須貝尚介

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国籍 日本の旗 日本
出身地 滋賀県
生年月日 (1966-06-03) 1966年6月3日(59歳)
身長 164cm
須貝尚介
国立特別パドック(2024年10月27日)
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 滋賀県
生年月日 (1966-06-03) 1966年6月3日(59歳)
身長 164cm
体重 54kg
血液型 AB
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 栗東須貝彦三(1985.3 - 1987.2)
栗東・フリー(1987.2 - 1994.6)
栗東・須貝彦三(1994.7 - 1994.8)
栗東・フリー(1994.8 - 1995.12)
栗東・須貝彦三(1996.1 - 1999.2)
栗東・フリー(1999.3 - 2001.2)
栗東・須貝彦三(2001.3 - 引退)
初免許年 1985年3月1日
免許区分 平地
騎手引退日 2008年2月29日
重賞勝利 4勝
通算勝利 4163戦302勝
調教師情報
初免許年 2008年(2009年開業)
経歴
所属 栗東T.C.
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須貝 尚介(すがい なおすけ、1966年6月3日 - )は、滋賀県出身の元騎手・現調教師

父は須貝彦三元調教師。

須貝四郎は叔父(彦三の弟)。

競馬学校騎手課程第1期生では柴田善臣石橋守玉井智光田島裕和林満明武藤善則岩戸孝樹上籠勝仁谷口一明と同期となり、1985年に父・彦三の厩舎からデビュー。

1年目の1985年は3月2日阪神第1競走4歳未勝利・シンコキン(8頭中6着)で初騎乗を果たし、翌3日の阪神第7競走4歳新馬・ハギノグッディーでスピードヒーローを抑えて初勝利を挙げる[1]31日の阪神では初の1日2勝[2]6月1日の阪神で初の特別勝ち[3]翌2日の阪神でも勝って初の2日連続勝利[3]を挙げ、夏の函館記念・リウジンフジで重賞初騎乗[4]を果たし、トウカイローマンリキサンパワーに先着する6着と1桁着順を確保[5]

初年度から2桁の14勝をマークし、1998年まで14年連続2桁勝利を記録[6]

2年目の1986年には6月29日中京で初の1日3勝[7]を挙げたほか、エリザベス女王杯・シンマドンナ(19頭中7着)でGI初騎乗[8]を果たし、初の20勝台となる26勝[6]をマーク。

3年目の1987年には高松宮杯でアキヨシリュウに騎乗し、ランドヒリュウの3着に逃げ粘る[9]鳴尾記念ではメイショウエイカンで逃げ、最後はタマモクロスに6馬身ちぎられたが、ゴールドシチースピードヒーローメジロデュレンに先着の2着に粘った[10]

1988年から1990年には3年連続20勝台[6]を記録し、1989年ウインターステークスではカツラノハイセイコ産駒の青森産馬マルトラックで2着に入って[11]枠連万馬券[12]の波乱を起こす。

1989年からはハイセイコー産駒の芦毛ハクタイセイ主戦騎手を務め、同年7月小倉芝1000mでデビューし、3番人気で勝ったハギノハイタッチから4馬身離された2着[13]。その後は2戦目が4着、3戦目が6着、ダートに移した4戦目が2着と勝ちあぐねるが[13]、崩れない安定感のある[13]先行力を武器に[14]5戦目の京都ダート1400mを逃げ切って初勝利を挙げると、ハクタイセイは南井克巳が騎乗した400万下条件のダート1200m戦も逃げ切って連勝[13]。再び芝へと戻った2000mのシクラメンステークスからは須貝に戻り、インターボイジャーに競り勝ってのオープン勝ちし、明けて1990年初戦の若駒ステークスも例によって先行して1番人気ダンディスピリットを下してみせる[13]。続くきさらぎ賞は不良馬場[13]を早めに抜け出し[14]コガネタイフウナリタハヤブサといった強敵をねじ伏せ[13]、5連勝で人馬共に重賞初制覇を飾る[13] [15]皐月賞では再び南井、東京優駿では武豊が騎乗したため、須貝とのコンビはきさらぎ賞が最後となった[13]

1990年12月2日の京都第3競走3歳新馬ではリンデンリリー[16]で9番人気の低評価を覆す5馬身差勝利[17]を挙げるなど29勝[6]をマークするが、結局この年が自己最多で最後の20勝台[6]となった。

1991年には1月6日の京都第11競走KBS京都紅梅賞で初芝となるリンデンリリーに騎乗し[16]、再び9番人気の低評価を覆して1位入線を果たしていたが、直線で内側にもたれて他馬の進路を妨害したと認定される[18]。関西地区で適用最初の降着例[19]、史上初めてとなる1位入線後の降着例となる13着敗退[20]となり、須貝は紅梅賞を最後にリンデンリリーから降板[16]

1992年にはホクセイシプレーで阪急杯を制し[21]グレード制導入以降では初の菊花賞出走馬による1400m以下の重賞制覇となった[22]。フルゲートで行われた高松宮杯では最後に同期の石橋が騎乗するミスタースペインにクビ差交わされたが、14番人気2着と逃げ粘って馬連万馬券の波乱を起こす[23]。函館記念でも3着[21]に入り、1993年には香港国際競走における日本調教馬としての初出走[24] [25] [26]となった香港国際ボウル(14頭中14着)にも騎乗[27]

1992年の京王杯オータムハンデキャップではハギノスイセイでスタートから飛び出し、2コーナーから向正面に入ったところで先頭に立つと、差を広げ始める[28]。父ハギノカムイオーを彷彿させる逃げっぷりで5馬身、6馬身と差を広げ、前半800mを45秒台で通過[28]。4コーナー手前での差は8馬身と貯金のある走りで直線に入り、坂では内からサクラバクシンオーが伸びるも、何とか粘ったが、ゴール前でグリーングラス産駒トシグリーンに捕らえられて2着に終わる[28]

1999年からは萩本欽一前川清の共同所有馬[29]アンブラスモアとのコンビで活躍し[30]小倉記念では速過ぎず遅過ぎずのペースを刻み、前半1000mを58秒8で通過[31]。直線では粘り腰を発揮し[31]、逃げに逃げて押し切った[32]北九州記念2着[30]の雪辱を果たすと共に1分58秒5のレコードで快勝し[32]、馬主生活が30年を超えると萩本の重賞初制覇、須貝にとっては7年ぶりの重賞制覇となった[31]毎日王冠では注文通りハナを奪うと[33]、前半1000mが59秒0とゆったりとしたペースで[34]、後続の脚を削り取るような逃げ[34]を打ち、直線も内で粘って[34]グラスワンダーの3着[30]と健闘。天皇賞(秋)では1番人気のセイウンスカイがゲート入りを嫌がり[35]、場内がどよめく中でゲートが開くと[35]、2番枠から好発を決め[36]、迷わずハナに立つ[36]。外から同じく先行態勢をとるクリスザブレイヴサイレントハンターキングヘイローらが2コーナーまでにインに切れ込んでいくが[36]譲らず、1000m通過58.0秒のハイペースで飛ばし[36]、先行集団も追いかけたことで次第に厳しいレースになっていく[36]。縦長の隊列を引っ張って入った直線でも残り200mまで粘り[35]、内から伸びたステイゴールドエアジハードスティンガー[35]、外からじりじりと差を詰めるセイウンスカイ[35]、大外から飛んできたスペシャルウィークに抜き去られたが[35]、6着と1桁着順に粘った[30]ジャパンカップでも世界の強豪を相手に逃げ、2000年には中京記念メイショウドトウの3着、夏の小倉では北九州記念3着・小倉記念2着と好走[30]中山で行われた新潟記念では58kgを背負いながらも快調に逃げ、直線でも粘り込みを図るが、59kgダイワテキサスの3着に終わる[37]

2000年からは後の管理馬ゴールドシップの母となるポイントフラッグに騎乗し、新馬戦はミレニアムバイオの2着、2戦目の新馬で初勝利を挙げるが、同馬唯一の勝利となった[38]2001年の4歳牝馬特別(東)からフローラステークスに改められたオークストライアル[39]より再びコンビを組み[38]オイワケヒカリレディパステルローズバドタイムフェアレディに次ぐ5着[40]に入った。

2001年からは北島三郎の所有馬キタサンヒボタンの主戦として活躍し[41]、類い稀な競走センスとスピードを武器に、夏の札幌で新馬、500万下、すずらん賞と3連勝[42]。重賞初挑戦となったファンタジーステークス[42]では初めて1番人気に支持され[41]、好位から抜け出して[42]、無敗のまま重賞初勝利を決めた[42]。1番人気になった阪神ジュベナイルフィリーズでは直線で逃げ粘りを図るアローキャリーオースミコスモとの追い比べ[43]で伸びきれずに4着に敗れ、明けて2002年フィリーズレビューも3着[42]。その後は長く脚部不安に悩まされたが、2003年には1年半ぶりの新潟日報賞を快勝して力のあるところをみせた[42]

2004年にはJRAゴールデンジュビリーキャンペーンのメモリアルレースを3勝[44]したほか、2005年富士ステークスではタニノマティーニで中団追走から直線で先に抜け出し[45]ウインラディウスと激しい叩き合いを演じての2着[46]

2006年の第1回サマースプリントシリーズ開幕戦函館スプリントステークスではタニノマティーニで早め先頭から粘り込みを図って4着に入り[47]2007年4月8日福島第8競走4歳以上500万下・ハッピームードで通算300勝を達成[48]

2007年9月1日の札幌第2競走3歳未勝利をポイントフラッグの初仔ハニーフラッグ[49]で勝利したのが最後の勝ち鞍となり、10月27日の福島第3競走3歳以上500万下・カゼノアルペジオ(12頭中9着)が最後に現役を引退[50]

2009年に厩舎を開業、3月14日の阪神競馬第7競走のホッコーワンマン(熊沢重文騎手騎乗)で調教師として初勝利を挙げた[51]

2012年2月12日共同通信杯ゴールドシップで制し、調教師として重賞初勝利を挙げた。同年4月15日皐月賞をゴールドシップで制し、G1初勝利を挙げた。同年10月21日菊花賞をゴールドシップで制しJRA通算100勝目を挙げた。厩舎開業から3年7ヶ月21日での100勝達成は矢作芳人の3年8か月16日を抜いて、調教師としてJRA史上最速の記録となった[52]

2014年3月29日、ドバイデューティーフリー(ドバイターフ)をジャスタウェイで制した。1分45秒52と、従来のレコードを2秒以上更新し、6馬身以上の差をつけての圧勝したことが高く評価された。この結果より、国際クラシフィケイションにおいて130ポンドの評価を受け、日本競馬史上初となる単独世界1位にランキングされた。

その快挙によって、2015年ワールド・ベスト・レースホース・ランキングジャスタウェイが日本調教馬初の1位となり、ロンドンで表彰された。

2015年8月22日、札幌10Rでアドマイヤゴッドが1着となり、現役105人目となるJRA通算200勝を達成した[53]

2018年6月16日、東京4Rでアグリッパーバイオが1着となり、現役62人目となるJRA通算300勝を2755戦目で達成し、騎手と調教師の両方で300勝を挙げた[54]

2020年12月20日中京競馬8Rでルビーカサブランカが勝利し、JRA通算400勝を3647戦目で達成した[55]

2023年4月2日、阪神9Rの明石特別でテーオーソラネルが1着となり、現役24人目となるJRA通算500勝を4327戦目で達成した[56]

2025年12月7日、中京10Rでキングメーカーが1着となり、現役17人目となるJRA通算600勝を5205戦で達成[57]

騎手成績

通算成績1着2着3着騎乗数勝率連対率
平地 3023103264163.073.147
日付競走名馬名頭数人気着順
初騎乗1985年3月2日-シンコキン8頭-6着
初勝利1985年3月3日-ハギノグッディー--1着
重賞初騎乗1985年8月18日函館記念リウジンフジ14頭86着
重賞初勝利1990年2月11日きさらぎ賞ハクタイセイ12頭11着
GI初騎乗1986年11月2日エリザベス女王杯シンマドンナ19頭67着

主な騎乗馬

重賞勝利馬
その他の競走馬

調教師成績

日付競馬場・開催競走名馬名頭数人気着順
初出走2009年3月8日1回阪神4日7R4歳上500万下ワーキングウーマン16頭411着
初勝利2009年3月14日1回阪神5日7R4歳上500万下ホッコーワンマン15頭101着
重賞初出走2009年10月17日4回京都3日11Rデイリー杯2歳Sラブグランデー13頭75着
重賞初勝利2012年2月12日1回東京6日11R共同通信杯ゴールドシップ11頭21着
GI初出走2011年12月18日5回中山6日11R朝日杯フューチュリティSマコトリヴァーサル16頭1213着
GI初勝利2012年4月15日3回中山8日11R皐月賞ゴールドシップ18頭41着
通算100勝 2012年10月21日 4回京都7日11R 菊花賞 ゴールドシップ 18頭 1 1着

主な管理馬

2014年安田記念(優勝馬:ジャスタウェイ)の口取り式。中央に須貝

※括弧内は当該馬の優勝重賞競走、太字はGI級競走。

エピソード

2020年のサウジアラビアロイヤルカップに管理馬が勝利した際、新型コロナウイルス対策の接触制限に違反し騎手との写真を撮影したとして、同年11月、JRAは須貝を書面で「調教師としての自覚を著しく欠く行為」として翌2021年3月からの貸与馬房数を2馬房削減する処分を下した。JRAが2020年10月上旬に「GIレースに限り、調教師が優勝馬の馬主らとの撮影を許可し、原則騎手との撮影を禁止」するという感染防止対策の一部緩和を通知したが、須貝がこれを「GIレース」を「Gレース(重賞)」と錯誤し、かつ「騎手との撮影を原則禁止」する部分を見落としたものによる。

JRAの処分に対し須貝は「軽率であった」と自身の行動を反省したものの、馬房削減の処分については「2つの馬房削減により厩務員1人の解雇に直結し労働組合との関係が生じてくるのみならず、登録頭数を5頭減少させなければならず、来年以降入厩を予定していた2歳馬、当歳5頭の馬主にも多大な迷惑をかけることになる」ことで「(JRAの)処分は恣意的で一方的な判断で行われ(処分権者の)JRA理事長の裁量の範囲を逸脱している」「撮影時に現場のJRA職員らが引き留めるなどの注意喚起がなく、事後の弁明の機会もなく、適正な手続きを欠いた処分」と不当として、2021年9月3日にJRAに対し700万円の損害賠償を求めて大津地方裁判所に提訴した[63][64]

裁判は2023年9月6日付で、須貝とJRAの和解が成立した。和解条項には、須貝が写真撮影を行ったことについて、JRAが定める基準にある「不適当な行為」に当たると認める一方で、須貝の2024年3月以降の馬房数査定について、写真撮影の件を理由に「馬房の加増にふさわしくないと認めた者」に該当しないことをJRAが確約する内容が持ち込まれた。これを受けて須貝は損害賠償請求については放棄している[65]

出典

関連項目

外部リンク

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