サーマン・マンソン

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生年月日 1947年6月7日
没年月日 (1979-08-02) 1979年8月2日(32歳没)
サーマン・マンソン
Thurman Munson
ヤンキースでの新人時代
(1970年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身地 オハイオ州アクロン
生年月日 1947年6月7日
没年月日 (1979-08-02) 1979年8月2日(32歳没)
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 捕手
プロ入り 1968年 ドラフト1巡目
初出場 1969年8月8日
最終出場 1979年8月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

サーマン・リー・マンソンThurman Lee Munson, 1947年6月7日 - 1979年8月2日)は、アメリカ合衆国オハイオ州アクロン出身の元プロ野球選手捕手)。右投右打。

1970年代ニューヨーク・ヤンキースで活躍した捕手。主将を務めたが、現役選手だった1979年に飛行機事故で亡くなった。

マンソンのロッカー。現・ヤンキースタジアム内のヤンキースミュージアムにて保管されている。

ケント州立大学では、後のサイ・ヤング賞投手スティーブ・ストーンとバッテリーを組む。1968年ドラフト会議ニューヨーク・ヤンキースから1巡目(全体4位)に指名され、入団。翌1969年に早くもメジャーに昇格し、8月9日に初出場を果たす。

1970年に本格デビューし、132試合に出場して打率.302の活躍でア・リーグ新人王に選ばれた。

当時のヤンキースはかつての黄金時代の看板選手だったミッキー・マントルらが相次いで引退、またチームも低迷期に入っていたため、看板選手が不在だったヤンキースにおいてマンソンはマントルらの後継者として期待されるようになる。1971年には初のオールスター出場を果たし、1973年には初のゴールドグラブ賞を受賞し、この後3年連続で受賞。オールスターは死の前年まで6年連続で出場を果たした。

1976年には打率.302、17本塁打、105打点、14盗塁の活躍でア・リーグMVPに選ばれる。この年チームは久々にワールドシリーズに進出。マンソン自身は打率.529を記録したが、チームは「ビッグレッドマシン」と言われ、当時全盛を誇ったシンシナティ・レッズに敗れた。

持ち前のリーダーシップで、ヤンキースではルー・ゲーリッグ以来のキャプテンに任命され、ジョージ・スタインブレナーフリーエージェント(FA)で買い集めてきた「ブロンクス動物園」とも言われた個性豊かなチームを統率した。しかしながら、マンソン自身がマスコミ嫌いで、ロッカールームに取材しに来た記者に対して「失せろ」と言い放つほどであったため、FA移籍してきた主砲でマスコミ受けが良かったレジー・ジャクソンとはついに最後まで不仲であった。

加えて、当時の監督は武闘派としてならしていたビリー・マーチンであったが、キャプテンの立場からマーチンとはあわや殴り合い寸前の口論を演じたこともあった。しかし、マーチンとの関係はむしろ良好で、その気概をマーチンも買っていたともいわれる。

チームは1977年1978年にいずれもロサンゼルス・ドジャースを破り、2年連続ワールドチャンピオンに輝いた。この3年間、マンソンはリーグチャンピオンシップシリーズでは通算.339、ワールドシリーズでは.373の高打率をマーク。1978年の最終戦では、9回二死からドジャースのロン・セイのフライ(ウイニング・ボール)をキャッチ。

1979年も、7年連続のオールスター出場こそ逃したものも、開幕から97試合に出場して打率.288と活躍していた。同年8月2日にマンソンはオフのためオハイオ州の自宅に帰った。そこでマンソンは所有する自家用セスナ機を操縦していたが、飛行中に木に接触し、機体は墜落、炎上した。同乗していた2人は救助されたが、機体から出られなかったマンソンは死亡した。32歳没。当初は墜落炎上による焼死と思われたが、のちの検死で、炎上した際に起きた発煙をマンソンが吸い込んだために、その時点で死亡したという。

その夜のヤンキー・スタジアムではボルチモア・オリオールズとの試合前に、先発メンバー全員がキャッチャーボックスの前に立って、帰らぬキャプテンに敬意を表する。

8月6日にマンソンが住んでいたオハイオ州カントンで行われた葬儀には、ヤンキースの全選手が参列。マンソンの親友、ルー・ピネラ(のち監督)とボビー・マーサーが弔辞を読んだ。その夜の試合で、マーサーは7回に3点本塁打。3-4のビハインドで迎えた9回裏には逆転のサヨナラ打を放ち、1人で全5得点をたたき出し、マンソンに捧げた。しかし、同年のヤンキースはこれで終戦ムードとなってしまい、後年、ピネラはこの1979年シーズンのヤンキースを「マンソンの死で終わってしまった」と述懐している。

マンソンの背番号「15」。
ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番1979年指定。

その死とともに、ヤンキースはマンソンの背番号15』を永久欠番に指定した。死後もヤンキース・クラブハウスにてマンソンのロッカーは当時のまま保管され、現在は新・ヤンキースタジアム内のヤンキースミュージアムにて保管されている。

もし現役があと5、6年ほど長ければ殿堂入りは確実だったであろうと言われており、現在もベテランズ委員会の殿堂入り選考にマンソンの名前が挙がるほどである。

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1969 NYY 26978662212130 901011010105.256.330.349.679
1970 132526453591372546188 53575457675613.302.386.415.801
1971 1255174517111315410166 42654352176510.251.335.368.703
1972 140568511541431637186 46674247535813.280.343.364.707
1973 1475765198015629420253 74461448446412.301.362.487.849
1974 1445715176413519213197 602018441216614.261.316.381.697
1975 1576615978319024312256 1023231045865223.318.366.429.795
1976 1526656167918627117266 105141111029693817.302.337.432.769
1977 1496385958518328518275 100560239825518.308.351.462.813
1978 154667617731832716230 712311035637020.297.332.373.705
1979 97419382421101833143 39121432203715.288.340.374.714
MLB:11年 1423590553446961558229321132190 701485021584385942571160.292.346.410.756

年度別守備成績

捕手守備


捕手(C)




















1969 NYY 251191820.986567.538
1970 12563180811.989103133.516
1971 1175476714.99892336.610
1972 132575711511.97793229.475
1973 142673801211.984105047.485
1974 137743752210.97467238.345
1975 130700952314.97295960.504
1976 12153778128.981129150.355
1977 13665773124.984107650.397
1978 12566661104.98686150.450
1979 8840544105.97853227.458
MLB 1278625374212782.98293533427.445
内野守備


一塁(1B)三塁(3B)
























1975 NYY 2200011.00010000
1979 3230021.000-
MLB 5430031.00010000
外野守備


左翼(LF)右翼(RF)
























1971 NYY -10000
1975 110001.000140001.000
1976 21010.50098010.889
1978 -1334010.971
MLB 32010.6672446020.958

表彰

記録

背番号

  • 15(1969年 - 1979年)

脚注

関連項目

外部リンク

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