ダニー・マートー
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1964年 | |
| 基本情報 | |
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| 国籍 |
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| 出身地 | ペンシルベニア州チェスター |
| 生年月日 | 1917年10月8日 |
| 没年月日 | 1976年12月2日(59歳没) |
| 身長 体重 |
5' 9" =約175.3 cm 165 lb =約74.8 kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打席 | 右投右打 |
| ポジション | 内野手、監督 |
| プロ入り | 1937年 |
| 初出場 | 1941年7月6日 |
| 最終出場 | 1951年9月6日 |
| 経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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選手歴:
監督歴: (1957 - 1964,1967,1970 - 1971,1973 - 1976) | |
この表について
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ダニエル・エドワード・マートー(Daniel Edward Murtaugh、1917年10月8日 - 1976年12月2日)は、主に1940年代~1970年代に活躍したアメリカ合衆国のプロ野球選手、監督。選手時代のポジションは内野手。ペンシルベニア州チェスター生まれ。右投げ右打ち。1960年と1971年に2度ワールドシリーズを制覇、「ザ・ファミリー」と呼ばれた黄金期のピッツバーグ・パイレーツを指揮した。
メディアによっては苗字を「マートウ」と記すこともある。

1937年にセントルイス・カージナルスと契約、その後カージナルスでの昇格がないまま1941年にフィラデルフィア・フィリーズに移籍して、メジャーに昇格し85試合に出場する。1年目に18盗塁(リーグ最多)を記録し、第二次世界大戦による出征もあり、現役の中段をはさんで1946年までフィリーズで主に二塁手としてプレー。その後、1947年にボストン・ブレーブス、1948年にピッツバーグ・パイレーツへ移籍するが、パイレーツ移籍初年度の1948年は打率.290と71打点という自己最高の記録を残し、守備での目覚ましい活躍と合わせてこの年のMVP候補となった(受賞したのはスタン・ミュージアル)。
監督時代

マートーは1951年に現役を引退し、その後マイナーリーグの監督を経て、1956年にコーチとしてパイレーツに復帰する。同年途中より監督に就任、これ以降パイレーツの指揮をとるようになった。パイレーツは翌1958年から優勝争いをするようになり、1960年には1927年以来33年ぶりのリーグ優勝と、1925年以来35年ぶりのワールドシリーズ制覇を成し遂げる。
この優勝以降1960年代はなかなか勝ち越せないシーズンが続き、マートー自身も健康上の理由から1964年でいったん監督を退き、球団のフロントに入った。しかし1967年に再びチームの成績が落ち込んだことで、このシーズンの後半に再び監督に復帰する。マートーは同じように1969年シーズンの後再度監督復帰を要請されたが、このときは事前にメディカルチェックを受けた上での復帰だった。
1970年、マートーの復帰したチームは再び快進撃を始め、同年ナショナルリーグ東地区で優勝、翌1971年にはロベルト・クレメンテらの活躍で自身2度目のワールドシリーズ制覇を成し遂げる。この年マートー率いるパイレーツは、メジャーリーグで初めてアフリカ系アメリカ人や中南米出身の選手だけで構成した「オール・マイノリティ・ラインナップ」を組んだことでも知られている。その後1976年までマートーは計6年間パイレーツを指揮したが、この間4度地区優勝を果たすなど、チームは黄金期を迎えた。

ピッツバーグ・パイレーツの永久欠番に1977年指定。
1976年のシーズン終了して間もない、同年12月2日、マートーは脳卒中のため59歳で急逝した。死後、1977年4月に、パイレーツはマートーの背番号『40』をチームの永久欠番に指定し、生前の功績を讃えた。