馬屋町
From Wikipedia, the free encyclopedia
青森県道3号弘前岳鰺ケ沢線(新坂)を下った場所に位置し、青森県立弘前工業高等学校の裏手に弘前城の西の郭が接している。当地は主に住宅地として機能する。町域の北部から東部にかけて下白銀町、南東部は上白銀町、南部は新町、西部は鷹匠町に接する。
歴史
- 天和2年 - 岩木川堀替え工事が未完成で、西部に隣接する鷹匠町とも通じていなかったことから、弘前城の西外の郭とされていた(津軽弘前城史)。
- 正保3年 - 町名は無く、当地は堀と樋ノ口川に囲まれ、侍屋敷と馬屋が見える(津軽弘前城之絵図)。
- 慶安2年 - 当地の西側は御馬屋町と見え、御馬屋3軒。東側は本百石町と見え、侍屋敷35軒(うち空家4軒)があり、川沿いに材木場が設置される(弘前古御絵図)。
- 万治2年・寛文13年 - 当地の西側に馬場が設けられ、その西側に馬役、青沼藤兵衛ら3人の屋敷がある(弘前中惣屋敷絵図)。
- 貞享3年 - 上白銀町とを結ぶ坂道(新坂)が作られる(奥富士日記)。
- 元禄13年 - 当地の西側に馬廻馬場と馬屋3軒。東側に侍屋敷が35軒あり、馬屋町・馬屋中町・馬屋前町・馬屋後町の4区画に分かれている(弘前侍町屋敷割)。
- 寛政5年 - 寛政の改革による藩士土着令で当地の藩士が在方へ移住し、御家中潰町の1つに数えられる。当地には御目見以下、諸組諸支配の藩士の屋敷が給される(平山日記)。
- 寛政12年 - 馬屋町に武家屋敷17軒、馬屋南小路(前町)に武家屋敷6軒、馬屋中町に武家屋敷9軒のほかに御馬飼育所があり、馬場の西側に武家屋敷3軒がある(分間弘前大絵図)。
- 明治初年 - 戸数28(国誌)。
- 1935年(昭和10年)8月22日 - 集中豪雨のため町内全戸、床上もしくは床下浸水[3]。
沿革
- 江戸期 - 弘前城下の一町。
- 慶安2年 - 当地の西側は御馬屋町、東側は本百石町と称される。
- 元禄13年 - 馬屋町・馬屋中町・馬屋前町・馬屋後町の4区画に分かれて称される。
- 明治初年〜明治22年 - 弘前を冠称。
- 1889年(明治22年) - 弘前市に所属。
地名の由来
当地に馬屋があったことから。