下白銀町
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歴史
- 寛永末年頃 - 追手門の東部が片原町、北部の外東門までが下片原町と見える。この時点での町名である片原町の由来は、町域の一方が堀の片端にあることからとおもわれる(津軽弘前城之絵図)。
- 正保2年 - 町屋とある(津軽弘前城之絵図)。
- 慶安2年 - 銀町と見え、30軒余りの屋敷割りがされ、町屋と武家屋敷が混在している。このうち町屋には商家である宮崎屋・田村屋のほかに檜物屋・煙草作り・索麺屋・居鯖・鍔職人・箔屋・鉄砲師・藩医も居住(弘前古御絵図)。
- 慶安2年 - 寺町(現:元寺町)の大火後、当地は武家地となり、銀町の町名は百石町と本寺町を結ぶ鉄砲町が白銀町となる。
- 寛文13年 - 武家屋敷のみで22軒(空屋敷1軒)ある(弘前中惣屋敷絵図)。
- 天和3年 - 町内の一部が召し上げられ、町名が下白銀町になる(国日記)。
- 元禄年間 - 武家屋敷の郭外移転により、外堀沿いの当地は中・下級武士の屋敷街から大身の屋敷街に変わる。
- 元禄12年 - 家老津軽靭負・大道寺隼人などの屋敷地が配置される(国日記)。
- 元禄13年 - 追手門前に江戸衆屋敷が設置され、町年寄の屋敷も見える(津軽史)。
- 享和3年 - 寛政7年開設の稽古館が追手門前に見える(御家中町割)。
- 文久2年 - 兵性改革により、稽古館跡地には修武堂が設置される(津軽歴代記類)。
- 1870年(明治3年) - 修武堂のほかに津軽右近らの重臣の屋敷地がある(弘前図)。
- 1872年(明治5年) - 藩校跡に市立東奥義塾が開校。
- 1877年(明治10年)3月29日 - 当地に地方裁判所が弘前裁判所として移転(現:青森地方裁判所弘前支部・弘前簡易裁判所)。