園田トシ子

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生誕 (1929-09-07) 1929年9月7日(96歳)
日本の旗 日本
失踪 1971年失踪(42歳)
失踪から54年2か月と20日
日本の旗 日本 鹿児島県または宮崎県
国籍 日本の旗 日本
職業 会社員(養鶏場)
そのだ としこ
園田 トシ子
生誕 (1929-09-07) 1929年9月7日(96歳)
日本の旗 日本
失踪 1971年失踪(42歳)
失踪から54年2か月と20日
日本の旗 日本 鹿児島県または宮崎県
国籍 日本の旗 日本
職業 会社員(養鶏場)
家族 (夫)一(はじめ)
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園田 トシ子(そのだ トシこ、1929年昭和4年〉9月7日 - )は、鹿児島県出身の特定失踪者[1]特定失踪者問題調査会では「拉致濃厚」(1000番台リスト)としている[2]1971年(昭和46年)12月、夫の園田一とともに失踪した[1][3]。失踪当時、42歳であった[1][3]。園田夫妻については複数の目撃証言等がある[4][5]

1929年(昭和4年)生まれで、失踪前の住所は鹿児島県曽於郡大崎町である[3][5]。戸籍名は「トシ子」であるが、「敏子」を使うこともあった[1]。夫が管理人を務める養鶏場に勤務していた[1][5]。身長は155ないし160センチメートル程度で体型は痩せ型、顔は面長でにほくろがあった[1][3]。一(はじめ)とは1948年(昭和23年)に結婚し、2人の間には2男3女がいる[6]。失踪当時は夫と15歳の次男との3人暮らしであった[6]

1971年(昭和46年)12月30日、夫とともに自家用車(マツダ・ファミリア)で正月に大阪府から帰省する次女を迎えに宮崎空港へ向かう途中、国道269号ガソリンスタンドにで給油のため立ち寄った後、自家用車ごと消息不明となった[1][3][5][注釈 1]。次男と同僚には、空港で次女を迎え、三女の晴れ着を購入するために宮崎県都城市に立ち寄って、午後7時には帰ると伝えていた[6]。2人の失踪の後、警察や近隣の住人が総出で大がかりな捜索活動を行ったが、自動車の破片さえ発見できなかった[1][5]。なお、この日次女が搭乗する予定の大阪発宮崎行の航空機は濃霧のため欠航した[6]

特定失踪者問題調査会2004年平成16年)9月28日鹿児島県警察告発状を提出した[1]

夫婦やアベックの失踪

園田夫妻の失踪は1971年であるが、遠山文子と連れの男性が失踪したのが1973年7月、地村保志・富貴恵夫妻、蓮池薫・祐木子夫妻(当時はそれぞれともに独身)の拉致が1978年7月、市川修一増元るみ子アベック失踪事件および富山県アベック拉致未遂事件が1978年8月と、いずれも1970年代に起こっており、ゼロ番台の特定失踪者や非公開の失踪者で数件のアベック失踪が存在するがいずれも1970年代とその前後に起こっている[7][注釈 2]

目撃情報など

「家族が園田トシ子によく似た日本人女性を見た」という脱北者からの情報がある一方、ある報道関係者は、北朝鮮で撮影された彼女に似た女性の写真を2013年平成25年)に入手したという[4]。また、写真週刊誌『FLASH2017年(平成29年)12月12日号は、「彼女は清津港に連行され、思想教育を受けた。そこで知り合った工作員と結婚し、2人の男の子ができた。咸鏡北道セッピョル郡(現、慶源郡)下面労働者区の長屋式住宅に住んでいた」と報道した[4][8]。ここでは、2013年にジャーナリストが入手した写真と失踪前の日本での写真が掲載され、両者を照合した画像解析の鑑定結果も紹介されている[8]。それによれば、両写真の人物は同一人物である可能性が非常に高いという[8]。『日刊ゲンダイ2019年令和元年)6月24日付では、脱北者Kが2006年頃の情報として、「彼女はイ・スンオクと名乗り、1980年代からセッピョル郡下面労働者区咸に住んでいた」と証言している[4][9]

園田トシ子に関する情報はさまざまなルートから寄せられているが、偽情報なども混じっており、精査が必要である[10]。こうしたなかで園田夫妻失踪の真相にせまる情報があり、 それは、2013年9月3日に日本弁護士連合会安倍晋三内閣総理大臣拉致問題対策本部長あてに提出した要望書(「拉致被害者に関する人権救済申立事件」)に付属の「調査報告書」に記載されている[6]。その概要は、以下の通りである[6]

2000年代に脱北したMは、Mの住んでいた咸鏡北道セッピョル郡に「李スンジャ」と名乗る日本人女性が住んでおり、Mの父親が在日朝鮮人帰国者だった関係から、Mの家族と「李」を名乗る女性は親しく交わり、M自身も「李」としばしば会話した[6]。「李」は金日成死去(1994年)後、自身の身の上を語るようになり、それによれば、彼女は1970年代に日本より拉致されたという[6]。拉致された当時は43歳くらいで、夫が自動車を運転して空港に向かう途中で拉致された[6]。彼女には息子と娘がいる[6]。夫は拉致される際に抵抗して、海上で死亡した[6]。北朝鮮では、対南連絡所の幹部と結婚した[6]。その幹部は前妻との間に娘が1人いた[6]。幹部の夫が死亡後、平壌市から前妻の娘が住むセッピョル郡に移り住んだとのことであった[6]。Mは、彼女が失踪地について語った際の「チマ」ないし「シマ」という地名の一部を記憶しており、これが「鹿児島」であるならば、園田夫妻失踪の状況ときわめてよく符合している[6]。そして、彼女の語った身の上話が事実であるならば、夫の園田一は北朝鮮に入国する前に53歳で殺害されたことになる。ただし、これとは全く別に、園田一が北朝鮮国内で生存していたとする未確認目撃証言もある[10]

参照

参考文献

関連項目

外部リンク

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