修町東横堀の医薬通快丸の本舗に生まれ、通称は新護であった。始め月兎と号したが、後に月斗と改めた。明治31年満月会を起し、天王寺中学校卒業後、山中北渚、松村鬼史、芦田秋双等と『車百合』を発刊し、大正中期に『同人』を編し、新俳句の発展につくした。芦田秋双は明治16年平野町四丁目の化粧品商の小倉屋に生まれた。天王寺中学校卒業後、月斗と会して子規派の新俳句を興し大いに努めた。始め秋窓と号し、後に秋双と改め『車百合』の同人であった。特に画筆に優れ、俳画において後進を誘導して功績があった。島道素石は明治5年道修町三丁目の漢薬問屋の家に生まれた。通称勘四郎で、後に素石と号した。京都派大谷句仏、中川日明、水落露石等と会し、俳誌『からたち』を発刊し、新俳句運動に大いに気勢をあげた。このように道修町は大阪俳壇または関西俳壇の中心地であった。かつての道修町は市電で堺筋を通っても三越前をすぎると薬品の匂いが漂い、道修町だとすぐ分かる位であった。夕方の店の仕舞時はどの店も店先の座布団を二枚両手に持って叩いたという。和漢薬の埃が枚散り、若い娘などはわざわざ伏見町や平野町へ廻り道する位であった。このような殺風景な道修町が俳諧の中心地であったことは注目すべき事であり、どんな環境であってもそれに順応して、そこに生き甲斐を見い出し、常に文事を愛したのが大阪町人の生活であった。平成12年10月10日「道修町資料保存会」により『春琴抄』の文学碑が、少彦名神社参道入口に建立された。揮毫は地唄箏曲人間国宝菊原初子によるものである[121][122]


平野町

御霊神社

御霊神社

御霊神社は淡路町四丁目にあるが、平野町とも縁の深い神社で「御霊さん」の愛称で呼ばれる。祭神は一説には早良親王、また一説には津布良彦神、津布良媛神をまつっているという。天正年間この地に亀井能登守の邸宅があり、元々その邸内にあった神だと伝える。古くはこの社を円神社といい、この付近を「つぶら」とも称した。後にこれが「津村」と変り、これによって津村本願寺別院も津村別院と称した位であった[注釈 16]。御霊神社の氏地は北船場一帯であるが、かつては船渡御が行われており、この氏地では当日は表格子を閉じ、定紋を染めた幕を張り巡らせ、庭燎の提灯を軒先にかけ、丁稚は御賜物をもらって安息日となし、町々では芝居やが演ぜられ、夏祭の御渡行列に武者行列が出るのも特色であった。また境内には文楽座があった[124]

平野町商店街

かつて御霊神社を中心とする平野町商店街一帯は、心斎橋・松屋町筋・十丁目筋(天神橋筋商店街)・九条新道と共に、市内の五大商店街の一つとして知られていたが、昭和12年には市内の12大商店街のどん尻に落とされてしまっている。京町橋東詰から東へ堺筋までの平野町は京町橋の西の京町堀と連絡してかなり栄えていたが、大正6年に堺筋が出来、三越呉服店の新築があって、同7年には白木屋 (デパート)が心斎橋から堺筋に移って来たために、平野町は早くも顧客を奪われ、ついで昭和8年の地下鉄梅田心斎橋の開通によって、デパートがターミナルにできるようになり、ますます打撃をうけ、続く日中戦争太平洋戦争で打撃をうけ、最後は戦災までうけて壊滅した。しかし平野町はかつては北船場の家庭用品の提供場所として繁盛したものであった。平野町にかつて商品会・勧商場があった。日本で勧工場なるものが設けられた最初は明治15年で、東京における博覧会の後であるといわれるが、大阪では明治17~18年頃旧南区心斎橋筋一丁目に設けられた浦山勧商場が最古とされる。その後、勧商場は各地に設けられ繁栄した。とくに東区淡路町五丁目御霊神社表門にあった浪花館と平野町通南側にあった森川勧商場が有名であった。明治31年発行の『大阪繁昌記』には御霊神社近隣の商店街について「賑ひ云ふべくもあらず、殊に門前にある浪花館と云へるは近頃その普請を営みし盛大なる勧商場にして、火鼠の 、燕の子安はなけれども世の中にありとある種々の物を集めて各自の店を張り商業に勉強せる様中々にめざましき次第なり」と記している。浪花館は明治45年6月15日平野町四丁目21番地に移転し、五二館と改名したという。しかし勧商場は次第に繁栄しなくなり、平野町の二店もなくなってしまった[125][126]

平野町の町並み

石崎合資会社大阪本店
生駒ビルヂング

御霊神社付近には大きな苧の看板を出していた糸店池儀、糸巻や箱を売る店、花簪、針山人形の店、鳥居前には板古はんこ屋があった。平野橋橋詰には長崎から回航される外国薬品の検査所を設けて、これを改所と呼んだ。そこを通過して各店舗へ品物が引き取られたが、その頃の薬屋は一軒も残っていない。平野橋西詰に上村清太郎の朱印印肉商があった。大阪の朱座は本町一丁目にあったが、宮本又次によると、ここに朱座の看板が架かっていたという。朝日新聞の上野精一宅があったが、これは昔炭彦という素封家の跡であった。炭屋彦五郎家で、十人両替にもなった本両替であった。平野町一丁目には砂糖会所があり、定期取引を江戸時代に行っていた。平野町通淀屋橋筋の西に明和年中には大阪家請やうけ会所というものがあった。幕末の勤王僧月照は、平野町三丁目の仏光寺別院に生まれた[注釈 17]。平野町堺筋角には酒商米喜(米屋喜兵衛)があった。ここは米屋(殿村)平右衛門家の別家で、享保9年から酒造をなし、宝暦5年「沢の鶴」を銘にしている。なお戦前までは平野橋東詰(内平野町)に米平(殿村)の壮大な構えがあった。米平は加島屋久右衛門、鴻池善右衛門と共に、大阪における最大の両替屋の一つであった。米喜の屋根には城櫓が残っていたが、これは高麗橋西詰の櫓と好一対であった[注釈 18]。米喜はいたみおき(酒粕)を添物にするので評判で、朝早くから酒買人が戸口に列をつくったという。平野町三休橋筋北東角には「本家みすや針」があった。みすや針は当時のブランドのようなもので、屋号にみすや針の名を称する店が京都・大阪にあった。みすやの名は伏見のの近くの三栖という地に由来し、そこにや針を扱う者たちが集まり、後に大阪や京都へ出て針の商売を始めたという。また京都三条のみすや針は御用針司として宮中の御簾みすの中で針をこしらえ、明暦元年に後西天皇が「みすや針」と名付けたことに由来する。「本家みすや針」のみすや針は参勤交代の土産品として重宝され、みすや針が縫い針の代名詞のように使われたという。当初は平野町通栴檀木橋筋の東南側に店舗があり、大正時代に平野町を挟んで向かい側に移転した。赤い壁が目印であったので「平野町の赤壁のみすや」の愛称があった。昭和初期の平野町は二階、三階建ての日本家屋が多く、買い物に来る客で賑やかであった。御霊神社の西側には「カフェ文楽」があり、大勢の女給が勤務しており、夕方四時半頃の開店前には女給らが道路に並んでラジオ体操を行い、午前二時に「蛍の光」が流れ閉店となる、といった風景がみられた。また御霊神社東北には「梅月」という天ぷら屋があり、軒燈に色ガラスの電燈が飾られていた。「梅月」の御座敷天ぷらに対し、腰掛け天ぷらの「天寅」がかつてあり、松崎天民の『食べある記』にも記された。平野町通には屋、メリヤス商の虎屋、雑貨店の百足屋など動物の名前を冠した店が幾つかあり、京町橋東詰には「犬猿ともに朋輩」という意味で、の上にが乗っているトレードマークの包装材料商の井沢屋があり、通称「犬猿屋」といった。またその隣には人力車の丁場があった。生駒権七の生駒時計店は創業当初、高麗橋四丁目にあった。生駒家は大和国生駒村で代々刀剣商を営み、明治4年に生駒権右衛門の代から時計・貴金属商となった。大正11年に生駒権七が祖父権七を襲名して家督を継いだ。大正の末頃、大阪では百貨店の開店が相次いだので、老舗や大店の主人らは対抗策として「専門大店会」なるものを組織し生駒権七も名を連ねた[注釈 19]。後に平野町二丁目堺筋南西角に移り、昭和5年に宗兵蔵設計によるアール・デコ調のビル(生駒ビルヂング)が建った。瓦町三丁目の大正10年創業の平岡珈琲店は当初、平野町三丁目の吉野鮨の筋向かいに創業した。明治34年創業の屋「馬場万」は、平野町御堂筋角にあり、昭和6年に御堂筋の拡幅工事が始まると平野町丼池筋角に移り、後に心斎橋一丁目に移った[129][130][131][132][133]

松本重太郎

明治大阪の財界にて五代友厚、藤田伝三郎と並んで称せられた実業家に松本重太郎がいたが、この人物も平野町に住み、ここより出発して発展をなした。松本重太郎は弘化元年10月5日丹後国竹野郡間人村松岡亀右衛門の二男として生まれた。十歳で京都に到り、同郷の丹後屋宇兵衛の斡旋で、呉服商菱屋勘七に奉公し、三年後大阪に移り、天満組宮ノ前町綿屋利八に十ヶ年勤めた。その後明治3年9月善左衛門町(現・平野町三丁目)布屋藤助(和井田氏)の援助により、同氏の店舗を譲り受け、輸入唐物類の小仲立業を営み、丹重と称え、松本重太郎と改名し、漸次発展して、洋服反物並びに雑貨類の問屋となった。平野町通心斎橋筋上る西側に店があった。明治11年9月大阪財界の巨頭とはかり、百三十銀行を第一大区高麗橋三丁目に創設して、その頭取兼支配人となり、一方で大阪銀行集会所の委員長ともなった。ついで同19年本邦初の私設鉄道である阪堺鉄道会社を起し、同25年4月山陽鉄道会社社長に就任し、九州北部の炭坑諸鉄道敷設にも大いに尽力し、鉄道王の称さえもあった。その他大阪共立銀行、日本貯蓄銀行、大阪アルカリ製造会社を設立し、日本初のモスリン工業である大阪毛斯綸紡績会社を創立した。なお日本紡績・大阪織布・帝国ブラシュ・大阪ビール・日本製糖・明治炭坑・日本火災の諸会社を始め、浪速南海鉄道会社にも関係した。このようにその関係する事業会社は一時四十に達し、商工業の発展に啓発するところが大きかった。明治37年6月の不況時に百三十銀行が破綻しようとすると私財を挙げてその弁済方に充てた。のち実業界を退いて空堀通三丁目に移り、老後を養ったという[134]

平野町の夜店

平野町の夜店は浪速名物の一つであった。これは一、六の日の夜店で、明治中期には内平野町の神明さん(骨屋町の朝日の神明・北の夕日の神明に対し、これは日中の神明といって夏越の大祓で有名であった。)と縁日が重なっていた為、京町橋より東は内平野町に至るまで、夜店がつづいた。一丁目辺に少し間がある位で、非常に賑やかであった。子供用品から台所用品まで、切り屋より、を煎っている豆売屋・古道具屋・古本化粧品の店もあり、ハッタリ屋もあって色とりどりであった。秋のはじめの美しい行燈をかけての鈴虫松虫くつわ虫の虫売屋も夜の大阪を賑わした。また道修町でも一、六の日に植木市などが開かれていた。ともかく平野町の夜店は夜店中の随一の繁華であった。しかし堺筋に市電が走り、内平野町の神明さんがなくなってからは追々荒れ出し、平野町の軒切りで道幅が拡張されると更にさびれ、また御堂筋が拡張されると出店も貧弱となって人通りも少なくなった。しかし、かつてのこの夜店の日は、船場の奉公人にも尾頭つきのが食膳にあがる習慣があったという。また明治初年千日前の開発者奥田弁次郎の妻が自ら油代一日一銭を補助して、平野町の夜店商人の出張を慫慂したのが、後の千日前の繁栄を来すはじめであったという伝説がある[135][136]

北組惣会所・堺卯楼

平野町三丁目に北組惣会所があった。惣会所は大阪三郷の自治をした所である。この惣会所のあとすなわち平野町通心斎橋筋東入る北側の地に学校が出来、懐徳堂に一時なったが、後に神宮教会所となり、大神宮遥拝所を建てたが、これは京町堀に移された。そのあとに「堺卯楼」が建てられた。堺卯楼はもとは道修町丼池筋にて仕出屋を開業していたが、ここで割烹店を開き、松本重太郎に引立てられ、北浜の花外楼、今橋の灘万と共に明治大正期の第一流の料亭となった。ついで北浜の「つる屋」が盛大となり、安土町の「森吉」は御茶のわかる家で、南本町の「丹弥」も御茶の料理が出来、瓦町の「丸水」、北久宝寺町の「魚利」などが船場の有名割烹店であったが、なかでも花外楼はその第一級の品格を保っていた[137]

大阪瓦斯会社と片岡二代

大阪ガスビルディング

平野町御堂筋角に大阪ガスの本社がある。大阪瓦斯株式会社は明治31年4月に設立し、永らく中之島三丁目渡辺橋南詰に社屋があった。これは明治38年の建築で、総煉瓦造りであった。その後一時堂島浜一丁目に仮本社を設けたが、朝日新聞の用地であった平野町五丁目(現・平野町四丁目)の土地と旧社屋とを交換することになり、昭和5年4月に新築され、白堊粉壁をもって大阪瓦斯ビルヂングとなって出現した。昭和8年3月に竣工し、藤沢桓夫の『大阪五人娘』の中に「瓦斯ビル前の筋は夜店で賑やかだった」とあるように、戦前はまだその前に夜店が出たものであった。片岡直輝は安政3年7月高知県高岡郡下半山村に生まれ、文部大臣秘書官より大阪府書記官となり、実業界に入り、日本銀行大阪支店長より大阪瓦斯株式会社社長となった。直輝の長子、片岡直方も大阪ガスの発展の為に尽力した。大阪で電話が開設されたのは、明治25年4月のことであったが、初めは北久宝寺町一丁目に局舍が仮設され、後に平野町一丁目に新築移転した。また大阪でのラジオ放送は、大正14年5月に高麗橋三越屋上にあった大阪放送局から仮放送として、その第一声が放送された[138][139]

施設

史跡

淀屋の屋敷跡の碑
  • 大阪会議開催の地の碑
  • 栴檀木橋顕彰碑
  • 淀屋の屋敷跡の碑
  • 松瀬青々生誕地の碑
  • 手形交換所発祥の地碑
  • 今橋由来碑
  • 大阪市立集栄小学校跡の碑
  • 天五に平五 十兵衛横町の碑
  • 旧鴻池家本宅跡の碑
  • 緒方洪庵旧宅(適塾)
  • 史蹟緒方洪庵舊宅及塾の碑
  • 懐徳堂旧趾の碑
  • 帝国座跡の碑
  • 御堂筋完成五十周年記念碑
  • 東横堀川緑地の碑
  • 伏見呉服町の碑
  • 旧小西平兵衛邸
  • 其恩頼の碑
  • 春琴抄の碑
  • 旧小西家住宅
  • 大阪薬科大学発祥の地の碑
  • 御霊文楽座跡の碑

近代建築

(出典:[140][141][142][143]

北浜
  • 北浜平和ビル - 設計:不詳 1887年頃
  • 帝国座 - 設計:大林組 1910年
  • 桂隆産業ビル(現・北浜レトロビルヂング) - 設計:不詳 1912年
  • 加島安治郎商店(現・北浜長屋) - 設計:不詳 1912年
  • つねなりすたじお - 設計:不詳 1913年頃
  • 宇治川電気変電所 - 設計:横河⺠輔(推定) 1915年
  • 泉ビル - 設計:不詳 1919年
  • 北浜ビルディング - 設計:宗兵蔵 1921年
  • 北浜野村ビルディング - 設計:⽵中⼯務店(鷲尾九郎) 1921年
  • 凮月堂⼤阪⽀店 - 設計:⽵中⼯務店(推定)1922年
  • 住友銀行大阪本店ビル - 設計:住友合資会社工作部(日高胖長谷部鋭吉竹腰建造) 1926, 1930年
  • 近畿建築会館 - 設計:⼤倉三郎 1926年
  • ナショナル・シティ銀行大阪支店 - 設計:ウィリアム・メレル・ヴォーリズ 1928年
  • 吉田理容所 - 設計:不詳 1930年
  • 大阪証券取引所 - 設計:長谷部・竹腰建築事務所 1935年
  • 中村健太郎法律経済事務所 - 設計:村野藤吾 1938年
  • 石原ビルディング - 設計:眞水・三橋建築事務所 1939年
  • 越ヶ谷商店 - 設計:不詳 明治末~⼤正初期
  • 広⽥商事 - 設計:不詳 明治末~⼤正初期
  • ⾼宮画廊 - 設計:不詳 ⼤正初期
  • 須々⽊証券 - 設計:不詳、⼤正期
  • ⻑尾ビル - 設計:不詳、⼤正末頃
  • 三共商事 - 設計:不詳 大正~昭和初期
  • 北浜清友会館 - 設計:不詳、⼤正末~昭和初期
今橋
高麗橋
伏見町
  • 小西平兵衛邸 - 設計:不詳 1886年
  • 野田屋三郎邸(現・青山ビル) - 設計:伊東恒治 1921年
  • 澤野ビルヂング(現・伏見ビル) - 設計:長田岩次郎 1923年
  • 宗田家住宅 - 設計:不詳 1925年
  • 芝蘭社家政学園(現・芝川ビル) - 設計:澁谷五郎・本間乙彦 1927年
道修町
  • 小西家住宅・小西儀助商店 - 設計:不詳 1903年頃
  • 塩野義商店本店 - 設計:茂・野村建築事務所 1924年
  • 武田長兵衛商店本店(現・武田道修町ビル) - 設計:片岡建築事務所 1928年
  • 大日本住友製薬本社 - 設計:宗建築事務所 1930年
  • 丸善薬品産業 - 設計:不詳、⼤正末頃
平野町
  • 清水源商店 - 設計:不詳 1894年(1934年改築)
  • 北野家住宅 - 設計:不詳 1928年
  • 生駒時計店(現・生駒ビルヂング) - 設計:宗建築事務所 1930年
  • 小川香料 - 設計:本間乙彦 1930年
  • 大阪瓦斯ビルディング - 設計:安井武雄 1933年
  • 小原化工株式会社支店 - 設計:小川安一郎 1936年
  • 第一三共製薬別館 - 設計:不詳

パブリックアート

(出典:[144][145]

大阪取引所前の五代友厚公像
  • 『五代友厚公』中村晋也
  • 『林市蔵先生肖像』?
  • 『愛の女神像』?
  • 『母子の像』?
  • 『緒方洪庵先生像』川合敏久
  • 『適塾と懐徳堂 - 未来をひらく四つの彫刻』SANDWICH Inc.
    • 「遠征 | Expedition」
    • 「研究 | Study」
    • 「思憔 | Thought」
    • 「文武 | Bushido」
  • 『淀屋の碑』辻志郎(画)
  • 『難波橋ライオン像』天岡均一
  • 『旧北浜野村ビルライオン像』?
  • 『雁行比翼』山口牧生
  • 『空の粒子/パッセージ2015』青木野枝
  • 『環』松原賢
  • 『波郎』水井康雄
  • 『球登Ⅱ』水井康雄
御堂筋彫刻ストリート

ギャラリー

脚注

参考文献

外部リンク

関連項目

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