市川伸
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9人きょうだいの第2子として生まれる[2]。父親の将棋好きに影響されて6歳頃から将棋に興味を覚え、小学生時代は同県のアマチュア、椿四段、新居初段の指導を受ける[2]。
1949年(昭和24年)8月、父親の意向もあり、隣県岡山県の大山康晴十五世名人への入門を懇請、14歳の時に内弟子となる[2]。同時期の入門であった有吉道夫とともに大山の愛弟子として生活、日夜将棋に明け暮れる日々を過ごす[2]。当時大山は倉敷市在住だったが、有吉と2人で屋根裏の四畳半に住み、3年半生活を共にした[5]。
入門試験は飛落の7級で[2]、入門から1年9か月後の1951年5月には2級、1952年に初段[2]。
1954年(昭和29年)8月15日に四段昇段[6]。同1954年8月1日付で四段昇段した加藤一二三に続く四段昇段であった[6]。
同1954年9月より第9期順位戦C級2組に参加[6]。順位戦参加1年目の成績は6勝6敗の指し分け[2]。
翌1955年度の第10期順位戦は12勝4敗でC級2組2位の好成績であったが、同成績であった関根茂四段による「頭ハネ」で昇級はならなかった[2]。
東西二組に分かれて行われた1956年度の第11期順位戦では西組2位の8勝4敗の成績で、同成績の東組2位であった佐藤庄平四段との東西決戦を制し(不戦勝)、C級1組への昇級を果たして、1957年4月より五段昇段[7]。佐藤の不戦の原因は二度寝による寝坊であった[8]。
1967年度の第22期順位戦の最中、32歳にして一身上の都合により引退・退会[9][注釈 1]。『将棋世界 1968年4月号』では、市川の退会は「自家の都合」と記されている[10][11]。引退後は、有吉によれば「米子に帰った」という[5]。
棋風はオールラウンダーで、有吉曰く「ナマクラ四つ」。非常に力強い棋風だったという[12]。若い頃は有吉よりもむしろ市川の方が将来を嘱望されており、有吉も「将棋を続けていれば、間違いなく八段まで昇った」とのちに語っている[5]。