ケーシー・ステンゲル

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出身地 ミズーリ州カンザスシティ
生年月日 1890年7月30日
没年月日 (1975-09-29) 1975年9月29日(85歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
175 lb =約79.4 kg
ケーシー・ステンゲル
Casey Stengel
ヤンキース監督当時のステンゲル(1953年)
基本情報
出身地 ミズーリ州カンザスシティ
生年月日 1890年7月30日
没年月日 (1975-09-29) 1975年9月29日(85歳没)
身長
体重
5' 11" =約180.3 cm
175 lb =約79.4 kg
選手情報
投球・打席 左投左打
ポジション 外野手監督
プロ入り 1911年
初出場 1912年9月17日
最終出場 1925年5月19日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
殿堂表彰者
選出年 1966年
選出方法 ベテランズ委員会選出(監督)

チャールズ・ディロン・ステンゲルCharles Dillon "Casey" Stengel , 1890年7月30日 - 1975年9月29日)は、アメリカメジャーリーグニューヨーク・ヤンキースニューヨーク・メッツの元監督[1]

ニックネームともなっている"Casey(ケーシー)"とは、彼の生まれ故郷ミズーリ州カンザスシティ (K.C.)から来ている[2]。またドイツ系アメリカ人であったことから若い頃は"Dutch(オランダ人)"とも呼ばれ、監督時代はその鋭い機知と皮肉なコメントから"The Old Professor"(老教授)とも呼ばれた。

ステンゲルは料理人の父Jennie Jordanと保険のセールスマンをしていた母Louisの間に生まれた。学生時代は投手をしており、野球の他にフットボール・バスケットボールの選手でもあった。

選手時代

ステンゲルは1908年にマイナーリーグと投手として契約。5年のマイナー暮らしの後、1912年にはメジャーリーグにデビューし、それから26年までの間、ブルックリン・ドジャースをはじめとするナショナル・リーグのいくつかのチームで外野手として活躍した(左投げ左打ち)。有能な選手ではあったが、スタープレイヤーではなかった。一方で歯科医を志し、夏は野球の選手をしつつ、シーズンオフには歯科大学に通っていた。

監督時代

ステンゲルは引退後、ブルックリン・ドジャース(1934-1936)、ボストン・ブレーブス(1938-1943)の監督を歴任したが、そのときの成績は芳しくなかった。1944年にマイナーリーグベースボールミルウォーキー・ブルワーズ英語版[3]、1945年にカンザスシティ・ブルースでそれぞれ監督を務めた後、1946年にオークランド・オークスの監督に就任、1948年にはパシフィックコーストリーグで優勝を果たした。当時新監督を捜していたニューヨーク・ヤンキースがその評判を聞きつけ、1949年にステンゲルを監督に招聘した。

当時ニューヨークのマスコミにはステンゲルの採用を疑問視する向きもあったが、ステンゲルはヤンキースの監督就任初年度の1949年から53年まで、空前のワールドシリーズ5連覇を成し遂げた。 この時に確立したプラトーン・システム(相手投手の左右に合わせて、右打ちと左打ちの複数のオーダーを用意すること)などの戦術が功を奏したこと、またヨギ・ベラミッキー・マントルなどの強力なスラッガーやホワイティー・フォードという強投手を効果的に使ったことで、この偉業を達成できたとも言える。 ステンゲルは就任当初「このチームは私が指揮したどのチームよりも問題が少ない」と述べている[4]

ステンゲルはヤンキースの監督として秀れた戦術を駆使し、スポーツ界だけでなく「タイム誌」のような一般誌にも掲載されるようになった。彼の野球の歴史・戦術に関する一連の語録は"Stengelese"(ステンゲル語録)と言われた。

現在も存在する「監督又はコーチが1イニングに2回マウンドに行ったら、投手を交代しなくてはいけない」というルールは、ステンゲルが試合中あまりにもマウンドに足を運ぶためにできたルールとも言われる。また、サインを無視してホームランを打って、意気揚々と引き揚げてきた選手に罰金25ドルを宣告したというエピソードもあるほど、厳格であった。

1960年ピッツバーグ・パイレーツとのワールドシリーズで敗れた責任によりヤンキース監督を辞任、この時に『私が70歳だから解任か、わかった。次はそんなマネは二度としない』というコメントを残している。ヤンキースにおける12年間の監督生活のうち、リーグ優勝10度、ワールドシリーズ制覇7度という実績を残した。

1962年からは新設球団ニューヨーク・メッツの初代監督に就任。しかし、エクスパンション・ドラフトで、他球団のプロテクトを外れた選手を寄せ集めたチームには、往年の神通力は通じず、就任1年目に120敗(40勝120敗)のワーストレコードを更新したのを皮切りに毎年100敗以上を喫する最下位。本人も『メッツの試合よりひどいのはメッツのダブルヘッダーだけ』、「こんな負け方が世の中にあったのか」と嘆く有様だった。毎年今年で最後と新聞に載るほどであったが、解任はされなかった。それでもニューヨークのファンは「弱いメッツ」を愛していたのである。メッツの監督4年目の1965年8月に友人宅で飲酒した際に転倒して骨折入院、そのまま辞任した。 ウォーレン・スパーンは「私はステンゲルが天才になる前と天才でなくなった後の両方に仕えた唯一の男だ」と述べている [5]

退任後・晩年

ステンゲルのメッツ在籍時の背番号「37」。
ニューヨーク・メッツの永久欠番1965年指定。
ステンゲルのヤンキース在籍時の背番号「37」。
ニューヨーク・ヤンキースの永久欠番1970年指定。

1966年アメリカ野球殿堂入りを果たしており、ステンゲルの監督時代につけていた背番号37」は監督を退任した1965年にメッツで、1970年にヤンキースでともに永久欠番に指定されており、MLB史上初の2チームでの永久欠番表彰者となった。

また、メッツでは現在でも傘下マイナー組織の監督の中で最優秀者に与える賞には「ケーシー・ステンゲル賞」と名付け、弱かったとはいえ創設期を支えた名監督に敬意を表している。1970年には、メッツの本拠地シェイ・スタジアムでステンゲルの80歳の誕生日パーティーが盛大に開かれた。ステンゲルはメッツのユニフォームに袖を通し、前年に球団史上初のワールドシリーズ制覇を果たした選手・関係者、そしてスタジアムを埋めたファンに祝福され、巨大なケーキに並べられた80本のロウソクの炎を吹き消した。

1975年、85歳でステンゲルはその生涯を閉じた。葬儀にはヤンキース黄金時代を支えたベラやマントルらが駆けつけ、オークス時代からの教え子で同年ヤンキース監督に就任したビリー・マーチンはステンゲルの棺のそばで寝泊りしたほどであった。マーチンは翌年のワールドシリーズにも1人だけ喪章を付けて臨んでいる。

監督としての通算成績

年度別成績詳細はこちら(英文)参照

年度 球団 リーグ 年齢 試合 勝利 敗戦 引分 勝率 備考
1934 BRO NL 43 153 71 81 1 .467
1935 44 154 70 83 1 .458
1936 45 156 67 87 2 .435
1938 BOS NL 47 153 77 75 1 .507
1939 48 152 63 88 1 .417
1940 49 152 65 87 0 .428
1941 50 156 62 92 2 .403
1942 51 150 59 89 2 .399
1943 52 107 47 60 0 .439
1949 NYY AL 58 155 97 57 1 .630 ワールドシリーズ優勝
1950 59 155 98 56 1 .636 ワールドシリーズ優勝
1951 60 154 98 56 0 .636 ワールドシリーズ優勝
1952 61 154 95 59 0 .617 ワールドシリーズ優勝
1953 62 151 99 52 0 .656 ワールドシリーズ優勝
1954 63 155 103 51 1 .669
1955 64 154 96 58 0 .623 アメリカン・リーグ優勝
1956 65 154 97 57 0 .630 ワールドシリーズ優勝
1957 66 154 98 56 0 .636 アメリカン・リーグ優勝
1958 67 155 92 62 1 .597 ワールドシリーズ優勝
1959 68 155 79 75 1 .513
1960 69 155 97 57 1 .630 アメリカン・リーグ優勝
1962 NYM NL 71 161 40 120 1 .250
1963 72 162 51 111 0 .315
1964 73 163 53 109 1 .327
1965 74 96 31 64 1 .326 シーズン途中辞任
通算 25年 3766 1905 1842 19 .508 ワールドシリーズ優勝7回

選手としての通算成績

脚注

出典・外部リンク

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