松田辰雄
日本の将棋棋士
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経歴
1916年(大正5年)10月8日、奈良県生駒郡法隆寺字龍田生まれ[3]。古い資料では、大正5年大阪市生まれ[5][6]との記述もある。
1946年、順位戦B級に参加し、1948年にA級に昇級。この年はB級の上位1名とA級の上位3名が名人挑戦者決定戦に進出し、4者パラマス方式で挑戦者が決定された。松田はA級2位で、B級1位の五十嵐豊一をまず下し、A級1位の木村義雄と三番勝負に挑んだ。
名人復帰に燃える木村を相手に、関西出身の松田は盛大な声援をバックに対局した。先手番の第1局は居玉、後手番の第2局は「阪田流向飛車」で挑んだが、2連敗で挑戦はならなかった。倉島竹二郎によるとその2局目の松田は、40度近い発熱状態で体調不良だったという[7]。木村はその後、名人の塚田正夫から名人を奪取した。
翌年1950年以降、松田は病気のために休場する。そして1955年、順位戦復帰かなわずB級1組在籍のまま逝去。肺結核であった[4]。享年38[4][8][9]。
逸話・エピソード
1948年(昭和23年)10月24日、新大阪新聞社の主催(企画)で甲子園球場を舞台に行われた大山康晴八段(当時)と松田辰雄八段(当時)の「青空将棋大会」(早指し戦)では、バックネット裏に組まれた「やぐら」の上で両者が対局を指し、グラウンドの「ダイヤモンド」に白線を引いて大将棋盤に見立て、東邦舞踊劇団の舞姫が人間駒となる「人間将棋」を繰り広げ、約3万5千人の観衆が集まった[10][11][12]。