阪神1101形電車

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1121形1136(1946年7月10日)

阪神1101形電車(はんしん1101がたでんしゃ)は、阪神電気鉄道が1933年に導入した電車で、木造車の機器類を流用して鋼製車体に載せ替えた鋼体化改造車である。1001形や901形(後の701形)に続く鋼体化改造車で、両運転台の前面貫通構造が採用された。1101形以降の各派生形式を総称して便宜上「1101系」としてまとめて紹介することもある。

1101形

1101系は各形式ごとにさまざまな差異があったほか、後期登場車ほど当時阪神間で進行していた阪神間モダニズムの影響を受けて洗練された内外装で登場した。

1933年に、301形全車(301 - 310)を種車に1101 - 1110の10両が大阪鉄工所で鋼体化改造を実施された[1]

初めて両運転台の貫通式となり[1]、車体は台枠も含めて新造された。全長約13.6m、車体幅約2.4m、側面窓配置d1D6D1dとなり、窓1枚あたりの大きさが980mmと広くなった[2]。前面は中央に貫通扉を持つ3枚窓で、左側に通風口、右側に方向幕を備え、屋根上にはヘッドライトを取り付け、裾部のアンチクライマーは左右に分割されて取り付けられていたほか、貫通扉下にはバンパーが取り付けられていた。また、1109・1110の2両は幕板部に試験的に明かり窓を取り付けて登場した[3]

台車及び電装品は1001形同様種車のものを再利用して、台車はブリル27MCB-1を履き、モーターはGE-203Pを4基搭載し、制御器はゼネラル・エレクトリック社製PC系制御器をスケッチした芝浦製作所RPC-50を装備した[4]。パンタグラフはPT-11Aを奇数車は大阪側、偶数車は神戸側にそれぞれ搭載している。

この1101形で確立した、側面は大きな一段下降窓を持つ2扉で前面3枚窓の貫通式両運転台車といった基本的なデザインは、幕板部の明かり窓の有無といった違いはあっても、最後に登場した881形までの新製、改造車に継承されることとなった。

1111形

1934年には、311形全車(311 - 320)を種車に1111 - 1120の10両が日本車輌製造で鋼体化改造を実施された[1]

基本的な車体の構成は1101形と変わりがないが、本形式では1109・1110で取り付けられた明かり窓を本格的に採用[1][5]、明かり窓の天地寸法を180mmに拡大、幕板が広くなった分屋根を浅くした[6]

台車及び電装品も種車が1101形と同じものを搭載していたため、1111形も1101形と同じものを搭載することになったが、台車はブリル27MCB-1のほか、ボールドウィン75-25Aを装着することも可能であった。

1121形

1934年から1935年にかけて、321形全車(321 - 330)と331形の一部(351 - 356・347・348・359・360)を種車に1121 - 1140の20両が日本車両製造で鋼体化改造を実施された。

外観は1111形を継承している[5]。本形式ではベンチレーターの形状がガーランド式に変更されたほか、1129・1130の室内照明が吊革のブラケット棒を頂点に、逆三角形に取り付けられた受け具の二面をすりガラスにして、その中にチューブランプが入った凝った間接照明を試験的に採用した[7]

台車や電装品は種車が変わったことから、モーターは変更がないものの台車はボールドウィン75-25Aを装着し、制御器はPC-5を装備した。

1141形

1936年に、331形の残り全車(361 - 368・349・350)を種車に1141 - 1145の5両が日本車輌製造で、1146 - 1150の5両が田中車輌[注 1]でそれぞれ鋼体化改造を実施された。

外観は1121形から大きな変化はないが、本形式では溶接技術の発達によって車体裾部を除いてリベットが見られなくなったほか、正面裾部にあったアンチクライマーがなくなった[8]。正面は裾部が下げられ、急行用新造車の851形と同様のバンパーが設置されている[9]。室内照明は1129・1130で試験的に採用された間接照明が本格的に採用された。

台車や電装品は1121形と同じである。

改造

戦前の改造

1930年代後半には1101系は3連で運用することが多くなり、地下線内の騒音対策として明瞭なアナウンスが必要となったことから、851形と同様に船舶用高声電話を改良した車内放送装置を取り付けた。

武庫川線用座席撤去車

1943年11月に川西航空機鳴尾製作所への通勤・資材輸送路線として武庫川線武庫川 - 洲先間が開業した際には、1121形1121 - 1126の6両がドア間の座席を撤去されて同線専用車となった。定員は82人から94人に増加した[10]。ドアエンジンのある両端の座席は残された[11]

1944年8月に国道線との連絡のために武庫大橋まで延長された際には運転区間を同駅まで延長、強風紫電・紫電改といった戦闘機や二式飛行艇といった海軍向けの航空機の増産に追われていた川西航空機に、国道線、阪神本線で運ばれた工場通勤者をぎりぎりまで詰め込んでピストン輸送を行った。

被災復旧車

1930年代後半は阪神間の海岸部に多くの工場が進出し、1937年に勃発した日中戦争の拡大を受けた軍需工場の増加で阪神各線も通勤客が急増した。しかし、太平洋戦争末期には主電動機をはじめとした電装品や軸受などの消耗品を中心に資材不足に悩まされるようになった。

戦争末期の1945年には戦災を避けるため地下駅の三宮駅構内に車両を留置していたが、1945年4月23日未明(午前4時ごろ)に車両火災が発生した。当時留置されていた37両中26両が全半焼する被害を受け、1141形1142・1147の2両も全焼した。

1945年6月5日の神戸大空襲では御影駅停車中の1131が全焼、東明車庫では1101形各形式からも1105・1111・1143の3両が全焼したほか、6月15日の尼崎空襲では1139が半焼した。このほか8月6日未明の阪神大空襲において1124が武庫川駅構内で半焼している。終戦直後の9月17日には枕崎台風による高潮で尼崎車庫が水没、1101形各形式のうち1106・1120・1126・1134・1149の5両が冠水した[注 2]

1001形各形式が搭載する主電動機であるGE-203Pの故障率が高かったことから、1001形の運転可能車で3両編成を組む場合はMc+Tc+Mcと、部品不足による電装解除車を中間に組み込んだ編成を組成したほか、余裕のあった急行系車両を普通運用に投入することで急場を乗り切った。

事故や戦災で全焼した車両のうち、1101形各形式のうちすぐに復旧できないと見込まれた1105・1106・1111・1131・1142・1143・1147の7両を1946年6月29日付で廃車、現車は構体に錆止め塗装を施されて尼崎車庫の構内に留置されていた。その後復旧の目処が立ったことから翌1947年には廃車申請を取り下げ、1949年に電動車として完全復旧した。その際、明かり窓を取り付けていた車両は、明かり窓を埋められて復旧している。

戦後の改造

戦後の1946年以降、1129・1130や1141形の凝った照明も他形式同様天井取り付けの平凡なものに取り替えられていった。1947年4月ごろから数年間は窓周りに淡いクリームイエローを塗ったツートンカラーで走っていたほか、側面の車番表記も現在と同じ縦長のゴシック体に変更された。1949年には武庫川線用として座席が撤去されていた1121 - 1126の座席が復元された[12]

1950年1956年には、1101・1111・1121(1121 - 1129)各形式の制御器を国道線71形で実績のある油圧カム軸式の東芝PM-2Bに取り替えた[13]。捻出されたRPC-50及びPC-5は801形に換装され、手動加速式のMK制御器を置き換えた[14][注 3]

1954年には大型車入線により乗降扉に張り出し式のステップが設置された[15]。1956年には1101号が武庫川線での運用にも対応するためステップを着脱式に改造した[16]。1121号は本線の大型車導入後も武庫川線用としてステップ無しで運用されたが、1956年に着脱式ステップを設置している[17]

1956年には尾灯の2灯化に伴い、1950年代前半から全車通風口の位置に尾灯を増設している。1957年にはブレーキ装置が改良され、4両編成での運転が可能となった[15]

1130号による試験

1130号はカルダン駆動方式の試験車として用いられたほか、普通用の高加減速車「ジェットカー」の試験に使用された[10]

カルダン駆動台車の試験

第二次大戦後の阪神では戦災や事故・自然災害などからの復旧工事を1950年代まで進めていたが、この時期になるとアメリカのPCCカーに代表される軽量・高性能電車の研究が日本の鉄道各社で始まった。特に阪神の場合は車両の大型化は長年の悲願であり、1950年に襲来したジェーン台風の復旧が一段落した1951年以降、大型高性能車の導入が計画された。

昭和26・27年度の運輸省の科学技術応用研究補助金の交付を受けて、制御器換装予定の1121形1130を種車に標準軌間では日本初となるカルダン駆動車を試作することとなり、1952年秋から試験運転を開始した[18]

機器は東芝製で、台車は釣合梁式の試作台車であるTT-2に換装した。主電動機は1時間定格出力48.5kWのSE-512を搭載、これを直角カルダン駆動方式で駆動した。制御器は油圧カム軸式のPM-3Bを改造して、電気制動や渦流制動装置に対応するようにした。制御器としては直並列切換をやめて全抵抗制御及び一段の界磁制御として乗り心地の向上を図った。電気制動を使用する場合は最終段で自動的に空気制動が入るようになった。

また、日本初の制動方式である渦流制動装置の実験に対応できるようにした。渦流制動とはカルダン軸に取り付けた鉄製の円板を、電車線を電源とする対抗界磁中で回転させ、その際発生する渦流をブレーキとして利用するものであり、この技術は後年渦電流ブレーキとして確立したものの、この時はメーカーで研究実験中であったことから、実車での実験は行われなかった[19]

車体も更新並みの修繕が行われ、前年発生した桜木町事故を教訓に不燃化、難燃化が徹底された。また、室内灯も直流直列点灯方式の蛍光灯に交換されたほか、ベンチレーターもガーランド式に交換された。

この実用試験を受で得られたデータなどを元に、1954年には阪神初の大型高性能車である3011形が登場した。

高加減速車の試験

カルダン駆動の試験を終了した1130は、1956年には普通列車用の大型高性能車の試作車に再改造された[20]。台車、モーター、電動発電機といった主要機器は東芝製及び住友金属(台車)東洋電機製造(電装品)の2セットを用意し、途中で取り替えて比較した。

主電動機は強制通風式を採用した。端子電圧300V時1時間定格出力75kWで、これを高減速度のハイポイドギアで伝達する直角カルダン駆動方式であった。制御器は東芝MC-1Aで、前年からシカゴで長期試験中のゼネラル・エレクトリックMCM電動カム軸式制御器のライセンス生産品である。直並列制御、弱め界磁つきで発電ブレーキを常用し、強制通風方式として主抵抗器と一体化し小型軽量化を図った[20]。車輪径は低重心化を図るため760mmとなった。ブレーキ装置はHSC-Dに換装されている[21]。パンタグラフは1基増設して2基搭載した。

当初は東芝製の機器が搭載された。台車はTT-7で高抗張力鋼板を使用した全溶接製、吊りリンクおよび揺れ枕なしで枕ばねの横剛性とオイルダンパによって揺動を吸収する構造になっていた。主電動機はSE-524で、定格回転数は2,100rpm、歯数比は7.17である。電動発電機はCLG-310Fである。

1957年からは住友・東洋製の機器で試験を開始した。台車は高張力鋼全溶接台車のFS-204と鋳鋼台車のFS-205を1台車ずつ製作、アルストムリンク式の軸箱支持機構を採用し、従来軸受にあったペデスタルをなくした。主電動機はTDK-857Aで、定格回転数は2,400rpm、歯数比は8.17であった。電動発電機はTDK-343Aである。

試験は両側に電気ブレーキ撤去改造を施した1001形1017・1018を組み込んで3連で実施された。1130と編成を組む1001形1017・1018も制御器が日立MMC・L-50に換装された。ブレーキ装置も1130同様にHSC-Dに換装された可能性が高い。

試験を終了した1130は1957年8月に復元改造が実施され、吊り掛け駆動の旧性能車に復元された[22]。パンタグラフは1基に戻り、台車及びモーター、ブレーキ装置も他の1121形と同じものに復元されたほか、制御器はPM-2Bに換装された。しかし、蛍光灯はそのまま使用された。1017・1018も同時に復元改造を実施されている。

1958年には大型車体・セミクロスシートの初代5001形ジェットカー」が試作され、1130号で試験された台車や電装品の一部が5001形(初代)に転用された。その際に住友製台車は空気バネに改造された。

運用

1101形の各形式は竣工後直ちに就役、新設軌道線の新鋭車両として、特急から普通まで全ての列車種別において運用された。

1936年以降は急行系車両の851形が新製・増備されたことによって、601形などとともに普通列車やラッシュ時の臨時急行[注 4]の運用につくことが多くなったが、夏の中等学校野球などの臨時運行で急行系車両が不足した場合、1101系で編成した3連を特急運用に充当することがあった。

戦後の1949年12月4日に尼崎車庫で焼失した1135が1954年12月15日付けで廃車されたほか、同日発生した摂津車輌の火災において入場中の1112・1133が被災全焼、1年後の1955年12月15日付で廃車された[14]

1954年以降は大型車3011形の登場に伴い、ドア部分に安全確保のために張り出し式のステップを取り付けた。1958年からの赤胴車3501形の増備により、武庫川線や尼崎海岸線の本線系小型車の運用を国道線用71形に譲って、本線や伝法線を中心に運用されるようになった。

1960年前半には予備車を休車扱いする措置がとられ8両[注 5]が2年の予定で休車となった。同年9月のダイヤ改正では昼間時の本線普通のダイヤをジェットカーの性能に合わせたダイヤにしたことから、1101系各形式にも余剰車が発生、同年12月10日付で休車のうち1116・1118・1128・1131と1108・1139・1144の計7両が廃車されたが、休車のうち残った車両は12月中に一旦全車復帰した。

151 1984年尼崎車庫
153 1984年尼崎車庫

1960年9月のダイヤ改正以降は伝法線主体の運用となり、本線運用は朝夕ラッシュ時が中心となった。1961年は12月に1134・1141の2両が廃車となって1129が貨車改造予定車として休車となり、1136が救援車110(2代目)に改造された。

1962年からは1月に1129が廃車されたのを皮切りに、大量廃車が始まった。9月に10両[注 6]が、10月に11両[注 7]が廃車されたことにより、1111形は形式消滅した。1963年には11両[注 8]が9月に廃車されたことによって1101形は形式消滅、残った1138・1140・1145・1150の4両は貨車改造を前提に休車となり、営業用旅客車両としての運行はここに終焉を迎えた。

その後、1150が1964年野上電気鉄道へ譲渡され、その後1965年12月までに残る3両が151形電動貨車に改造されることによって、1001形各形式は完全に消滅した。 電動貨車に転用された各車の新旧対比は以下のとおり。

  • 1140→151、1138→152、1145→153、1136→110→154

譲渡

野上電鉄から阪神への返還

脚注

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