ヌムスックハーン
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1947年2月12日に締結されたパンロン協定により、同年9月に制定された憲法ではシャン州とカヤー州に10年後の連邦離脱権が認められた[1]。
しかし、約束の10年後に当たる1957年4月に当時の首相ウー・ヌがラーショーで行った演説は、連邦離脱権の約束を反故にするような内容だった[1]。
今日、アメリカが世界でもっとも強力で影響力のある国である理由は、エイブラハム・リンカーンが南部諸州の分離を阻止し、国全体を統合したという事実によるものです。私たちが団結さえすれば、私たちの未来はたしかに明るいです。したがって、私はアメリカの歴史におけるこの注目すべきエピソードが、私たち全員にとって非常に貴重な教訓となることを常に祈っています。 — ウー・ヌ
1958年に成立したネ・ウィン選挙管理内閣も、具体的な動きはなく、憲法に規定された両州の連邦離脱の是非を問う住民投票も実施されなかった。それどころか、1959年には、年金および一時支度金と引き換えに、上院議員となる権利、一部課税権、行政裁判権などツァオパー(saohpa、シャン州の伝統的酋長)の世襲特権を廃止した[2][3]。
またこの際、ツァオパーの権威を失墜させるために、ミャンマーの新聞、雑誌などのメディアは、ツァオパーは、国民党(KMT)、SEATO、タイ、アメリカ、イギリスのエージェントと共謀して連邦破壊を企む封建的な反動主義者として描かれたと伝えられる[4]。
シャン族の民族主義者たちのツァオパーに対する態度は必ずしも好意的なものではなかったが、このような中央政府の態度は、ビルマ族によるシャン族に対する過度な干渉と見なされ、彼らの大きな怒りを買った[4]。
結成
1958年5月21日、ヌムスックハーン(勇敢なる青年戦士)と自称する32人のシャン族の若者が、シャン州モントン近郊のモンチョー(Mong Kyawt)という小さな村で、忠誠の聖水を飲み、中央政府に対して宣戦布告宣言をした。この日は現在でも「シャン抵抗の日」として祝日となっている[5]。
リーダーのサオ・ヤンダ(Sao Yanda、後のサオ・ノイ〈Sao Noi〉)は、雲南省出身のシャン族とされるが、自身はケントン(現チャイントン)のツァオパーの兄弟で、シャンの王族の血を引いていると主張していた[5]。僧院で基本的な教育を受けただけだったが、熱烈なシャン民族主義者で、髪を肩まで伸ばしていたと伝えられる[6]。
サオ・ノイは、ケントンのツァオパーから私設警察部隊を与えられ、ボー・レーン・グン・ナ(Baw Laeng Gung Na)というシャン商人の資金援助を得た。その後、前述したようにモンチョー村で仲間たちとヌムスックハーンを結成し、サオ・ノイが司令官に、ボー・レーン・グン・ナが議長に就任した。ただ、結成当初彼らにあった兵器は、古いマスケット銃とリー・エンフィールド銃だけで、弾薬にも事欠いていたのだという[6][7]。
同年6月には、泰緬国境の町ロイ・マ・アンカン(Loi Mak Angkhang)近郊のパンタウン(Pangtawng)にキャンプを設置し、タイ側のKMTの基地までアヘンを運ぶ隊商から通行税を徴収し始めた[6]。
勢力拡大
大統領や上院議員を輩出していたツァオパーたちは、反乱軍に加担するわけにもいかず、この動きを静観していた[3]。
しかし、多くの民族主義的なシャン族の農民の若者、商人、教師、村長、元ツァオパーの警察官などが、ヌムスックハーンに参加した。その数は、モン・ヤイ(Möng Yai)から200人、ケシ・ナムサン( Kehsi Namsam)から40人、 モン・ナウンから100人、シポーから100人と伝えられる[3]。
1958年後半には、モン・ヤイのツァオパーの甥で、ヤンゴン大学の優れたアマチュアボクサーであったサイ・チョートゥン(Sai Kyaw Tun)に率いられたシャン族の学生8人がパンタウンにやって来た。彼らは途中チェンマイで知り合った「ハリー」と名乗るヒッピー風のイギリス人の若者を連れてきた。また、パンロン協定に署名したクンキ・キャ・ブー(Khun Kya Bu)の息子クン・キャ・ヌー(Khun Kya Nu)と甥も参加した[8][9]。
当時、24歳の理系学生だったクン・キャ・ヌーは、当時のことを次のように回想している[10]。
私たちは3月9日にタウンジーを出発した...私たちはジープに乗って、見つからないようにロイ・レムとパンロンを経由して遠回りし、ついにモンクン近くの小さな村・パン・ポンにたどり着いた。そこですでに地下に潜んでいたケーシ・マンサム出身のいとこ、キンマウンウィンと連絡を取ることができた。9日間待った後、彼は36人の完全武装した男たちを連れて到着した。私たちは彼らのジープとトラックに乗り込み、夜中にジャングルの小さな道を南に向かって走った。車でモンパンの北にあるケンタウンまで行った。そこからパンタウンまで山を越えて歩かなければならなかった...彼ら(農民若者たち)のほとんどは、数ヶ月で独立を達成できると考えていた。しかし、私たち学生は長く続く闘争を覚悟していた。容易なことではないことはわかっていた...それはまともな軍隊ではなく、誰も政治組織や軍事戦略について本当の考えを持っていなかった。 — クン・キャ・ヌー
タンヤン襲撃
しかし、学生たちはサオ・ノイの強権的手法とボー・レーン・グン・ナが手掛けていた麻薬ビジネスに不満を募らせるようになった[11]。
サイ・チョートゥンは学生メンバーを引き連れて故郷のモン・ヤイに戻り、連邦憲兵隊(UMP)のワ族司令官であるボー・マウン(Bo Maung)と同盟を結んだ。そして、1959年11月21日、300~400人の地元の村人を集め、モン・ヤイ近郊の町で、ミャンマー軍(国軍)の部隊が駐屯していたタンヤンの町を襲撃し、翌日までに国軍の部隊を放逐した。しかし、その後、国軍の空爆を受け、サイ・チョートゥンとボー・マウンの同盟軍は、30日に撤退した。しかし、このニュースは「シャン反乱軍の最初の勝利」と地域住民に受け止められ、より多くの若者がヌムスックハーンに合流した[11]。
自信を深めたサイ・チョートンは、サオ・ノイに、規律・憲章の制定、軍・政治組織の確立を要求したが、拒否されたので、学生メンバーはヌムスックハーンを離脱し、1960年4月24日、モン・ヤウンでシャン州独立軍(SSIA)を結成し、当時47歳だった詩人のロン・クン・マハ(Long Khun Maha)が議長に、ボー・マウンが軍司令官に就任した。軍部隊は主に元UMPのワ族で構成されていた[11]。
しかし、タイの経済界や諜報機関は扱いにくい学生が幹部を務めていたSSIAを支援しなかった。そこでSSIAはヌムスックハーンを無力化する決断を下し、クン・キャ・ヌーをヌムスックハーンの有力司令官だったモーヘンに接触させ、1962年1月、両グループの橋渡し役としてシャン民族連合戦線 (Shan National United Front:SNUF) を結成させ、モーヘンが議長に、クン・キャ・ヌーが副議長に就任した。SNUFは実質SSIAの政治部門だったとされる[11]。