マリアノ・リベラ
パナマのプロ野球選手
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マリアノ・リベラ(Mariano Rivera, 1969年11月29日 - )は、パナマ・パナマ県パナマ市出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打[2]。愛称はモー(Mo)[3]、サンドマン(Sandman)[4]。メジャーリーグベースボール(MLB)のニューヨーク・ヤンキースに1995年から2013年までの19年間在籍した。キャリアの大半を救援投手として過ごし、17年間にわたってヤンキースの抑え投手を務めた。オールスターゲームに13回出場し、ワールドシリーズでは5回優勝した。MLB歴代最多の通算652セーブを記録している。ローレイズ・リリーフマン賞を5回、デリバリー・マン・オブ・ザ・イヤーを3回受賞し、アメリカンリーグのサイ・ヤング賞ではトップ3に4回入った。2019年、リベラは得票率100%でアメリカ野球殿堂入りを果たした初の選手となった。
パナマの漁村・プエルト・カイミトで育ち、1990年にヤンキースと契約した。1995年に先発投手としてMLBデビューし、同年後半から救援投手として投げ始めた。1996年にセットアッパーを経験し、1997年から抑え投手となった。それ以降はMLB屈指の抑え投手としての地位を確立し、1999年、2001年、2004年に最多セーブ投手となった。登場曲の「エンター・サンドマン」とともに登場し、球速90マイル台半ばの鋭く曲がるカットボールを中心に支配的な投球を続けた。ポストシーズンでも優れた成績を残し、1999年のワールドシリーズMVPや2003年のアメリカンリーグチャンピオンシップシリーズMVPを受賞した。ポストシーズンにおける通算防御率0.70と通算42セーブはポストシーズン記録である。
リベラはMLB史上最高の救援投手の一人だと考えられている。25セーブ以上を15年連続、防御率2.00以下を11年記録するなど、多数の新記録を樹立した。通算防御率2.21、通算WHIP1.00はライブボール時代の投手の中で歴代1位の記録である。同僚の投手は、カットボールがMLBに広まったのはリベラの影響だと考えている。リベラは高い制球力や柔軟な投球モーション、フィールドでの冷静な態度でも知られていた。2013年、ヤンキースはリベラの背番号42を永久欠番とした。背番号42は1997年にジャッキー・ロビンソンへの敬意からMLB全体で永久欠番となっており、リベラはこの背番号を恒常的に着用していた最後のMLB選手となった。2014年、MLBはリベラへの敬意からア・リーグ最優秀救援投手賞を創設した。敬虔なキリスト教徒であるリベラは、マリアノ・リベラ財団を通じて慈善活動にも注力してきた。2015年にアメリカ合衆国に帰化し、2019年にはアメリカにおける民間人への最高位の勲章である大統領自由勲章を受章した。
生い立ち

1969年11月29日、マリアノ・リベラはパナマ・パナマ県パナマ市で漁船の船長の子として生まれ[5]、パナマ市から40kmほど離れた漁村であるプエルト・カイミトで育った[6]。リベラには姉が1人、弟が2人いる[7]。幼少期、リベラは干潮時に浜辺で友人とサッカーや野球で遊んでいた[4]。リベラが最初に熱中したスポーツはサッカーであり、当時の憧れの選手はペレであった[8]。野球の試合では、リベラは牛乳パックや段ボールでできたグラブ、木の枝や箒のバット、テニスボールや漁網で作ったボールを使ってプレーしていた[6][9]。リベラは12歳の時に父親に初めて革のグラブを買ってもらうまで手製の道具を用いていた[10]。自身の若い頃について語ったリベラは、問題児というほどではなかったものの、「悪い連中とつるんでいた」と述べた[11]。
リベラは初等教育をビクトリノ・チャコン校で受け、その後地元の高校であるペドロ・パブロ・サンチェス第2校に入学したが[12]、9年生時に中退した[13]。16歳になると、リベラは父親の漁船で働き始めた[14]。リベラは年間を通して週6日は船上で働き[15]、主にイワシを獲っていた[7]。リベラは当初、整備士を志しており[15]、大変な仕事である漁師にはなりたくないと考えていた[7]。リベラは3年間漁業を学び[15]、自動車整備の店を開くことを目指し資金を貯めた[16]。1988年、リベラの叔父は、油圧装置から勢いよく外れたロープによって船に強く叩きつけられ、その傷が原因で1か月後に死亡した[17]。その1年後、リベラの父の船が転覆した[17]。リベラはこれらの出来事を経て、漁業をやめることを決意した[13]。
リベラは足首や膝の怪我が相次ぎサッカーのパフォーマンスが低下し始めたため、17歳ごろに野球を優先するようになった[18]。当時のリベラにとって野球は趣味にすぎないものであり、職業にするという考えはなかった[14]。18歳のとき、リベラはパナマのアマチュア野球チームに入団し、複数のポジションでプレーしていた[19]。メジャーリーグベースボール(MLB)のチーム・ニューヨーク・ヤンキースのスカウトのハーブ・レイボーンは、1988年に野球のトーナメント戦でリベラが遊撃手としてプレーしているのを見たが、後にメジャーリーガーになるとは予想していなかったと述べた[20]。あるプレーオフの試合で、自チームの投手が大量失点したためにリベラは代わりに登板することになったが、投手未経験にもかかわらず好投を見せた[21]。これを見たチームメイトはレイボーンに連絡してリベラを推薦し、レイボーンはリベラの自宅のそばでその投球を観察することにした[7]。このときにリベラが投げたのは9球のみであったが[20]、レイボーンはリベラのゆったりとした動きやしなやかな腕、変化のある速球に魅力を感じた[7]。1週間後の1990年2月17日にリベラはヤンキースと契約した[18]。MLBの記録によると、この契約には2500米ドル(2023年時点の価値で5830米ドル)の契約金が含まれていた[20]。
経歴
マイナーリーグ時代(1990年 - 1995年)
契約後、リベラはアメリカ合衆国に渡り、ルーキーレベルのリーグ・ガルフ・コーストリーグに所属するニューヨーク・ヤンキース傘下のチーム・ガルフ・コーストリーグ・ヤンキースに入団した[14]。当時、リベラは英語を話せず、故郷を離れたことがなかった[14]。孤独を感じたリベラは、プエルト・カイミトでは電話が通じなかったため、両親に対して手紙で近況を伝えていた[10]。リベラにとってマイナーリーグで初めての投手コーチは、救援投手として初めて殿堂入りを果たしたホイト・ウィルヘルムであった[5]。その時点では、スカウトはリベラのことを「プロスペクトの末端」としか考えていなかったが[22]、リベラはこの年、52回を投げて許した走者は24人、自責点は1、防御率0.17という成績を残した[23]。チームはリベラに最優秀防御率のタイトルを獲得させるためにシーズン最終戦にリベラを先発登板させ、リベラは7回を投げて無安打無得点に抑えた[24]。シーズン終了後、リベラは自身のいとこで16歳のルーベン・リベラが有望な選手であるという情報をレイボーンに提供し、その後ヤンキースはルーベンと契約した[25]。
1991年、リベラはシングルA・サウス・アトランティックリーグのグリーンズボロ・ホーネッツに昇格し、出場した29試合中15試合に先発登板した[23]。リベラは114+2⁄3回を投げて4勝9敗、防御率2.75、123奪三振、36与四球を記録した[23]。ニューヨーク・ヤンキース監督のバック・ショーウォルターはリベラの高いK/BBに注目して「成功するだろう」と考えた[26]。シンシナティ・レッズのマイナーリーグ担当スカウトはこのシーズンのリベラについて、「長い腕、細くたくましい身体、ゆったりとした動き」「球速が課題となる」「成長度や安定性は課題」「上達し進歩するためには安定性が維持されなければならない」と報告書に記した[27]。
1992年、リベラはハイAのチーム・フォートローダーデール・ヤンキースに昇格したが[23]、シーズン最初の3分の1は肘の張りにより欠場した[28]。リベラはフォートローダーデールで10試合に先発し[23]、59+1⁄3回を投げて5勝3敗、防御率2.28、5与四球、42奪三振を記録した[29]。リベラはスライダーの動きを改良しようとした結果[30]、右肘の尺側側副靱帯(UCL)を損傷した[31]。担当医のフランク・ジョーブは、トミー・ジョン手術は不要と判断し、擦り切れた靭帯の修復を行うことにした[32]。リベラは8月27日に肘の手術を受けたため[31]、来シーズンは全休となるのではないかと推測された[29]。オフシーズンにはフロリダ・マーリンズとコロラド・ロッキーズの2つの新チームが参加したことに伴うエクスパンションドラフトが開催されたが、リベラはヤンキースからプロテクトされなかった[24]。ドラフト中、マーリンズのゼネラルマネージャー・デーブ・ドンブロウスキーは次の指名順でリベラを指名することを予定していたが、ロッキーズがヤンキースのブラッド・オースマスを指名したことで、リベラは指名対象外となった[33]。
1993年、リベラはリハビリのため、シングルAのホーネッツで投球数を制限されたうえで試合に出場した[24]。ホーネッツの公式記録員であるオギ・オバーマンはリハビリに悪戦苦闘するリベラを見て、「(リベラは)このまま消えていくだけだと思っていた」と述べた[34]。最終的にリベラは12試合に先発し43+1⁄3回を投げて防御率2.08、16与四球を記録した[23]。
1994年、リベラはハイA・フロリダ・ステート・リーグのタンパ・ヤンキース、ダブルA・イースタンリーグのオールバニ・コロニー・ヤンキース、トリプルA・インターナショナルリーグのコロンバス・クリッパーズの3チームでプレーし、シーズン全体で10勝2敗、防御率3.09という成績を残した[35]。クリッパーズでは6試合に登板して防御率5.81と苦戦した[23]。スポーツ雑誌『ベースボール・アメリカ』では、リベラはヤンキース内のプロスペクトランキングで9位に選ばれた[36]。一方、いとこのルーベン・リベラは、スポーツ選手全体のプロスペクトランキングで2位に選ばれていた[36]。当時のマリアノ・リベラは速球が主な球種であり、その他にはスライダーやチェンジアップを投げていた[30]。リベラは1995年シーズンの開幕をクリッパーズで迎え、4試合に先発して1勝1敗、防御率1.50の成績を残した[37]。
メジャーリーグ時代(1995年 - 2013年)
1995年 - 1997年

1995年5月16日、リベラはMLBに昇格し[38]、5月23日のカリフォルニア・エンゼルス戦でニューヨーク・ヤンキースの選手として初出場した[5]。この試合でリベラは負傷したジミー・キーの代わりに登板したが[39]、3+1⁄3回を投げて5失点し、試合は0対10で敗れた[5]。リベラはMLB最初の4試合で防御率10.20と苦戦し、6月11日にクリッパーズに降格した[5]。ヤンキースの経営陣はリベラをデトロイト・タイガースの先発投手・デビッド・ウェルズとトレードすることを検討していた[40]。その後、ヤンキースのゼネラルマネージャー・ジーン・マイケルは元々88–90マイル(142–145 km/h)であったリベラの平均球速が95–96マイル(153–154 km/h)まで急上昇していることを知ると、トレード交渉を打ち切ることを決断した[41]。7月4日、MLBに復帰したリベラはシカゴ・ホワイトソックス戦で復帰後初先発し、8回を投げて2被安打、11奪三振、無失点を記録した[42]。リベラはその後の5試合では目立った成績は残せなかった[42]。8月1日、リベラは3対2でリードしていた6回にアンディ・ペティットに代わってMLBで初めて救援で登板した[5]。リベラはこの試合で2回を投げて3被安打3失点となり逆転を許したが、その後ヤンキースが逆転したことで勝利を記録した[5]。シーズン全体では、リベラはMLBで先発として10試合、救援として9試合を投げ、5勝3敗、防御率5.51を記録した[43]。アメリカンリーグディビジョンシリーズのシアトル・マリナーズ戦で救援投手として5+1⁄3回を投げて無失点に抑えた活躍により、ヤンキースの首脳陣はリベラを救援投手に転向させた[44]。
1996年シーズン開始前、ヤンキースは新人のデレク・ジーターが遊撃手として良い結果を残せなかった場合に備えて、遊撃手のフェリックス・ファーミンとのトレードでリベラをマリナーズに移籍させることを検討したが、最終的にトレードは実施されなかった[46]。1996年、リベラはセットアッパーとして、抑え投手のジョン・ウェッテランドの前で主に7回や8回を投げていた[41]。この2人の活躍により[47]、同シーズンのヤンキースは6回終了時点でリードしていた73試合のうち70試合で勝利を収めた[48]。リベラは4月から26イニング連続で無失点を続けた[20]。5月17日のエンゼルス戦では、打撃練習中にボールが直撃したウェッテランドに代わって、キャリア初となるセーブを記録した[49]。リベラはレギュラーシーズンで107+2⁄3回を投げて防御率2.09を記録し、ヤンキースの救援投手によるシーズン最多奪三振記録(130)を樹立した[14]。ベースボール・リファレンスは同シーズンのリベラのWARを5.0と算出したが、2018年時点では1シーズンでこの数値を超えた救援投手は存在しない[41]。ポストシーズンでは14+1⁄3回を投げて1失点しか許さなかった[50]。ヤンキースはこの年のワールドシリーズでアトランタ・ブレーブスと対戦し、1978年以来となる優勝を果たした[51]。全米野球記者協会(BBWAA)による投票では、リベラはアメリカンリーグMVPで12位に選ばれ、リーグで最高の投手に贈られるアメリカンリーグサイ・ヤング賞では3位に選ばれた[52]。MLB解説者のティム・マッカーバーは、ヤンキースはこの年リベラが「野球界に革命的変化をもたらした」と述べ、「オールスターチームに入るべき中継ぎ投手であり、正真正銘のMVP候補だ」と称賛した[47]。ヤンキース首脳陣はオフシーズンにウェッテランドとの契約をせず、代わりにリベラを抑え投手に配置することを決めた[9]。

1997年4月、ジャッキー・ロビンソンが黒人初のメジャーリーガーとなってから50周年を記念して、MLBはリーグ全体で背番号42を永久欠番としたが、リベラを含む13人は既得権条項により、これ以降も背番号42を使い続けることが認められた[53]。シーズンを抑え投手として迎えたリベラは最初の6回のセーブ機会のうち3回失敗し[41]、当初は抑え投手を務めることに大きな不安を感じていた[54]。監督のジョー・トーリの励ましを受けたリベラは[9]、シーズン前半で27セーブと防御率1.96を記録して自身初となるオールスターゲームに選ばれた[55]。1997年のオールスターゲームでは9回に登板して三者凡退に抑え、オールスターゲームでは初となるセーブを記録した[55]。夏にはカットボールの投げ方を偶然見つけ出し、自身の球種に加えた[56]。リベラはレギュラーシーズンを43セーブ、防御率1.88で終えた[2]。クリーブランド・インディアンスとのアメリカンリーグディビジョンシリーズ第4試合では、リベラはサンディー・アロマー・ジュニアに同点本塁打を打たれた[9]。ヤンキースはこの試合とその次の試合に敗れ、ポストシーズン敗退が決まった[40]。
1998年 - 2001年
1998年シーズンが開幕した月、リベラは鼠径部の肉離れで2週間故障者リストに入った[57]。復帰後は中継ぎ投手のジェフ・ネルソンやマイク・スタントンとともにブルペンの中心となった[58]。同年序盤からリベラは鋭く横に変化するカットボールを主軸に投げるようになった[59]。レギュラーシーズンでは36セーブ、防御率1.91を記録した[43]。1998年のポストシーズンでは、リベラは13+1⁄3回を投げて無失点に抑え、6セーブを挙げた[50]。サンディエゴ・パドレスと対戦したワールドシリーズではリベラが最後のアウトをとり、4連勝で優勝した[60]。このシーズン終了までにリベラはポストシーズン通算35回を投げて防御率0.51という成績を残しており、ポストシーズン通算防御率(30投球回以上)でMLB史上1位となった[61]。この記録は、通算141回を投げた引退後も破られていない[62]。

1999年、リベラは前半戦で23セーブ、防御率2.29の成績を残し[63]、2回目のオールスターチームに選ばれた[2]。同年、ヤンキー・スタジアムのスコアボード担当スタッフはリベラの登場曲としてヘヴィメタルバンド・メタリカの楽曲「エンター・サンドマン」を流し始めた[64]。スタッフは、前年のワールドシリーズでパドレスの抑え投手のトレバー・ホフマンがAC/DCの「地獄の鐘の音」に合わせて試合に登場する場面におけるパドレスファンの熱狂を見たことをきっかけに、リベラの登場曲を設定した[64]。リベラはキリスト教音楽を聴くことが多く、自身の登場曲に興味はなかったが、「エンター・サンドマン」はそれ以降リベラのアイデンティティの1つだと認識されるようになった[64]。7月には3回のセーブ失敗と防御率7.84を記録したが、それ以降は30試合に登板して1失点しか許さなかった[63][65]。リベラはシーズン全体で45セーブ、防御率1.83を記録し、自身初の最多セーブ投手およびアメリカンリーグのローレイズ・リリーフマン賞を受賞した[2]。アトランタ・ブレーブスと対戦した1999年のワールドシリーズでは、リベラは1勝2セーブを記録してワールドシリーズ優勝を果たした[66]。リベラはこの活躍によりワールドシリーズMVPを受賞した[66]。リベラはレギュラーシーズンとポストシーズンを合わせて43イニング連続で無失点に抑えて1999年シーズンを終え[66]、アメリカンリーグのサイ・ヤング賞の投票では3位に入った[67]。シーズン終了後、リベラは4シーズン後に引退して教役者になるつもりだと述べたが、翌年この発言を撤回した[68]。オフシーズンにリベラは年俸調停で925万ドルの年俸を拒否されたが、最終的に年俸は当時野球史上最高額となる725万ドルとなった[69]。

2000年、リベラは前半戦で21セーブ、防御率2.95を記録し[70]、オールスターチームに選ばれた[2]。7月8日、リベラはシェイ・スタジアムとヤンキー・スタジアムでそれぞれ行われたニューヨーク・メッツとのダブルヘッダーの両方でセーブを記録した[71]。リベラはシーズン全体で36セーブ、防御率2.85を記録した[2]。ポストシーズンでは15+2⁄3回を投げて6セーブを記録し[50]、デニス・エカーズリーのポストシーズン最多セーブ記録を更新した[72]。また、ホワイティー・フォードのポストシーズン連続イニング無失点記録も更新したが、この記録は33+1⁄3イニングで途切れた[5]。メッツとのワールドシリーズでは、ヤンキースは3年連続となる優勝を果たした[68]。第5試合では自身7回目となるワールドシリーズでのセーブを挙げ、新記録を樹立した[73]。この時点で、リベラはポストシーズンで並外れた成績を残す選手として認識されており[40]、ジャーナリストのジャック・カリーはリベラを「絶対的な武器」と表現し、「ヤンキースが3回王者となった最大の理由」だと述べた[68]。リベラの契約は2001年までで終了する予定であったため、ヤンキースはシーズン前にリベラと4年総額3999万ドルの長期契約を結んだ[74]。
2001年、リベラは3年連続でオールスターチームに選ばれた[2]。シーズン全体では80+2⁄3回を投げて50セーブ、防御率2.34を記録し、自身2回目となる最多セーブ投手を受賞した[2]。この年のリベラのセーブ数は1986年にデイブ・リゲッティが記録したヤンキースのシーズン記録(46)を破り[75]、MLBでシーズン50セーブを記録した6人目の投手となった[76]。リベラは自身2回目となるアメリカンリーグのローレイズ・リリーフマン賞を受賞し[2]、アメリカンリーグのMVP投票では11位となった[77]。ポストシーズンではスポーツ記者から「無敵のオーラ」があると表現されていたが[78]、リベラはアリゾナ・ダイヤモンドバックスとのワールドシリーズ第7試合でセーブを失敗し、ヤンキースは優勝を逃した[7]。リベラは自身の失策の後、ルイス・ゴンザレスに決勝点となる適時打を許した[9]。これはリベラがポストシーズンで記録した唯一の敗戦であり[79]、ポストシーズンにおける連続セーブ機会成功記録は23で途切れた[80]。
2002年 - 2005年
2002年5月9日、リベラは通算225セーブ目を挙げ、デイブ・リゲッティを抜いてヤンキース史上最も多くのセーブを挙げた投手となった[81]。リベラは6月に鼠径部の負傷で故障者リスト入りしたが[82]、前半戦で21セーブ、防御率1.47という成績を残し[83]、オールスターチームに選ばれた[2]。リベラは7月から8月にかけて肩の負傷により2回故障者リスト入りした[82]。シーズン全体では、リベラの投球回は46回に留まり、28セーブ、防御率2.74を記録した[43]。
2003年、トーリは怪我のリスクを最小限にするためにシーズン中はリベラに無理な負担をかけさせないつもりだと述べたが[84]、リベラはシーズン開始前から鼠径部の怪我に苦しみ、開幕後の1か月を欠場した[85]。リベラは4月30日に復帰し[85]、前半戦で16セーブを挙げた[86]。6月13日にはセントルイス・カージナルス戦でセーブを挙げ、先発ロジャー・クレメンスの通算300勝目に貢献した[87]。リベラはシーズン中盤に不振に陥ったが、その後の15回のセーブ機会は全て成功した[88]。レギュラーシーズンでは40セーブ、自己ベストの防御率1.66を記録した[88]。ボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは、リベラは第7試合で5対5の同点から9回に登板し、1996年以降で最長となる3回を投げて無失点に抑えた[89]。11回にアーロン・ブーンがサヨナラ本塁打を放ってワールドシリーズ進出を決めたことで、リベラは勝利投手になった[89]。リベラは1勝2セーブを記録し、リーグチャンピオンシップシリーズMVPに選ばれた[89]。ヤンキースはフロリダ・マーリンズとのワールドシリーズに敗北した[90]。リベラはこの年のポストシーズンで16回を投げて1失点に抑え、5セーブを挙げた[50]。リベラは2004年3月に2年総額2100万ドルの延長契約を結び、3年目はオプション契約となった[91]。
2004年5月28日、リベラは史上17人目となる通算300セーブを達成した[92]。前半戦では防御率0.99、32セーブを記録し[93]、6回目のオールスターチームに選ばれた[2]。リベラはこのシーズンで最終的に74登板で防御率1.94、キャリアハイとなる53セーブを記録し、3回目となる最多セーブ投手となった[2]。3回目となるア・リーグのローレイズ・リリーフマン賞の受賞に加え[2]、ア・リーグのサイ・ヤング賞投票で3位に入った[94]。ポストシーズンでは、リベラは自宅のプール付近で妻の親族2人が事故死したことを受けてパナマに一時帰国した[95]。レッドソックスとのア・リーグチャンピオンシップシリーズ第1戦の試合途中にヤンキー・スタジアムに戻ったリベラは、その試合でセーブを記録した[95]。このシリーズではヤンキースは途中まで3勝0敗とリードしていたが、第4戦と第5戦でレッドソックスは延長戦で追いついてリベラはセーブに失敗した[96]。レッドソックスは第6戦と第7戦でも勝利を収め、ヤンキースは敗退した[97]。リベラはこのポストシーズンで5回のセーブ機会のうち3回失敗した[96]。リベラはオフシーズンに入ってからしばらくの間は投球を行っていなかった[98]。

2005年、肘の炎症によるスプリングトレーニングの欠場を経たリベラは、シーズン最初のレッドソックス戦でのセーブ機会で2回続けて失敗し、前年のポストシーズンからレッドソックス戦では連続4試合でセーブを失敗したことになった[98]。ヤンキー・スタジアムのファンはリベラにブーイングを浴びせ[99]、記者からはリベラは衰えてしまったのではないかという声も上がった[98][100]。リベラはその後は好成績を収め[101]、オールスターチームに選ばれた[2]。8月15日、リベラはMLB通算セーブ数ランキングでジェフ・リアドンを抜いて5位に入った[102]。この年、リベラは47回のセーブ機会で43セーブを挙げ、防御率1.38、WHIP0.87などの複数の項目で自己ベストを更新した[2]。リベラは4回目のア・リーグのローレイズ・リリーフマン賞に加え、ファン投票で第1回デリバリー・マン・オブ・ザ・イヤーを受賞した[2]。リベラはア・リーグのサイ・ヤング賞では先発投手のバートロ・コローンに次いで2位、ア・リーグMVPでは9位となった[103]。ポストシーズン中、MLBが発表したファン投票で選ばれたラテン系選手で構成されるオールスターチームであるラティーノ・レジェンズ・チームにおいて、リベラは救援投手に選ばれた[104]。
2006年 - 2008年

2006年、リベラは4月までに防御率3.72で2敗を記録していたが、その後成績は改善した[105]。6月6日、リベラは通算391セーブ目を挙げ、MLB通算セーブ数ランキングでデニス・エカーズリーを抜いて4位に浮上した[106]。リベラは前半戦に防御率1.76、19セーブを記録し、オールスターチームに選ばれた[107]。オールスターゲームでは自身3回目となるセーブを挙げ、エカーズリーの記録に並んだ[108]。7月16日、史上4人目となるMLB通算400セーブを達成した[109]。リベラは肘の故障で9月に欠場したが[110]、2006年シーズン全体では37回のセーブ機会で34セーブを挙げた[43]。また、防御率は1.80を記録し、4年連続で防御率2.00を下回った[43]。リベラは2年連続でデリバリー・マン・オブ・ザ・イヤーに選ばれた[2]。2007年シーズンで契約が終了する予定であったリベラは開幕前にヤンキースと契約延長を求めたが、経営陣はシーズン開幕直後に交渉することを断ったため、リベラは年末にフリーエージェントを検討すると回答した[111]。

2007年4月、リベラは2回セーブ失敗するなど、7+2⁄3回を投げて防御率10.57を記録した[112]。スポーツ記者たちは、ヤンキースがリベラをあまり試合に出場させなかったため、リベラの苦戦は出場機会が十分に与えられていないことが一因だと考えた[113]。7月14日、リベラは通算425セーブ目を挙げ、ジョン・フランコを抜いてMLB通算セーブ数ランキングで3位に浮上した[114]。しかし、2007年シーズンのリベラは自責点(25)、被安打(68)、防御率(3.15)といった成績が抑え投手に配置された1997年以降でワーストの数字となった[43]。ヤンキースがプレーオフで敗退した後、リベラは来シーズンの契約について、自身の長年の監督であるジョー・トーリがヤンキースと再契約するかどうかに影響されると示唆していた[115]。トーリはヤンキースと再契約しなかったが[116]、リベラは3年総額4500万ドルでヤンキースと再契約し、抑え投手として野球史上最高の契約となった[117]。

2008年、リベラは自己ベストとなるシーズン開幕時点から28連続セーブ成功を記録した[118]。前半戦では防御率1.06、23セーブを記録し[119]、9回目のオールスターチームに選ばれた[2]。ヤンキー・スタジアム最後の年となる2008年のMLBオールスターゲームを前に、スポーツ記者数人がリベラとスタジアムへの敬意として、ア・リーグの先発投手にリベラを起用することを提案した[120][121]。オールスターゲームではリベラは救援投手として起用され、ア・リーグの延長戦での勝利に貢献した[122]。9月15日、リベラは通算479セーブ目を挙げ、リー・スミスを抜いてMLB通算セーブ数ランキングで2位に浮上した[123]。9月21日、ヤンキー・スタジアムの最終戦でリベラは同スタジアムで最後の投球をし、ボルチモア・オリオールズのブライアン・ロバーツをゴロでアウトにした[124]。シーズン終了後、リベラは年間を通して肩の痛みに悩まされていたことを明かした[125]。検査の結果、右の肩鎖関節に石灰化が見られたため、オフシーズンに関節鏡手術を受けることが決まった[125]。2008年シーズンのリベラは防御率1.40、40回のセーブ機会で39セーブを記録したほか、WHIP(0.67)、被OPS(.423)、被打率(.165)、セーブ成功率(97.5%)、四球(6)、自責点(11)、セーブ失敗数(1)など、複数の項目で自己ベストを更新した[2]。また、奪三振率は抑え投手として自己最高となる9.81を記録した[2]。制球力も高く、K/BB12.83という記録は、シーズンで50イニング以上投げた投手の中でMLB史上2番目に高い数値となった[126]。ア・リーグのサイ・ヤング賞の投票では5位に入った[127]。
2009年 - 2012年

2009年、リベラはキャリア初の2者連続本塁打を許すなど[128]、シーズンの最初の12試合で被本塁打4、防御率3.97を記録した[129]。6月28日のメッツ戦でMLB史上2人目となるレギュラーシーズン通算500セーブを達成した[5]。この試合では、リベラはフランシスコ・ロドリゲス相手に満塁で四球を選び、キャリア初の打点を記録した[5]。前半戦では防御率2.43で23セーブを記録し[130]、10回目となるオールスターチームに選ばれた[2]。リベラはこのオールスターゲームで4回目のセーブを挙げ、新記録を樹立した[131]。シーズン後半戦では自責点を3しか許さず[132]、連続セーブ機会成功数は36と自己ベストを更新した[133]。レギュラーシーズン全体では防御率1.76、WHIP0.90、46回のセーブ機会で44セーブを記録した[43]。ポストシーズンでは16回を投げて自責点を1しか許さず5セーブを記録した[50]。ワールドシリーズではフィラデルフィア・フィリーズ相手に勝利し、自身5回目となるワールドシリーズ優勝を果たした[134]。リベラはこのポストシーズンで敗戦とセーブ失敗のいずれも記録しなかった唯一の抑え投手となった[134]。リベラは3回目のデリバリー・マン・オブ・ザ・イヤー[135]、5回目のア・リーグのローレイズ・リリーフマン賞[2]、スポーティングニュースのプロ・アスリート・オブ・ザ・イヤー・アワードなど、複数の賞を受賞した[136]。ESPN.comのジェリー・クラスニックは同年末に2000年代を振り返り、リベラは過去10年で最も価値のあるMLB投手だと述べた[137]。
2010年、リベラとコア4の一員であるデレク・ジーターとホルヘ・ポサダは、北米4大プロスポーツリーグにおいて16年連続で同一チームでプレーした最初の3人になった[138]。5月、リベラはセーブ機会で失敗したことで本拠地での連続セーブ記録が51試合でストップし、エリック・ガニエの持つ当時のMLB記録に並んだ[139]。リベラは前半戦で防御率1.05、22回のセーブ機会で20セーブ、WHIP0.64という結果を残し[140]、6月には24打者連続アウトという自己最高記録も残した[141]。リベラは11回目となるオールスターチームに選ばれたが、怪我のため出場を辞退した[142]。後半戦は成績が低下し、特に9月には3回のセーブ失敗と防御率4.76を記録した[140]。リベラは2010年シーズンを防御率1.80、38回のセーブ機会で33セーブ、WHIP0.83という成績で終えた[43]。ポストシーズンでは6+1⁄3回を投げて無失点に抑え、3セーブを挙げた[50]。オフシーズンにリベラは2年3000万ドルの契約を結び、ヤンキースに残留した[143]。オフシーズンにレギュラーシーズン通算セーブ数最多記録保持者のトレバー・ホフマンが601セーブで引退したことにより、ホフマンの記録まであと42セーブに迫っていたリベラは現役選手の中で最多のセーブを挙げた投手となった[144]。

2011年、リベラは歴代最多の交代完了記録を更新した[145]。5月にはMLB史上15人目、単一チームでの記録では初となる通算1000試合登板を達成した[146]。前半戦では防御率1.85、26回のセーブ機会で22セーブを記録し[147]、12回目となるオールスターチームに選ばれたが[2]、怪我の治療のため2年連続で出場を辞退した[148]。9月13日、リベラは史上2人目となる通算600セーブを達成した[149]。9月17日、リベラは601セーブ目を挙げ、セーブ数で通算最多のホフマンに並んだ[150]。9月19日、リベラはヤンキー・スタジアムのツインズ戦でクリス・パームリー相手に三振を奪い、6対4で通算602セーブ目を挙げて、歴代最多セーブ数記録を更新した[151]。試合後、パナマ大統領のリカルド・マルティネリがリベラに電話をかけ祝福した[152]。リベラはレギュラーシーズンを防御率1.91、WHIP0.90、49回のセーブ機会で44セーブを記録し[2]、40歳以上の投手として初めて40セーブ以上を挙げた[153]。オフシーズンには声帯からポリープを除去する手術を受けた[154]。
2012年、リベラはシーズン開幕戦でセーブに失敗したものの、その後8試合では無失点、5セーブを記録した[155]。5月3日、リベラはカンザスシティ・ロイヤルズ戦の試合前の打撃練習で外野で飛球を捕球しようとしていたときに、ウォーニングゾーン上で右膝前十字靭帯を断裂した[156]。リベラはスプリングトレーニング中にこのシーズン限りで引退する可能性を示唆していたため[157]、スポーツ記者からはこの怪我でリベラのキャリアが終わるのではないかと推測された[158]。翌日、リベラは復帰する意思があることを明言した[159]。6月12日には右膝前十字靭帯再建術を受けて成功した[160]。リベラの離脱中はラファエル・ソリアーノが代役の抑え投手を務め、46回のセーブ機会で42セーブを挙げた[161]。リベラはオフシーズンに1年1000万ドルの契約を結び、ヤンキースに残留した[162]。
2013年

2013年3月9日、オフシーズンに膝のリハビリを終えた43歳のリベラはメジャーリーグ19年目となる2013年シーズンをもって現役を引退することを発表した[156]。リベラは引退シーズンを通して、各球場でファンや球団職員と個人的に会って感謝を伝えることを決めた[163]。リベラは「野球を成立させている人たち、つまり毎日野球の試合において働いている人たちに会うことは、私にとって重要だった。私は彼らに与えた以上のものを彼らから受け取ってきた」と説明した[164]。リベラは最後にそれぞれの街を訪れている間に、相手チームから贈り物を受け取った[165]。クリーブランドでは、インディアンスはロックの殿堂と提携し、リベラに登場曲の「エンター・サンドマン」のゴールド・レコードを贈った[166]。ミネソタ・ツインズは、リベラのカットボールによって折られたバットでロッキングチェアを作った[167]。ライバルのボストン・レッドソックスはリベラを描いた絵画やフェンウェイ・パークの座席などを贈った[165]。多くのチームはリベラが設立した慈善団体であるマリアノ・リベラ財団に寄付をした[165]。また、デルタ航空はリベラのサインと背番号42を機体に装飾したボーイング757を贈った[168]。ハードロックカフェはヤンキー・スタジアム内以外の全ての店舗で「エンター・サンドマン」の放送を終了させてリベラを称えた[169]。

リベラは4月にシーズン最初の月としては自己最多となる10セーブを挙げた[170]。リベラはその後も連続でセーブを成功させていたが、シーズン19回目のセーブ機会となる5月28日のメッツ戦で初めてセーブを失敗した[171]。アウトを1つもとれずにセーブを失敗し敗戦投手となるのはリベラにとってこれが初めてであった[171]。リベラは前半戦で30セーブ、防御率1.83を記録し[172]、投手ではウォーレン・スパーンの17回に次いで2番目に多い13回目のオールスターチームに選ばれた[173]。ニューヨークのシティ・フィールドで開催されたオールスターゲームでは、最後の出場となったリベラは8回に登板した[174]。リベラがフィールドに出ると、スタンディングオベーションの観客とともに、両チームの選手がダッグアウトからフィールドに1人で立つリベラに対して拍手を送って称えた[174]。リベラは対戦した3人の打者全員を打ち取り、オールスターゲームでの通算防御率0.00を維持した[174]。リベラは救援投手としては初、投手としては1999年のペドロ・マルティネス以来、ヤンキースの選手としては2000年のデレク・ジーター以来2人目となるオールスターゲームMVPに選ばれた[175]。これにより、リベラはワールドシリーズ、リーグチャンピオンシップシリーズ、オールスターゲームの全てでMVPを獲得した初めてのMLB選手となった[5]。リベラは8月に3試合連続でセーブを失敗するなど[176]、シーズン全体で7回セーブを失敗した[177]。

ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグが「マリアノ・リベラ・デー」と宣言した2013年9月22日、ヤンキースはヤンキー・スタジアムで試合前に50分間の式典を開催した[178]。元チームメイト、ヤンキースのスタッフ、ジャッキー・ロビンソンの家族が参加した式典では、リベラの背番号42は現役ヤンキース選手として初めて永久欠番となった[178]。式典中にはメタリカがリベラの登場曲の「エンター・サンドマン」を生演奏した[178]。ヤンキースが記念の動画や贈り物を贈った後、チームメイトや関係者がリベラのキャリアを振り返った[178]。9月26日にヤンキー・スタジアムで行われたタンパベイ・レイズ戦でリベラはキャリア最後の試合に登板した[179]。かつてヤンキースの場内アナウンスを担当していた故人のボブ・シェパードの録音された音声で8回に登場したリベラは1+1⁄3回を投げて完璧に抑えた[179]。9回にカットボールでユネル・エスコバーを飛球で打ち取り二死とした後、リベラは降板した[179]。審判の許可を得て、ヤンキース監督のジョー・ジラルディはリベラの長年のチームメイトであるアンディ・ペティットとデレク・ジーターに投手交代を任せた[179]。リベラは投手交代のためマウンドへ上がった2人と抱き合った[179]。ファンと選手からスタンディングオベーションの中でフィールドから出たリベラはカーテンコールに応じ、観客に手を振った[179]。試合後、リベラは最後にマウンドを訪れ、記念に一握りの土を拾い上げた[179]。リベラは最後のシーズンで防御率2.11、WHIP1.05、51回のセーブ機会で44セーブを記録し[43]、ア・リーグのカムバック賞など複数の賞を受賞した[180]。10月24日、リベラは功績を称えられ、史上13人目となるコミッショナー特別表彰を贈られた[181]。
引退後

2014年3月、リベラは慈善活動が認められ、ジャッキー・ロビンソン財団からROBIE賞を受賞したほか[182]、ジェファーソン賞も受賞した[183]。同月後半にはヤンキースとマイアミ・マーリンズで行われるMLBエキシビションゲーム2試合からなる「レジェンド・シリーズ」が、リベラの母国パナマでリベラの「功績を称える」ために開催された[184]。試合中には慈善イベントが行われた[184]。
2014年4月9日、MLBは救援投手のための新しい賞として、既存のデリバリー・マン・オブ・ザ・イヤーに代わって最優秀救援投手賞を創設し、ア・リーグ版はリベラの名前を冠した賞にすることを発表した[185]。2014年5月、ヤンキー・スタジアムに隣接するリバー・アベニューの一部がリベラにちなんだ「リベラ・アベニュー」に改名された[186]。2014年5月にはウェイン・コフィーとの共著によるリベラの自伝『ザ・クローザー: マイ・ストーリー』が発売された[187]。ニューヨーク大学は2014年5月21日にヤンキー・スタジアムで行われた学位授与式にて、リベラに名誉人文学博士を授与した[188]。2015年のリトルリーグ・ベースボール・ワールドシリーズ中にリベラはリトルリーグの殿堂入りを果たした[189]。2016年8月14日、ヤンキースはヤンキー・スタジアム内のモニュメントパークに、リベラの記念プレートを設置した[190]。
2019年1月22日、リベラは資格1年目に野球殿堂入りを果たした[191]。リベラは史上初となる得票率100%(425票中425票)での選出となり、これまでの最高記録であった2016年のケン・グリフィー・ジュニアの99.3%(440票中437票)という記録を更新した[191]。リベラの殿堂入りはパナマ出身選手としてはロッド・カルーに次いで史上2人目[192]、救援投手としては史上8人目となった[193]。2019年7月21日、リベラはクーパーズタウンで殿堂入りの式典に出席した[194]。式典には5万5000人が出席し、殿堂入りの式典としては史上2番目に大きな規模となった[195]。出席者の中にはパナマ大統領のラウレンティノ・コルティソや、リベラの元チームメイトであるバーニー・ウィリアムスなどがいた[194]。ミュージシャンでもあるウィリアムスはギターで「星条旗」や「私を野球に連れてって」を演奏した[194]。リベラは式典の最後にスペイン語での4分間を含む約25分間のスピーチを行った[196]。

2019年7月12日、ニューヨーク競馬協会はサラトガ競馬場にリベラを主賓として迎え、リベラの財団への募金昼食会を開催した[197]。ニューヨーク市のジョン・F・ケネディ国際空港では、デルタ航空との式典でターミナル4のゲート42Bがリベラにちなんで改名され、飛行機にはリベラのサインと背番号が入ったステッカーが貼られた[198]。2019年7月27日、ニューロシェルでリベラを称えるパレードが開催され、リベラには市の鍵が贈られた[199]。2019年8月17日、ヤンキースはヤンキー・スタジアムで試合前にイベントを開催し、リベラの財団に25万ドルを寄付した[200]。2019年9月16日、長年のヤンキースファンであるアメリカ合衆国大統領のドナルド・トランプは[201]、アメリカ合衆国連邦政府が民間人に対して与える最高位の勲章である大統領自由勲章を授与した[202]。ホワイトハウスのウェブサイトでは「フィールド外ではマリアノ・リベラ財団を通して、彼は困窮する子供たちに教育を提供し、より良い未来を実現する力を与えてきた」「合衆国は、野球におけるレジェンドであり、アメリカの地域社会の強化に献身したマリアノ・リベラを誇りに思う」という声明が発表された[203]。
2025年4月、リベラの故郷パナマのラ・チョレラ地区に、リベラの名前を冠した収容人数1万人の野球場であるエスタディオ・マリアノ・リベラが開場した[204]。この野球場はMLBの基準を満たしており、4500万ドルをかけて建設された[205]。野球場の開場に際して、パナマ野球連盟はリベラを称えて背番号42をパナマ国内における永久欠番にすることを発表した[206]。
2025年8月9日、リベラはヤンキースのオールドタイマーズ・デーでの野球のエキシビションゲームのプレー中にアキレス腱を断裂した[207]。
選手としての特徴
投球スタイル

リベラの得意な変化球はカットボールであり、左打者に対してスライダーのような変化をする一方で、速球並みの球速を有していた[208]。リベラのカットボールは打席の近くで鋭く変化するため、特に左打者は打球が弱くなったり、バットが折られたりすることが多かった[209]。『ニューヨーク・タイムズ』によると、2001年のレギュラーシーズンでは、リベラは80+2⁄3回を投げて44本のバットを折っており[210]、1999年のワールドシリーズでは1打席で3回バットを折ることもあった[211]。ブレーブスのチッパー・ジョーンズは、この球を「電動丸鋸」(buzz saw)に例えた[100]。ボールにはリベラの長い指と柔軟な手首によって大きなスピンがかかり、大きな変化が生まれていた[56][212]。カットボールの握り方については、リベラは「実際は中指に力を入れたフォーシーム・ファストボール」だと表現している[56]。リベラは指先でボールに与える力を調節することで投球の曲がり具合を変えることができた[56]。リベラはカットボールを握るとき、ボールが手から離れる際に親指の腹がボールのスピンを邪魔しないようにするため、親指の関節を曲げてボールの下にねじ込み、爪の位置が中指と同じになるように調整していた[213]。リベラはカットボールを中心に投げており[214]、補完としてフォーシームやツーシームも投げていた[40][215]。野球の統計を提供するウェブサイト『ファングラフス』によると、リベラは2008年から2013年までの全てのシーズンで投球の82%以上をカットボールが占めていたという[216]。3つの球種はいずれも球速が90マイル台前半から半ばに達していた[40][215][214]。
MLBデビュー当初のリベラの主な球種は最速96マイル(154km/h)のフォーシームで、ストライクゾーン高めの投球で空振りを誘い、高い奪三振率を記録していた[217]。リベラは偶然カットボールを発見してからは自身の投球スタイルを変更した[56]。1997年6月、リベラは練習中に突如自身が得意とする速球が鋭く不規則な変化をしていることに気付いた[56]。リベラはこのカットする変化を取り除こうと1か月間試したものの上手くいかなかったため、カットボールを自身の持ち球に加えることにした[56]。その後、1998年にはカットボールはリベラの主力の球種となっていた[59]。この球の起源について聞かれたリベラは「神から与えられた。私は何もしていない。自然に生まれたものだ」と説明した[218]。カットボールに頼るようになり、リベラは三振以外でのアウトを多く記録するようになった[217]。奪三振率は1996年の10.87から1998年には5.3まで減少したが[2]、1イニングあたりの投球数も1995年の18.7球から1998年には14.9球にまで減少した[217]。リベラは野球を長く続けることができたのは、長年自身の投手コーチを務めたメル・ストットルマイヤーのおかげだと考えた[219]。
リベラは高い制球力を備えていたため、打者はカットボールが来るとわかっていても安打を打つことが難しかった[215]。リベラの球を受けていた捕手のジョー・ジラルディは、「彼は常にボールを正確に投げていたから、とても捕球しやすかった。彼以上に捕球しやすい投手は今までにいなかったと思う」と述べた[220]。リベラのレギュラーシーズン通算K/BBは4.10で、これはMLB歴代16位である[221]。リベラの高い制球力は柔軟で再現性が高い投球モーションによって生まれたものである[56]。1999年、ダリン・フレッチャーはリベラについて「彼の投げ方は、相手を眠らせるようなものだ。安心できるかのような誤った感覚を与えるが、その後ボールが目前まで来て爆発する」と述べた[209]。
リベラは左打者に対して内角に鋭く曲がるカットボールを武器としているため、スイッチヒッターは右投げのリベラと対戦する際にあえて右打席に立つこともあった[222]。同様に、1998年のワールドシリーズのブルース・ボウチーのように、リベラとの対戦時に左打者に代えて右打者を代打に送った監督もいた[223]。相手打者は、リベラのカットボールで愛用のバットを折られないようにするため、予備のバットや打撃練習用のバットでリベラと対戦することもあった[56][209]。
リベラは細い体格と優れた耐久力を有する選手だと考えられていた[44]。打撃練習中に外野で積極的にボールを捕球する姿から、スカウトの中にはリベラはア・リーグで屈指の中堅手になれると確信していた者もいた[224]。リベラはプロとしての初期から体作りと健康維持のために規律正しい準備をしていた[224]。元チームメイトのアレックス・ロドリゲスによると、リベラは41歳にしてヤンキースのトレーニングキャンプで35インチ(890mm)の垂直跳びをやり遂げるほど高い運動能力があったという[225]。
メンタル
多くの救援投手が打たれると感情的になるのとは対照的に、リベラはマウンド上では何があっても冷静な態度を見せていた[40]。プレッシャーがかかる状況でも集中力を保つ自身の能力について、リベラは「考え始めるとさまざまなことが起こる。(中略)自分の感情を制御できなければ、感情が行動を制御してしまう。それは良いことではない」と述べた[226]。リベラの精神面について、同僚の救援投手のジョバ・チェンバレンは「彼は野球の歴史上でも屈指の試合で勝ったり負けたりしてきたが、本塁打を打たれても動じることはない」と述べた[226]。リベラは悪い結果をすぐに忘れる必要性について、「明日プレーする試合はさっきプレーした試合と同じにはならないだろう」と述べた[227]。デレク・ジーターは今まで一緒にプレーしたチームメイトの中でリベラが「最も精神的にたくましい」と述べた[101]。
現役時代、リベラはヤンキースのチームリーダーとして、若手投手の指導やチームメイトのカウンセリングを度々行っていた[228]。リベラは自身の功績よりもチームの理念を優先しており、自身がセーブを挙げるためにチームメイトの存在は必要不可欠だと考えていた[149]。リベラは自身の仕事について「ボールを受け取り、ボールを投げて、その後シャワーを浴びる」と表現した[229]。
業績
リベラは一般的に不安定で入れ替わりが激しい抑え投手としては異例の安定感と長期にわたる活躍を見せた[113][231]。ヤンキースの抑え投手として17年間プレーし、オールスターゲームには13回選出された[2]。レギュラーシーズンのセーブ数(652)と交代完了数(952)はMLB歴代最多である[2]。レギュラーシーズンでの登板数1115試合はMLB歴代4位であり[232]、ア・リーグでは歴代最多で[233]、右投手としても歴代最多である[234]。リベラは各種セーブ数到達回数において歴代最多を記録しており、20セーブ以上を16年[235]、25セーブ以上を16年[236]、30セーブ以上を15年[237]、40セーブ以上を9年[238]、50セーブ以上を2年達成している[239]。また、15年連続25セーブ以上や[240]、9年連続30セーブ以上は歴代最長記録である[241]。リベラはライブボール時代における1000投球回以上の投手の中で通算防御率(2.21)や通算WHIP(1.00)が歴代1位である[242]。リベラはウォルター・ジョンソンと並んで60投球回以上で防御率2.00を下回ったシーズンが11年に達し、最多タイ記録となっている[243]。リベラはリーグや球場の防御率を補正し、同じ基準で投手を比較できるようにする指標であるERA+(205)でも歴代最高を記録している[244]。レギュラーシーズンの奪三振数1135は救援投手の中でMLB歴代13位である[245]。
リベラはレギュラーシーズンだけではなく、ポストシーズンでも好成績を残しており[246][247]、ポストシーズンでは通算で8勝1敗、WHIP0.76を記録している[50]。リベラはポストシーズンでも多くの記録を保持しており、30投球回以上の投手の中で防御率1位(0.70)[62]、最多セーブ(42セーブ)[62]、最多連続イニング無失点(33+1⁄3イニング)[5]、最多登板(96登板)[62]を記録している。ポストシーズンにおける通算セーブ数では、2位のケンリー・ジャンセン(20セーブ)の2倍以上の数字を記録している[62]。ポストシーズンでリベラから自責点を奪った打者の人数は計11人であり、これは月面を歩いたことがある人数(12人)よりも少ない[192]。リベラのキャリアの大半でヤンキースの監督を務めたジョー・トーリは、「現実を見よう。レギュラーシーズンのモーは素晴らしいが、それはカップケーキとアイスクリームのようなものだ。彼を他の皆と区別するのは、ポストシーズンでの業績だ」と述べた[56]。リベラは抑え投手でありながら8回から登板することがよくあり[246]、ポストシーズンでは2イニングでのセーブを14回記録している[191]。これはリベラの現役時代における他の全てのMLB救援投手全員の合計回数よりも多かった[191]。リベラはポストシーズンにおけるWPAで歴代1位の11.7を記録しており、これは2位の選手のほぼ3倍の数値である[248]。また、ポストシーズンの優勝WPA(184.7)でも歴代1位であり[62]、これはリベラ一人の活躍でヤンキースにワールドシリーズ優勝をほぼ2回分もたらしたということを意味する[249]。2009年のESPN.comの投票では、リベラはMLB史上最高のポストシーズン選手トップ5の一人に選ばれた[250]。『ワシントン・ポスト』のニール・グリーンバーグは、リベラをMLBのポストシーズン史上最も「クラッチ」な選手に挙げた[251]。
評価

リベラは野球専門家や同僚から史上最高の救援投手という評価を受けている[40][252]。殿堂入り投手のデニス・エカーズリーはリベラを「間違いなく史上最高」と述べ[39]、トレバー・ホフマンは「野球史上最高の救援投手として記憶されるだろう」と述べた[40]。トーリは「彼は私がこれまで出会った中で最高だ。プレッシャーの中で投げて結果を残す能力だけではなく、クラブハウス全体に落ち着きをもたらす能力もある」と述べた[253]。ライターのトム・ベルドゥッチは、「リベラは間違いなく野球の歴史上どのポジションのどの選手よりも圧倒的に優れた選手だ。リベラとその他全ての抑え投手の間には大きな差がある」と述べた[158]。ベルドゥッチはバスケットボールのマイケル・ジョーダンやアイスホッケーのウェイン・グレツキーを引き合いに出し、野球ではリベラがそのポジションで史上最高の選手であることは明らかだと述べた[254]。MLBコミッショナーのバド・セリグは、「彼は紛れもなく史上最高の救援投手であり、並外れたやり方で成し遂げた」と述べた[255]。試合終盤におけるリベラの大きな存在感について、アレックス・ロドリゲスは「彼はクラブハウスやブルペンに座っていながら試合の流れを変えることができる野球界で唯一の男だ。彼が控えていることが分かっているから、早ければ5回には相手チームに影響を与え始める。あのように試合に影響を与えられる選手を私は今まで見たことがない」と述べた[256]。ゴセージはリベラを「おそらく史上最高のクローザー(抑え投手)」と述べる一方で、現代の抑え投手の役割は、複数イニングを投げることが一般的な「ファイヤーマン」と呼ばれていたゴセージの時代の抑え投手と比較すると、あまりに専門化され、かつ容易になりすぎていると示唆した[257][258]。リベラは史上最高の野球選手の一人として順位付けされており、2019年に『ジ・アスレチック』は歴代91位[259]、2022年にESPN.comは歴代31位に選出した[260]。2年後、ESPN.comは21世紀のプロスポーツ選手トップ100のうち、リベラを59位に選出した[261]。

リベラはプロ意識の高さにおいても野球界で高く評価されている。抑え投手のジョー・ネイサンは、「私はフィールド内外での彼の振る舞い方を尊敬している。(中略)彼は誰かに恥をかかせるようなことは一度もないし、野球という競技を尊重している。私は常に彼を尊敬しているし、彼と同じ文脈で言及されるだけでも光栄だ」と述べた[262]。マイケル・ヤングはリベラについて「私は野球において他の誰よりもモーを尊敬している。彼はフィールドに出てアウトを3つとり、ポサダと握手をする。彼のように野球を尊重し、ともにプレーする選手や相手選手を尊敬する人は高く評価するし、彼の結果が十分に物語っている」と述べた[263]。リベラの現役最後の週に掲載された『スポーツ・イラストレイテッド』の特集記事で、ベルドゥッチはリベラについて「どんなスポーツでも、これほど同僚から尊敬されて引退した選手はほとんどいない」と述べた[220]。リベラは恒常的に背番号42を着用していた最後のMLB選手であり、引退時にはジャッキー・ロビンソンの背番号42をリーグの規定で着用できていた唯一の現役選手であった[53]。ロビンソンの妻のレイチェルはリベラと自身の夫の関係について、「(リベラは)尊厳と気品をもって振る舞っていた。だからこそこの背番号を背負うことはジャックへの敬意の表れだった。私はマリアノがこの背番号に特別な何かをもたらしたと思っているから、彼がこの番号を身に着けている一人に選ばれたことを常に誇りに思い、嬉しく感じていた」と述べた[264]。コミッショナー特別表彰を授与する際、セリグは「彼は輝かしいキャリアを通して家族、祖国、ヤンキース、そしてメジャーリーグベースボール全体を、最高の気品と尊厳をもって代表してきた。マリアノがジャッキー・ロビンソンの神聖な背番号である42を背負う最後のメジャーリーグ選手となったことは極めて妥当なことだ」と述べた[181]。

リベラのカットボールはMLB選手から高く評価されている[44][265]。ジム・トーミは「野球史上最高の球種」と表現した[266]。デビッド・オルティーズは「(リベラの)カットボールは私がこれまで見た中で最高の球種だが、真に驚くべきなのは彼が長年それを投げ続けられたことだ。マリアノほど厄介なボールを投げられる人は今いるだろうか。1年間か2年間なら可能性はある。だが、彼ほど長く続けることは誰にもできないだろう」と述べた[267]。2004年、ESPN.comはリベラのカットボールを野球における最高の決め球に選出した[268]。スポーツジャーナリストのバスター・オルニーはこのカットボールを「この世代で最も支配的な球種」と表現した[269]。リベラの同僚の中には、カットボールがMLB投手の間で普及したのはリベラの功績だとする者もいる。キャリアの後半でこの球種を取り入れた抑え投手のジェイソン・イズリングハウゼンは、「彼はこれを投げる投手全員に影響を与えてきたと思う。皆リベラがほとんど1つの球種でやってきたことを見ている。彼のように投げられるのは誰もいなかったが、今カットボールの進化について語るなら、打者に聞いてみると誰もが皆投げていると言うだろう。そして彼らはそれを嫌っているだろう」と述べた[208]。カットボールを得意球としていたアル・ライターは「今では誰もがこれを投げる。モーは多大な影響を与えてきた。投手たちは彼を見て、1つの球種で成し遂げたことに驚いた」と述べた[208]。2008年のオールスターブレイクでロイ・ハラデイは自身のカットボールについてリベラに相談し、リベラが語った握りの指の位置を野球ボールにペンで描き出した[213]。ハラデイはこのボールを常に鞄に入れ、カットボールの投球が上手くいかない際に手に取って参考にしていた[213]。
私生活

リベラと妻のクララは小学校時代からの知り合いで[44]、1991年11月9日に結婚した[270]。2人の間にはマリアノ3世、ハフェット、ハジエルの3人の息子がいる[271]。一家は2000年まではパナマに住んでいたが、その後ニューヨーク州ウェストチェスター郡に移住した[271]。2006年、リベラ一家はニューヨーク州ライにある1万3000平方フィート(1,200 m2)の住宅を570万ドルで購入した[272]。この住宅は2020年に399万5000ドルで売りに出され[272]、2022年6月に378万3000ドルで売却が成立した[273]。ライの住宅を売りに出した後、一家はホワイト・プレインズに新居を建てた[274]。
マリアノ3世はキニピアック大学の野球チームにウォークオンとして入団し、ニューロシェルのアイオナ大学に転校してからも投手としてプレーした[275]。マリアノ3世は2014年のMLBドラフトではヤンキースから29巡目・全体872位で指名されたが[276][277]、アイオナ大学に3年生として戻ることを決めた[276]。2015年のMLBドラフトではワシントン・ナショナルズに4巡目・全体134位で指名された[276]。マリアノ3世はナショナルズ傘下のポトマック・ナショナルズで4シーズン投手としてプレーした後、2020年にニューヨーク州チェスターで自動車修理工場を開いた[278]。
1991年、リベラはグリーンズボロ・ホーネッツに所属した際にチームメイトにスペイン語の母語話者がいないと分かったため、英語を学び始めた[279]。リベラは文化の隔たりを埋めるために、ラテン系選手の英語学習や、アメリカの報道関係者のスペイン語学習を奨励している[280]。また、アメリカへの移住者の最優先事項は英語学習だと主張している[201]。リベラは2015年10月にアメリカに帰化し、式典ではアウトスタンディング・アメリカン・バイ・チョイスとして表彰された[281]。
宗教と慈善活動
リベラは敬虔なキリスト教徒である[16]。幼少期にはリベラもその家族も教会に通っていなかったが、リベラは21歳ごろに新生して以降信心深くなり[44]、カトリックからペンテコステ派に改宗した[11]。リベラの両親もリベラの変化を見てその導きに従った[11]。リベラは起こること全てに神の理由があると信じている[282]。たとえば、仮にヤンキースが2001年のワールドシリーズで優勝していたら、チームメイトのエンリケ・ウィルソンは優勝パレードに参加するためニューヨークに11月12日まで留まり、その後アメリカン航空587便に乗って故郷のドミニカ共和国に向かうはずであった[282]。この便は離陸後に墜落し、計265人が死亡した[282]。このシリーズの第7戦で敗戦投手となったリベラは、ウィルソンに「ワールドシリーズで負けてよかった。まだ友人がいるということを意味するからだ」と話した[282]。リベラの投手用グローブには聖書の『フィリピの信徒への手紙』4章13節(「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできる」)にちなんで、「Phil. 4:13」と刻まれている[283]。

リベラは個人財団を通じて慈善活動を行っている[44]。1998年7月、リベラは自身の名前を冠したマリアノ・リベラ財団を設立した[284]。この財団は501(c)(3)団体であり[285]、アメリカとリベラの母国であるパナマで教会系の機関を通して恵まれない子供たちを支援している[44]。同財団は毎年50万ドル以上を寄付している[44]。リベラはパナマ、メキシコ、ドミニカ共和国、カリフォルニア州、フロリダ州、ニューヨーク州で教会の設立に資金を提供してきた[286]。2011年[286]、リベラはニューロシェルから築107年の教会を1ドルで譲り受け、自身の財団で300万ドルをかけて改装した後、2014年3月に「レフヒオ・デ・エスペランザ」(希望の避難所)の名前で開所した[287]。この教会はアッセンブリーズ・オブ・ゴッドに属しており[288]、リベラの妻のクララが牧師としてペンテコステ派の集会を主催している[287]。
マリアノ・リベラ財団は長年私立財団であったが、現役を引退する2013年シーズン中に、多くの球団がリベラの功績を称えて財団への寄付を表明した[289]。これを受けて、リベラは公益財団を設立し、ナオミ・ガンディアが事務局長に就任した[289]。ガンディアはデラウェア州スタントンにある本部で活動している[289]。野球を引退してからは、リベラは慈善活動や礼拝に専念している[290]。2014年、リベラとクララは自らの名前を冠した奨学金制度を創設し、地元のニューロシェル大学の学生に支給した[291]。リベラはホワイト・プレインズ病院と提携してチャリティゴルフトーナメントを毎年開催し、病院と自身の財団に寄付している[15]。また、デラウェア州では毎年、子供たちへの学用品が入ったリュックサックの配布、ホリデーシーズンの七面鳥ディナーの提供、「マリアノ・リベラ財団5K&キッズ・ラン」など、複数のイベントを開催した[289]。2021年、財団はマリアノ・リベラ・メンターシップ・プログラムを開始し、フロリダ州ゲインズビル、ニューロシェル、ヒューストンの恵まれない男性たちを支援している[292]。
2012年、ギビング・バック・ファンドは、リベラが2010年に62万7500ドルを寄付したと推定し、同ファンドが収集した最も寛大な著名人ランキングでリベラは25位にランクインした[293]。2013年、リベラは「フィールドでのパフォーマンスと地域社会への貢献を通して人々を明るくさせる」MLB選手に贈られるマービン・ミラー賞を受賞した[180]。
ビジネス
リベラはニューヨークにあるレストラン2軒に投資していた。1軒は2006年に「モーズ・ニューヨーク・グリル」としてオープンした「クラブハウス・グリル」[3][294]、もう1軒は2012年にマンハッタンでオープンした「シローズ」である[295]。これらのレストランはいずれもその後閉店した[296][297]。2015年、リベラはニューヨーク州マウント・キスコでトヨタとサイオンの自動車ディーラーをオープンし[298]、2022年にニューヨーク州ポート・ジェファーソン・ステーションでホンダの自動車ディーラーをオープンした[299]。リベラはパナマ産の豆を中心とした中米コーヒーを取り扱うコーヒー企業であるチェリ・カフェの創設者である[300]。2019年7月、リベラはワシントン・スピーカーズ・ビュローに講演者として加入した[301]。2022年7月、リベラは中東および南アジアで初のプロ野球リーグである新設されたユナイテッド・インターナショナル・ベースボール・リーグの共同代表に就任した[302]。2022年11月、同リーグはベースボール・ユナイテッドに改名され、リベラがオーナーの一人となることが発表された[303]。
リベラはナイキ[304]、カナーリ[305]、アキュラ[306]、スケッチャーズ[307]、ハートフォード金融サービスグループなどの広告塔を務めてきた[308]。リベラはスポンサー契約で得た収入を全て自身の財団に寄付している[289]。2019年6月、eBayがリベラと提携し、リベラを中心としたグッズのコレクションを制作することが発表された[309]。その中にはリベラが実際に試合で使用したものやリベラの私物など本人提供のもの42点が含まれており、この収益は全てマリアノ・リベラ財団に寄付された[309]。2024年、ニューヨーク・ヤンキースとファッション企業のニューヨーク・オア・ノーホエアによるストリートウェアのコラボでモデルを務めた[310]。
マーケティング企業のニールセンが2011年に発表した誠実さ・親しみやすさ・経験・影響力といった個人的な性格によって評価するリストでは、リベラはデレク・ジーターに次いで野球界で2番目に市場価値のある選手に位置付けられた[311]。マジェスティック・アスレティックの売上高によると、リベラのユニフォームの売上高は2011年にMLBで18位で[312]、2013年後半には1位になった[313]。リベラの生涯年俸は約1億6960万ドルであり[314]、リベラはそのうち1割を自身の財団に寄付している[289]。
政治

リベラはキリスト教徒としてイスラエルを支持している[315]。2013年、ニューヨーク・ボード・オブ・ラビズ(NYBR)はリベラを「マン・オブ・ザ・イヤー」に選出した[316]。同機関はリベラが参加した2015年と2018年のイスラエル訪問を支援した[317][318]。リベラは2019年7月に開催されたイスラエルを支持するキリスト教徒連合の会議に出席した[315]。
リベラはアメリカ大統領のドナルド・トランプが2017年3月に制定したオピオイド・ドラッグ乱用委員会に参加した[319]。同年5月、リベラは大統領スポーツ・フィットネス・栄養評議会の共同議長に指名された[320]。2020年12月、リベラは同評議会で2年の任期で再任した[321]。リベラはジョー・バイデンが新たな共同議長を指名した2022年まで共同議長を務め、その後も評議会のメンバーとしての活動は継続した[322]。リベラは第2次トランプ政権の2025年に再びメンバーに指名された[323]。
2018年8月、リベラはドナルド・トランプ・ジュニアとキンバリー・ギルフォイルとともにアメリカ・ファースト政治行動委員会の資金調達イベントを共同主催した[324]。2019年7月に『デイリー・ビースト』の記事で自身の政治思想が「極右」と批判されたことに対し[324]、リベラは「私は彼(トランプ)を尊敬しているし、彼の行動も尊敬している。彼はアメリカ合衆国のために最善を尽くしていると信じている」と述べ、トランプへの支持を明言した[325]。リベラは、2人の友情はトランプの大統領就任以前から続いており、「(トランプに)背を向けることはない」と述べた[325]。リベラは2024年アメリカ合衆国大統領選挙でもトランプへの支持を表明した[326]。
訴訟
2019年2月、パナマ人女性が、非嫡出子としてリベラがもうけたとされる当時11歳と15歳であった自身の息子と娘への養育費の支払いを2017年に停止し、「経済的に危機的な状況に陥れた」として、リベラを告発した[327]。女性の弁護士によると、この件に関してリベラは5件の訴訟が提起されているという[327]。リベラはこの疑惑を「事実無根」と述べたが[327]、最終的に両者は和解した[328]。
2025年1月、リベラ夫妻は未成年の少女が性的虐待を受けていたことを隠蔽したとして告発された[288]。少女の弁護士は、少女が2018年にリベラが牧師を務める教会の系列であるフロリダ州のイグナイト・ライフ・センターで行われたサマー・インターンシップにおいて、年上の未成年の少女から性的虐待を受けたと主張した[329]。訴状によると、被害者の母親から相談を受けたクララは調査に同意したものの[330]、夫妻は行動を起こすことなく、教会やサマー・インターンシップへのトラブルを回避するために、被害者を孤立させ、受けた虐待についても沈黙するように脅迫したという[329]。この訴状では、被害者は同年にリベラの自宅でバーベキューに参加していた際に、同じ人物から再び性的虐待を受け、さらに2021年には教会の青年リーダーからも同様の暴行を受けたと主張している[330]。夫妻の弁護士はこの疑惑について「全くの虚偽」だと主張した[331]。
詳細情報
年度別投手成績
この節の出典:[43]
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | NYY | 19 | 10 | 0 | 0 | 0 | 5 | 3 | 0 | -- | .625 | 301 | 67.0 | 71 | 11 | 30 | 0 | 2 | 51 | 0 | 1 | 43 | 41 | 5.51 | 1.51 |
| 1996 | 61 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 3 | 5 | -- | .727 | 425 | 107.2 | 73 | 1 | 34 | 3 | 2 | 130 | 1 | 0 | 25 | 25 | 2.09 | 0.99 | |
| 1997 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 4 | 43 | -- | .600 | 301 | 71.2 | 65 | 5 | 20 | 6 | 0 | 68 | 2 | 0 | 17 | 15 | 1.88 | 1.19 | |
| 1998 | 54 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 0 | 36 | -- | 1.000 | 246 | 61.1 | 48 | 3 | 17 | 1 | 1 | 36 | 0 | 0 | 13 | 13 | 1.91 | 1.06 | |
| 1999 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 3 | 45 | 0 | .571 | 268 | 69.0 | 43 | 2 | 18 | 3 | 3 | 52 | 2 | 1 | 15 | 14 | 1.83 | 0.88 | |
| 2000 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 4 | 36 | 0 | .636 | 311 | 75.2 | 58 | 4 | 25 | 3 | 0 | 58 | 2 | 0 | 26 | 24 | 2.85 | 1.10 | |
| 2001 | 71 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 6 | 50 | 0 | .400 | 310 | 80.2 | 61 | 5 | 12 | 2 | 1 | 83 | 1 | 0 | 24 | 21 | 2.34 | 0.91 | |
| 2002 | 45 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 4 | 28 | 2 | .200 | 187 | 46.0 | 35 | 3 | 11 | 2 | 2 | 41 | 1 | 1 | 16 | 14 | 2.74 | 1.00 | |
| 2003 | 64 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 40 | 0 | .714 | 277 | 70.2 | 61 | 3 | 10 | 1 | 4 | 63 | 0 | 0 | 15 | 13 | 1.66 | 1.01 | |
| 2004 | 74 | 0 | 0 | 0 | 0 | 4 | 2 | 53 | 0 | .667 | 316 | 78.2 | 65 | 3 | 20 | 3 | 5 | 66 | 0 | 0 | 17 | 17 | 1.94 | 1.08 | |
| 2005 | 71 | 0 | 0 | 0 | 0 | 7 | 4 | 43 | 0 | .636 | 306 | 78.1 | 50 | 2 | 18 | 0 | 4 | 80 | 0 | 0 | 18 | 12 | 1.38 | 0.87 | |
| 2006 | 63 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 5 | 34 | 0 | .500 | 293 | 75.0 | 61 | 3 | 11 | 4 | 5 | 55 | 0 | 0 | 16 | 15 | 1.80 | 0.96 | |
| 2007 | 67 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 4 | 30 | 0 | .429 | 295 | 71.1 | 68 | 4 | 12 | 2 | 6 | 74 | 1 | 0 | 25 | 25 | 3.15 | 1.12 | |
| 2008 | 64 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 5 | 39 | 0 | .545 | 259 | 70.2 | 41 | 4 | 6 | 0 | 2 | 77 | 1 | 0 | 11 | 11 | 1.40 | 0.67 | |
| 2009 | 66 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 44 | 0 | .500 | 257 | 66.1 | 48 | 7 | 12 | 1 | 1 | 72 | 1 | 0 | 14 | 13 | 1.76 | 0.91 | |
| 2010 | 61 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 33 | 0 | .500 | 230 | 60.0 | 39 | 2 | 11 | 3 | 5 | 45 | 0 | 0 | 14 | 12 | 1.80 | 0.83 | |
| 2011 | 64 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 44 | 0 | .333 | 233 | 61.1 | 47 | 3 | 8 | 2 | 2 | 60 | 1 | 0 | 13 | 13 | 1.91 | 0.90 | |
| 2012 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 5 | 0 | .500 | 32 | 8.1 | 6 | 0 | 2 | 2 | 0 | 8 | 0 | 0 | 2 | 2 | 2.16 | 0.96 | |
| 2013 | 64 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | 2 | 44 | 0 | .750 | 256 | 64.0 | 58 | 6 | 9 | 3 | 1 | 54 | 0 | 0 | 16 | 15 | 2.11 | 1.08 | |
| MLB:19年 | 1115 | 10 | 0 | 0 | 0 | 82 | 60 | 652 | 2 | .577 | 5103 | 1283.2 | 998 | 71 | 286 | 41 | 46 | 1173 | 13 | 3 | 340 | 315 | 2.21 | 1.00 | |
- 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はMLB歴代最高
MLBポストシーズン投手成績
この節の出典:[43]
| 年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1995 | NYY | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 20 | 5.1 | 3 | 0 | 1 | 1 | 0 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.75 |
| 1996 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 57 | 14.1 | 10 | 0 | 5 | 0 | 0 | 10 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0.63 | 1.05 | |
| 1997 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | .000 | 8 | 2.0 | 2 | 1 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | 1 | 4.50 | 1.00 | |
| 1998 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | -- | .000 | 47 | 13.1 | 6 | 0 | 2 | 0 | 0 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.60 | |
| 1999 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 6 | -- | 1.000 | 43 | 12.1 | 9 | 0 | 1 | 0 | 0 | 9 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.81 | |
| 2000 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 6 | -- | .000 | 60 | 15.2 | 10 | 1 | 1 | 0 | 1 | 10 | 0 | 0 | 3 | 3 | 1.72 | 0.70 | |
| 2001 | 11 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 5 | -- | .667 | 64 | 16.0 | 12 | 0 | 2 | 1 | 1 | 14 | 2 | 0 | 4 | 2 | 1.13 | 0.88 | |
| 2002 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | -- | .000 | 4 | 1.0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 | |
| 2003 | 8 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 5 | -- | 1.000 | 55 | 16.0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 14 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0.56 | 0.44 | |
| 2004 | 9 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 2 | -- | 1.000 | 47 | 12.2 | 8 | 0 | 2 | 0 | 0 | 8 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0.71 | 0.79 | |
| 2005 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | -- | .000 | 11 | 3.0 | 1 | 0 | 1 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 1 | 1 | 3.00 | 0.67 | |
| 2006 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | .000 | 3 | 1.0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 1.00 | |
| 2007 | 3 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | .000 | 19 | 4.2 | 2 | 0 | 1 | 1 | 1 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.64 | |
| 2009 | 12 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | -- | .000 | 63 | 16.0 | 10 | 0 | 5 | 1 | 0 | 14 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0.56 | 0.94 | |
| 2010 | 6 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | -- | .000 | 22 | 6.1 | 4 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.63 | |
| 2011 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | .000 | 4 | 1.1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0.00 | 0.00 | |
| 出場:16回 | 96 | 0 | 0 | 0 | 0 | 8 | 1 | 42 | -- | .889 | 527 | 141.0 | 86 | 2 | 21 | 4 | 3 | 110 | 3 | 0 | 13 | 11 | 0.70 | 0.76 | |
- 赤太字はMLBポストシーズン歴代最高
年度別守備成績
この節の出典:[43]
| 年 度 | 球 団 | 投手(P) | |||||
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 試 合 | 刺 殺 | 補 殺 | 失 策 | 併 殺 | 守 備 率 | ||
| 1995 | NYY | 19 | 2 | 14 | 0 | 1 | 1.000 |
| 1996 | 61 | 4 | 13 | 0 | 0 | 1.000 | |
| 1997 | 66 | 11 | 9 | 0 | 0 | 1.000 | |
| 1998 | 54 | 3 | 14 | 0 | 1 | 1.000 | |
| 1999 | 66 | 12 | 10 | 0 | 2 | 1.000 | |
| 2000 | 66 | 8 | 15 | 0 | 0 | 1.000 | |
| 2001 | 71 | 17 | 15 | 1 | 0 | .970 | |
| 2002 | 45 | 3 | 6 | 2 | 1 | .818 | |
| 2003 | 64 | 4 | 15 | 2 | 0 | .905 | |
| 2004 | 74 | 9 | 31 | 1 | 1 | .976 | |
| 2005 | 71 | 7 | 22 | 0 | 1 | 1.000 | |
| 2006 | 63 | 7 | 18 | 0 | 1 | 1.000 | |
| 2007 | 67 | 6 | 10 | 0 | 1 | 1.000 | |
| 2008 | 64 | 6 | 8 | 0 | 1 | 1.000 | |
| 2009 | 66 | 2 | 16 | 0 | 1 | 1.000 | |
| 2010 | 61 | 2 | 16 | 0 | 0 | 1.000 | |
| 2011 | 64 | 1 | 12 | 0 | 1 | 1.000 | |
| 2012 | 9 | 1 | 2 | 0 | 0 | 1.000 | |
| 2013 | 64 | 5 | 12 | 0 | 0 | 1.000 | |
| MLB | 1115 | 110 | 258 | 6 | 12 | .984 | |
タイトル
表彰
- アメリカ野球殿堂(2019年)※史上初の得票率100%[191]
- ローレイズ・リリーフマン賞:5回(1999年、2001年、2004年、2005年、2009年)[2]
- デリバリー・マン・オブ・ザ・イヤー:3回(2005年、2006年、2009年)[2]
- デリバリー・マン・オブ・ザ・マンス:2回(2008年4月[332]、2009年7月[333])
- ピッチャー・オブ・ザ・マンス:1回(1999年8月)[2]
- ワールドシリーズMVP:1回(1999年)[2]
- リーグチャンピオンシップシリーズMVP:1回(2003年)[2]
- MLBオールスターゲームMVP:1回(2013年)[175]
- ニューヨーク・ヤンキース・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー:1回(2005年)[334]
- プレイヤー・オブ・ザ・ウィーク:3回(2008年5月26日 - 6月1日、2009年6月22日 - 6月28日、2011年9月19日 - 9月25日)[153]
- ベーブ・ルース賞:1回(1999年)[2]
- サーマン・マンソン賞:1回(2003年)[335]
- スポーティングニュース・プロ・アスリート・オブ・ザ・イヤー賞:1回(2009年)[136]
- スポーティングニュース・リリーバー・オブ・ザ・イヤー賞:6回(1997年、1999年、2001年、2004年、2005年、2009年)[336]
- スポーティングニュース・カムバック・プレイヤー・オブ・ザ・イヤー賞:1回(2013年)[337]
- クラッチ・パフォーマー・オブ・ザ・マンス賞:1回(2010年6月)[338]
- クローザー・オブ・ザ・イヤー賞(ディス・イヤー・イン・ベースボール賞):4回(2004年、2005年、2006年、2009年)[339]
- カムバック賞:1回(2013年)[180]
- マービン・ミラー賞:1回(2013年)[180]
- コミッショナー特別表彰(2013年)[181]
- 大統領自由勲章(2019年)[202]
記録
- MLBオールスターゲーム選出:13回(1997年、1999年 - 2002年、2004年 - 2006年、2008年 - 2011年、2013年)※2010年と2011年は欠場[2]
- ワールドシリーズ優勝:5回(1996年、1998年、1999年、2000年、2009年)※出場は7回[2]
歴代1位(MLBレギュラーシーズン)
- 通算セーブ:652セーブ[2]
- 通算交代完了:952交代完了[340]
- 20セーブ以上を記録したシーズン:16年(1997年 - 2011年、2013年)[235]
- 25セーブ以上を記録したシーズン:16年(1997年 - 2011年、2013年)[236]
- 連続シーズン25セーブ:15年(1997年 - 2011年)[240]
- 30セーブ以上を記録したシーズン:15年(1997年 - 2001年、2003年 - 2011年、2013年)[237]
- 連続シーズン30セーブ:9年(2003年 - 2011年)[241]
- 40セーブ以上を記録したシーズン:9年(1997年、1999年、2001年、2003年 - 2005年、2009年、2011年、2013年)※トレバー・ホフマンと並ぶ[238]
- 50セーブ以上を記録したシーズン:2年(2001年、2004年)※エリック・ガニエ、ジム・ジョンソンと並ぶ[239]
- 連続シーズンセーブ:18年(1996年 - 2013年)※ジョン・フランコと並ぶ[341]
- アメリカンリーグ通算登板数:1115登板[233]
- 右投手通算登板数:1115登板(全体では歴代4位)[234]
- 通算ERA+:205(1000投球回以上)[244]
- 防御率2.00以下のシーズン:11年(1997年 - 1999年、2003年 - 2006年、2008年 - 2011年〈60投球回以上のシーズンのみ〉)※ウォルター・ジョンソンと並ぶ[243]
- 防御率2.00以下かつ20セーブ以上を記録したシーズン:11年(1997年 - 1999年、2003年 - 2006年、2008年 - 2011年〈60投球回以上のシーズンのみ〉)[342]
- 同一の投手が勝利投手となった試合で記録したセーブ:72セーブ(アンディ・ペティット)[343]
- インターリーグで記録したセーブ:75セーブ[236]
- 同一の野球場で記録したセーブ:230セーブ(旧ヤンキー・スタジアム)[344]
歴代1位(MLBポストシーズン)
- 通算防御率:0.70(30投球回以上)[62]
- 通算セーブ:42セーブ[62]
- 連続イニング無失点:33+1⁄3回[5]
- 連続無失点試合:23試合[345]
- 通算2イニングセーブ:14セーブ[191]
- 通算登板:96登板[62]
- ディビジョンシリーズ通算セーブ:18セーブ[346]
- リーグチャンピオンシップシリーズ通算セーブ:13セーブ[347]
- ワールドシリーズ通算セーブ:11セーブ[348]
- ディビジョンシリーズ通算登板:39登板[346]
- リーグチャンピオンシップシリーズ通算登板:33登板[347]
- ワールドシリーズ通算登板:24登板[348]
- ディビジョンシリーズ通算防御率:0.32(20投球回以上)[346]
- 優勝決定試合での通算セーブ:8セーブ[5]
- 優勝決定試合での交代完了:16交代完了[5]
- ワールドシリーズの優勝決定試合での交代完了:4交代完了[349]
- 通算WPA:11.7[248]
- 通算優勝WPA:184.7[62]
歴代1位(MLBオールスターゲーム)
- 通算セーブ:4セーブ[131]
歴代1位(ニューヨーク・ヤンキース)
背番号
- 42(1995年 - 2013年)※ジャッキー・ロビンソンと共同でニューヨーク・ヤンキースの永久欠番[178]