宮松関三郎
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| 宮松 関三郎 八段 | |
|---|---|
| 名前 | 宮松 関三郎 |
| 生年月日 | 1886年1月14日 |
| 没年月日 | 1947年9月26日(61歳没) |
| 引退年月日 | 1947年(61歳) |
| 出身地 | 愛知県愛知郡豐明村 |
| 所属 |
日本将棋連盟(関東) →将棋大成会(関東) |
| 師匠 | 井上義雄八段 |
| 弟子 | 橋爪敏太郎、京須行男、佐藤豊 |
| 段位 | 八段 |
| 順位戦最高クラス | B級(1期) |
| 2022年2月21日現在 | |
宮松 関三郎(みやまつ せきさぶろう、1886年〈明治19年〉1月14日[1] - 1947年〈昭和22年〉9月26日[2])は、将棋棋士。贈八段。井上義雄八段門下。愛知県愛知郡豐明村出身[1]。日本将棋連盟創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人[3]。
三男として生まれる[1][4]。4歳の時に母を亡くし[4][5]、11歳の時に宮大工の父と死別[1][4]、この年の秋に奉公に出る。17歳で祖母を亡くし[4]、18歳までに2人の兄と下の弟をいずれも亡くして孤独の身となる[4]。
将棋は8歳の頃に覚えた[1]。苦境の中でも好きな将棋を続け、腰の駒入れ着を手放すことはなかった[4]。
20歳の時に東京を目指すも途中で金銭が尽き、横浜の米穀問屋での奉公となる[1][4]。店の主人に気に入られるも好きな将棋をやめられず、23歳の時に上京して井上義雄の内弟子となる[4][5]。
土居市太郎の紹介で将棋同盟会に入り、27歳の時に三段昇段[5][6]。
1918年(大正7年)1月までに四段昇段[7]。1921年(大正10年)5月までに五段昇段[8]。1924年(同13年)12月までに六段[9]。
1946年、第1期順位戦にB級として参加し、1勝12敗1持将棋(平均点31)の成績でC級に降級[11]。