東京・神戸間の高速道路計画
From Wikipedia, the free encyclopedia
日本初の高速道路である名神高速道路に続いて、中央自動車道、東名高速道路が1960年代に相次いで開通したが、この3路線はともに東京 - 神戸間の路線として計画された[1]。
東京と神戸をつなぐ高速道路の計画は、第二次世界大戦中に当時の内務省によって立案された。戦後は南アルプス(赤石山脈)を貫く中央道ルートと、海岸に沿って走る東海道ルートが相次いで立案され、これがのちに名神高速道路・中央自動車道・東名高速道路として結実した[1]。その過程において、東海道と中央道を推す国会議員や自治体、民間団体、専門家らが高速道路の必要をめぐって論争を巻き起こし、新聞でも度々取り上げられるなど世間の注目を集めた[2]。
論争は当時の日本が貧乏国家であったことから、高速道路を計画するにおいて、複数路線を同時に建設する余裕資金がなかったことに起因する[3]。その中にあって、未開発山岳地帯の開発を担うことから、本来は一般道路であるべき中央道が、高速道路の規格を要求したことから[4]、交通混雑解消のために真に高速道路を必要とする東海道との間に確執が起こり[5]、これが政治家や専門家を巻き込む大論争へと発展した。論争は関係者の間の問題にとどまらず、道路問題が国民の間でも論ぜられて国民に道路の蒙を開き、なおかつ日本の道路政策を大きく高速道路へと踏み切らせる契機になった[6]。
本項では、高速道路の持つ機能・役割と比較しながら、両路線の妥当性、評価、開通までの経緯を解説する。なお、本項における高速道路の定義は、戦後日本の高速道路計画を推進するにおいて主導的な役割を果たした菊池明のいう次の定義に従うものとする。ドイツのアウトバーンやアメリカのフリーウェイと同様の性質を帯びる道路とする。その内容は、有料・無料に関係なく、少なくとも往復4車線、往復分離したもので、平面交差を完全に除却し、平地における設計速度を100キロメートル毎時 (km/h) 以上、故障車や停止のために路肩を全線に通す、自動車以外の通行を禁止する、などの条件を満たす道路である[7]。
計画路線の概要

東京 - 神戸間における高速道路の計画は、以下3路線が各々提案された。
中央道案
東京 - 神戸間を南アルプスを貫く路線案で、静岡県出身の有力実業家であった田中清一が1947年(昭和22年)頃に提唱した「平和国家建設国土計画大綱」に示す路線網をその起源とする[10]。
中央道計画が意図することは、未利用となっている地方山岳部の資源を開発すること、およびその地域に人口を再分布することである[11]。このため路線は、東京を起点に未開発地帯の南アルプスを貫くルートを指向することから、八王子、大月を経て、富士山麓の樹海を縦断してのち南アルプスに入り、大井川上流、天竜峡を抜け、さらに木曽山脈を長大トンネルで貫通する[12]。以西は標高を暫時下げて中津川、小牧、関ヶ原、京都、大阪を経て神戸に至る[13]。
東海道案
東海道に沿った東京 - 神戸間の高速道路計画で、建設省によって提案された[14]。これは六大都市に加えて、幾多の中小都市を抱える東海道は貨物自動車の増加がめざましく、将来的に国道1号では需要を賄いきれないと判断されたことから計画された[15]。
路線は東京都目黒区に端を発し、東海道筋に散在する主要都市付近を通って途中、関ヶ原付近を迂回して神戸市灘区岩屋に至るもので、これがその後の東名・名神高速道路の原型となった[14]。
東海道海岸路線案
シンクタンクの「産業計画会議」により提案されたもので、建設省案と似るが用地買収面積が少ない海岸利用を提唱した[16]。起点を東京都大田区として、藤沢を経て相模湾、駿河湾、遠州灘と海岸に沿い、蒲郡から安城、刈谷を経て名古屋市に南方から入って一宮で名神に接続する[17]。
高速道路建設の根拠法の制定

高速道路が構想されても、道路建設を裏付ける法律が整備されなければ、高速道路ネットワークの実現は不可能である。そこで制定されたのが、国土開発縦貫自動車道建設法と東海道幹線自動車国道建設法である。東京 - 神戸間の高速道路は、この二法によって建設された。国土開発縦貫自動車道建設法(以下、縦貫道法と記述)は、中央自動車道(名神高速道路を含む)建設のための根拠法で、これ以外に北海道・東北・中国・四国・九州の各自動車道を含む[25]。一方の東海道幹線自動車国道建設法は東名高速道路建設の根拠法である[26]。
本節では、国土開発縦貫自動車道建設法のうち、主として第三条の制定と改訂の経緯について取り上げる。後述する東海道と中央道の着工をめぐる論争において、第三条が全体の流れに大きく作用するためである。
以下の解説において、国土開発縦貫自動車道建設法および中央道の計画を推進する立場の者、あるいは団体を便宜的に「中央道派」として記述する。また、縦貫道構想は全国規模の構想であるが、以下の解説では中央道のみを抜粋して解説する。
初期構想
縦貫道法の起源は、民間人の田中清一による敗戦後の国土再建と自立のための復興計画である(詳細は後述)。趣旨は増える人口と不足する食料のアンバランスを解消すること、および山岳部に眠る天然資源の開発を行って富を築き、庶民の生活を楽にすることである[27]。
そのために、農地に適した平野は都市として蚕食されていることから、田中はこれを山岳部に移動させ、そのうえで空いた平野を農耕地に転用することを画策した[28]。このため、大都市から山岳地帯への人口移動の足として幹線道路を計画したが、これが縦貫道構想の発端である。よって路線は、北海道から九州までの大都市を経由し、途中で山岳区間を貫通することが大きな特徴である。また、縦貫道路と沿岸部を連絡する支線道路を配置のうえ、列島の隅々まで開発効果が行き渡るようにした[29]。
このように、山岳開発前提の道路であるにもかかわらず、田中はこれを高速道路として紹介した。計画当初から東京 - 大阪間4時間半を謳ったが、東京 - 大阪間直結のメリットを特に宣伝することはなく[30]、その目的はあくまで山岳開発であったことはのちに田中自身が証言している[31]。
田中構想の変容
やがて国会議員や民間団体の手によって田中案は大きく改変された[33]。改変理由は、資源開発のみが目的であれば、それにふさわしい山の道を付ければ十分であって、高速道路で計画する必要はないからである[32]。しかし山の道では移動時間が長く、輸送コストが増大して経済ベースに乗らないことから山岳開発の停滞を招く[34][33]。よって山岳開発を高速道路で計画するために、中央道派は以下の理由をしつらえた。

- 三大重要経済圏を南アルプスを貫いて最短時間・最短距離で結ぶことで、それまでの国道1号と国鉄東海道本線による中・長距離貨物を中央道に引き入れる。これにより国道1号の混雑解消と併せ[37]、大幅な時間短縮効果によって資本の回転率を高め、結果的に棚卸資産の軽減を助長して製造業者を金利負担の重圧から解き放つ[38]。
こうして一本の道路が「交通の効率向上」(高速道路の使命)と「未開発地の開発」(開発道路の使命)という二つの使命を担うことになった[39]。一石二鳥の効果を狙う趣旨であるが[40]、本来、別の命題に属するものが一体となったことは、後になって大きな問題を引き起こす要因となった。
縦貫道法案上程
この構想はまず中央道単独での実現が期され、1954年(昭和29年)5月に国土開発中央道事業法案として第19回国会に提出された[41]。
三大重要経済圏の最短距離における連絡、未開発地帯の富士山麓、赤石山系、長野県南部、恵那山系、岐阜県東美濃の開発を促進すること、この二つを同時に達成するべく[42]、中央道の予定経過地を以下の通りとした[43]。
| 起点 | 主たる経過地 | 終点 |
|---|---|---|
| 東京都 | 八王子市 富士吉田市 山梨県南巨摩郡硯島村 静岡県安倍郡井川村 長野県下伊那郡木沢村 飯田市南方 中津川市 名古屋市北方 岐阜市南方 大阪市北方 | 神戸市 |
この経過地が高速道路を通すにおいて妥当であるかを検討する審議会が数回開催された。その結果、判断材料である地形図、縦断図等の不備が明確になった[44]。このため詳細な地形図が出来上がるまで審議は休会となり[45]、法案自体も12月に審議未了で廃案となった[41]。
やがて地形図が完成するも[46]、それを基にした具体的検討が行われないまま翌1955年(昭和30年)6月、中央道法案は第22回国会に再上程された[47]。しかも中央道以外に5路線を付けて全国規模の高速道路網に拡大し、名前も「国土開発縦貫自動車道建設法案」と改めて、超党派の衆議院議員430名によって共同提案された[41]。政府提案ではなくて議員提案であるところに、本法案がどうしても政治的利害を強くして道路技術的な検討が不十分なものとなる余地があった[48]。
専門家の抗議
縦貫道法案の予定経過地は、前法案のそれとほぼ同様であった[53]。
高速道路の経過地は通常、必要十分な調査を行ってから法定へと至る[54]。ところが中央道派のプロセスはこれとは逆で、先に経過地を法定して必要な調査を後回しにする[55]。この場合、経過地に採算面や地形等に重大な欠陥があったとしても法定されている以上は変更が効かない[56]。経過地さえ法定してしまえば、政治力の介入によって後から路線を曲げられずに済むこともまた、中央道派が経過地指定を前倒しした理由の一つであった[57]。そしてこの経過地を定めるのが法案の第三条である[58]。

経過地について専門家が特に問題視したのが、南アルプスに位置する安倍郡井川村(現・静岡市葵区)である。経済的に重要性が低いがために誰が聞いても知らない地名、高速道路を通すにおいて適格とは考えられない場所と地形、それを法律で経過地として確定する意味はなく、むしろ高速道路全体の性能を下げるにおいて、そして建設資金の高額を誘発のうえ費用対効果が少ないにおいて有害ですらあるという[56]。しかし中央道派にしてみれば、井川村は中央道の南アルプス通過を保証するものであり、山岳開発の目的を達成するためには外すことのできない場所である。路線を曲げられて南アルプスを除外されないためにも、ここは予定経過地として死守しなければならない場所であった[59]。
衆議院の審議では、430名のうち数人は南アルプスに高速道路を通すことの非現実性に気づき、共同提案した者同士で質問し合うという奇妙な現象が見られた[60][61]。しかし結局は何の具体的検証もなく、430名は専門家の制止を振り切って[62]いとも簡単に予定経過地をそのまま承認した。
続いて送られた参議院の委員会では、専門家のみならず、有力会派の緑風会も反対に加わったことから[注釈 3][64]、衆議院のような強行突破は不可能となった。
専門家は中央道派に対して、再調査を求めて予定経過地を白紙化することを求めたが[65]、それでは南アルプス山岳地帯を開発するという中央道の目的が達成できないとして、中央道派は削除には応じない方針を貫いた[66]。これにより緑風会の賛同が得られず[67]、そのうえ必要十分な審議を尽くすには会期が足りないことから、7月30日の参議院建設委員会で継続審査となった[68]。
第三条の改定
衆議院では全会一致で通過した法案が、参議院の委員会で通過しなかったことに中央道派は衝撃を受けた[61]。このため中央道派は、南アルプスの予定経過地を死守しながら法案を通すための落としどころとして、第24回国会の参議院にて第三条の改定を提案し、条文を以下のように書き換えて反対者に提示した(太字が相違箇所、第二項と第三項は新設)[58]。
原案
- 第三条 国土を縦貫する高速幹線自動車道として国において建設すべき自動車道(以下「国土開発縦貫自動車道」という。)の予定路線は、別表に掲げるところによる[58]。
改定後(第24回国会時点)
- 第三条第一項 国土を縦貫する高速幹線自動車道として国において建設すべき自動車道(以下「国土開発縦貫自動車道」という。)の予定路線は、別に法律で定める。
- 第二項 政府は、すみやかに、前項に規定する国土開発縦貫自動車道の予定路線に関する法律案を別表に定める路線を基準として作成し、これを国会に提出しなければならない。
- 第三項 内閣総理大臣は、前項の規定により国会に提出すべき法律案の内容となるべき国土開発縦貫自動車道の予定路線を、国土開発縦貫自動車道建設審議会の議を経て、決定しなければならない。
原案では「予定路線は別表に掲げるところによる」として、ただちに予定経過地を確定するが[58]、改定では第一項に「予定路線は別に法律で定める」との条文を入れて確定を後回しにした。この譲歩と引き換えに、別表に示された経過地は第二項においてそのまま生かした[69]。予定経過地は政府で再調査のうえ、別表に定める予定経過地を基準にして改めてルートを決めることにして、緑風会はこの修正案に同意した[63]。こうして縦貫道法は建設に至るまで再度の路線法の国会提出、可決を要することになった[61][70]。このため第三条は、あとになって中央道派の活動を縛って大いに苦しめることになった。再度の法案提出における時間的浪費が中央道派の足を引っ張り[71]、あとになって追い上げてきた東海道法案の追随を許したからである。
なお、法案成立直前に第三条は再修正された。小牧市附近から吹田市までの区間については例外規定を設け、縦貫道法の施行後、ただちに予定路線として法定のうえ着工可能とした[72]。理由は、小牧市 - 吹田市間の弾丸道路および後述するワトキンス調査団招聘にあたっての調査、実地設計が完了したことで、1957年度予算で予算措置が取られ、その予算が成立をみて4月以降ただちに予算執行できる体制が整っていたからである。調査終了であれば第三条における再調査は不要であるばかりか、むしろそのような手続きを踏めば4月以降の予算執行が困難になるため、この区間だけはこの縦貫道法で直接予定路線に定めることにした[73]。なお、吹田市から神戸市までの区間については、縦貫道法施行後、新たに高速自動車国道法によって予定路線として定められ[74]、7月に告示された[75]。
決定条文(第26回国会時点〈第一項のみ抜粋〉)[76]
- 第三条第一項 国土を縦貫する高速幹線自動車道として国において建設すべき自動車道(以下「国土開発縦貫自動車道」という。)の予定路線は、別表に掲げる中央自動車道のうち小牧市附近から吹田市までを別表のとおりとするのほか、別に法律で定める。
縦貫道法は1957年(昭和32年)3月に成立、翌月から施行された[77]。
中央道計画の問題点
アメリカの高速道路との比較
中央道派による東海道計画の批判
山岳開発道路の中央道が、高速道路を兼務することに多大な無理があることが上の例から判る。それにもかかわらず中央道派はその無理を認めようとせず、あまつさえ東海道計画を批判して中央道計画の正しさを証明しようとした[127]。以下は東海道計画に対する中央道派の主な批判内容である。
- 地方過疎地と東海道諸都市との経済格差は交通格差によって生じた。交通網の整備が遅れた地方に比べ、東海道には国道1号、国鉄東海道本線、計画中の東海道新幹線、その他幾多の整備された幹線道路等、複数の交通網があるが、もし東海道に高速道路を造れば格差はますます拡大する[122]。
- 東海道に高速道路を造ったあかつきには並行する東海道本線と貨客を争奪する結果となり、二重投資になる[162]。
- 東海道は開発地であるために用地買収費がかさむ[163]。この点、山岳部を通す中央道は問題ない[164]。
- 国道1号を走る自動車は短距離の貨客を運ぶ自動車が主体であり、このうち大都市付近のみ通行量が多い。このことから、京浜間のみ高速道路を付けて、それ以外は国道1号を拡幅するかバイパスを建設すれば十分であって、東海道全線に高速道路を付ける必要はない[165]。
- 高額な高速道路建設の投資は、開発し尽されて経済発展を遂げた東海道よりも、未開発地の開発に投じ、国全体の成長に使うべきである[166]。
アメリカの高速道路計画

こうした中央道派の批判内容を踏まえ、アメリカにおける高速道路計画を概観した場合、以下の特徴がある。
人口稠密地帯にして既開発地帯に高速道路を通すべきではないと主張する中央道派に対して、その反対をいくのがアメリカの高速道路の計画である。アメリカの高速道路は、国民の最大多数に道路交通上の最大便宜を与え、かつ産業の発達に資するのに最大の効果を発揮する経路を選び取るように計画される[169]。それにあたって重視したのは、人口密度が最も高い地域を通り、自動車人口の最も多い地域、すなわち主要工業と農業に益する度合いの多い地域をその経路に含ませることであった[169]。計画では1941年における全米の自動車登録台数の68 %を有する地域を高速道路が貫通し、全国最大の諸都市・諸地方とを連絡し、小さな町の人口の最も多い地域を通り、全国の製造工業活動の高い水準を持つ地域を接合しながら、最も生産的な農業地域をも貫通するとした[170]。
こうした交通需要の見込める経路を特定する方法の一つとしてアメリカが採用したのは、従来の幹線道路や鉄道路線網に沿って高速道路のルートを選定する手法であった。多数の人間や物資が行き交う地域に、幹線交通網が自然と発達してきた歴史的経緯を踏まえれば、その交通網に並行して高速道路を建設することは極めて合理的な判断である[171]。東海道高速道路はこの考えに基づいて計画されたが[172]、中央道派をはじめ鉄道派閥の国会議員や運輸省は[173]、既存交通幹線に並行して高速道路を新設することは二重投資であると批判する[174]。本来、交通網の整備において優先されるべきは、需要のある地域に最適な手段を提供することである。ところが、日本では、既存の幹線鉄道と高速道路が競合してはならないという論理のもと、需要が集中する地域を避けて過疎地へと高速道路を建設するという、本末転倒の判断がなされた。競合を理由にインフラを別地域に分散させる発想は、需要に基づく投資判断の原則を逸脱する[174]。こうした競合を避けるのは、鉄道の利益を保護するためであるが、アメリカはむしろ積極的に競合させる。その結果として、需要が高速道路に移行したとしても、アメリカ諸政府はその傾向に歯止めをかけることはしない。役目を終えた交通機関に不必要な保護を与え、国費を追加投入することは避けられているからである[175]。
中央道は、標高の高い南アルプスを長距離にわたって貫通する。しかしながら、アメリカの高速道路は建設費、自動車走行費の低廉な低地にその多くが建設されている[176]。特に山岳部の建設費は平地の2.5倍を要するうえ[177]、道路全体における登降率(登ったり降りたりする度合)が高ければ走行費が悪化し[95]、自動車所有者の経費を増幅させる。反面、高速道路が低地であれば、建設費が圧縮できることに加え、高速走行が容易で[177]、かつ車輪回転抵抗が小となるために燃料消費量が低廉になる[178]。併せてブレーキ、モーターの消耗を少なくして維持費を節約することができる[179]。こうしたことからニューヨーク・ステート・スルーウェイは海面付近[180]まで高速道路高さを下げて建設されている[177]。

道路政策でアメリカが失敗したことの一つに、増える需要を一般道路の改良で対応したことがある。メイン州ポートランドからワシントンD.C.までのU.S.1号線は、数百万ドルの経費を投じて線形改良と道路拡幅を行ったが、増大する自動車需要に対応しきれずに、それまでの努力と経費が水の泡となった。しかも出入制限を実施しなかったために、国道に隣接した工場や居住施設が直接にその出入路を造ることが許され、それが交通障害と道路の容量低下を招いて走行上の危険度が増した。このためアメリカ当局は出入制限を行った高速道路をU.S.1号線に沿って建設した。この結果判明したことは、役に立たなくなった一般幹線道路の欠点を改修によって克服することよりも、新しい位置の新しい高速道路を造ることの方が効率的であるという一般の了解に到達したことであった[182]。日本の国道1号が置かれた状況はアメリカのそれと酷似している。中央道派は東海道について、国道1号の改良とバイパス建設で十分であると主張するが、アメリカの例からその主張は説得力を持たない。国道1号の急激な交通量の増加傾向から推して、単なる拡幅やバイパス建設ではアメリカの轍を踏むことが十分に想定されるからである[181]。こうした例はイギリスやフランスも同様であり、当局は一般道路の交通混雑に対処するために高速道路を造らざるを得なかったと告白している[129]。
中央道建設の根拠の一つに、人口稠密地帯における用地買収の困難から、都市部(東海道)をショートカットして山岳地帯(赤石山脈)に道路を通せば立ち退きや補償費を抑えられるという考えがある。しかしアメリカはこうした考え方を採らない。たとえその困難があっても都市内を貫通することを推奨する。その方が利便性が高く、結果として多くの便益と利用率が期待できるからである[183]。
アメリカの有料高速道路がこうした交通需要の高い地域および低地に計画されるのは、採算性を重視するからである。さらに、鉄道や一般道路に並行して建設されるのも、貨物の高速道路への転換が見込まれ、採算の見通しが明るいためである。自立採算が見込めなければ、公企業として成立しない[168]。このため、採算性の見通しが立ってはじめて路線の技術的調査が行われ、設計がなされる。この点で、中央道が採算の検討以前に路線位置が決定されるのとは対照的である[184]。
東海道計画の妥当性

アメリカの高速道路建設の条件を踏まえ、東海道を概観すると次のような条件が揃っている[注釈 8]。東海道は全国面積の11 %に過ぎない。それにもかかわらず、1950年代初頭において全人口の33 %が集中し、自動車保有台数は全国比の51 %、工業生産額は57 %、国税負担額は50 %におよび、六大都市はおろか、人口10万人以上の主要都市が連接するなど経済的に重要な地域である[186]。東海道には大幹線たる国道1号と東海道本線が並行し、重要港湾をいくつも擁する。そのうえ、地形は平坦部が大部分で勾配は緩く、曲線半径を大きくとることが可能である[187]。中央道派は東海道に高速道路を計画することは不適当であると主張する[188]。しかし東海道に揃った条件は、アメリカの高速道路の建設条件と合致している。
下の表はニューヨーク・ステート・スルーウェイと東海道高速道路沿道の人口・都市・車両数の比較である[189]。高速道路計画において重要なことは需要(=通行量)であることを踏まえれば、ニューヨーク・ステート・スルーウェイは1957年(昭和32年)時点でアメリカの高速道路で最も交通量が多く、通行料金収入もペンシルベニア・ターンパイクについで2番目の多さであって[190]、アメリカの高速道路としては優良の部類に入る[191]。そして通行量の多寡は沿道の人口密度に支配されることを勘案すれば[192]、ニューヨーク・ステート・スルーウェイの沿道人口を凌ぐ東海道が高速道路の最適立地条件を有していることがわかる。
| 対象道路 | 高速道路延長 (km) |
沿線の人口 (万人) |
高速道路 1 kmあたり人口 |
沿道の主要都市の数(人口別) | バス・トラック 保有台数 (万台) | |||
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 100万人 以上 |
30万人 以上 |
10万人 以上 |
3万人 以上 | |||||
| ニューヨーク・ステート・スルーウェイ | 760 | 1,200 (全州の80 %) |
15,800 | 1 | 2 | 4 | 7 | 55 |
| 東海道高速道路 | 527 | 2,826 (通過県人口) |
53,500 | 4 | 4 | 8 | 21 | 21.6 |
アメリカの例は、東海道に高速道路を計画することの正しさを証明すると同時に、南アルプスに計画することの誤りをもほのめかしている[193]。アメリカや東海道が最も交通需要の多い地域にして、建設費の低廉な、しかも自動車が最高の能力で安全かつ経済的に走行しうる地域に高速道路を選定しているのに対して[194][195][196]、中央道は交通需要が少ないうえに、建設費が高価で、自動車走行上不利な地域に路線を選定しているからである[113]。
路線制定までの経緯
高速道路建設の意味
中央道は専門家や行政関係者から激しい反対に直面したことで、当初予定されていた南アルプスを通過するルートは大幅な変更を余儀なくされ[385]、最終的な全線開通には施行命令から20年もの歳月を要する結果となった。これに対して、東名は、わずかな修正こそあったものの、おおむね原案通りの路線で整備が進み[386]、わずか7年で全線開通に至っている。
専門家は、中央道が一般道路(開発道路)として計画されていれば、南アルプス経由のルート選定自体を問題視することはなかった[86][79]。実際、国土の一部地域に人口と産業が過度に集中するという不均衡な構造を是正するため、開発道路による未開地域の振興が必要であることについては、行政官僚や道路専門家の間でも広く認識されていた[11][387]。また、経済活動の中心地である東海道地域においては、深刻な交通混雑が経済復興の障害となりつつあり、新たな道路網の整備が不可欠であるとの認識も共有されていた[15]。
このように、中央道と東名は相互に排他的な関係ではなく、それぞれ独立した目的をもつインフラとして、両者ともに必要性が認められていた。ワトキンス調査団も、「東京より名古屋に至る中央道案は、東海道沿い路線との比較線ではなく、経済開発のために望ましいもう一つの計画である」と評価しており、両道路の共存的必要性を裏付けている[388]。したがって、本件における論争の本質は、道路整備の目的の優劣にあるのではなく、目的に対する手段の選択の妥当性、すなわち整合性の問題にあった[388][80]。東名と中央道の双方において、その目的を実現するための手段として高速道路が選定されたが、この手段の選定こそが論争の火種となった。仮に両派が、目的に即した手段の選択を冷静かつ合理的に検討していたならば、今回のような対立は避けられた可能性が高い。すなわち、交通混雑の緩和が目的であれば高速道路が妥当であり、未開発地域の開発が目的であれば一般道路(開発道路)の方が適切であったはずである[78][79]。
中央道を推進した一部勢力が、目的に照らして不適切な手段(高速道路)を選択したことにより、東海道における高速道路計画との間で不要な論争が生じ、ひいては東名の整備計画に遅延をもたらした。また、中央道調査に投じられた多額の公費(約1億6千万円)は、実質的な成果を伴わないまま浪費される結果となった[390]。この事例は、高速道路が全能のインフラではないという基本認識を改めて示している。特に、未開発地帯や山岳地帯、あるいは過疎地においては、高速道路の持つ特性が十分に活かされず、結果として無用の長物と化す懸念がある[32]。高速道路がその本来の機能と効果を発揮しうるのは、すでに開発の進んだ地域において、既存の道路網が交通需要に対応しきれなくなった場合に限られる[391][78]。その好例が、都市部の交通過密を緩和するために整備された都市高速道路である[389]。
今回の混乱と対立は、高速道路というインフラの特性を正確に理解しないまま、それを政治的手段として誘致・推進しようとする行為の危険性を如実に示すものであった[390]。
年表
開通後のインターチェンジ(IC)追加設置等の詳細な状況は、名神・中央・東名の各項目の年表を参照。本節では路線開通のみにとどめる。
- 1940年(昭和15年)10月 : 高速道路建設のための基礎的調査が内務省土木局により「重要道路整備調査」として始められる[392]。
- 1943年(昭和18年)5月7日 : 3か年におよぶ基礎調査を元に全国自動車国道計画ができあがる。この中から東京 - 神戸間を最優先検討路線として取りあげる[393]。
- 1944年(昭和19年) : 東京 - 神戸間から名古屋 - 神戸間を緊急区間として取り上げる[10]。内務省の省議にかけて東条英機から計画を拒絶される。その後、道路予算の極度の削減に至り、計画は頓挫する[208]。
- 1947年(昭和22年)
- 1949年(昭和24年)10月12日 : GHQ主催の国土計画展覧会を20日まで東京三越にて開催。19日には首相の吉田茂、20日には昭和天皇・香淳皇后が参観[395]。
- 1951年(昭和26年)11月[254] : 吉田茂の提言により建設省によって東京 - 神戸間の路線調査が再開[14]。
- 1952年(昭和27年)
- 1953年(昭和28年)
- 1954年(昭和29年)
- 1955年(昭和30年)
- 1月22日 : 米国のガイ・F・アトキンソン社の総支配人と経済審議庁長官、建設大臣が会談し、東海道、中央道で一致する名古屋 - 神戸間の調査を1月中から実施して2か月間で建設計画を作ることを決定[400]。これにより同社技師パーカーが調査に参加[401]。建設費等の見積もりの助言を求める[272]。
- 6月21日 : 第22回国会にて衆議院議員430名の連名で国土開発縦貫自動車道建設法案の審議会設置案が提出される[402]。
- 8月15日 : 建設省政務次官と土木部長が会談し、名古屋 - 神戸間を建設省として着工することを決定。交渉中の経済審議庁長官の外資導入決定を待って最終決定とする[403]。
- 1956年(昭和31年)
- 1957年(昭和32年)
- 1958年(昭和33年)3月19日 : 松永安左エ門の私設シンクタンク「産業計画会議」が東京 - 神戸間 高速道路の建設を政府に勧告[16]。
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 3月10日 : 交通関係閣僚協議会が開かれ、中央道予定路線法案の国会提出を決定[309]。
- 3月15日 : 自民党政務調査会建設部会にて中央道、東海道両法案が議題として取り上げられる[309]。
- 3月18日 : 自民党政務調査会建設部会長は両派の円満解決ために調停案を提示。東海道法案を「東海道幹線自動車国道建設法案」、区間を「東京 - 小牧」から「東京 - 名古屋」とすることを示す[309]。
- 3月31日 : 自民党政務調査会建設部会は調停案を決定[309]。
- 4月1日 : 自民党政務調査会審議会で中央道派は建設部会長の調停案を拒否[309]。
- 5月11日 : 建設大臣の調停を中央道派が呑み、政務調査会審議会で両案同時提出が決定[309]。
- 5月12日 : 自民党総務会で両法案同時提出最終決定[309]。
- 7月15日 : 第34回国会参議院本会議で国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律および東海道幹線自動車国道建設法案が可決成立[353]。
- 7月25日 : 国土開発縦貫自動車道中央自動車道の予定路線を定める法律および東海道幹線自動車国道建設法施行[359]。
- 1961年(昭和36年)10月27日 : 道路整備五か年計画として東海道840億円、中央道400億円(東京 - 富士吉田間)の予算を閣議決定[365]。
- 1962年(昭和37年)
- 1963年(昭和38年)
- 1964年(昭和39年)
- 1965年(昭和40年)7月1日 : 名神高速道路小牧IC - 一宮IC間が開通(名神高速道路全線開通)[414]
- 1966年(昭和41年)
- 1967年(昭和42年)12月15日 : 中央自動車道調布IC - 八王子IC間が開通[417]。
- 1968年(昭和43年)
- 1969年(昭和44年)
- 1972年(昭和47年)10月5日 : 中央自動車道多治見IC - 小牧JCT間が開通[421]。
- 1973年(昭和48年)2月1日 : 中央自動車道瑞浪IC - 多治見IC間が開通[422]。
- 1975年(昭和50年)
- 1976年(昭和51年)
- 1977年(昭和52年)12月20日 : 中央自動車道大月JCT - 勝沼IC間が開通[425]。
- 1981年(昭和56年)3月30日 : 中央自動車道小淵沢IC - 伊北IC間が開通[426]。
- 1982年(昭和57年)11月10日 : 中央自動車道勝沼IC - 甲府昭和IC間の開通により中央道経由の東京 - 西宮間全線開通[427]。






















